松本竣介研究ノート 第24回
戦争画関係資料
小松﨑拓男
修士論文を書き、博士課程に進んだものの、そのまま大学の教員を目指すような研究者としての道を歩むことなく、学芸員として美術館で働くことになった結果、松本竣介や彼が生きた時代の研究は、1994年の美術史学会の全国大会でした小さな発表以降25年以上手付かずの状態となった。
もともと大学院では日本のファシズムを研究しようと思っていた。だが当時の指導教員に、それでは飯は食えないと苦い顔をされた後の近代日本思想史研究への転進。しかし福沢諭吉と中江兆民をほんの少しかじっただけで、そこからの紆余曲折があり、本来好きだった美術、その美術の歴史の研究の道に舞い戻った身ではある。平安世俗画研究の泰斗秋山光和先生と江戸絵画史の当時の若き俊英小林忠先生から美術史の実証的な研究方法の薫陶を受けた。とはいうものの、恩師とは時代をずらし、近代に遁走したヘタレ研究者ではある。
ただ志としては、二度とあの悲惨な戦争の時代に時を戻してはならないという研究者としての思い、歴史を実証的に明らかにし、原因と結果、そしてその結果の責任を明らかにしなくてはならないという責務を感じての近代日本美術史研究である。特に戦前のような警察や軍隊といった暴力的装置の実行を伴わないだけで、戦前とあまり変わらなくなってきた、研究の自由や基本的人権への精神的抑圧と暴力を感じつつある今、尚一層その責務を感じる。
多少時間に余裕ができてきたので、研究資料の整理を少し、し始めた。古い資料が出てきた。「戦争画関係資料」と書類封筒にある(図1)。1977年の朝日ジャーナル誌に掲載された評論家中原佑介の「『戦争絵画』をなぜ一括公開しないのか」といった文章のコピーや、松本竣介の「航空兵群」の図版が載る1988年の芸術新潮の尾崎眞人の「いったい『戦争画』とは何だったのか!」の記事のコピーなど、いくつかの資料のコピーが、未整理のまま袋に入っている。
図1 戦争画資料
戦争画の研究は当時から比べると随分オープンになり、かつ作品自体の公開もタブー視されることが少なくなり、藤田嗣治の戦争画など実作を比較的簡単に目にすることができるようになった。関連する書籍も刊行されている。
その中で今の私の関心事は、戦争画自体よりも、次の2点にある。
一つは、戦中期の画家の日常についてである。実は、日本画家、西洋画家にしても、絵具などの画材の配給や制作発表をどのように行ってきたのかということが詳しくわからず、これらをまとめてある研究を当時あまり目にしたことがなかった。絵具などの画材が配給になったとして、それはどのような法令に基づき、またどのような制度として設計され、どの官庁が所管し、実際にどのように運用されたのか、少なくとも今の私には詳らかではない。何処かで誰かがすでに研究しているのだろうか。なぜ、こうしたことが気になるかというと、情報将校や軍人が軍の指示に従わなければ、絵具の配給を止めるといった発言をして、圧力をかける時、実際にそれは軍人に可能なことなのか、実効性はあったのかなど、実はよくわからない。つまり、それは戦時中の美術家の生活実態がわからないということでもある。
もう一つは、「戦没画学生」と言われる、一群の美術を志した若者の存在と実態である。平時であるならば、自身の美術的な才能を持って美術家あるいはデザイナーとなって制作を行っていたであろう、若者たちの、歴史に翻弄された実相を明らかにすることは、理不尽に軍国主義によって自身の未来を蹂躙された悲惨を繰り返さないための警鐘でもある。いつ、どこで、何が、どのようになったために、こうしたことが起きたのか、私たちは、あるいは今、美術を志望する若い人たちも知らなくてはならないことのように思えてならない。
特に「表現の自由」への圧力、ヘイト、そして、オリンピックなどの国家的行事への美術家の協力や翼賛的な同調圧力が起こりつつある今、どのように生きるかは美術家にとって大きな課題ではないのか。
これらのことを調べていたのは1980年代の始め頃だった。あの頃と全く研究環境が異なる状況がある。それはネットでの調査が簡単にできるようになったことである。当時はインターネットやノートパソコン、ましてやスマートフォンなど登場する以前のことで、論文の提出も原稿用紙に手書きだった時代だ。
今試みに調べてみると、当時の日常に関する研究も進展しているようだ。いくつか気になる論文も出てきた。新出の研究については、また機会を改めることにして、手元にある古い資料で気になるものをあげておく。
画家鶴田吾郎の著作『半世紀の素描』の抜粋コピーで、自身の自伝的エッセイである。知っての通り、鶴田は太平洋画会美術研究所(のちの太平洋美術学校)(図2)で松本竣介を指導していた教授の一人でもある。そして、軍部に協力し藤田嗣治(図3)と並んで戦争画を積極的に描いた戦犯画家として戦後、非難を浴びた画家でもある。戦争画では『神兵パレンバンに降下す』(図4)がよく知られている。だが、この鶴田も戦争の犠牲から免れることはできなかった。5人の子供のうち、2人が幼少時に病気で亡くなり、ようやく成長した残りの3人が、ひとりが慶應の予科生だった時に学徒動員で応召、南方の戦線で戦死、今ひとりは予科練を出て海軍航空兵になり、空母とともにマリアナ沖で撃沈され戦死、さらにもうひとりは台湾で行方不明。戦後復員したものの結核での療養生活を送ったという(注)。
図2 太平洋美術学校正門前での写真 右から2番目が鶴田吾郎、1937年に撮影されたとある。鶴田吾郎『半世紀の素描』の複写より。
図3 藤田嗣治らとの記念写真 前列左端が鶴田、その右隣が藤田嗣治。右端は宮本三郎。南方派遣画家とあり、1942年撮影。前掲書コピーより。
図4 鶴田吾郎『神兵パレンバンに降下す』前掲書コピーの挿図
戦争協力者、戦犯画家と言われつつも、戦争に子どもたちを奪われた鶴田吾郎の思いを想像すると、今更ながらに「戦争」というものを考えざるを得ない。
注 鶴田吾郎『半世紀の素描』中央公論美術出版 1982年 p163,p165,p173
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
戦争画関係資料
小松﨑拓男
修士論文を書き、博士課程に進んだものの、そのまま大学の教員を目指すような研究者としての道を歩むことなく、学芸員として美術館で働くことになった結果、松本竣介や彼が生きた時代の研究は、1994年の美術史学会の全国大会でした小さな発表以降25年以上手付かずの状態となった。
もともと大学院では日本のファシズムを研究しようと思っていた。だが当時の指導教員に、それでは飯は食えないと苦い顔をされた後の近代日本思想史研究への転進。しかし福沢諭吉と中江兆民をほんの少しかじっただけで、そこからの紆余曲折があり、本来好きだった美術、その美術の歴史の研究の道に舞い戻った身ではある。平安世俗画研究の泰斗秋山光和先生と江戸絵画史の当時の若き俊英小林忠先生から美術史の実証的な研究方法の薫陶を受けた。とはいうものの、恩師とは時代をずらし、近代に遁走したヘタレ研究者ではある。
ただ志としては、二度とあの悲惨な戦争の時代に時を戻してはならないという研究者としての思い、歴史を実証的に明らかにし、原因と結果、そしてその結果の責任を明らかにしなくてはならないという責務を感じての近代日本美術史研究である。特に戦前のような警察や軍隊といった暴力的装置の実行を伴わないだけで、戦前とあまり変わらなくなってきた、研究の自由や基本的人権への精神的抑圧と暴力を感じつつある今、尚一層その責務を感じる。
多少時間に余裕ができてきたので、研究資料の整理を少し、し始めた。古い資料が出てきた。「戦争画関係資料」と書類封筒にある(図1)。1977年の朝日ジャーナル誌に掲載された評論家中原佑介の「『戦争絵画』をなぜ一括公開しないのか」といった文章のコピーや、松本竣介の「航空兵群」の図版が載る1988年の芸術新潮の尾崎眞人の「いったい『戦争画』とは何だったのか!」の記事のコピーなど、いくつかの資料のコピーが、未整理のまま袋に入っている。
図1 戦争画資料戦争画の研究は当時から比べると随分オープンになり、かつ作品自体の公開もタブー視されることが少なくなり、藤田嗣治の戦争画など実作を比較的簡単に目にすることができるようになった。関連する書籍も刊行されている。
その中で今の私の関心事は、戦争画自体よりも、次の2点にある。
一つは、戦中期の画家の日常についてである。実は、日本画家、西洋画家にしても、絵具などの画材の配給や制作発表をどのように行ってきたのかということが詳しくわからず、これらをまとめてある研究を当時あまり目にしたことがなかった。絵具などの画材が配給になったとして、それはどのような法令に基づき、またどのような制度として設計され、どの官庁が所管し、実際にどのように運用されたのか、少なくとも今の私には詳らかではない。何処かで誰かがすでに研究しているのだろうか。なぜ、こうしたことが気になるかというと、情報将校や軍人が軍の指示に従わなければ、絵具の配給を止めるといった発言をして、圧力をかける時、実際にそれは軍人に可能なことなのか、実効性はあったのかなど、実はよくわからない。つまり、それは戦時中の美術家の生活実態がわからないということでもある。
もう一つは、「戦没画学生」と言われる、一群の美術を志した若者の存在と実態である。平時であるならば、自身の美術的な才能を持って美術家あるいはデザイナーとなって制作を行っていたであろう、若者たちの、歴史に翻弄された実相を明らかにすることは、理不尽に軍国主義によって自身の未来を蹂躙された悲惨を繰り返さないための警鐘でもある。いつ、どこで、何が、どのようになったために、こうしたことが起きたのか、私たちは、あるいは今、美術を志望する若い人たちも知らなくてはならないことのように思えてならない。
特に「表現の自由」への圧力、ヘイト、そして、オリンピックなどの国家的行事への美術家の協力や翼賛的な同調圧力が起こりつつある今、どのように生きるかは美術家にとって大きな課題ではないのか。
これらのことを調べていたのは1980年代の始め頃だった。あの頃と全く研究環境が異なる状況がある。それはネットでの調査が簡単にできるようになったことである。当時はインターネットやノートパソコン、ましてやスマートフォンなど登場する以前のことで、論文の提出も原稿用紙に手書きだった時代だ。
今試みに調べてみると、当時の日常に関する研究も進展しているようだ。いくつか気になる論文も出てきた。新出の研究については、また機会を改めることにして、手元にある古い資料で気になるものをあげておく。
画家鶴田吾郎の著作『半世紀の素描』の抜粋コピーで、自身の自伝的エッセイである。知っての通り、鶴田は太平洋画会美術研究所(のちの太平洋美術学校)(図2)で松本竣介を指導していた教授の一人でもある。そして、軍部に協力し藤田嗣治(図3)と並んで戦争画を積極的に描いた戦犯画家として戦後、非難を浴びた画家でもある。戦争画では『神兵パレンバンに降下す』(図4)がよく知られている。だが、この鶴田も戦争の犠牲から免れることはできなかった。5人の子供のうち、2人が幼少時に病気で亡くなり、ようやく成長した残りの3人が、ひとりが慶應の予科生だった時に学徒動員で応召、南方の戦線で戦死、今ひとりは予科練を出て海軍航空兵になり、空母とともにマリアナ沖で撃沈され戦死、さらにもうひとりは台湾で行方不明。戦後復員したものの結核での療養生活を送ったという(注)。
図2 太平洋美術学校正門前での写真 右から2番目が鶴田吾郎、1937年に撮影されたとある。鶴田吾郎『半世紀の素描』の複写より。
図3 藤田嗣治らとの記念写真 前列左端が鶴田、その右隣が藤田嗣治。右端は宮本三郎。南方派遣画家とあり、1942年撮影。前掲書コピーより。
図4 鶴田吾郎『神兵パレンバンに降下す』前掲書コピーの挿図戦争協力者、戦犯画家と言われつつも、戦争に子どもたちを奪われた鶴田吾郎の思いを想像すると、今更ながらに「戦争」というものを考えざるを得ない。
注 鶴田吾郎『半世紀の素描』中央公論美術出版 1982年 p163,p165,p173
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
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