吉原英里のエッセイ「不在の部屋」第4回
画家の家に生まれて
1959年8月16日、私は画家の家に生まれました。
その日父は、近々泉茂がパリに出発するため壮行会に、人生で最初で最後の自ら握ったおにぎりを持って、画家仲間らと奈良へ遠足に出かけていました。
父は、作家として自分の歩む道すら模索中に、子供が産まれるということが不安で、画家仲間で年長の泉氏に、私が生まれる前に相談したそうです。案の定、「靉嘔にも、マスオにも、瑛九にも、もちろん俺にも子供はいない。君はもう画家としては終りだ。」と言われて狼狽したそうです。が、母はケ・セラ・セラ。全く迷いなし。
《白のはじまり》リトグラフ 吉原英雄 1959年(私が生まれた頃の作品)
《雪》リトグラフ 吉原英雄 1959年
家族写真1960年
初めての誕生日 1960年8月16日
今年の5月、新型コロナ自粛の期間に、地下にある版画室の押入れを整理していて、父が書いた、私を命名した時の半紙が出てきました。どんな思いでこれを書いたのでしょう。私が生まれてからは、父は結構可愛がってくれたし、夜泣きにも付き合い、あやすのも上手だったと母は言います。
唯、私は普通の家庭の日常とは違った日々を生きて来たのだなということに、小学校に上がってから気付きました。
家の真ん中がアトリエで、一階の大部分を占めており、そこには、大きなリトのプレス機が陣取っていて、ごく幼い頃は、床で制作中の父のタブローの上に、私が乗ったり座ったりして邪魔をしない様に、柱に紐で括られていました。今だったら、虐待とも言われかねないですね。父の機嫌が良い時は、高い天井の梁に吊られたブランコに乗せてもらい、片足で蹴って私がはしゃいでいる間に下で絵を描いているということもあったようです。父が連れて行ってくれたところは、いつも美術館か画廊。子供のためのサービスでお出かけする気など全くないのです。美術館では、子供の視点からは、あまり絵が見えないのに、「どうや、いい絵やろ?」下手にいいねというと何処がいいか、何故そう思うかと、質問を浴びせてくるので大嫌いでした。だからいつも美術館に行くと私は下ばかり向いて、今日はブーツの人が何人で、ハイヒールの人が何人などと数えて歩いていました。また、当時毎晩のように、子供嫌いの画家仲間や評論家が父のアトリエに来てお酒を飲んで芸術論を闘わせていました。朝、私が二階から降りると何人かがアトリエに布団もひかないまま転がって眠っていて、その人達を飛び越えながら幼稚園に通っていました。
《サザメキブルー》油彩、カンヴァス 吉原英雄 1961年
《作品W-2》エナメル、カンヴァス 吉原英雄 1961年(制作中、私がエナメルの画面に乗らない様、柱に括られていた頃の作品)
《えりの像未完》油彩、ボード 吉原英雄 1962年頃
小さい頃は、絵を描くことも物語を空想することも大好きだったけれど、だんだん理数系の方が好きになり、実験や難解な問題を解いたりすることが楽しくなりました。丁度その頃、父が教えていた大学の学生だった木村秀樹さん(のちに私の大学での恩師となる)や田中孝さんを中心にたくさんの学生や、リトの刷りを手伝う若い人たちがひっきりなしにうちにきて話し込んだり、飲み明かしたり、泊まり込んでいました。そのため、母はたくさんの食料を買い込むので、買い物に行くたびに、近所の人から「オタクは何人家族?子供さんが多いんやね?」と言われて答えに困ると言っていました。初めは、ほとんどが男子学生だったけどそのうち綺麗な女学生も来る様になって、バランスのとれた普通の女子学生が絵描きになるのかと、子供心にも時代が変わって来たことを感じました。その中でも、他の美大生が苦手な理数系が好きだという山本容子さんが私にとってはすごく新鮮でした。数学が好きだというのに、言葉遊びでタイトルを付けたり、連想ゲームの様にイメージを繋げたりしながら作品を作るその姿に、自由を感じました。また、芸術論を闘わせる男子学生の横で、賢いはずの容子さんが「もうそんなめんどくさいことはいいから、愛の話をしようよ。」などと言う彼女にびっくりしました。と同時にこんなに自由に絵を作っていいのなら物作りも面白いかなと思う様になっていきました。そんなわけで絵描きにだけはならないと思っていたのに、高2から、美大受験のための予備校に通い始めると、もの派やコンセプチャルアートの影響をうけて、彫刻がカッコよく思えてきました。それでも父が、「彫刻は材料代だけでなく、広いアトリエがいるし、倉庫もいる。うちにはそんな財力は無いから、彫刻科だけはやめて欲しい」「親子でも、アーティストがアーティストを食べさせるのはおかしいから、卒業と同時に自活できるように考えろ」と言ったので、一番小回りの効きそうな版画科を選んでしまうことになります。父も私を版画家にしようと思って言ったわけではなく、私が、消去法的選択で考えた結果です。また大学に入る前から、父吉原英雄も、山本容子さんも人物をモチーフにしていたので、人物を描かないというところからスタートすることが得策だと思いました。そのため、学生時代の初めの頃はメモシリーズの制作に没頭し、専攻科に進んだ頃から人物がいなくなった瞬間の風景画を描いていました。
学生時代の銅版画 タイトル不明 Memoシリーズから 1981年
学生時代の銅版画 タイトル不明 風景シリーズから 1982年
学生時代の銅版画 タイトル不明 風景シリーズから 1982年
(よしはら えり)
■吉原英里 Eri YOSHIHARA
1959年大阪に生まれる。1983年嵯峨美術短期大学版画専攻科修了。
1983年から帽子やティーカップ、ワインの瓶など身近なものをモチーフに、独自の「ラミネート技法」で銅版画を制作。2003年文化庁平成14年度優秀作品買上。2018年「ニュー・ウェイブ現代美術の80年代」展 国立国際美術館、大阪。
●本日のお勧め作品は吉原英雄と吉原英里です。
吉原英雄 Hideo Yoshihara
《鏡の中》
1998年
銅版(雁皮刷り)
13.0x10.0cm
Ed.100
サインあり
※アートフル勝山の会エディション
吉原英里 YOSHIHARA Eri
「夏の影・ノート」
2006年
エッチング、ラミネート
イメージサイズ:30.0×36.5cm
シートサイズ:41.7×46.7cm
Ed.30
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●作品集のご案内
『不在の部屋』吉原英里作品集 1983‐2016
1980年代から現在までのエッチング、インスタレーション、ドローイング作品120点を収録。日英2か国語。サインあり。
著者:吉原英里
執筆:横山勝彦、江上ゆか、植島啓司、平田剛志
翻訳:クリストファー・スティヴンズ
デザイン:西岡勉
発行:ギャラリーモーニング
印刷、製本:株式会社サンエムカラー
*ときの忘れもので扱っています。
●11月28日ブログで新連載・塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」が始まりました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」は毎月28日掲載です。
連載に合わせて作品も特別頒布させていただきます。お気軽にお問い合わせください。
●『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』が刊行されました。
執筆:ジョナス・メカス、井戸沼紀美、吉増剛造、井上春生、飯村隆彦、飯村昭子、正津勉、綿貫不二夫、原將人、木下哲夫、髙嶺剛、金子遊、石原海、村山匡一郎、越後谷卓司、菊井崇史、佐々木友輔、吉田悠樹彦、齊藤路蘭、井上二郎、川野太郎、柴垣萌子、若林良
*ときの忘れもので扱っています。メール・fax等でお申し込みください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
画家の家に生まれて
1959年8月16日、私は画家の家に生まれました。
その日父は、近々泉茂がパリに出発するため壮行会に、人生で最初で最後の自ら握ったおにぎりを持って、画家仲間らと奈良へ遠足に出かけていました。
父は、作家として自分の歩む道すら模索中に、子供が産まれるということが不安で、画家仲間で年長の泉氏に、私が生まれる前に相談したそうです。案の定、「靉嘔にも、マスオにも、瑛九にも、もちろん俺にも子供はいない。君はもう画家としては終りだ。」と言われて狼狽したそうです。が、母はケ・セラ・セラ。全く迷いなし。
《白のはじまり》リトグラフ 吉原英雄 1959年(私が生まれた頃の作品)
《雪》リトグラフ 吉原英雄 1959年
家族写真1960年
初めての誕生日 1960年8月16日今年の5月、新型コロナ自粛の期間に、地下にある版画室の押入れを整理していて、父が書いた、私を命名した時の半紙が出てきました。どんな思いでこれを書いたのでしょう。私が生まれてからは、父は結構可愛がってくれたし、夜泣きにも付き合い、あやすのも上手だったと母は言います。
唯、私は普通の家庭の日常とは違った日々を生きて来たのだなということに、小学校に上がってから気付きました。
家の真ん中がアトリエで、一階の大部分を占めており、そこには、大きなリトのプレス機が陣取っていて、ごく幼い頃は、床で制作中の父のタブローの上に、私が乗ったり座ったりして邪魔をしない様に、柱に紐で括られていました。今だったら、虐待とも言われかねないですね。父の機嫌が良い時は、高い天井の梁に吊られたブランコに乗せてもらい、片足で蹴って私がはしゃいでいる間に下で絵を描いているということもあったようです。父が連れて行ってくれたところは、いつも美術館か画廊。子供のためのサービスでお出かけする気など全くないのです。美術館では、子供の視点からは、あまり絵が見えないのに、「どうや、いい絵やろ?」下手にいいねというと何処がいいか、何故そう思うかと、質問を浴びせてくるので大嫌いでした。だからいつも美術館に行くと私は下ばかり向いて、今日はブーツの人が何人で、ハイヒールの人が何人などと数えて歩いていました。また、当時毎晩のように、子供嫌いの画家仲間や評論家が父のアトリエに来てお酒を飲んで芸術論を闘わせていました。朝、私が二階から降りると何人かがアトリエに布団もひかないまま転がって眠っていて、その人達を飛び越えながら幼稚園に通っていました。
《サザメキブルー》油彩、カンヴァス 吉原英雄 1961年
《作品W-2》エナメル、カンヴァス 吉原英雄 1961年(制作中、私がエナメルの画面に乗らない様、柱に括られていた頃の作品)
《えりの像未完》油彩、ボード 吉原英雄 1962年頃小さい頃は、絵を描くことも物語を空想することも大好きだったけれど、だんだん理数系の方が好きになり、実験や難解な問題を解いたりすることが楽しくなりました。丁度その頃、父が教えていた大学の学生だった木村秀樹さん(のちに私の大学での恩師となる)や田中孝さんを中心にたくさんの学生や、リトの刷りを手伝う若い人たちがひっきりなしにうちにきて話し込んだり、飲み明かしたり、泊まり込んでいました。そのため、母はたくさんの食料を買い込むので、買い物に行くたびに、近所の人から「オタクは何人家族?子供さんが多いんやね?」と言われて答えに困ると言っていました。初めは、ほとんどが男子学生だったけどそのうち綺麗な女学生も来る様になって、バランスのとれた普通の女子学生が絵描きになるのかと、子供心にも時代が変わって来たことを感じました。その中でも、他の美大生が苦手な理数系が好きだという山本容子さんが私にとってはすごく新鮮でした。数学が好きだというのに、言葉遊びでタイトルを付けたり、連想ゲームの様にイメージを繋げたりしながら作品を作るその姿に、自由を感じました。また、芸術論を闘わせる男子学生の横で、賢いはずの容子さんが「もうそんなめんどくさいことはいいから、愛の話をしようよ。」などと言う彼女にびっくりしました。と同時にこんなに自由に絵を作っていいのなら物作りも面白いかなと思う様になっていきました。そんなわけで絵描きにだけはならないと思っていたのに、高2から、美大受験のための予備校に通い始めると、もの派やコンセプチャルアートの影響をうけて、彫刻がカッコよく思えてきました。それでも父が、「彫刻は材料代だけでなく、広いアトリエがいるし、倉庫もいる。うちにはそんな財力は無いから、彫刻科だけはやめて欲しい」「親子でも、アーティストがアーティストを食べさせるのはおかしいから、卒業と同時に自活できるように考えろ」と言ったので、一番小回りの効きそうな版画科を選んでしまうことになります。父も私を版画家にしようと思って言ったわけではなく、私が、消去法的選択で考えた結果です。また大学に入る前から、父吉原英雄も、山本容子さんも人物をモチーフにしていたので、人物を描かないというところからスタートすることが得策だと思いました。そのため、学生時代の初めの頃はメモシリーズの制作に没頭し、専攻科に進んだ頃から人物がいなくなった瞬間の風景画を描いていました。
学生時代の銅版画 タイトル不明 Memoシリーズから 1981年
学生時代の銅版画 タイトル不明 風景シリーズから 1982年
学生時代の銅版画 タイトル不明 風景シリーズから 1982年(よしはら えり)
■吉原英里 Eri YOSHIHARA
1959年大阪に生まれる。1983年嵯峨美術短期大学版画専攻科修了。
1983年から帽子やティーカップ、ワインの瓶など身近なものをモチーフに、独自の「ラミネート技法」で銅版画を制作。2003年文化庁平成14年度優秀作品買上。2018年「ニュー・ウェイブ現代美術の80年代」展 国立国際美術館、大阪。
●本日のお勧め作品は吉原英雄と吉原英里です。
吉原英雄 Hideo Yoshihara《鏡の中》
1998年
銅版(雁皮刷り)
13.0x10.0cm
Ed.100
サインあり
※アートフル勝山の会エディション
吉原英里 YOSHIHARA Eri「夏の影・ノート」
2006年
エッチング、ラミネート
イメージサイズ:30.0×36.5cm
シートサイズ:41.7×46.7cm
Ed.30
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●作品集のご案内
『不在の部屋』吉原英里作品集 1983‐20161980年代から現在までのエッチング、インスタレーション、ドローイング作品120点を収録。日英2か国語。サインあり。
著者:吉原英里
執筆:横山勝彦、江上ゆか、植島啓司、平田剛志
翻訳:クリストファー・スティヴンズ
デザイン:西岡勉
発行:ギャラリーモーニング
印刷、製本:株式会社サンエムカラー
*ときの忘れもので扱っています。
●11月28日ブログで新連載・塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」が始まりました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」は毎月28日掲載です。連載に合わせて作品も特別頒布させていただきます。お気軽にお問い合わせください。
●『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』が刊行されました。
執筆:ジョナス・メカス、井戸沼紀美、吉増剛造、井上春生、飯村隆彦、飯村昭子、正津勉、綿貫不二夫、原將人、木下哲夫、髙嶺剛、金子遊、石原海、村山匡一郎、越後谷卓司、菊井崇史、佐々木友輔、吉田悠樹彦、齊藤路蘭、井上二郎、川野太郎、柴垣萌子、若林良*ときの忘れもので扱っています。メール・fax等でお申し込みください。
●ときの忘れものは青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
阿部勤設計の新しい空間はWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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