中尾美穂「ときの忘れものの本棚から」第4回

『もうひとつの日本美術史―近現代版画の名作2020』その1

2020年7月11日(土)~8月30日(日) 福島県立美術館
2020年9月19日(土)~11月23日(月・祝) 和歌山県立近代美術館


202011中尾美穂‗近現代版画00和歌山県立近代美術館の会場


300ページを超えるボリュームの展覧会カタログを見る限り、好事家向けに思える。しかし和歌山県立近代美術館の植野比佐見学芸員によると、比較的狭い世界の版画をもっと広い層へと伝えたいという思いで企画されたという。 
会場でそれが感じとれた。まず、海外から流入した銅版画のエッチング技法、石版画(リトグラフ)、精緻な小口木版などの印刷技術が紹介され、鮮やかな印刷物に親しんだ明治時代の人々の日常が想像できる。そして幼少期にこれらの版画に親しみ、のちに印刷技術から絵画的表現への飛躍を試みた作家たちの眼差しへと導かれる。

202011中尾美穂‗近現代版画01第1章「版画」前夜―印刷のなかの美術

そのひとりが小口木版を学び、文芸誌『明星』に《漁夫》を発表してはじめて版画を美術の系譜へと押し上げた山本鼎。彼は明らかに風俗や情報を伝えるのではない生き生きと力強い線に、哀感を込めて<表現>を届けた。ついで《漁夫》を(彫刻の)刀による画として紹介し、山本とともに同人誌『方寸』を創刊した石井柏亭。同じく『方寸』の同人であり、都市の情緒ある風景をリトグラフで描いた織田一磨。イギリスから来日し、エッチング講習会を開いたバーナード・リーチ。リーチに学んだ富本憲吉。日本創作版画協会の創立に関わり、初めて版画の技法書を刊行した戸張狐雁。さらに明治から大正時代にかけて、『方寸』以外にも恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄らによる『月映』、川瀬巴水らによる『新版画(新板絵)』などの誌面を飾った版画作品の数々。東京美術学校や文化学院における版画教育。文化学院に学んだ村井正誠の試み。先駆者たちの版画普及にかける情熱が近代版画の概念を形成してゆく過程を、展覧会全10章のうち、5章を割いて丁寧に追っていく。


202011中尾美穂‗近現代版画02(右)山本鼎《漁夫》明治37年(1904年)ほか

202011中尾美穂‗近現代版画03多数の資料が公開されている

その後も版画は印刷技術の発達と歩みを共にし、大衆性や複数性を強みにも弱みにもしながら、独自の展開をみせた。同展でとくに興味深かったのが各館の研究内容である。福島県立美術館は文化学院でも講習会を開いた西田武雄が設立した日本エッチング研究所と、雑誌『エッチング』の刊行。カタログに福島県内で同誌の普及活動がどのように展開されたかが詳しく述べられている。さらに福島県出身の斎藤清を論考に挙げる。今回訪れた和歌山では村井正誠の功績に着目する。また、同地に関わりの深い硲(はざま)伊之助による木版《南仏の田舎娘》が広報に使われていた。植野氏によると、同展のように「時間軸を広くとると見えるものが異なってくる」。時代の変遷だけではない。海外からみた日本の版画の高い評価と自国のそれとの差、国内での地域差などだ。会場では『九州版画』『青森版画』『さとぽろ』など地方での活発な活動も俯瞰できる。
展覧会名の「もうひとつの日本美術史」は美術の片隅に追いやられてきた感がある版画を指すわけだが、170名もの作家による多様な<表現>には、ふだん版画に馴染みのない人でもどこか琴線に触れるのではないだろうか。もちろん同展のセレクションが名作のすべてではない。それよりも2館の収蔵品を中心に前後期合わせて366点という大規模な版画史展が構成できるほど、地方都市に版画が根づいてきたことに注目したい。

202011中尾美穂‗近現代版画05昭和7年(1937年)刊行の雑誌『エッチング』

202011中尾美穂‗近現代版画04(右から)斎藤清《ミルク》昭和24年(1949年)、《凝視(花)》昭和25年(1950年)
(左奥)棟方志功《二菩薩釈迦十大弟子》昭和14年(1939年)と同作昭和42年(1967年)摺り

202011中尾美穂‗近現代版画06(中央右)村井正誠《黒い太陽》《風》昭和37年(1962年)、
(中央左)加納光於《星・反芻学Ⅰ》昭和36年(1961年)《星・反芻学Ⅱ》昭和37年(1962年)ほか

202011中尾美穂‗近現代版画07(右から)辰野登恵子《May-7-91》平成3年(1991年)、
小枝繁昭《Still Life on the Table #3》平成2年(1990年)ほか

202011中尾美穂‗近現代版画08太田三郎《POST WAR 46-47兵士の肖像》平成6年(1994年)

ところで同展の最後は太田三郎の作品である。その「版画」は新聞に掲載された兵士の顔写真のコピー。もはや版でもない日常の転写物である。こうしてみると「何が<表現>を支えているのか」から反芻しなければならない版画制作に向かう近現代作家の、さまざまな着眼に驚かされる。植野氏の「たとえ複数であっても版画にはアウラがあると思う」という言葉にあらためて深く共感した。
展覧会は10月26日に47点の展示替が行なわれる予定。ぜひ観覧を勧めたい。同時展示「和歌山県立近代美術館 コレクションの50年」も非常に見応えがある。

202011中尾美穂‗近現代版画09和歌山城を望む同館ブック・カフェのテラス席。コーヒーと新鮮な空気をゆっくり味わうことができた。

なかお みほ

■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
201603_collection池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」奇数月の19日に掲載します。
次回は2021年1月19日の予定です。


●展覧会のお知らせ
もうひとつの日本美術史A4_page-0001和歌山県立近代美術館 開館50周年記念「もうひとつの日本美術史 近現代版画の名作2020」
会期:2020年9月19日(土)~11月23日(月・祝)
開館時間:9:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜日(最終日は開館)
Tel.:073-436-8690会場:和歌山県立近代美術館(和歌山県和歌山市吹上1-4-14)
交通:JR和歌山駅からバスで10分
【記念講演会】※感染症対策のため人数制限あり
11月22日(日) 版画のきた道 美術が自分ごとになるとき 植野比佐見(同館学芸員)

時間:14時~15時30分(13時30分開場)
会場:和歌山県立近代美術館2階ホール
定員60名(先着順)

植野比佐見(和歌山県立近代美術館)学芸員による、
ブログ2020年8月13日「植野比佐見のエッセイ~福島と和歌山で「もうひとつの日本美術史 近現代版画の名作2020」もお読みください。

『もうひとつの日本美術史ー近現代版画の名作2020』展図録のご案内
もうひとつの日本美術史 近現代版画の名作20202020年
22.2×17.5cm 325頁
編集・発行:福島県立美術館、和歌山県立近代美術館
執筆:酒井哲朗(福島県立美術館 名誉館長)、山野英嗣(和歌山県立近代美術館 館長)、青木加苗、荒木康子、植野比佐見、紺野朋子、坂本篤史、宮本久宣
ときの忘れもので扱っています。税込み 2,300円+送料520円、メール・fax等でお申し込みください。


●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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