先日(11月16日)の東京新聞に勝野金政(かつの きんまさ、1901年~1984年)のことが大きく掲載されていたので、驚くとともに私たちの恩人・井上房一郎(1898年~1993年)さんのことをあらためて思い起こしました。

長野県生まれの勝野は早稲田大学在学中の1924年(大正13年)にフランスに留学。フランス共産党員、ソ連共産党員として活動し、スターリンの大粛清に遭遇してラーゲリに収容されながら、日本への帰国を果たした波乱万丈の生涯でした。
大粛清に対する先駆的批判者として再評価され、死後の1996年ロシア政府により名誉が回復されました。それは掲載紙↑に譲るとして、今日の本題は井上房一郎さんのことです。
1945年(ちょうど敗戦の年)群馬の山奥で生まれた亭主は中学卒業後、光り輝く大都会の高崎高校に進学しました。誰一人知る人もない中で初めて得た友人が内海孝幸君でテニス部の部室で亭主がギター、内海のマンドリンで「北上夜曲」などを弾いて楽しんでいました。数学教師の上條乃夫彦先生の導きでマンドリン・ギター愛好会に入り、やがてTMO(高崎高校マンドリン・オーケストラ)の創立に至ります。内海が初代部長、亭主が初代指揮者でした。そのあたりのことはコチラをお読みください。
亭主が高校一年から通った旧・井上房一郎邸(レーモンド建築ツアーを参照)。
高校生が竣工したばかりのアントニン・レーモンド設計の群馬音楽センターの舞台で演奏できたのは幸運の一語ですが、拙い私たちの部活動を物心ともに支え、応援してくれたのが井上房一郎さんでした。
夏の合宿に軽井沢の別荘を提供し、定期演奏会では切符をまとめて買い、演奏会当日の昼食は群馬音楽センター一階にあった食堂でOB、現役全員にカレーライスをご馳走してくださるのが毎年の恒例でした。
美術には全くの素人だった亭主を鎌倉の土方定一先生に引き合わせてくれ、今に至る道へと導いてくれたのも井上さんでした。
高崎に音楽、美術、そして哲学の場をつくりたい、文化のパトロンとしての井上さんの夢と業績については、助手を務めた熊倉浩靖さんのエッセイ「井上房一郎先生 生誕120年にあたって」をお読みください。
熊倉さんの著書「井上房一郎・人と功績」(2011年7月 みやま文庫刊)についてはこのブログで詳しく紹介しています。
その1、
その2、
その3
なかなか本題の勝野金政との関係に辿り着きませんが(亭主の話はいつも長い!)、井上さんは群馬を代表する実業家であり、筋金入りのリベラリストでした。若く無名な人の才能を見出し、生涯にわたり愛し、支援し続けました。
磯崎新、坂東玉三郎、山田かまちの名をあげるだけで先見の明は十分おわかりになるでしょう。
その井上さんの生涯の親友が勝野金政でした。
熊倉浩靖「井上房一郎・人と功績」より、抜粋しましょう。
<パリ ―セザンヌと自我の発見—
大正一二年(一九二三)の二月、二四歳の房一郎は足立源一郎と共に鹿島丸で横浜から出港。三月三一日マルセイユ着。四月初旬パリに到着し、ホテル・ソムラールに宿を取り、ホテルに投宿していた硲伊之助を知る。また、小山敬三を訪ね、小山の示唆で、絵画の実技を学ぶためアカデミー・コラロッシに通い出す。馬越舛太郎・青山義雄、宮坂勝らと親しくなり、林倭衛、岡見富雄、戸田海笛らとも付き合う。
(中略)
一三年(一九二四)三月には、岡見富雄の紹介で、帰国する仙波均平のアトリエ「レ・フューザン」(モンマントル・トゥラック街二二番地)を譲り受け、アカデミー・ド・ラ・グランショミエールにも通い出す。絵画に加えて彫刻が学習の中心に入ってくる。彫刻の指導者は最晩年のブールデル(Antoine Bourdelle 一八六一~一九二九)で、ジャコメッテイ兄弟 (兄・Albelt Giacometti 一九〇一~一九六六、 彫刻家。弟・Diego Giacometti 一九〇二~一九八五、後に家具製作者となる)と深い親交を結んだが、「当時はチャコメッテイ(房一郎はジャコメッテイを常にチャコメッテイと発音)は、まだあんなに細く、究極まで形を絞り上げる作風ではなかった」と、房一郎は述懐している。
続く一四年(一九二五)四月から一〇月にかけて、パリで「現代装飾美術産業美術国際博覧会」(アール・デコ展)が開催される。アール・デコとの出会いは房一郎の美意識、創造形式の上に大きな意味を持ち、学習の対象を絵画・彫刻から建築・工芸へと広げる。冬頃から体の不調を訴え、南仏エスタック近辺に保養滞在。房一郎自身の述懐によれば「人生で一番辛かった時」。
翌一五年(一九二六)の夏頃、パリに戻り、一五区ファルギェール街に移り住み、清水多嘉示、児島善三郎と親交を深める。そこで、渡仏に先立ってフランス語を学んだアテネ・フランセの勝野金政(一九〇一~一九八四、パリ大学政治哲学科入学。直後フランス共産党入党。昭和三年二月国外退去。勝野の一生は波乱に富んでいるが、日本帰国後、生涯、房一郎の親友であった)と再会する。
勝野の誘いで昭和二年(一九二七)の春には、偏見による冤罪事件の疑惑に包まれていたサッコとヴァンゼッチの処刑反対デモに参加し拘留される(一晩で釈放)。ラジカルな自由主義者として生涯を貫いた房一郎らしい。
(同書83~86ページより一部抜粋)>
フランスから帰国した井上さんは父の後を継ぎ井上工業の社長となります。戦時中、左翼の人はもちろん、リベラルな知識人までが特高につけまわされます。軍部は少しでも反軍的な人たちを召集して満州に送ります。井上さんは彼らを井上工業(軍需産業でした)に入れて庇護しました。
亭主はその理由を聞いたことがあります。
「僕はアカ(共産主義者)は嫌いだが、若く才能のある人が思想でもって処罰されるのは反対だったから」とおっしゃっていました。
1993年、96歳の生涯を静かに終えます。群馬音楽センターでのお別れ会は多くの市民たちで埋め尽くされ、舞台で葬送の曲を奏でたのは自らの夢を託した群響(群馬交響楽団)の人たちでした。
奇しくもコロナ・ウイルス禍の今年は群響の創立75周年、我がTMO(高崎高校マンドリン・オーケストラ)の創立60周年、ついでに「ときの忘れもの」の創立25周年でした。井上さんの恩顧を思わずにはいられません。
●本日のお勧めは磯崎新です。
磯崎新 Arata ISOZAKI
「内部風景III 増幅性空間―アラタ・イソザキ」
1979年 アルフォト
80.0x60.0cm
Ed.8 Signed
*第11回東京国際版画ビエンナーレ出品作品
*現代版画センターエディション
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ドキュメンタリー叢書創刊 #01『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』が刊行されました。
執筆:ジョナス・メカス、井戸沼紀美、吉増剛造、井上春生、飯村隆彦、飯村昭子、正津勉、綿貫不二夫、原將人、木下哲夫、髙嶺剛、他
税込み 2,200円+送料250円
*ときの忘れもので扱っています。メール・fax等でお申し込みください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。

長野県生まれの勝野は早稲田大学在学中の1924年(大正13年)にフランスに留学。フランス共産党員、ソ連共産党員として活動し、スターリンの大粛清に遭遇してラーゲリに収容されながら、日本への帰国を果たした波乱万丈の生涯でした。
大粛清に対する先駆的批判者として再評価され、死後の1996年ロシア政府により名誉が回復されました。それは掲載紙↑に譲るとして、今日の本題は井上房一郎さんのことです。
1945年(ちょうど敗戦の年)群馬の山奥で生まれた亭主は中学卒業後、光り輝く大都会の高崎高校に進学しました。誰一人知る人もない中で初めて得た友人が内海孝幸君でテニス部の部室で亭主がギター、内海のマンドリンで「北上夜曲」などを弾いて楽しんでいました。数学教師の上條乃夫彦先生の導きでマンドリン・ギター愛好会に入り、やがてTMO(高崎高校マンドリン・オーケストラ)の創立に至ります。内海が初代部長、亭主が初代指揮者でした。そのあたりのことはコチラをお読みください。
亭主が高校一年から通った旧・井上房一郎邸(レーモンド建築ツアーを参照)。高校生が竣工したばかりのアントニン・レーモンド設計の群馬音楽センターの舞台で演奏できたのは幸運の一語ですが、拙い私たちの部活動を物心ともに支え、応援してくれたのが井上房一郎さんでした。
夏の合宿に軽井沢の別荘を提供し、定期演奏会では切符をまとめて買い、演奏会当日の昼食は群馬音楽センター一階にあった食堂でOB、現役全員にカレーライスをご馳走してくださるのが毎年の恒例でした。
美術には全くの素人だった亭主を鎌倉の土方定一先生に引き合わせてくれ、今に至る道へと導いてくれたのも井上さんでした。
高崎に音楽、美術、そして哲学の場をつくりたい、文化のパトロンとしての井上さんの夢と業績については、助手を務めた熊倉浩靖さんのエッセイ「井上房一郎先生 生誕120年にあたって」をお読みください。
熊倉さんの著書「井上房一郎・人と功績」(2011年7月 みやま文庫刊)についてはこのブログで詳しく紹介しています。その1、
その2、
その3
なかなか本題の勝野金政との関係に辿り着きませんが(亭主の話はいつも長い!)、井上さんは群馬を代表する実業家であり、筋金入りのリベラリストでした。若く無名な人の才能を見出し、生涯にわたり愛し、支援し続けました。
磯崎新、坂東玉三郎、山田かまちの名をあげるだけで先見の明は十分おわかりになるでしょう。
その井上さんの生涯の親友が勝野金政でした。
熊倉浩靖「井上房一郎・人と功績」より、抜粋しましょう。
<パリ ―セザンヌと自我の発見—
大正一二年(一九二三)の二月、二四歳の房一郎は足立源一郎と共に鹿島丸で横浜から出港。三月三一日マルセイユ着。四月初旬パリに到着し、ホテル・ソムラールに宿を取り、ホテルに投宿していた硲伊之助を知る。また、小山敬三を訪ね、小山の示唆で、絵画の実技を学ぶためアカデミー・コラロッシに通い出す。馬越舛太郎・青山義雄、宮坂勝らと親しくなり、林倭衛、岡見富雄、戸田海笛らとも付き合う。
(中略)
一三年(一九二四)三月には、岡見富雄の紹介で、帰国する仙波均平のアトリエ「レ・フューザン」(モンマントル・トゥラック街二二番地)を譲り受け、アカデミー・ド・ラ・グランショミエールにも通い出す。絵画に加えて彫刻が学習の中心に入ってくる。彫刻の指導者は最晩年のブールデル(Antoine Bourdelle 一八六一~一九二九)で、ジャコメッテイ兄弟 (兄・Albelt Giacometti 一九〇一~一九六六、 彫刻家。弟・Diego Giacometti 一九〇二~一九八五、後に家具製作者となる)と深い親交を結んだが、「当時はチャコメッテイ(房一郎はジャコメッテイを常にチャコメッテイと発音)は、まだあんなに細く、究極まで形を絞り上げる作風ではなかった」と、房一郎は述懐している。
続く一四年(一九二五)四月から一〇月にかけて、パリで「現代装飾美術産業美術国際博覧会」(アール・デコ展)が開催される。アール・デコとの出会いは房一郎の美意識、創造形式の上に大きな意味を持ち、学習の対象を絵画・彫刻から建築・工芸へと広げる。冬頃から体の不調を訴え、南仏エスタック近辺に保養滞在。房一郎自身の述懐によれば「人生で一番辛かった時」。
翌一五年(一九二六)の夏頃、パリに戻り、一五区ファルギェール街に移り住み、清水多嘉示、児島善三郎と親交を深める。そこで、渡仏に先立ってフランス語を学んだアテネ・フランセの勝野金政(一九〇一~一九八四、パリ大学政治哲学科入学。直後フランス共産党入党。昭和三年二月国外退去。勝野の一生は波乱に富んでいるが、日本帰国後、生涯、房一郎の親友であった)と再会する。
勝野の誘いで昭和二年(一九二七)の春には、偏見による冤罪事件の疑惑に包まれていたサッコとヴァンゼッチの処刑反対デモに参加し拘留される(一晩で釈放)。ラジカルな自由主義者として生涯を貫いた房一郎らしい。
(同書83~86ページより一部抜粋)>
フランスから帰国した井上さんは父の後を継ぎ井上工業の社長となります。戦時中、左翼の人はもちろん、リベラルな知識人までが特高につけまわされます。軍部は少しでも反軍的な人たちを召集して満州に送ります。井上さんは彼らを井上工業(軍需産業でした)に入れて庇護しました。
亭主はその理由を聞いたことがあります。
「僕はアカ(共産主義者)は嫌いだが、若く才能のある人が思想でもって処罰されるのは反対だったから」とおっしゃっていました。
1993年、96歳の生涯を静かに終えます。群馬音楽センターでのお別れ会は多くの市民たちで埋め尽くされ、舞台で葬送の曲を奏でたのは自らの夢を託した群響(群馬交響楽団)の人たちでした。
奇しくもコロナ・ウイルス禍の今年は群響の創立75周年、我がTMO(高崎高校マンドリン・オーケストラ)の創立60周年、ついでに「ときの忘れもの」の創立25周年でした。井上さんの恩顧を思わずにはいられません。
●本日のお勧めは磯崎新です。
磯崎新 Arata ISOZAKI「内部風景III 増幅性空間―アラタ・イソザキ」
1979年 アルフォト
80.0x60.0cm
Ed.8 Signed
*第11回東京国際版画ビエンナーレ出品作品
*現代版画センターエディション
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ドキュメンタリー叢書創刊 #01『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』が刊行されました。
執筆:ジョナス・メカス、井戸沼紀美、吉増剛造、井上春生、飯村隆彦、飯村昭子、正津勉、綿貫不二夫、原將人、木下哲夫、髙嶺剛、他税込み 2,200円+送料250円
*ときの忘れもので扱っています。メール・fax等でお申し込みください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
コメント