中尾美穂「ときの忘れものの本棚から」第5回

『もうひとつの日本美術史―近現代版画の名作2020』その2

2020年7月11日(土)~8月30日(日) 福島県立美術館
2020年9月19日(土)~11月23日(月・祝) 和歌山県立近代美術館


 版画がなぜ美術作品なのか? 近現代の版画は何を拠りどころに発展してきたのだろう?  
 昨年、福島県立美術館と和歌山県立近代美術館で開催された「もうひとつの日本美術史―近現代版画の名作2020」展はその手引きとなり、さらなる検証の余地を残して大きな布石を打ったように思える。明治時代(1868-)から今日までの広い時代枠で諸相を総括し、日本独自の道のりを印象づけた。

202101中尾美穂‗ もうひとつの日本美術史
『もうひとつの日本美術史―近現代版画の名作2020』福島県立美術館、和歌山県立近代美術館、2020年

 それによるとアカデミックな版画教育は遅れて進むも、黎明期の理念や戦後作家の国際的活躍がそのつど大きな前進力となって版画が全国各地に広く浸透した。1970年代以降に急増した美術館でも多くの版画展・版画史展が開かれるに至った。とすれば私たちの理解はそれなりに深いはずなのだが、同展が示唆するとおり、いまだに版画が美術の片すみにあるように感じられるとしたら――発端はどこにあるのだろう。
 ここで歴史を振りかえってみる。文明開化のもとに日本美術があらたな一歩を踏み出したころ、版画はもっぱら印刷技術として発展した。木目の細かい輪切りの面に刷る木口木版、銅版画、石版画など写実性の高い西欧技法が流入し、紙幣や、克明で色鮮やかな印刷物に用いられて社会を彩った。浮世絵はオランダ商館員らが持ち帰り、1954年の開国以後、急速に日本の美術工芸研究と市場化が進んでヨーロッパ中に広まるまでになったが、国内では優れた絵師が絶えて活路を求めた版元や摺師により、庶民の風俗を描く錦絵となって息づいていた。近現代版画はそのような時代変化を吸収して育った画家たちが、版画を表現豊かに創作したことに始まる。
 その筆頭が山本鼎で1904年に木版《漁夫》を発表し、翌年「版画」という語を使った。そして《漁夫》を賞賛した石井柏亭らと、雑誌『方寸』を1907年に創刊して発表の場を広げる。日本人の感性に響く「創作版画」と称した芸術運動の息吹きである。大正3年の1914年には恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄が『月映』を創刊。画家たちは続々とオリジナル画集や同人誌を刊行し、版画の倶楽部や協会を発足する。
 彼らが芸術性を保つために提唱したのが、限定部数による希少性と自刻・自摺だった。だがこの線引きは比類ない木版技術を持ちながら土産物や有名作家の複製画製作に向かう版元や摺師への牽制だったから、普遍的な版画の定義とはならなかった。そもそも美術作品の普及に刊行物の表紙や挿絵、ポスターなどの複製が有用であったし、恩地孝四郎と交流のあった竹久夢二が自身の店「港屋」を開いたように、進んで大衆嗜好に寄り添う人気作家もいた。商業がことさら亜流や芸術の模倣を拡散するのは、当時も今も変わらない。「創作版画」の熱心な活動が亜流を生んだのも事実である。彼らは歯がゆさを抱えつつ排他的になるほかなく、愛好家中心の閉じた世界が作られていく。
 こうした版画の曖昧さや閉じた世界への距離感を、難なく払拭しそうな書籍があった。版画家の小野忠重による『版画の青春』である。先の展覧会図録が丁寧に読みたい本なら、こちらはつい夢中で読んでしまう本である。ほとんどが1970年代に書かれた『みづゑ』や『三彩』、展覧会図録への寄稿文で、とりあげた作家は山本鼎、織田一磨、恩地孝四郎、富本憲吉と南薫造、永瀬義郎、石井鶴三、平塚運一、川上澄生、前川千帆、山口進、畦地梅太郎、近藤孝太郎、藤牧義夫。1909年生まれの小野にとって直接の先輩や同年代作家であり、記述の事実検証はさておき、思いのこもった独特の語り口で読み手を引き込む。

版画の青春
『版画の青春』形象社、1978年(特装本、限定300部)

 たとえば《漁夫》について「暗やみから形を引き出す態で傍で見ている石井鶴三さんをおどろかせた」(「若き日の山本鼎」)、「一磨の兄東禹もこれくらいの大先生だったのである。しかもけっきょくは、複製の技術なのである。絵をかきたい。名をあげたいぐらいの淋しさは、東禹にも、一磨の頭にもいつもこびりついている」(「織田一磨・街の石版家への道」)、自身が版画を始めたきっかけが永瀬義郎の技法書だと述べた章では「しかし永瀬の画境では―「自画だろうと他画だろうと、こんな新錦絵では複製版画じゃないか。山本さん刀画精神を捨てたんですか」だった―と「サロメ」などが伝えるのである」(「永瀬義郎・刀画の展開」)というふうに、創作への渇望や精神を熱くふりかえる。さらに、言及する作品には技法や道具・技術推移の解説を断片的に挿入し、各地で刊行された連刊版画集を数ページにわたって列挙するなど、巧みに研究資料の一面を持っていた。先の図録では小野を「多くの著作があり、それらは版画史研究の基礎となっている」と紹介している。
 氏の版画史研究については『版画・近代日本の自画像』(岩波書店、1961年)の方が詳しいが、ここでも「『方寸』のページのどこもが、創作版画の出発をつよくよびかけていた」「創作版画の新人たちが、この時期にあたって版元の「新版画」に心から嫌悪の情を抱いたのも当然であり、それは夢二に期待された恩地孝四郎も例外ではなかった」(「創作版画の出発」)と、力を込めて訴える。
 この情熱を『小野忠重版画集』(形象社、1977年)を編集した久保貞次郎は、序文で「小野忠重の芸術をかたらずして、かれの版画藝術へのひたむきな愛も、多くの著書もかたりえない」と述べた。たしかに作品に通底するプロレタリア美術への共鳴やヒューマニスト・啓蒙家の顔が、文章ににじみ出る。小野自身、同書に「胸にこたえる版画の魅力を説くのもひとしごと、とおもったのも事実である」と使命感を吐露している。
 彼に限らず、近代版画を後押ししてきたのは作家自らの研究や技法書であろう。しかしあくまで版画の普及や自身の芸術観を世に問うための刊行で、研究とはいえ分析ではない。その役割がすでに美術評論家や研究者に委ねられていた1970年代、『版画の青春』特装本は山口進と畦地梅太郎のオマージュ・オリジナル木版画2点入りで発行されている。クロス装のずっしりとした手触り、口絵も含めた作品の魅力、作家群像から受ける高揚感は、現代版画に携わる人々を理屈抜きに揺り動かしたことと思う。
 今日、版画はさまざまな鑑賞の場を獲得している。直截的なものの痕跡の表現を核にして、デジタル・テクノロジーも含めた多様な技術環境のなかで創作される。つまるところ、版画の定義については棚上げすることができても「表現とは何か」が作者にとっても、鑑賞者にとっても根本的な問いとして残る。今回とりあげた2冊は片や美術館のコレクション展図録、片や数ある評伝のひとつだが、それぞれ別の時間軸でこの点に人々を導き、版画をめぐる課題のバトンを明治・大正から150年後の現在へ、さりげなく受け渡したように感じられる。

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(上・下とも)「もうひとつの日本美術史―近現代版画の名作2020」展より
(上)オノサト・トシノブ菅井汲加納光於池田満寿夫、吹田文明ら1960年代の作品群
(下)山口啓介の大作、藤田修、山本桂右。いずれも1990年代。
なかお みほ

■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
201603_collection池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」奇数月の19日に掲載します。
次回は2021年1月19日の予定です。


フィレンツェの庭小野忠重 ONO Tadashige
《フィレンツェの庭》

1965年
木版
36.0×45.7cm
Ed.30
サインあり


『もうひとつの日本美術史ー近現代版画の名作2020』展図録のご案内
もうひとつの日本美術史 近現代版画の名作20202020年
22.2×17.5cm 325頁
編集・発行:福島県立美術館、和歌山県立近代美術館
執筆:酒井哲朗(福島県立美術館 名誉館長)、山野英嗣(和歌山県立近代美術館 館長)、青木加苗、荒木康子、植野比佐見、紺野朋子、坂本篤史、宮本久宣
ときの忘れもので扱っています。メール・fax等でお申し込みください。

塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」第2回を掲載しました。合わせて連載記念の特別頒布会を開催しています。
AAA_0477のコピー塩見允枝子先生には11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。12月28日には第2回目の特別頒布会も開催しています。お気軽にお問い合わせください。

●多事多難だった昨年ですが(2020年の回顧はコチラをご覧ください)、今年も画廊空間とネット空間を往還しながら様々な企画を発信していきます。ブログは今年も年中無休です(昨年の執筆者50人をご紹介しました)。

●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
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