土渕信彦のエッセイ「駒井哲郎と瀧口修造 中編」

文献3 現代版画の問題 ―座談会― 瀧口修造 小野忠重 恩地孝四郎 駒井哲郎(発言順)(「みづゑ」1952年3月号。図10~12)

図10図10

図11図11

図12図12


【本文】

【解説】
 「現代版画の問題」は瀧口、恩地、小野、駒井という豪華な顔ぶれによる座談会で、「みづゑ」誌1952年3月号の巻頭に掲載された。『コレクション瀧口修造』には収録されていない。図版として駒井のエッチング「箱の中の蒐集」(上掲図12右)、小野の木版画「河岸」など、15点が掲載されているが、恩地の作品は見当たらない。理由はわからない。座談会では版画の複数性・芸術性や、版画の技法、伝統、社会的状況など、さまざまな主題をめぐって、各氏が自らの考えを率直に述べている。考え方の違いなども興味深く、なかなか充実した内容であるので、長文ではあるが再録することとした。

 座談会の直前に刊行された青柳瑞穂訳『マルドロオルの歌』(350部。木馬社、1952年1月。図13)も話題に上っている。この本については後に駒井自身が「5枚の挿絵に、カット1点、全部オリジナルの銅版画を用いた。この本は350部限定だったから2100枚の印刷を僕一人でやった。約半年かかったと思うが、刷り終わった時には全く疲れてしまった」と述懐する労作だったが(「未だ見果てぬ本」、「本の手帖」1961年4月号。『白と黒の造形』、小沢書店、1977年5月に再録)、中村稔によれば世評は必ずしも芳しいものではなかったようである(参考文献4)。もちろん、この座談会のなかでは駒井に対して相応の敬意が払われており、特に瀧口が定価2000円(現在の10万円程度か)について、「安くてもったいない」と発言しているのは、注目される。

図13図13

 『マルドロオルの歌』に着手した頃の1951年6月13日付け手紙(参考文献2)には、駒井が阿部展也の展覧会で瀧口・阿部の詩画集『妖精の距離』(前出図5)を見て、「なかなか面白かったし、また参考になりました。それで瀧口氏の詩、六つ、会場で手帳にうつしてきました」と記しているが、この阿部展也展とは瀧口が企画・運営を引き受けて、ちょうど開廊したタケミヤ画廊の第1回展「阿部展也デッサン・油絵個人展」(1951年6月1日~15日。図14)と思われる。

図14図14(慶應義塾大学アート・センター蔵)

 会場で阿部や瀧口と面談したとは書かれていないが、開廊したばかりのタケミヤ画廊を訪れ、『妖精の距離』の詩を手帳に写したというだけでも、特記に値する出来事だろう。その後、安東次男をはじめ多くの詩人や文学者との共作を手掛けることとなる駒井自身にとって、原点ともいえる重要な体験だったというだけでなく、タケミヤ画廊の歩みを語る上でも貴重で歴史的な事実と思われる。タケミヤ画廊の開設について、瀧口は同展リーフレット(上掲図14)に以下のように記している(参考文献8所載の森山緑「タケミヤ画廊の7年」にこの部分の拡大図版が掲載されている)。『コレクション瀧口修造』には収録されていないようなので、再録しておく。

 「神田から画廊が姿を消してしまってから久しい。今度なつかしい歴史をもつタケミヤ画材店が再興するについて店舗の大部分を画廊に改装して時に新人作家のために自由提供してくれるという。今日大展覧会は氾濫しているけれどもほんとうに落付[ママ]いて作品に対し、作者の心が親しく語りかけてくれる機会は稀れである。こんな状態で芸術が育つわけがないのである。それには何としても個展や実のあるグループ展がもっとさかんにならなければならないのだが、この広い東京に適当な画廊があまりにも少なすぎる。あっても若い作家が作品を世に問うのには経済的にも障害がある。こんなときにタケミヤ画廊の奉仕はどんなに力になるか知れない。出来るだけこの画廊を無性格な貸画廊のようなものにせず、新しい芸術のための温床、道場でもあり娯しいクラブでもある生気にみちた場所にしたいと念願している。」

 また、「阿部展也デッサン・油絵個人展」の展示については、「美術手帖」誌1951年8月号(図15,16)の展評で、以下のように述べている(『コレクション瀧口修造』第7巻に収録)。

 「大戦はいたるところで「キャンプ」の悲劇を生んだ。世界の戦後思想にはその幽霊がつきまとっている。この作家の最近の裸体群像もその一つとして注目される。「天使」「神話」はある構作の習作めいているが、写実の技術的自意識が清算されると同時に、動機を帯びて燐光を発するようになるとよい。『妖精の距離』(私との共作詩画集)ははからずも14年間の作家と時代の道程を感慨深く反省せしめた。」

図15図15

図16図16

 『マルドロオルの歌』に話を戻すが、制作に携わっているあいだに、駒井が瀧口からアンドレ・ブルトンによるアンソロジー『黒いユーモアの選集』(ロオトレアモンも含まれる。図17)を送ってもらったという旨の記述が、駒井の岡鹿之助宛て1951年10月7日付け書簡(参考文献5所載)に出てくる。仕事の参考になればと、瀧口が貸与したようである。また、後出「関連資料」の解説で触れるとおり、宮英子(コスモス短歌会を主宰する歌人宮柊二夫人)を駒井に紹介し、同会の雑誌「コスモス」にエッセイを寄稿する橋渡しをしている。こうした細やかな気配りは、駒井に対する瀧口の期待の大きさを物語るものだろう。

図17図17

 これに関連して、実験工房への参加についても触れておきたい。駒井は1952年8月に瀧口の推挙により実験工房に参加したとされている。第4回発表会プログラム(図18)には、扉に園田高広が「渡欧に際して」を寄せ、これに対して実験工房が「園田君を送る」と返している(図19)。その末尾近くに次のような一節がある。「今度、版画の駒井哲郎君をメンバーとしてむかえた事は、また工房の限りないよろこびです。園田君、不在の間にもより活発に工房の仕事が展開してゆくものと、僕らはひそかに自負しております」。そしてメンバーと瀧口による座談会「メシアンをめぐって」(同プログラムに収録。図20)にも早速加わっている。

図18図18

図19図19

図20図20

 参加に至った経緯の詳細は判らないが、その頃、駒井は田園調布の岡鹿之助のアトリエだけでなく、成城で間借り生活をしていた瀧口の許にもしばしば顔を出していたようなので、同じ頃に瀧口の許を訪れていた実験工房のメンバーとの交流が始まったとしても不思議ではない。参考文献2の随所に記されているとおり、以前から駒井は文学のみならずクラシック音楽に親しんでおり、特に音楽については、岡のアトリエでレコードを聴かせてもらっていたこともあって、音楽のメンバーさえ一目置くほど造詣が深かった。例えば、上記の座談会「メシアンをめぐって」のなかでも次のような、なかなか鋭い発言をしている。駒井の参加はむしろ自然ななりゆきだったように思われる。

 「メシアンはクレーに似ているという意見が出ましたけれども、クレーよりもむしろマネシエなんかの方が似ているような気がするのです。」

 「宗教的な枠ということなんだけれど、たとえばドビュッシーなんかは標題楽的な題がついているけれども、普通に聴くだけのときは気にしないで聴きますからね。だから別に問題にしないで僕なんか聴いているのですよ。それから枠を破れないということですがね。僕はあまりその枠を破るような芸術家が多過ぎるような気がするのですよ。だからメシアンみたいな作曲家がいると、非常に嬉しいのです。自分の世界の中で喋っているから……。」

 参加後、湯浅譲二との共作のオートスライド「レスピューグ」(1953年9月の第5回発表会で発表)のような顕著な成果も残し、間にフランス留学(54年3月~55年12月)をはさんで、帰国後も、グループとしての最後の活動とされる「実験工房のメンバーによるサマー・エクスビジョン」(前期:57年8月1日~15日、後期:16日~31日、新宿風月堂画廊。図21)に参加している。

図21図21(慶應義塾大学アート・センター蔵)

 他のメンバーにとって駒井がどのような存在だったかの一例として、湯浅の回想「駒井さんと私 そして実験工房のことなど」(「プリントアート」第17号、プリントアートセンター、1974年8月。図22~24)を見てみよう。それによると、「造形の駒井さんと、北代さんが私にとっては、あきらかな先輩であった」とされ、北代は「むしろエンジニアといった雰囲気をもっていた」のに対し、駒井は「とにかく私にとって、芸術家そのものとして映った[中略]私が身近に出遇った最初の芸術家であった」と述懐している。湯浅はしばしば駒井の家を訪れ、音楽、文学、美術の話をしたり、制作中の銅版画を見せてもらったり、何点か譲ってもらったりしたそうで、高城重躬(マニアの間でも有名だった岡鹿之助のオーディオ・システムの製作者)の家に連れて行ってもらった時には、駒井が岡のアトリエで聴いたメシアンの話をするのが大変うらやましかったとも記している。ビュランの連作「夢遊病者のフーガ」を見た際のことも、「ひどく感動した。それは、フーガという題のせいだけではなく、全く私にとって音楽的であったからだ。イメージが形成されたり解体されたりするプロセスを、そのまま時間軸上に置き換えて感じることが、私には出来た。そして、そのプラスティックなフォームのユニークさに私は深く共振したのであった」と回想している。まるで現代音楽の図形楽譜のように捉えているのは、作曲家ならではだろう。こうした駒井その人への尊敬や、作品から受けた感動が、上記の共作「レスピューグ」として実ったと思われる。

図22図22

図23図23

図24図24

 また、福島和夫も次のように回想している。「1952年に駒井さんが実験工房に参加されたことで、実験工房に幅と深みというものが非常に増したんじゃないかなと思っています。[中略]年齢はずいぶん上でしたが、私たち音楽のメンバーは加入以前から仲がよかったんです。年中遊びに行ったり来たりしていました。[中略]駒井さんは人望が厚かったんです。推測ですが、瀧口さんは実験工房の造形と音楽のメンバー同士をつなぐ役割を意識して、駒井さんが必要だと感じたのではないでしょうか」(「実験工房メンバーによる座談会」。主席者:今井直次、福島和夫、山口勝弘、湯浅譲二。聞き手:那須孝幸。2012年3月開催。参考文献6所載)。

 つまり駒井を推挙するにあたって瀧口が期待していたのは、親密な交流を通じて(特に造形と音楽の)メンバー同士のつながりを強化したり、他の年若いメンバーを啓発したりすることだった、ということのようである。また、そうした交流を前提に、絵画よりも版画の方がコラボレーションに適していると見て、実験的な共作が生み出されるのを期待していた、とも考えられそうである。あるいは、石井幸彦が「実験工房時代の駒井哲郎」(参考文献6所載)で指摘する通り、北代省三や山口勝弘には構成主義やバウハウスの影響がみられたのに対し、駒井は「シュルレアリスムやクレー、ルドンミロなどに共鳴し、文学的で夢幻的な世界を作品として提示する」という点を考慮したのかもしれない。ただいずれにしても、駒井自身はそれほど貢献できているとは感じていなかったようで、瀧口宛て53年10月7日付けの手紙で「実験工房では良い作品が出せないで申し訳ありません。なんだか工房の若い人達をけがしたやうで気がとがめて居ります」と記している(慶應義塾大学アート・センター蔵。参考文献5所載)。芸術家肌で酒も好んだ駒井にとって、模範的な年長者として他のメンバーと接するのは息苦しいもので、集団的な活動には基本的に馴染めなかったのかもしれない。逆に駒井自身にとっての実験工房への参加の意義について、中村稔は「どれほどのことだったのか、私には疑わしい。この時点の駒井の画風が著しく抽象化の方向に負かっていたことは事実だが、それは芸術の前衛的な意志の結果というよりも、孤独な魂の彷徨のはてのひとつの到達点だった、ように私にはみえるのである。集団の中で作業するよりも、三坪のアトリエでひとり銅版と向きあうことの方が、駒井の資質に適していたように私は感じている」と、懐疑的ないし否定的な見方をしている(参考文献4)。

 「みづゑ」誌の座談会に話を戻すが、編集部から促された締めくくりの発言のなかで、瀧口は次のように述べている。「思想的にも、もっといろいろな世界を持った版画が出て来てほしい。技術上のことはもちろんそれに伴ってくるでしょう。とにかく、いろいろな種類の版画が、いろいろなテーマやモチーフで、その世界を描き出して行けばいいのです」。この発言は、第三者的な放言のように受け取られかねないが、瀧口はこの後、タケミヤ画廊で銅版画家のグループ展を企画・開催したり、上述の雑誌「コスモス」誌に銅版画家による自作解説の連載を仲介したりと、実際に版画家の発表の場を設け、版画の復興に具体的に力を注いでいる。この点に関しては文献5および「関連資料」の解説をご参照いただきたい。

参考文献
1.駒井哲郎『銅版画のマチエール』美術出版社、1976年12月
2.加藤和平・駒井美子編『駒井哲郎 若き日の手紙 「夢」の連作から「マルドロオルの歌」へ』美術出版社、1999年5月
3.駒井哲郎『駒井哲郎ブックワーク』形象社、1982年4月
4.中村稔『束の間の幻影―銅版画家駒井哲郎の生涯』新潮社、1991年11月
5.横浜美術館「駒井哲郎―煌めく紙上の宇宙」展図録(玲風書房、2018年10月)
6.神奈川県立近代美術館・いわき市立美術館・富山県立近代美術館・北九州市立美術館・世田谷美術館「実験工房展 戦後美術を切り拓く」図録(読売新聞社・美術館連絡協議会、2013年1月)
7.町田市立国際版画美術館・山口県立萩美術館浦上記念館・伊予市美術館・郡山市立美術館・新潟市美術館・世田谷美術館「駒井哲郎 1920-1976」展図録(東京新聞、2011年4月)
8.慶應義塾大学アート・センター「アート・アーカイヴ資料展Ⅺ タケミヤからの招待状」図録、2014年3月
つちぶち のぶひこ

土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。

◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新ですが、「駒井哲郎と瀧口修造」を特別連載します。

●本日のお勧め作品は瀧口修造駒井哲郎です。
takiguchi2014_II_29瀧口修造 Shuzo TAKIGUCHI
"Ⅱ-29"
デカルコマニー
イメージサイズ:11.2×7.3cm
シートサイズ :19.4×13.2cm
Ⅱ-30と対

komai_10_gajo駒井哲郎 Tetsuro KOMAI
《賀状》
1959年
エッチング
10.1×12.2cm
Ed.180
サインあり
※レゾネNo.351(美術出版社)
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