「私が出会ったアートな人たち」第2回

「ニューヨークでのアート体験と出会ったアートな人たち」

アートフル勝山の会 荒井由泰


私はラッキーにも大学卒業後、3か月だけ伊藤忠商事本社(大阪)で研修を受けた後、あこがれのニューヨークで現地採用の形で仕事を得た。1972年の7月のことだ。マンハッタンの北に位置するウェストチェスターのラーチモントの下宿から列車でマンハッタンのグランドセントラル駅への約40分の通勤が日課となった。オフィスはパークアベニューのユニオンカーバイドビルディング(270 Park Avenue 47と48ストリートの中間)にあった。

202009荒井由泰01_ニューヨークの伊藤忠商事にてニューヨークの伊藤忠商事にて

さて、ニューヨークでのアート体験だが、学生時代の欧州の旅で味をしめたので、まず、カーネギーホール等のコンサートホールに足しげく通った。残っているプログラムを見ると72年から75年までに43回の演奏会に足を運んでいる。自分でもびっくりする。ニューヨークフィルを中心にクラシック音楽が多かったが、ジャズやオペラにも出かけた。幸せにもバーンスタイン、小澤征爾、ショルティ等の指揮者や名バイオリニストや名ピアニストの演奏を体感できた。当時オーケストラ席で6~8ドル(ドル・300円)と安く、新入社員の私でも通うことができた。もう一つの理由はコンサートの開始時間が8時とか8時半だったので、仕事を終えてコンサートホールに直行できたからだ。夕食はサンドウィッチを買って、列車の中で済ました。若かったからできたのかな。また、当時すでに週休2日のため、土、日曜日にはアート愛好家そして版画の小コレクターとしてメトロポリタン・ミュージアムやニューヨーク近代美術館(MoMA)、そして画廊を巡った。オフはまさにアートにあふれた幸せな時間だった。

商社マンとして5年近く仕事をし、ふるさと福井県勝山市に戻ったが、その後も仕事で出かける機会があった。そのニューヨークで出会ったアートな人との交流をお話ししたい。

池田満寿夫(いけだますお 1934~1997)
彼は皆様ご存じの高名な版画家であり、芥川賞受賞の小説家であり、映画監督でもある超多彩なアーティストだ。

1975年のニューヨークのジャパンハウスで行われた井田照一との二人展ではじめてお会いして話をした。実は彼が無名で売れなかった頃、福井と深いご縁があった。福井では1950年代より創造美育運動(創美)や小コレクター運動がさかんであった。当時、学校の先生方を中心に頒布会を企画して瑛九(えいきゅう)を全力で応援しており、瑛九の愛弟子の池田満寿夫も支援の対象であった。
勝山市の隣の大野市の堀栄治さんは彼が売れなかった頃、彼の生活を支えるため、豆本等の販売でバックアップしていた。堀さんから当時、彼を連れて、支援を求めて知人を訪ね歩いたが全然売れなかったとの話を聞いた。

1975年当時、池田はリランという中国系アメリカ人と一緒にマンハッタンの東に位置するロングアイランドの避暑地・イーストハンプトンに住んでいた。マンハッタンから車で2時間のところだ。

私は75年に一時帰国をして地元の人と結婚し、ラーチモントから隣町のママロネックに移り新婚生活をはじめた。75年の夏に、取引先のオーナーが所有するロングアイランドの別荘を仕事仲間で借り受け、休暇を過ごす機会を得た。その帰り、イーストハンプトンの池田宅を訪問する約束ができていた。しかし、道に迷ったことと、妻の体調が悪くなったため、訪問の約束を果たせなかった。今思うとたいへん残念な思い出だ。

木村利三郎(1924~2014)版画家
彼は1964年に渡米し、「City」シリーズで都市をテーマに版画(シルクスクリーン)を制作し、米国、日本で高い評価を得た。4年に一度は日本での個展のため、来日していた。現代版画センター時代も含め、ときの忘れものとのご縁も深い。

木村利三郎(正式にはとしさぶろうとのこと、弟さんから聞いた)さんとはニューヨーク時代はもちろん、長きにわたって心が通うお付き合いをさせていただいた。いつものように親愛の情を込めてリサさんと呼ばせてもらう。リサさんは創美(創造美育運動)の主宰者であった久保貞次郎の推薦で創美メンバーとなり、靉嘔や池田満寿夫らとともに期待される新人画家のひとりだった。

202009荒井由泰05_リサと私 リサ宅にてリサと私 リサ宅にて

202009荒井由泰08_アトリエ(リサ宅)の木村利三郎アトリエ(リサ宅)の木村利三郎

彼は渡米前の62年に勝山市で開催された「日本小コレクターの会」の折、竹田鎮三郎とともに勝山市のコレクター・中西氏宅にしばらく寄宿していた。そのご縁をたよりに多分73年だったと思うが、マンハッタンのダウンタウンにあったウエスト・ベスビルディング(アーティストのためのアトリエ兼住まい)を訪ねた。それが最初の出会いだった。その時は奥さんのマシコさんの顔もあった。(その後離婚)リサさんのあったかい歓待に味を占めて、その後何度も出かけることになる。特に、アーティストやクリエイティブな仕事をしている人をアトリエに迎えるときには必ず声をかけてくれて、おいしい手料理とともに、アート談義もふくめ、会話を楽しんだ。ウエスト・ベスの住人の佐藤正明や森本洋充らと面識を得たし、安齊重男、新妻実、古川吉重、本田和久夫妻らとの出会いもあった。今となれば大切な思い出だ。

202009荒井由泰02_リサ宅にてリサ宅にて左の二人が本田和久・ヒロミ夫妻、中央が私

リサさんにニューヨークでお世話になった方はとにかく数多い。彼のフレンドリーな心や面倒見のよさが多くの人を招き入れたように思う。リサのところで、歌手の由紀さおりさん親子にお会いしたことがある。ほんとに幅広い人脈であった。

リサさんが個展をするために来日した際には、アートフル勝山主催の展覧会を開催し、恩返しのつもりで水彩画・版画の販売に力を入れた。彼の人柄が多くのファンを作った。

リサとの思い出は尽きないが、年の差など関係なく、楽しく、気持ちの良いお付き合いができたことに心から感謝している。

202009荒井由泰07_リサから息子リサから息子・優(YUU)へのプレゼント(エッチング)

③ アンディ・フィッチ(Andrew Fitch Fitch-Febvrel Gallery)
マイコレクション物語でも彼について書かせてもらったが、私の版画コレクションに大きな影響を与えたアンディの事を忘れるわけにいかない。
私がはじめて彼の画廊を訪れたのは1974年で、115丁目のコロンビア大学に近い場所にあり、住まい兼画廊であった。住まいにはフランス人・アーティストのドミニク夫人、息子、犬も一緒だった。彼から初めて購入した作品は浜口陽三のカラーメゾチントの「蝶」(1967)だった。価格は550ドル。と言っても新入社員の身でもあり、分割払いだった。毎月100ドルを支払いに行き、半分完了すると、作品を受け取ることができた。画廊に行くたびに彼が扱っているアーティストの作品を見せてくれ、講義を受けた。回を重ねるごとに版画の持つ奥深い魅力に魅せられた。まさにアンディは私の版画の師匠となった。浜口の代表作「パリの屋根」をガラス越しでなく、ため息とともに手に取って鑑賞したことを思いだす。浜口作品のご縁で、その後、長谷川潔、ルドン、ブレダン、モーリッツ、メクセパー、デマジエールと様々なアーティストへとコレクションが広がった。

202009荒井由泰03_版画の師匠 Andrew Fitch と私版画の師匠 Andrew Fitch と私

202009荒井由泰06_浜口陽三浜口陽三 蝶 1968 メゾチント フィッチから最初に購入した作品

アンディ・フィッチの略歴を紹介しておこう。彼はイェール大学出身、コロンビア大学でフランス語を教えていた。彼は小柄だが、東京オリンピックにレスリングの軽量級に出場したアスリートでもある。趣味が高じて、画商になった。1971年にだまし絵で有名なエッシャーを訪ね、米国にはじめて紹介し、成功を収め、本格的に画商の道に入った。1975年に彼が住まい兼画廊から、57丁目の一等地に画廊を構えたが、そのオープニングに際し、壁とか天井の設営のお手伝いをさせてもらった。57丁目では28年間にわたり、画廊を開いていたが、2005年に閉廊して、住まいのあるニューヨーク州北部の町に拠点を移した。

閉廊に際し、記念の展覧会があり、そこに家内とともに出席させてもらった。
私自身、彼から版画蒐集という生き方を知ったおかげで、人生がより楽しく、かつ深くなったように思う。彼との出会いと思い出は私の大切な宝物だ。

202009荒井由泰04_Fitch-Febvrel Galley の最後の展覧会にてFitch-Febvrel Galley の最後の展覧会にて

④ 本田和久・ヒロミ夫妻
本田和久は1948年生まれのメゾチント作家、奥さんのヒロミさん(画家)とともに画商の仕事もしていた。リサさんのところで最初に出会ったが、以後、同世代でもあったので、気心の通じるお付き合いをさせてもらった。ニューヨークに仕事で出かけた時は必ず、ソーホーのグレート・ジョーンズ通りの住宅兼アトリエ(ロフト)に出向いた。旧式のエレベーターに乗って3階の彼らの部屋にたどり着く。食事をいただきながら、本田家のコレクションを見せてもらったり、現代美術の動向やアート界の裏話を聞いたり、いつも話が盛り上がった。おかげで視野も広がった。本当に楽しく懐かしい思い出がいっぱいだ。彼らを通じて、ドナルド・サルタンやロバート・モスコビッチを知った。

13年前、彼らはニューヨークを離れ、地元岡山市でギャラリーA-zoneを開廊した。いつも展覧会のご案内をいただいていたので、一度は岡山に出かけねばと思っていた。しかし、突然、本田君の訃報を聞いた。ヒロミさんに電話を入れて、詳細を聞いた。永らく肺がんを患ったとのこと、2018年8月1日、ヒロミさんの腕に抱かれて「ありがとう」の言葉を残して逝ってしまった。彼のアートについて熱く語る姿を思い出し、懐かしさと寂しさが心をよぎった。

先日、ヒロミさんに電話を入れ、久しぶりに昔話をした。本田君とヒロミさんのなれそめも聞いた。ヒロミさんがパリの浜口陽三を訪ねた際、そこに偶然いたのが本田君だった。パリ案内や住まいの紹介等でお世話になったのがご縁となったようだ。その後、彼が先にニューヨークに渡り、ヒロミさんも追いかけて渡米した。浜口先生からの依頼で本田君自身が南桂子さんのエッチングの摺りを手伝っていたとのことだ。コロナが落ち着いたら、線香をあげに岡山に出かけようと思う。

以上で第2回が終了だ。第3回は「桐生つながりで出会ったアートな人たち」と題して、思い出話を書くことにする。引き続きお付き合いをお願いしたい。
あらい よしやす

●荒井由泰のエッセイ「私が出会ったアートな人たち」は偶数月の8日に掲載します。次回は12月8日の予定です。

■荒井由泰(あらいよしやす)
1948年(昭和23年)福井県勝山市生まれ。会社役員/勝山商工会議所会頭/版画コレクター
1974年に「現代版画センター」の会員になる
1978年アートフル勝山の会設立 小コレクター運動を30年余実践してきた
ときのわすれものブログに「マイコレクション物語」等を執筆

●本日のお勧め作品はハ・ミョンウンです。
ha_51_mini-16ハ・ミョンウン 河明殷 Ha Myoung-eun
"MINI 3022 series (16)"
2017年
ミクストメディア
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