塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」
第3回 北イタリーのコレクター達
ヴェローナ市のサンピエトロ城で、玩具のボーガンを構える筆者を撮影するフランチェスコ・コンツ氏。
彼はボブ・ワッツの作品のリアリゼーションとして、フルクサスの作家達が弓やモデルガンを構える写真を収集していた。
撮影:坂口章
1990年3月の或る日、突然電話のベルが鳴りました。受話器を取ると、聞き覚えのない男声の、しかも強いイタリー訛の英語で「ミエコ・シオミですか? 貴女は僕を知らないでしょうが、僕は貴女のことをよく知っています。5月23日からヴェニスでフルクサス・フェスティヴァルを開くので、招待しますからぜひ参加してください。作品や写真、略歴などもなるべく早く送ってください」とまくし立てられたのです。ミラノでムディマ・ファウンデーションを運営するジーノ・ディマジオからでした。私にとっては晴天のへきれきでしたが、参加することにしました。
ジュデッカの海に面した会場に到着すると、既に多くの作家たちが自作品の設営に慌ただしく動き回っていました。ムディマを中心にイタリーの幾つかの団体が共同で組織し、世界各国から数十人のメンバーを招待した<Ubi fluxus ibi motus>(フルクサスあるところに動きあり)は、フルクサス史上最も大規模なフェスティヴァルだったと言えるでしょう。移動は全て徒歩か船というのどかな街で、25年ぶりに再会したニューヨークの友人達や初めて会うヨーロッパのメンバー達と過ごした日々は、まるで至福の別世界に居るようでした。そして会場に並べられた作品から、彼らが作家として如何に成熟したかが読み取れて、とてもいい刺激になりました。70年代の後半からその時までの私は、完全に音楽の方に舞い戻っていたのですが、このフェスティヴァルで多くの人々と出会ったことから、その後の活動の場が思いがけない方向に拡がって行ったのです。
元々実業家であるジーノは、60年代にジョン・ケージから「フルクサスに注目していなさい」と言われて、関心を持ち始めたそうですが、その後、ヴェローナに住むフランチェスコ・コンツも家具店経営という仕事や家庭までも投げ打って、フルクサスのコレクションやエディション作りにのめり込み、さらに、当時モルヴェナで織物会社を経営していたルイジ・ボノットもフルクサスのコレクションを始めるようになったのです。この三人は、奇しくもミラノからヴェニスへ至る鉄道に近い地域に住んでいました。彼らの特徴は、単にフルクサスの作品を収集するだけでなく、ジーノはミラノに私設の美術館を持っていますので、そこでフルクサスの作家や日本の具体美術協会の作家など含む多くの展覧会を開いたり、2008年には豊田市立美術館で「DISSONANCES―日本のアーティスト6人」という、フルクサスの日本女性作家4人に草間彌生さん、田中敦子さんを加えた6人のグループ展をオーガナイズしたこともあります。又、コンツも作品を収集する他に、フルクサスの作家達に原画を依頼し、それを布にシルクスクリーンで印刷して、1点に付き何十部かのエディションを作成したりしました。尤もコンツは既に亡くなり、ジーノも娘さんのイレーヌに美術館の運営を譲って、故郷のシシリー島に移住しましたが、ボノットだけはファウンデーションを立ち上げ、益々健在のようです。
今はMoMAに移管されているシルバーマン・コレクションでは、マチューナスが亡くなった1978年までの作品しか収集しませんでしたが、ボノットはそれ以後の作品も精力的に集めています。彼の会社は日本へも服地を輸出していましたので、社員の一人が商用で大阪へ来たときには、私の所へも立ち寄って小さな作品を買い付け、手持ちでイタリーまで持って帰ってくれたこともあります。
1995年、ボノットからこんな手紙が来ました。「近所の友人に優秀なガラス職人がいて、皆さんにグラッパ(葡萄酒を蒸留して作るイタリー特産のブランデー)を入れるボトルのデザインを考えて貰って、エディションを出しているのですが、参加しませんか」というのです。既に作成されたベン・パターソンやエメット・ウィリアムズの造形的に面白い瓶の写真も添えてありました。エディションとしては全部で12個作り、作家には4個を提供するとのことでした。そこで先ず、瓶は中が空洞になっていることから、楽器のイメージが浮かびました。そして弦楽器でも管楽器でもない、楽器としては未分化な、いわば楽器の胎児のような形の瓶を作ってみたいと思ったのです。それには二つのヴァージョンを考えました。一つは本物のグラッパ用、もう一つには何かの形で音楽を入れたいと思いました。
デザインを送ってしばらくした或る日、ボノットは「瓶が出来上がったので、サインをしに来てください」と言ってきたのです。そのときの事は、拙書「フルクサスとは何か」(フィルムアート社 2005)から引用させて下さい。———大阪から北イタリーへですよ! 普通なら考え込んでしまうところですが、秋にはパリで個展の予定があったので、その足で彼の所へ寄ることにしました。本当は、サインなんて簡単なことだとタカをくくっていたんです。ところが、でき上がったガラス瓶と一緒にボノットが持ってきたのは、ペンではなくて、電気ドリルのような、こまかく振動する重い道具だったのです。それでガラスの表面を傷つけて文字を書くんだそうで……。試しに、他のガラス瓶でやってみましたが、まるで初めてスケート靴を履いて氷の上に立ったときのようにツルツル滑って、細いドリルの先の動きを、どうにもコントロールすることができないのです。特に、私の作品に使った青い透明なガラスは硬度が高いので、難しいのだとか。何度練習しても上手くいかず、本当に困ってしまいました。結局、見かねたガラス職人が瓶を一緒に持って支えてくれて、二人で悪戦苦闘した末に、12個すべての瓶に、何とか判読できる程度のサインをし終えたときには、私の手はもう完全にしびれ、目も霞んで……。ほっとして見上げたモルヴェナの丘には、いつの間にか夕日が傾いて、鐘の音が鳴り響いていました。確かに、はるばるやって来るにふさわしい、大層なサイン旅行ではありました。
(しおみ みえこ)
●塩見允枝子先生には2020年11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」は毎月28日掲載です。
●塩見允枝子エッセイ連載記念特別頒布作品
020-A) Twelve Embryos of Music 12の音楽の胎児 1995

瓶の中には12種類の音楽が1曲ずつ、まさにその楽曲として生まれようとしているかのような、ためらいがちな弾き方で演奏した録音テープが入っています。 又、糸巻に相当する7個のコルク栓の先端には、それぞれの曲のタイトルに含まれる文字が記されています。
#1: P, R, E, L, U, D, IO
J. S. Bachの平均律曲集第1巻第1番のPreludio 演奏時間:5分50秒
#2: A, R, B, E, S, Q, U
Debussy のArabesque 第1番 演奏時間:30分
瓶高:#1=30.5cm #2=30cm 箱サイズ:32 x 13 x 12cm
サインとナンバー入り AP 4個限定のうち2個
020-B) A Musical Embryo 音楽的な胎児 1995

ボトルの中には本物のグラッパが入っています。こちらの瓶はまだ完成には至ってなかったので、私も一緒にガラス工房を訪ね、デザインに関していろいろと細かいお願いをしながら、目の前で作って頂きました。それでも、滞在中に12個すべてが揃わなかったので、荷札にサインして、他の札と一緒にボトルの首に吊るすことにしました。
瓶高:28cm 箱サイズ:32 x 13 x 12cm AP#1, AP#2
サインとナンバー入り AP 4個限定
※昨年『オディロン・ルドン展』(会期=2020年12月11日ー12月26日)と同時に塩見先生の作品も展示しました。そのときに《Twelve Embryos of Music 12の音楽の胎児》と《A Musical Embryo 音楽的な胎児》も展示しました。詳しくはブログ2020年12月20日「オディロン・ルドン展開催中、塩見允枝子も特別展示」をご覧ください。

021) Requiem for George Maciunas
ジョージ・マチューナスへの鎮魂曲
カセットテープ+楽譜の一部のセット 1990

ヴェニスでのフェスティヴァルへ参加することを決めたとき、このような企画が生まれる源となった人物は、他ならぬマチューナス(1978年没)であったことに思いを馳せ、彼へのレクイエムを作曲して録音し、ポータブルのテープレコーダーと共に持参しました。会場にはスピーカーの設備がなかったので、友人一人ひとりに再生して聴いて頂いたのですが、皆さん、思いは同じだったらしく、喜んで下さいました。一方で、私は会場の物音や人々の話し声を録音して帰り、それらを重ね合わせて作曲し直し、カセットテープとして出版したのがこの音楽です。この中には楽音に重ねて、天上のマチューナスへの短いメッセージが幾つか入っていますが、A 面ではそれらは逆回転にしているので意味不明の音声となっています。B面になって初めて意味の或る言葉として聞こえるのですが、今度は音楽が逆回転となり、妙な音として聞こえます。アナログ時代ならではの実験でした。環境音の中にはラ・モンテ・ヤングやエリック・アンダーセン、ウィレム・ドゥ・リダーなどの話し声が聞こえてきます。彼らに声の使用許可をお願いしたところ、皆さん快諾して下さいました。ジャケットの写真は、船の上から自分で撮影したフルクサス・フェスティヴァルの会場です。
セットのサイズ:18 x 12cm 楽譜はサイン入り
なおこの曲は、後藤美波さん制作の短編ドキュメンタリー「SHADOW PIECE」の中で使用されています。チェンバロの音色の音楽がそうです。
■塩見允枝子 SHIOMI Mieko
1938年岡山市生まれ。1961年東京芸術大学楽理科卒業。在学中より小杉武久氏らと「グループ・音楽」を結成し、即興演奏やテープ音楽の制作を行う。1963年ナム・ジュン・パイクによってフルクサスに紹介され、翌年マチューナスの招きでニューヨークへ渡る。1965年航空郵便による「スペイシャル・ポエム」のシリーズを開始し、10年間に9つのイヴェントを行う。一方、初期のイヴェント作品を発展させたパフォーマンス・アートを追求し、インターメディアへと至る。1970年大阪へ移住。以後、声と言葉を中心にした室内楽を多数作曲。
1990年ヴェニスのフルクサス・フェスティヴァルに招待されたことから欧米の作家達との交流が復活。1992年ケルンでの「FLUXUS VIRUS」、1994年ニューヨークでのジョナス・メカスとパイクの共催による「SeOUL NYmAX」などに参加すると同時に、国内でも「フルクサス・メディア・オペラ」「フルクサス裁判」などのパフォーマンスや、「フルクサス・バランス」などの共同制作の視覚詩を企画する。
1995年パリのドンギュイ画廊、98年ケルンのフンデルトマルク画廊で個展。その他、欧米での幾つかのグループ展への出品やエディションの制作にも応じてきた。
2012年東京都現代美術館でのトーク&パフォーマンス「インターメディア/トランスメディア」で、一つのコンセプトを次々に異なった媒体で作品化していく「トランスメディア」という概念を提唱。
音楽作品やパフォーマンスの他に、視覚詩、オブジェクト・ポエムなど作品は多岐にわたり、国内外の多くの美術館に所蔵されている。現在、京都市立芸術大学・芸術資源研究センター特別招聘研究員。
●塩見允枝子さんの「オーラル・ヒストリー」もぜひお読みください。
●ブログ2020年04月08日『後藤美波、塩見允枝子「女性の孤独な闘いを知る10分 SHADOW PIECE」ジェンダー差別「考えたことがない」―― 世界的”女性アーティスト”が背負ってきたもの』
映画監督の後藤美波さんによる短編ムービーをご紹介しましたのでぜひご覧ください。
https://creators.yahoo.co.jp/gotominami/0200058884
●書籍のご案内
◆「スペイシャル・ポエム」
塩見允枝子
「SPATIAL POEM スペイシャル・ポエム」(自家版)サイン入り
1976年刊 英文
21×27.5cm 70ページ
発行者:塩見允枝子
◆「A FLUXATLAS(フルックスアトラス)」
塩見允枝子
「A FLUXATLAS(フルックスアトラス)」
1992年
19.0×21.6cm
発行者:塩見允枝子
●塩見允枝子『パフォーマンス作品集 フルクサスをめぐる50余年』のご案内
塩見允枝子
『パフォーマンス作品集 フルクサスをめぐる50余年』サイン本
2017年
塩見允枝子 発行
60ページ
21.4x18.2cm
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●多事多難だった昨年ですが(2020年の回顧はコチラをご覧ください)、今年も画廊空間とネット空間を往還しながら様々な企画を発信していきます。ブログは今年も年中無休です(昨年の執筆者50人をご紹介しました)。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
第3回 北イタリーのコレクター達
ヴェローナ市のサンピエトロ城で、玩具のボーガンを構える筆者を撮影するフランチェスコ・コンツ氏。彼はボブ・ワッツの作品のリアリゼーションとして、フルクサスの作家達が弓やモデルガンを構える写真を収集していた。
撮影:坂口章
1990年3月の或る日、突然電話のベルが鳴りました。受話器を取ると、聞き覚えのない男声の、しかも強いイタリー訛の英語で「ミエコ・シオミですか? 貴女は僕を知らないでしょうが、僕は貴女のことをよく知っています。5月23日からヴェニスでフルクサス・フェスティヴァルを開くので、招待しますからぜひ参加してください。作品や写真、略歴などもなるべく早く送ってください」とまくし立てられたのです。ミラノでムディマ・ファウンデーションを運営するジーノ・ディマジオからでした。私にとっては晴天のへきれきでしたが、参加することにしました。
ジュデッカの海に面した会場に到着すると、既に多くの作家たちが自作品の設営に慌ただしく動き回っていました。ムディマを中心にイタリーの幾つかの団体が共同で組織し、世界各国から数十人のメンバーを招待した<Ubi fluxus ibi motus>(フルクサスあるところに動きあり)は、フルクサス史上最も大規模なフェスティヴァルだったと言えるでしょう。移動は全て徒歩か船というのどかな街で、25年ぶりに再会したニューヨークの友人達や初めて会うヨーロッパのメンバー達と過ごした日々は、まるで至福の別世界に居るようでした。そして会場に並べられた作品から、彼らが作家として如何に成熟したかが読み取れて、とてもいい刺激になりました。70年代の後半からその時までの私は、完全に音楽の方に舞い戻っていたのですが、このフェスティヴァルで多くの人々と出会ったことから、その後の活動の場が思いがけない方向に拡がって行ったのです。
元々実業家であるジーノは、60年代にジョン・ケージから「フルクサスに注目していなさい」と言われて、関心を持ち始めたそうですが、その後、ヴェローナに住むフランチェスコ・コンツも家具店経営という仕事や家庭までも投げ打って、フルクサスのコレクションやエディション作りにのめり込み、さらに、当時モルヴェナで織物会社を経営していたルイジ・ボノットもフルクサスのコレクションを始めるようになったのです。この三人は、奇しくもミラノからヴェニスへ至る鉄道に近い地域に住んでいました。彼らの特徴は、単にフルクサスの作品を収集するだけでなく、ジーノはミラノに私設の美術館を持っていますので、そこでフルクサスの作家や日本の具体美術協会の作家など含む多くの展覧会を開いたり、2008年には豊田市立美術館で「DISSONANCES―日本のアーティスト6人」という、フルクサスの日本女性作家4人に草間彌生さん、田中敦子さんを加えた6人のグループ展をオーガナイズしたこともあります。又、コンツも作品を収集する他に、フルクサスの作家達に原画を依頼し、それを布にシルクスクリーンで印刷して、1点に付き何十部かのエディションを作成したりしました。尤もコンツは既に亡くなり、ジーノも娘さんのイレーヌに美術館の運営を譲って、故郷のシシリー島に移住しましたが、ボノットだけはファウンデーションを立ち上げ、益々健在のようです。
今はMoMAに移管されているシルバーマン・コレクションでは、マチューナスが亡くなった1978年までの作品しか収集しませんでしたが、ボノットはそれ以後の作品も精力的に集めています。彼の会社は日本へも服地を輸出していましたので、社員の一人が商用で大阪へ来たときには、私の所へも立ち寄って小さな作品を買い付け、手持ちでイタリーまで持って帰ってくれたこともあります。
1995年、ボノットからこんな手紙が来ました。「近所の友人に優秀なガラス職人がいて、皆さんにグラッパ(葡萄酒を蒸留して作るイタリー特産のブランデー)を入れるボトルのデザインを考えて貰って、エディションを出しているのですが、参加しませんか」というのです。既に作成されたベン・パターソンやエメット・ウィリアムズの造形的に面白い瓶の写真も添えてありました。エディションとしては全部で12個作り、作家には4個を提供するとのことでした。そこで先ず、瓶は中が空洞になっていることから、楽器のイメージが浮かびました。そして弦楽器でも管楽器でもない、楽器としては未分化な、いわば楽器の胎児のような形の瓶を作ってみたいと思ったのです。それには二つのヴァージョンを考えました。一つは本物のグラッパ用、もう一つには何かの形で音楽を入れたいと思いました。
デザインを送ってしばらくした或る日、ボノットは「瓶が出来上がったので、サインをしに来てください」と言ってきたのです。そのときの事は、拙書「フルクサスとは何か」(フィルムアート社 2005)から引用させて下さい。———大阪から北イタリーへですよ! 普通なら考え込んでしまうところですが、秋にはパリで個展の予定があったので、その足で彼の所へ寄ることにしました。本当は、サインなんて簡単なことだとタカをくくっていたんです。ところが、でき上がったガラス瓶と一緒にボノットが持ってきたのは、ペンではなくて、電気ドリルのような、こまかく振動する重い道具だったのです。それでガラスの表面を傷つけて文字を書くんだそうで……。試しに、他のガラス瓶でやってみましたが、まるで初めてスケート靴を履いて氷の上に立ったときのようにツルツル滑って、細いドリルの先の動きを、どうにもコントロールすることができないのです。特に、私の作品に使った青い透明なガラスは硬度が高いので、難しいのだとか。何度練習しても上手くいかず、本当に困ってしまいました。結局、見かねたガラス職人が瓶を一緒に持って支えてくれて、二人で悪戦苦闘した末に、12個すべての瓶に、何とか判読できる程度のサインをし終えたときには、私の手はもう完全にしびれ、目も霞んで……。ほっとして見上げたモルヴェナの丘には、いつの間にか夕日が傾いて、鐘の音が鳴り響いていました。確かに、はるばるやって来るにふさわしい、大層なサイン旅行ではありました。
(しおみ みえこ)
●塩見允枝子先生には2020年11月から2021年4月までの6回にわたりエッセイをご執筆いただきます。塩見允枝子のエッセイ「フルクサスの回想」は毎月28日掲載です。
●塩見允枝子エッセイ連載記念特別頒布作品
020-A) Twelve Embryos of Music 12の音楽の胎児 1995

瓶の中には12種類の音楽が1曲ずつ、まさにその楽曲として生まれようとしているかのような、ためらいがちな弾き方で演奏した録音テープが入っています。 又、糸巻に相当する7個のコルク栓の先端には、それぞれの曲のタイトルに含まれる文字が記されています。#1: P, R, E, L, U, D, IO
J. S. Bachの平均律曲集第1巻第1番のPreludio 演奏時間:5分50秒
#2: A, R, B, E, S, Q, U
Debussy のArabesque 第1番 演奏時間:30分
瓶高:#1=30.5cm #2=30cm 箱サイズ:32 x 13 x 12cm
サインとナンバー入り AP 4個限定のうち2個
020-B) A Musical Embryo 音楽的な胎児 1995

ボトルの中には本物のグラッパが入っています。こちらの瓶はまだ完成には至ってなかったので、私も一緒にガラス工房を訪ね、デザインに関していろいろと細かいお願いをしながら、目の前で作って頂きました。それでも、滞在中に12個すべてが揃わなかったので、荷札にサインして、他の札と一緒にボトルの首に吊るすことにしました。瓶高:28cm 箱サイズ:32 x 13 x 12cm AP#1, AP#2
サインとナンバー入り AP 4個限定
※昨年『オディロン・ルドン展』(会期=2020年12月11日ー12月26日)と同時に塩見先生の作品も展示しました。そのときに《Twelve Embryos of Music 12の音楽の胎児》と《A Musical Embryo 音楽的な胎児》も展示しました。詳しくはブログ2020年12月20日「オディロン・ルドン展開催中、塩見允枝子も特別展示」をご覧ください。

021) Requiem for George Maciunas
ジョージ・マチューナスへの鎮魂曲
カセットテープ+楽譜の一部のセット 1990

ヴェニスでのフェスティヴァルへ参加することを決めたとき、このような企画が生まれる源となった人物は、他ならぬマチューナス(1978年没)であったことに思いを馳せ、彼へのレクイエムを作曲して録音し、ポータブルのテープレコーダーと共に持参しました。会場にはスピーカーの設備がなかったので、友人一人ひとりに再生して聴いて頂いたのですが、皆さん、思いは同じだったらしく、喜んで下さいました。一方で、私は会場の物音や人々の話し声を録音して帰り、それらを重ね合わせて作曲し直し、カセットテープとして出版したのがこの音楽です。この中には楽音に重ねて、天上のマチューナスへの短いメッセージが幾つか入っていますが、A 面ではそれらは逆回転にしているので意味不明の音声となっています。B面になって初めて意味の或る言葉として聞こえるのですが、今度は音楽が逆回転となり、妙な音として聞こえます。アナログ時代ならではの実験でした。環境音の中にはラ・モンテ・ヤングやエリック・アンダーセン、ウィレム・ドゥ・リダーなどの話し声が聞こえてきます。彼らに声の使用許可をお願いしたところ、皆さん快諾して下さいました。ジャケットの写真は、船の上から自分で撮影したフルクサス・フェスティヴァルの会場です。
セットのサイズ:18 x 12cm 楽譜はサイン入り
なおこの曲は、後藤美波さん制作の短編ドキュメンタリー「SHADOW PIECE」の中で使用されています。チェンバロの音色の音楽がそうです。
■塩見允枝子 SHIOMI Mieko
1938年岡山市生まれ。1961年東京芸術大学楽理科卒業。在学中より小杉武久氏らと「グループ・音楽」を結成し、即興演奏やテープ音楽の制作を行う。1963年ナム・ジュン・パイクによってフルクサスに紹介され、翌年マチューナスの招きでニューヨークへ渡る。1965年航空郵便による「スペイシャル・ポエム」のシリーズを開始し、10年間に9つのイヴェントを行う。一方、初期のイヴェント作品を発展させたパフォーマンス・アートを追求し、インターメディアへと至る。1970年大阪へ移住。以後、声と言葉を中心にした室内楽を多数作曲。
1990年ヴェニスのフルクサス・フェスティヴァルに招待されたことから欧米の作家達との交流が復活。1992年ケルンでの「FLUXUS VIRUS」、1994年ニューヨークでのジョナス・メカスとパイクの共催による「SeOUL NYmAX」などに参加すると同時に、国内でも「フルクサス・メディア・オペラ」「フルクサス裁判」などのパフォーマンスや、「フルクサス・バランス」などの共同制作の視覚詩を企画する。
1995年パリのドンギュイ画廊、98年ケルンのフンデルトマルク画廊で個展。その他、欧米での幾つかのグループ展への出品やエディションの制作にも応じてきた。
2012年東京都現代美術館でのトーク&パフォーマンス「インターメディア/トランスメディア」で、一つのコンセプトを次々に異なった媒体で作品化していく「トランスメディア」という概念を提唱。
音楽作品やパフォーマンスの他に、視覚詩、オブジェクト・ポエムなど作品は多岐にわたり、国内外の多くの美術館に所蔵されている。現在、京都市立芸術大学・芸術資源研究センター特別招聘研究員。
●塩見允枝子さんの「オーラル・ヒストリー」もぜひお読みください。
●ブログ2020年04月08日『後藤美波、塩見允枝子「女性の孤独な闘いを知る10分 SHADOW PIECE」ジェンダー差別「考えたことがない」―― 世界的”女性アーティスト”が背負ってきたもの』
映画監督の後藤美波さんによる短編ムービーをご紹介しましたのでぜひご覧ください。
https://creators.yahoo.co.jp/gotominami/0200058884
●書籍のご案内
◆「スペイシャル・ポエム」
塩見允枝子「SPATIAL POEM スペイシャル・ポエム」(自家版)サイン入り
1976年刊 英文
21×27.5cm 70ページ
発行者:塩見允枝子
◆「A FLUXATLAS(フルックスアトラス)」
塩見允枝子「A FLUXATLAS(フルックスアトラス)」
1992年
19.0×21.6cm
発行者:塩見允枝子
●塩見允枝子『パフォーマンス作品集 フルクサスをめぐる50余年』のご案内
塩見允枝子『パフォーマンス作品集 フルクサスをめぐる50余年』サイン本
2017年
塩見允枝子 発行
60ページ
21.4x18.2cm
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●多事多難だった昨年ですが(2020年の回顧はコチラをご覧ください)、今年も画廊空間とネット空間を往還しながら様々な企画を発信していきます。ブログは今年も年中無休です(昨年の執筆者50人をご紹介しました)。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。
もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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