石原輝雄のエッセイ「美術館でブラパチ」─7

『秋田おばこと京おんな』



展覧会 生誕120年・昭和を考える 木村伊兵衛展
    何必館・京都現代美術館
    2021年3月13日(土)~5月23日(日)

202105石原輝雄_BP7-01 何必館玄関サイン

 関西を中心とした展覧会報告をしたいと思って引き受けた拙稿「美術館でブラパチ」が、今回から奇数月18日掲載となった。二ヶ月前後が一般的な展覧会会期に合わせての報告は、関西初回、あるいは、関西限定の展覧会となるとタイミング良く報告できるものが少なく、さらに、昨今のコロナ禍による外出制限等が加わり、基準を大幅に改めざるをえない状況となってしまった。美術からは離れませんが、展覧会からは逸脱するかと、本人心配しながらの隔月連載スタートです。

202105石原輝雄_BP7-02 四条通、何必館から正面に八坂神社

 さて、注意しながら街に出ましょう。四条通りを八坂神社に向かい花見小路を越えた左側に何必館・京都現代美術館が建っている。天井の高い五階建ての近代的なビル(黒い立方体)で、開館して40年あまり、すっかり祇園の街に溶け込んでいる。画商・梶川芳友が22歳の時に国立近代美術館京都分館(当時)で出会った作品、村上華岳の『太子樹下禅那』(1938年)のために構想した美術館だと云う。氏は17年を経て同作を手に入れるのだが「作品は人間の戸籍であり、心の遺言である。そこに人間の血に宿る歴史の深層をみるとき、ひとは人生の確かな道筋を発見するのかもしれない」(『何必館拾遺』2008年)と同作に触れた「邂逅」の章に書いている。わたしも二十歳前後で美術品と遭遇し人生を決定されてしまった人間、還暦を過ぎて語り合う友人の多くが同じ体験を持つ人たちである。なので、何必館に宿る不思議な願いが伝わるのです。
 
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7-1 「粋なもんですね」

 今日は美しい女性と美術館前で出会った。日本人離れした瞳の色合い、通った鼻筋、きりりとした唇、菅笠を被り絣の着物にたすき紐の装い。「綺麗な人だ、どこにお住まいかしら」と掲げられた大きな写真に声を掛けた(笑)。撮影はライカ使いの名人・木村伊兵衛(1901-1974)、秋田県の大曲で撮影されたらしい。それで、美術館にふらふらと引き寄せられてしまった。今年は写真家の生誕120年、「昭和を考える」副題をもって『木村伊兵衛展』が開催されている(同館コレクションから厳選した50余点)。

 一階の展示室に終戦直後を中心とした東京の情景10点「躍動する昭和(戦前・戦後)/(写真の本道)」、奥のエレベ—ターホールにはジャコモ・マンズーの彫刻『枢機卿』(1963年)。二階に上がって右に曲がると黒いマントを被り額にシワを寄せた美人がこちらを睨んでいる。木村によると「生活費を得るために……自家製のむしろを売っている主婦」で、彼女も日本人離れした容姿、「厳しさ」が写真に現れている。これは居住まいを正さねばならない。「秋田の民俗(現実の縮図)」とくくられた写真群を見ながら、日本人の暮らしの原点、遠く過ぎ去った昭和を思う。会場には奥まった一室があり漢時代の『婦人坐像加彩灰陶』が静かな笑みをたたえている。その左に梶川が展覧会への思いを綴るパネル、視線を床の間風の鑑賞空間へ移す手前に先程玄関口で出会った女性が知的な視線をひかえめに、会場のどこかへ投げかけている。美しい、実に美しい。木村による秋田での名作『板塀』や『青年』などが並んでいるのだが気はそぞろ、この人の視線の位置に立ってみたい。

 彼女は農家の娘さんではなく、七歳からバレエを習う地元で評判のマドンナ。「秋田おばこ」のコンクールでモデルを努めた大野源ニ郎の写真が入賞したことから木村も注目し、「アサヒカメラの特写」としてモデルを依頼したと云う。── とすれば演出写真だが、素人の娘さんの顔の表情のみから、姿勢の美しさまでを現した木村の構成手法に驚く。田圃にこの人が居ると、思うのよね。二回目の撮影で得られた写真、しかも、フイルム後半のコマ、ただ一つ。木村はこの時も、気に入った場面に出会った時の口癖である「粋なもんですね」と言ったのだろうか。

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 吹抜ホールから三階に上がると、ソフトホーカスで捉えられた那覇の芸者が微笑んでいる。木村によると遊郭の売れっ子「松の下亀」さん、タンバールというレンズを使ったと云う、なるほどこの味か、良い風が吹いているようだ。この部屋は「日本列島(自分の仕事)」でくくられ、名古屋の中村遊郭では打ち水が飛び跳ね、『本郷森川町』(1953年)の町内へと続いている。「庶民の町(人間のふれあい)」では、川原に桜が咲く季節。わたしが小学校時代までの風景が、なにげなく、ささやかな日常として残されている。二階へ降りてから、再度、エレベーターで最上階にあがった。密閉の場で過去を思い出す数秒間、扉が開くと美しい緑に陽が差している。ここが何必館の名物「光庭」。低い築山と苔、楓の枝ぶりが絶妙な趣で天井にあけた楕円形の穴からもれる光を空間に漂わせている。ガラス壁を廻り、八畳間の軒先に立つと床の間に至宝『太子樹下禅那』が障子越しの優しい光にたたずんでいる。西洋のステンドグラスから遠い、わたしたちのたおやかな光、鑑賞するわたしも光に包まれているようだ。しばらく露地に腰掛けぼんやりと時を過ごす。こちら側にはガラスがなく、外気がそのまま光とともに移りゆく。
 対角線側の特別展示室は著名人の「ポートレイト」でくくられ、中央に『高峰秀子』(1956年)の清楚な姿。彼女は木村に撮られた時の様子を文藝春秋に書いているが、梶川が産経新聞(3月5日)で改めて紹介しているので、ここではふれない。ふれないが「木村さんの右手がソロリと上衣のポケットに入ったと思ったら、その手に吊り上げられるようにしてライカが現れた」と云う部分は、引用せずにいられない。

202105石原輝雄_BP7-03 花見小路通四条下ル

 地階で魯山人の焼きものを観てから外に出た。わたしの手にはリコー・デジタルGR-Ⅳ、木村伊兵衛のように美人を捉えたいと祇園・一力角を曲がって花見小路へ、向かいの板塀には先程の秋田おばこ、ポスターだけどパチリ。しかし、この界隈、インバウンドの客が溢れた数年前から撮影者の落花狼藉に困り果て「私道での撮影禁止」となっている。露路に入り込みパチリとはまいりません。昭和の時代は遠く、今は肩身が狭い。スナップショットを自主規制していくと、街角から人は消え、時代の諸相を検証する手立てを失う。木村は「色気が出ているとか、情緒があるとか、年増の美しさをよく出すとか」(『木村伊兵衛傑作写真集』1954年)で女性写真の名手と評されたが、根底には「報道写真」への意志があり、日常的な暮らしのなかで、生身の女性の一瞬を捉え、時代との繋がりをも示した。そんな事を帰宅して古い写真を観ながら考えている。

202105石原輝雄_BP7-04

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202105石原輝雄_BP7-05 辰巳大明神 撮影: 2015年4月18日

202105石原輝雄_BP7-06 「荷風先生の靴」生印画貼込 プレス・ビブリオマーヌ1965年

 祇園白川・辰巳大明神でのわたしの一枚は規制前のパチリ。木村伊兵衛のオリジナル・プリントも取り出した。何必館に掛けられていたのは万年床が敷かれた自室での荷風先生だが、こちらは墨東界隈を三揃いに中折帽の正装で散歩する姿(1954年5月19日)。プリント200余枚をコレクション「サフィール」第Ⅹ号で提供した佐々木桔梗は、名作『葛飾土産』の一節から江戸川の源流巡りを趣味のひとつとする永井荷風が「来年は七十だというのにこの癖はまだ消え去らず、事に会えば忽ち再発するらしい」を思い出しつつ、「それにしても荷風先生の靴が光っていて誠に嬉しい写真です」と締めくくっている。そうなのです、手にする銀塩プリントも光って美しい。わたしも来年は七十です。

 木村は戦後、カルティエ・ブレッソンの写真を見て自身の「報道写真」を取り戻そうと京都から撮影を始めている。夕暮れ時の先斗町で芸姑とすれ違う瞬間のパチリはよろしいな、後方に東華菜館などが入り込んで名人芸、素人でこれは出来ません。もっぱら自主規制の後ろ姿ばかりです。深夜の辰巳大明神に人影はなく、個人的に満たされた時代をSDカードから取り出し懐かしんでいる。本稿では、以下の事柄を書きたかったのです(ホント)。

202105石原輝雄_BP7-07 鴨川・団栗橋下流

202105石原輝雄_BP7-08 先斗町三条下る

202105石原輝雄_BP7-09 辰巳大明神

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7-2 ママのゴッホ

 その人を知ったのは会社が街中に戻った頃で、昼食の時間に店を探していた時だった。手書きで定食が二種類示されているのに誘われ雑居ビルの奥まった小料理屋に入った。L字型のカウンターに椅子が八脚とテーブルが三つ、掃除が行き届いた店内に焼酎瓶や薦被りが飾られ、和服姿の女性が一人、カウンターの向こう側。ほどよい年頃の美人で笑みもひかえめ。京風の薄味ながら惹きつける仕掛けがあるようで、わたしの嗜好にあった。それからは仕事帰りに立ち寄り、ビールに一品、二品といった塩梅で親しみ、すぐに友人、知人との歓談にも利用した。四月はしらすおろし、たこ酢みそ、えんど豆卵とじ。五月はこうのたいたん、馬さし、銀だら味噌漬焼。暑くなるとひらめ造り、焼万願寺、もろきゅう。祇園祭りになるときゅうりはやめて出し巻、じゃこ唐がらし、冷奴。どれをいただいても美味しく、カウンターの大鉢からひと手間加えて出してくれた。袂に手を添えてちょっと色っぽい。お店は母親が始められたようでおでんの店。大根、厚あげ、玉子の他に、もちねぎ巾着や玉ねぎおかか巾着などがわたしの好物、八海山を呑みながらの世間話。店内ではカメラを取り出し、パチリ、パチリも許されるようになった。木村伊兵衛なら江戸っ子のきっぷの良さと猥談(?)で場を盛り上げ、撮られた方も気が付かないままに、内面が現れる写真となったのだろうが、こちらは、お皿の上にしかピントが合いません。

202105石原輝雄_BP7-10 おでん三品
202105石原輝雄_BP7-11 ポテトサラダ、手羽てり焼、ベーコンポテト、なす揚げ漬

202105石原輝雄_BP7-12 えんど豆卵とじ

202105石原輝雄_BP7-13 馬さし

202105石原輝雄_BP7-14 熱燗で一杯

 ママは、ピンヒールの折れた靴を手にぶら下げ、殿方におぶられた木屋町の夜を、楽しそうに、恥ずかしそうに話してくれる。ある夜、遠来の先輩と呑んでいてお茶屋を紹介してもらうことになった。以前、手伝いをされていたお店のようで、「これを」と手土産を渡された。花見小路に面した古い店で、踊りの舞台も併設されている。色街の人たちの横の繋がりというのは奥深く、ちらりと覗かせていただいた感覚、カメラ・パチリは似合いませんな。舞妓さんを呼んでのお茶屋遊び、こちらの方は懐具合と合いません。祇園ではおでん屋さんでも、お猪口に濱田庄司や魯山人を使わせたりして要注意。わたしの方は、馴染みとなった店で相変わらずの「もういっぱい」、砂肝ねぎ炒め、トマトスライス、おでんでしょうが天、なんてのも美味しいですな。

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202105石原輝雄_BP7-15 京都市美術館

 京都市美術館でゴッホ展が催されていた頃だったか、トイレに陶板の『ひまわり』が掛けられていた。オレンジの光に照らされたオレンジの「ひまわり」、友人を迎える希望を持ってゴッホが描いた連作の一枚。ミュンヘンのノイエ・ピナコテークが所蔵する『ひまわり』が、同じく陶板複製のクレラー=ミュラー美術館蔵『種まく人』とともに、おでん屋さんの空間を「見てはいけない」特別の心象に変えている。わたしなどが美術館で惹かれたのは『ヤマウズラの飛び立つ麦畑』(1887年)や『グラスのある自画像』(1887年)など。後者は「トゥールーズ=ロートレックの作品の影響を受け、酒を飲む孤独な人間を主題にしたと思われる」もので、「パリを発った後、ほとんどアルコール中毒だった」ゴッホの仕事として、特に好むのである。オレンジの光に包まれ、そんな事を考えながら用を足すのは、心に悪い。

 なので、「どうして、ゴッホを掛けているの」とママに尋ねられなかった。関係はないだろうが、しばらくして、店は木屋町に移りカラオケのある普通のバーとなった。カウンターに椅子が七脚、小さなテーブルが二つ。水仙の花の絵が飾られている。カウンターの隅にはお決まりの「名入れ京丸うちわ」。開店を祝って伺うとママは好みのシングルモルト・タリスカーを用意してくれていて、わたしは海の香を味わった。「良いお客さんは?」「たんと呑んでくれはって、酔わない人」と常連たちがする蘊蓄を、笑って聞いていた人。別の時には、「こんなの、あるんえ」とブレッソンの『傑作選写真集』を取り出された。

202105石原輝雄_BP7-16 表紙はブレッソンによるマルセイユ、プラド小路での一枚(1932年)

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 木村伊兵衛は、パリでこの作者と会い「何の気なしに写しているようにみえるブレッソンの仕事は写真の限界を心得ていて、写真以外では出すことのできないものを描写している。肉眼でみた現実と機械が掴んだ瞬間の現実を知りきって、写真を作っていく彼の眼の正確な働きが、一層うらやましかった」(『木村伊兵衛傑作写真集』1954年)と感じ「女好きの写真家」というレッテルから脱し、「報道写真」の確固たる眼を掴むのである。その頃の撮影地が秋田であり京都であった訳。また、わたしに即すれば木村は中山岩太の作品を装飾的だと退ける前段で「マン・レイの写真で最初に驚いて印象に残っているのは、リンゴをひとつ置いて、そこにネジ釘をぎゅっと三分の一ぐらいさしてあるもの。あれにはまいりましたね。いま見たって、水もしたたる造形でしょう。白いバックにリンゴがある。それにネジ釘をいけ込んである。この形といい、空間の取りかたといい、たいへんなものですよ」(『アサヒカメラ』1972年8月号)と渡辺義雄に語る。木村は「新興写真」の影響も受け、勉強もしてきたようである。

 わたしは、日本語の歌詞で『枯葉』を歌い始めながら、字幕と離れフランス語で歌い続ける友人のようには出来ないし、ママとのデュエット曲など、恥ずかしくて、マイクを握れない。ただ、カメラ・パチリでわたしの「瞬間」にしようとするのみ。それにしても、カメラを取り出さない写真家が多い。毎日の生活とカメラは別のものなのだろうな。

202105石原輝雄_BP7-17

 ある学芸員と呑んだ後、辰巳大明神を抜け鴨川を越え一人でビルを上がった。店からは南座が望め、足元には川の流れ、夜風を取り入れたママが、こちらに振り返る。


(いしはら てるお)

●石原輝雄さんのエッセイ「美術館でブラパチ」は今まで不定期連載でしたが、今月からは隔月・奇数月の18日に更新します。次回は7月18日です、どうぞお楽しみに。

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