土渕信彦のエッセイ「駒井哲郎と瀧口修造 補編」

関連資料 駒井哲郎「表現と素材」(「コスモス」1954年2月号。図40,41)

図40図40

図41図41


【本文】
自分は何を思っているのか考えて見ると別に大したこともなさそうです。寒むざむとした風景が心の中に見えるだけで味気ない、欲の深いような嫌な想念ばかりがあるのでした。
人は何によって考えるのでしよう。いくら考えても常に、ぐるぐると、とまどっているばかりです。自分の心の裡にはなにもないのかもしれない。私は、何時も不安なのでした。心の表現、そんなこともしてみたいと思いましたができませんでした。なんだかつまらなく怠けて過して来た永い時間がありました。
版画や色々のジャンルの絵を続けて来たのですが、銅版画が小さい時からやっているせいかやっと解りかけて来たという程度です。だから私には未だ「美について」書く資格なんぞ全くないような気がします。だがまてまて、私だって芸術家としての誇りがないわけではありません。怠け者のくせに人一倍、美を求めて苦しんでいると思う事すらあるのです。そして出来るだけ早く一個の完成した作品を創り出したいのです。神速という言葉がありますが、自分で気に入った作品ができた時は、何時も極めて早くそれができ上ったような気がしている。その実、かなりの時間はかかっているのです。いくら苦労してもでき上らないでやめてしまう作品よりはずっと永い時間をかけているようです。それなのに早くできた気がしてしまうのは何故でしょうか。美にすこしでも近づいたと思うからでしょうか。
 自分の満足の出来る作品、それは結局、自己の趣味が決定するのでしょうがそうばかりとも思えません。やっぱり自分の空虚な心を充たしてくれるなにものかがなければ寂しいのです。と同時に方法の確実な把握によって仕事を進め得た時は気持の良い労働をしたあとのような喜びを味わうことができます。
 私は戦時中から戦後にかけて絵を描く気もしない頃、建築設計をかなり無理やりに勉強する機会を持ちました。そして建築設計の方法は、今まで感覚のみにたよって制作を続けていたともいえる私にとって誠に良い教訓となったと思います。それは感覚だけで仕事をしては駄目だということではなく、逆に感覚もある種の考えによって導びかれる時には相当に信頼でき得るものだと思えたのです。また建築はやり直すのは困難な仕事ですから、言わば制作に入る前のエスキースで自己の考えを感覚によって凝結し一個の造型として紙の上で完成させてしまうようなもので、これは版画とも共通した一面があって、仕事をするある過程において随分役にたっています。もちろん建築には非常に多くのファクターがあって私などの理解を越えているのでしょうが、できるだけすくない材料で最も早く、より良いものを造るということは実際人間の行動の中で美しい行為の一つだと今でも思っています。
私が今までして来た仕事を通していくらかでも美に近づけ得たとは決して思っていませんが、結局、自分の趣味にかなった作品を創って行くより仕方がないようです。そして仕事については語り得ても、美について語ろうとすれば、大きな壁にぶつかったように、何をいうこともできなくなってしまうのです。しかし仕事の場所においては、いくらかでも美しさを感じることがあるのです。それは素材や技術や表現が完全に融合して思わず作品ができて行く時のことをいっているのです。
詩人が言葉で物を考え、作品を創り出して行くのと同じように、私は銅版で作品を考えて行くのです。素材が半ば表現を決定するといっても良い位です。ペーパープランということがある。前に書いたように建築家は図版の上で作品の設計を完成するのであるらしいが、それ結局材料の性質を完全に熟知した上でなければ設計はできないのだろうと思います。すぐれた建築家にとっては図版の上に引いた一本の線が木材なり鉄骨なりに現実に感じられるのでしょう。それでなければ真の設計はできないのではないでしようか。
私の場合、エスキースをしている時のことを反省して見るとまだまだそこまでは行っていないようです。だから私は自分の考えによって銅版を切り、それを磨きながら銅版を愛撫する気持で、私をゆり動かす何ものかをこの上に刻みこもうとする以外仕方がないと思っている。材料との親愛がもっともっと必要なのでしょう。そしてあらゆる造型芸術は、素材によって思考する時、その表現と技術が一致する可能性を最も多く持っていると私には感じられるのです。私は今でも銅版画をやっていて現在の日本では技術の上で、油絵でいえばカンバスを作ったり、絵の具をねったりすることまでやらねばならない状態なので全くやりきれないと思うことが多いけれど、半面これは素材の性質を知る上で決して無駄ではないように思っている。そして素材の性質を知るということは、その素材を用いて様々の技術上の実験もでき、そのことがより以上素材の性質を識ることにもなるし、また新しい思想を表現する可能性も生れて来るのではないでしょうか。
堅い銅版に向っていても仕事と馴れ親しんで材料や道具になじんで来るとそれがやわらかいもののように思えて来て永い時間が短く感じられて来る場合もあるものです。時を忘れるというのではなく、時空を絶した一瞬々々が銅版の上に生きて行くような妙な感じです。材料との親和とでもいったら良いでしょうか。そんなことは滅多にありませんしでき上った作品は大抵つまらないものになるのですが、現在の私はそういった仕事の場所で僅かずつでも美への認識を深めて行きたいと願うばかりです。しかし芸術家にとって大切なのはやっぱり心の絵の具なのでしょうか。心情が最も大事な素材なのでしょうか。材料を美しく生かしてゆくのには美しい心が大切なことはいうまでもないことですが、私にはその美しい心という意味が解らないで困ってしまうのです。芸術家も生きて、自分の資質を育て真に新しい美しさを実現しなければその名に値いしないでしょうし、そうする宿命があるとは思いますが、そのためには自己に適した素材を選んで新しい秩序を求めるほか仕様がないと思っています。
どうも自分の心のことを考えると寂しいようなことばかりでつくづく勉強がたりないと憂鬱になってしまい、それが私ばかりの寂しさではなく人々に共通のものであってくれればと虫の良いことを考えたりしています。どうも私は美について語る資格がますますなくなってきたような気がして羞づかしくなりました。素材と表現などという題をつけましたが自分には表現するなにものもないような気がして来たのです。しかしそういった不安が私を勇気づけ、私を銅版の前に駆りたてるのです。[文献3同様、「云う→いう」、「出来→でき」、「依る→よる」など、今日一般的な表記に改めた]

【解説】
「表現と素材」は、宮柊二主宰コスモス短歌会の雑誌「コスモス」(第ニ書房)1954年2月号に、連載巻頭エッセイ「美について」の第11回として、駒井が寄稿したもので、遺稿集『白と黒の造形』(小沢書店、1977年5月)には収録されていない(参考文献4には、建築と銅版画とを比較した一節が引用されている)。関連資料としてここで取り上げることにしたのは、初個展(53年3月)の1年後、フランス留学(54年3月~55年12月)の直前の頃の、駒井の銅版画に対する考え方や思い入れが綴られている点で重要と思われ、また、瀧口の紹介により執筆・寄稿に至った点で、二人の交流を具体的に示す、貴重な資料でもあるからである。「瀧口の紹介」というのは、文献3の解説で引用した53年10月7日付けの瀧口宛て手紙(慶應義塾大学アート・センター蔵)のなかで、駒井は「宮さんの御夫人が拙宅へお見えになりました。どんな作品でもよいとのことでしたので、旧作を少しお渡し致しました」との記述があるからである。この「宮さんの御夫人」とは宮柊二夫人英子のことと思われる。宮英子(旧姓滝口。1917-2015)は修造の親戚筋に当たり、幼少時から交流があった。『コレクション瀧口修造』第12巻月報にも「瀧口類縁のこと」を寄せている。この時、駒井を訪れたのも瀧口の紹介によるものだったので、手紙の中で英子の訪問を報告しているのだろう。

連載「美について」の、駒井の前10回の執筆者は、以下のとおり錚々たる顔ぶれである。山本健吉(文芸評論家。1907-88)、高岡徳太郎(洋画家。1902-91)、戸板康二(演劇評論家。1915-93)、笹村草家人(彫刻家。1908-75)、安西冬衛(詩人。1898-1965)、今井兼次(建築家。1898-1987)、與田準一(児童文学者。1905-97)、柿内木然(医学者・歌人。1882-1967)、木下順二(劇作家。1914-2006)、江口隆哉(舞踏家。1900-77)。新進気鋭の銅板画家とはいえ、当時33歳の駒井が寄稿に至ったのは、瀧口の推薦があったからこそだろう。

内容について簡単に触れておくと、「表現と素材」という駒井自らが選んだテーマをめぐる随想風の制作論というようなもので、「私は自分の考えによって銅版を切り、それを磨きながら銅版を愛撫する気持で、私をゆり動かす何ものかをこの上に刻みこもうとする以外仕方がない」「あらゆる造型芸術は、素材によって思考する時、その表現と技術が一致する可能性を最も多く持っていると私には感じられる」「素材の性質を知るということは、その素材を用いて様々の技術上の実験もでき、そのことがより以上素材の性質を識ることにもなるし、また新しい思想を表現する可能性も生れて来る」と述べているあたりは、銅版画に対する確信のようなものも窺える。また建築と銅版画とを比較した箇所も、たいへん興味深い。すなわち、東京美術学校を繰り上げ卒業(1942年)した後から、(2度の応召をはさんで)終戦直後にかけて、建築家平田重雄の事務所で働いていた頃を回想して、「建築設計の方法は、今まで感覚のみにたよって制作を続けていたともいえる私にとって誠に良い教訓となったと思います。それは感覚だけで仕事をしては駄目だとうことではなく、逆に感覚もある種の考えによって導びかれる時には相当に信頼でき得るものだと思えたのです」と記しているあたりは、駒井の制作の在り方をよく示しているのではなかろうか。全体を通じて含羞深く控えめで、しかも率直で芯の強さも秘めた、いかにも駒井らしい語り口のように思われる。

上で引用した瀧口宛ての手紙の一節に「旧作を少しお渡し致しました」とあるが、この時に宮英子に渡された「旧作」の内訳や、その行方ないし取り扱いについては、不詳である。駒井のエッセイに付されているのは村上巖のカット(上掲図41)であり、駒井自身による図版は見当たらない。また文献2の解説で触れたとおり、この頃の瀧口は駒井の作品と自らの詩の共作を考えていたようであるので、「コスモス」誌上で試みようとしたのかもしれないが、実現に至っていないようである。

なお、「コスモス」誌には瀧口自身も、1953年3月の創刊号(図42)から55年2月号まで、(釈迢空追悼号だった53年12月を除く)23回にわたり扉の図版解説を寄稿している。図版に選ばれたのはブラックの素描を皮切りに、ピカソ、レジェ、クレーマチスミロ、ルオー、ムーア、アルプ、ジャコメッティ、イサム・ノグチ、ガボ、ヘップワースらの素描や立体であり、駒井の作品は含まれていない。瀧口の連載終了後の55年3月号からは、6人の銅版画家による自作解説が、55年12月号まで10回にわたり連載された。この6人とは、関野準一郎、浜田知明、上野省策、泉茂瑛九、加藤正、つまり文献5解説で触れたタケミヤ画廊「銅版画家6人展」(55年1月)に参加していた面々であるので、この連載もおそらく瀧口の口添えによるものと思われる。駒井はちょうどフランス留学中(54年3月~55年12月)だったため、連載には加わっていないが、その後1960年から76年まで、「コスモス」誌の表紙絵として合計約50点の作品を提供することとなる(参考文献3)。瀧口による紹介が橋渡しとなったのは、間違いないだろう。

図42図42


参考文献
1.駒井哲郎『銅版画のマチエール』美術出版社、1976年12月
2.加藤和平・駒井美子編『駒井哲郎 若き日の手紙 「夢」の連作から「マルドロオルの歌」へ』美術出版社、1999年5月
3.駒井哲郎『駒井哲郎ブックワーク』形象社、1982年4月
4.中村稔『束の間の幻影―銅版画家駒井哲郎の生涯』新潮社、1991年11月
5.横浜美術館「駒井哲郎―煌めく紙上の宇宙」展図録(玲風書房、2018年10月)
6.神奈川県立近代美術館・いわき市立美術館・富山県立近代美術館・北九州市立美術館・世田谷美術館「実験工房展 戦後美術を切り拓く」図録(読売新聞社・美術館連絡協議会、2013年1月)
7.町田市立国際版画美術館・山口県立萩美術館浦上記念館・伊予市美術館・郡山市立美術館・新潟市美術館・世田谷美術館「駒井哲郎 1920-1976」展図録(東京新聞、2011年4月)
8.慶應義塾大学アート・センター「アート・アーカイヴ資料展Ⅺ タケミヤからの招待状」図録、2014年3月
つちぶち のぶひこ

土渕信彦 Nobuhiko TSUCHIBUCHI
1954年生まれ。高校時代に瀧口修造を知り、著作を読み始める。サラリーマン生活の傍ら、初出文献やデカルコマニーなどを収集。その後、早期退職し慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了(美学・美術史学)。瀧口修造研究会会報「橄欖」共同編集人。ときの忘れものの「瀧口修造展Ⅰ~Ⅳ」を監修。また自らのコレクションにより「瀧口修造の光跡」展を5回開催中。富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、世田谷美術館、市立小樽文学館・美術館などの瀧口展に協力、図録にも寄稿。主な論考に「彼岸のオブジェ―瀧口修造の絵画思考と対物質の精神の余白に」(「太陽」、1993年4月)、「『瀧口修造の詩的実験』の構造と解釈」(「洪水」、2010年7月~2011年7月)、「瀧口修造―生涯と作品」(フランスのシュルレアリスム研究誌「メリュジーヌ」、2016年)など。

●土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の本」は毎月23日の更新ですが、「駒井哲郎と瀧口修造」を特別連載します。

●本日のお勧め作品は細江英公です。
takiguchi細江英公《瀧口修造
ゼラチンシルバープリント
20.3×30.4cm   Signed

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