「怒号にさざめく現像液-細江英公の〈薔薇刑〉をめぐって」
打林 俊

1970年代まで、日本では写真プリントは印刷原稿として扱われることがほとんどで、現在のように美術品同様の扱いを受けることはほとんどなかった。70年代になると、アメリカに渡った写真家たちが、同地での写真の扱いに薫陶を受け、日本においてもプリントの価値を高めるべく、さまざまな活動を展開していく。その先頭に立っていた一人が、細江英公(1933~)である。
細江は、父が葛飾の四つ木白髭神社の管理人を務めるかたわら、写真撮影や現像・プリントを業としていたことから、自然と写真に興味を抱くようになる。都立墨田川高等学校時代には写真部と英語部に所属していた。1951年の第一回「富士フイルムフォトコンテスト」に出品した「ポーディちゃん」が「各部本賞一等の写真の中でも、最も光つた作品の一つであることは、作品を見た多くの人達の異口同音に申された」(杉一郎「富士フォトコンテストより見た高校生の写真」『カメラ』1951年11月号)という高評価をもって学生写真部門一等を受賞する。翌年には、写真家を志して東京写真大学短期大学部(現・東京工芸大学)に入学した。
在学中に福島辰夫の紹介で瑛九、靉嘔、加藤正らデモクラート美術家協会のメンバーと交友するようになると、すぐにその才能を開花させ、54年の卒業後はフリーランス写真家として写真を発表しはじめる。また、得意の英語力を生かして、1964年にはじめてアメリカを訪れて以降、渡米をくりかえす。
細江は1975年の奈良原一高との対談の中で、「〔60年代末から〕写真を扱うギャラリーが非常に増えてきた〔……〕そういう現象を前にして僕は非常に驚いていたわけです。しかしそれは我々が失っていた写真家の部分にグサリと剣をつきつけられたような感じ」(「写真のスタンダード」『季刊ワークショップ』第6号、1976年)だったと語っている。この「我々が失っていた写真家の部分」こそが、印刷原稿ではなく「作家の主体性のはっきりとした表われの証拠」(同)としての「オリジナルプリント」の重要性の認識にほかならない。
つまり、この対談で細江も奈良原もいうように、写真の原点はプリントだということである。二人は、「オリジナルプリントを主張することによって印刷を否定するわけでもない」(奈良原)という点を共有しつつ、「オリジナルプリント」の価値を検討していく。その中で細江は「オリジナルプリントを作る写真家の姿勢というのは、対社会的な形でいえば個の復権、それから自分の中では個の認識というものの具体的あらわれとしてあるわけです」という注目すべき発言をしている。それはつまるところ、モノとしての写真プリントを制作する自分と向き合う、芸術家としての個の発見にほかならない。
そして、この対談のほとんどがモノクロ「オリジナルプリント」について話題にされていることを考えれば、撮影ではなく暗室作業が制作においてことさら重要な意味をもってくる。
ここでぼくが思い出さずにいられないのが、本展にも出品されている〈薔薇刑〉の制作秘話ともいえる細江の体験談である。
『新版・薔薇刑』(集英社、1984年)所収の「『薔薇刑』撮影ノート」によれば、本作は最初、三島から細江にオファーがあり、「あなたが撮った土方巽の写真〔土方の舞台パンフレットに掲載されていた「土方巽におくる細江英公写真集」のこと〕があるでしょう〔……〕あんな写真を撮って欲しい」と告げられたという。三島の「父君の梓氏からゴムホースを取りあげ、氏の目前でその令息の体をぐるぐる巻きにしたり、後日、土方巽を連れて行きとつぜん家族団欒の場であるリビングルームや庭を裸の劇場にしてしまったり、梓氏から「あんた方三人は気狂いだよ。三大馬鹿だねなどと言われ」」ながらも仕上がった写真は、三島の大いに気にいるところとなった。一方で、その時の興奮が忘れられない「神をも畏れぬ血気盛んな」28歳の細江は、今度は自身のほうから三島にオファーして「今まで全く知られていない三島由紀夫像をぼくなりの写真術で構築」すべく、撮影がふたたび始まる。
撮影には複写用のハイコントラストフィルムが用いられ、「ぼくが用意したものか、三島邸の花瓶にあったものかはっきりと憶えていない〔……〕一輪の薔薇を胸にのせ」たり、細江が三島にしきりに勧められたルネサンス絵画を背景にしたりと、電光石火というにふさわしい二人の美意識のぶつかり合いはその後数ヶ月続く。
そのスパークは激しいものだった。細江がある講演会で語ったところでは、二階から身を乗り出して三島を撮影する際に細江が転落しないように足にしがみついてたのが、61年に細江のアシスタントになったばかりの森山大道だったという。さらに驚きなのは、プリント作業をめぐる話だ。
細江が〈薔薇刑〉のプリント作業をしていた際、どこからか、安保デモのシュプレヒコールが聞こえてきた。その「安・保・反・対! 安・保・反・対!!」という怒号で、暗室の現像液の液面がわずかにさざめいたとのだと回顧する。〈薔薇刑〉はそんなエネルギーのなかで作られた写真なのである。
先に引用した「オリジナルプリントを作る写真家の姿勢」に対する細江の発言は、奈良原の「人間の存在とかいう様なものと対決する、そういう作家自身のサブジェクトに取り組んだ仕事はやはりオリジナルプリントにおいて最高に発揮していくだろうと思います」という唯物論的な意見に呼応している。
だからこそ、印刷ではなく「オリジナルプリント」にはより作家の精神が反映されるのだというニュアンスの二人の共通の見解が成立しているのである。この発言から考えれば、シュプレヒコールで現像液の液面がさざめいたという細江の経験は、その15年後に彼が「個の復権」「個の認識」としての「オリジナルプリント」に向き合っているのだと述べることになる原体験の一つとして、彼の中に胚胎した象徴的なできごとだったのではないだろうか。
細江英公
《薔薇刑 作品32》
1961年(printed later)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:36.7×54.8cm
シートサイズ:50.8×60.9cm(20×24インチ)
サインあり
細江英公 Eikoh HOSOE
《薔薇刑 作品29》
1962年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
31.1×22.8cm
サインあり
(うちばやし しゅん)
■打林俊(Shun UCHIBAYASHI)
写真史家、写真評論家。1984年東京生まれ。2010-2011年パリ第1大学招待研究生、2014年日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。博士(芸術学)。2016~2018年度日本学術振興会特別研究員(PD)。主な著書に『絵画に焦がれた写真-日本写真史におけるピクトリアリズムの成立』(森話社、2015)、『写真の物語-イメージ・メイキングの400年史』(森話社、2019)、共著に“A Forgotten Phenomenon: Paul Wolff and the Formation of Modernist Photography in Japan”(Dr. Paul Wolff & Tritschler: Light and Shadow-Photographs 1920-1950, Kehrer, 2019)、「アンリ・マティスの写実絵画不要論における写真をめぐって」(『イメージ制作の場と環境-西洋近世・近代における図像学と美術理論』、中央公論美術出版、2018)など。
2015年、花王芸術・科学財団 美術に関する研究奨励賞受賞。
◆「銀塩写真の魅力Ⅶ 20世紀の肖像」を開催しています(予約制/WEB展)。
観覧ご希望の方は事前に電話またはメールでご予約ください。
会期=2021年2月12日(金)―3月6日(土)*日・月・祝日休廊

シリーズ企画「銀塩写真の魅力展」第7回展は、8人の写真家たちが撮った20世紀を代表する優れた表現者た ち(ピカソ、アンドレ・ブルトン、A.ヘップバーン、A.ウォーホル、ブランクーシ、 三島由紀夫、イサム・ノグチ、黒澤明、他)のポートレートをご覧いただきます。
出品作家=マン・レイ、ボブ・ウィロビー、ロベール・ドアノー、エドワード・スタイケン、金坂健二、細江英公、安齊重男、平嶋彰彦
●打林俊先生によるWEB展もYouTubeにて公開しております。
●出品作品を順次、ご紹介してまいります。
本日はボブ・ウィロビー
Hepburn, Audrey, 1953Audrey Hepburn getting into a car after her first photo shoot at Paramount, having recently finished her first film "Roman Holiday," 1953.(A120) ※「ローマの休日」
1953 (Printed in 2004)
ゼラチンシルバープリント
12×16 in.
Ed.200
Initialed by Bob Willoughby, stamped and signed by Christopher Willoughby
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
打林 俊

1970年代まで、日本では写真プリントは印刷原稿として扱われることがほとんどで、現在のように美術品同様の扱いを受けることはほとんどなかった。70年代になると、アメリカに渡った写真家たちが、同地での写真の扱いに薫陶を受け、日本においてもプリントの価値を高めるべく、さまざまな活動を展開していく。その先頭に立っていた一人が、細江英公(1933~)である。
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細江は、父が葛飾の四つ木白髭神社の管理人を務めるかたわら、写真撮影や現像・プリントを業としていたことから、自然と写真に興味を抱くようになる。都立墨田川高等学校時代には写真部と英語部に所属していた。1951年の第一回「富士フイルムフォトコンテスト」に出品した「ポーディちゃん」が「各部本賞一等の写真の中でも、最も光つた作品の一つであることは、作品を見た多くの人達の異口同音に申された」(杉一郎「富士フォトコンテストより見た高校生の写真」『カメラ』1951年11月号)という高評価をもって学生写真部門一等を受賞する。翌年には、写真家を志して東京写真大学短期大学部(現・東京工芸大学)に入学した。
在学中に福島辰夫の紹介で瑛九、靉嘔、加藤正らデモクラート美術家協会のメンバーと交友するようになると、すぐにその才能を開花させ、54年の卒業後はフリーランス写真家として写真を発表しはじめる。また、得意の英語力を生かして、1964年にはじめてアメリカを訪れて以降、渡米をくりかえす。
細江は1975年の奈良原一高との対談の中で、「〔60年代末から〕写真を扱うギャラリーが非常に増えてきた〔……〕そういう現象を前にして僕は非常に驚いていたわけです。しかしそれは我々が失っていた写真家の部分にグサリと剣をつきつけられたような感じ」(「写真のスタンダード」『季刊ワークショップ』第6号、1976年)だったと語っている。この「我々が失っていた写真家の部分」こそが、印刷原稿ではなく「作家の主体性のはっきりとした表われの証拠」(同)としての「オリジナルプリント」の重要性の認識にほかならない。
つまり、この対談で細江も奈良原もいうように、写真の原点はプリントだということである。二人は、「オリジナルプリントを主張することによって印刷を否定するわけでもない」(奈良原)という点を共有しつつ、「オリジナルプリント」の価値を検討していく。その中で細江は「オリジナルプリントを作る写真家の姿勢というのは、対社会的な形でいえば個の復権、それから自分の中では個の認識というものの具体的あらわれとしてあるわけです」という注目すべき発言をしている。それはつまるところ、モノとしての写真プリントを制作する自分と向き合う、芸術家としての個の発見にほかならない。
そして、この対談のほとんどがモノクロ「オリジナルプリント」について話題にされていることを考えれば、撮影ではなく暗室作業が制作においてことさら重要な意味をもってくる。
* * *
ここでぼくが思い出さずにいられないのが、本展にも出品されている〈薔薇刑〉の制作秘話ともいえる細江の体験談である。
『新版・薔薇刑』(集英社、1984年)所収の「『薔薇刑』撮影ノート」によれば、本作は最初、三島から細江にオファーがあり、「あなたが撮った土方巽の写真〔土方の舞台パンフレットに掲載されていた「土方巽におくる細江英公写真集」のこと〕があるでしょう〔……〕あんな写真を撮って欲しい」と告げられたという。三島の「父君の梓氏からゴムホースを取りあげ、氏の目前でその令息の体をぐるぐる巻きにしたり、後日、土方巽を連れて行きとつぜん家族団欒の場であるリビングルームや庭を裸の劇場にしてしまったり、梓氏から「あんた方三人は気狂いだよ。三大馬鹿だねなどと言われ」」ながらも仕上がった写真は、三島の大いに気にいるところとなった。一方で、その時の興奮が忘れられない「神をも畏れぬ血気盛んな」28歳の細江は、今度は自身のほうから三島にオファーして「今まで全く知られていない三島由紀夫像をぼくなりの写真術で構築」すべく、撮影がふたたび始まる。
撮影には複写用のハイコントラストフィルムが用いられ、「ぼくが用意したものか、三島邸の花瓶にあったものかはっきりと憶えていない〔……〕一輪の薔薇を胸にのせ」たり、細江が三島にしきりに勧められたルネサンス絵画を背景にしたりと、電光石火というにふさわしい二人の美意識のぶつかり合いはその後数ヶ月続く。
そのスパークは激しいものだった。細江がある講演会で語ったところでは、二階から身を乗り出して三島を撮影する際に細江が転落しないように足にしがみついてたのが、61年に細江のアシスタントになったばかりの森山大道だったという。さらに驚きなのは、プリント作業をめぐる話だ。
細江が〈薔薇刑〉のプリント作業をしていた際、どこからか、安保デモのシュプレヒコールが聞こえてきた。その「安・保・反・対! 安・保・反・対!!」という怒号で、暗室の現像液の液面がわずかにさざめいたとのだと回顧する。〈薔薇刑〉はそんなエネルギーのなかで作られた写真なのである。
先に引用した「オリジナルプリントを作る写真家の姿勢」に対する細江の発言は、奈良原の「人間の存在とかいう様なものと対決する、そういう作家自身のサブジェクトに取り組んだ仕事はやはりオリジナルプリントにおいて最高に発揮していくだろうと思います」という唯物論的な意見に呼応している。
だからこそ、印刷ではなく「オリジナルプリント」にはより作家の精神が反映されるのだというニュアンスの二人の共通の見解が成立しているのである。この発言から考えれば、シュプレヒコールで現像液の液面がさざめいたという細江の経験は、その15年後に彼が「個の復権」「個の認識」としての「オリジナルプリント」に向き合っているのだと述べることになる原体験の一つとして、彼の中に胚胎した象徴的なできごとだったのではないだろうか。
細江英公《薔薇刑 作品32》
1961年(printed later)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:36.7×54.8cm
シートサイズ:50.8×60.9cm(20×24インチ)
サインあり
細江英公 Eikoh HOSOE《薔薇刑 作品29》
1962年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
31.1×22.8cm
サインあり
(うちばやし しゅん)
■打林俊(Shun UCHIBAYASHI)
写真史家、写真評論家。1984年東京生まれ。2010-2011年パリ第1大学招待研究生、2014年日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。博士(芸術学)。2016~2018年度日本学術振興会特別研究員(PD)。主な著書に『絵画に焦がれた写真-日本写真史におけるピクトリアリズムの成立』(森話社、2015)、『写真の物語-イメージ・メイキングの400年史』(森話社、2019)、共著に“A Forgotten Phenomenon: Paul Wolff and the Formation of Modernist Photography in Japan”(Dr. Paul Wolff & Tritschler: Light and Shadow-Photographs 1920-1950, Kehrer, 2019)、「アンリ・マティスの写実絵画不要論における写真をめぐって」(『イメージ制作の場と環境-西洋近世・近代における図像学と美術理論』、中央公論美術出版、2018)など。
2015年、花王芸術・科学財団 美術に関する研究奨励賞受賞。
◆「銀塩写真の魅力Ⅶ 20世紀の肖像」を開催しています(予約制/WEB展)。
観覧ご希望の方は事前に電話またはメールでご予約ください。
会期=2021年2月12日(金)―3月6日(土)*日・月・祝日休廊

シリーズ企画「銀塩写真の魅力展」第7回展は、8人の写真家たちが撮った20世紀を代表する優れた表現者た ち(ピカソ、アンドレ・ブルトン、A.ヘップバーン、A.ウォーホル、ブランクーシ、 三島由紀夫、イサム・ノグチ、黒澤明、他)のポートレートをご覧いただきます。出品作家=マン・レイ、ボブ・ウィロビー、ロベール・ドアノー、エドワード・スタイケン、金坂健二、細江英公、安齊重男、平嶋彰彦
●打林俊先生によるWEB展もYouTubeにて公開しております。
映像制作:WebマガジンColla:J 塩野哲也
●出品作品を順次、ご紹介してまいります。
本日はボブ・ウィロビー
Hepburn, Audrey, 1953Audrey Hepburn getting into a car after her first photo shoot at Paramount, having recently finished her first film "Roman Holiday," 1953.(A120) ※「ローマの休日」1953 (Printed in 2004)
ゼラチンシルバープリント
12×16 in.
Ed.200
Initialed by Bob Willoughby, stamped and signed by Christopher Willoughby
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
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ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
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