元永定正インタビュー(1977年)
『'77 現代と声 版画の現在』より再録


1983年6月23日_元永定正「日本芸術大賞」受賞を祝う会_12元永定正先生と奥様の中辻悦子さん(1983年6月)


——版画はよくやられますか。

元永 よくはやらないけど、アンフォルメルの頃の作品を刷ったのが2~3種類あるんです。船井裕さんに刷ってもらいました。

——それは何でやられたんですか。

元永 リトです。それ以後は5~6年前名古屋の桜画廊で刷った分が14~15種類と、東京画廊で作ったのが1種類あるぐらいです。

——今度の版画に関して何か。

元永 大変うまく刷ってくれているようです。石田さんのようなちゃんとした刷り師との出会いは初めての感じです。ぼくは自分で刷るということが出来ないたちやから、どのように仕上るかとても楽しみでした。

——元永さんのはめんどうですね、刷り師泣かせの......。

元永 えー。どうもそうらしいですけど...。

——円のグラデーション、めんどうですよね。

元永 そうらしいですね。写真製版で網目でやればどうってことないやろうけど、砂目にしているね。石田さんに聞いてみると、砂目は網目よりも抵抗した形でやっていると云うてはるのやけれど、無理せんと網目の方がうまくいくのやないかと思ったりするけど、自分では何もできないし何もわからないので、刷り師の好きなようにやってもらうのが一番だと思うね。
moto070225『'77現代と声 版画の現在』より
元永定正
《白い光が出ているみたい》


——やっぱり版画はいろんな人の手に渡るというのが魅力にはなりますね。

元永 それはそうですね、確かに。画家のKさんに聞いたのやけれど、足摺岬の近くの人家のまばらな辺鄙な家へたずねて行ったらぼくの絵が壁にかかっていたという報告をもらったことがあるのですが、そんな話はうれしいですよね。あれは版画ではないのやけれど......。

美術と文学

——今日の日本では美術と文学とかあるいは他のジャンルとの交流が余りなくて、美術ってやっぱり非常に狭い所にきているみたいなことがありまして、文学者などにも絵をみせたり、一緒に仕事をしたりしていかないと、美術って非常に発言権が狭いような気がします。それで、そういうチ ャンスをできるだけつくりたいと思うのだけれど、美術の方は低滞しているような感じがあって、文学者がもっている絵とか、いいと云うのがどうも古い感覚なんですね。又、ありきたりの日本画をほめているんですよね。そのへんが変らないとまずいなあという気がして、何とかしないとね......。

元永 文学といえば、詩人の谷川俊太郎さんとは ニューヨークでよく会っていたのですが、その時俊太郎さんの好きな絵を聞いたら、フェルメールということだったのですが、やっぱり文学の人は視覚的なものよりも作品のもっている文学性に魅かれることの方が多いのかなあと思っていました。しかし俊太郎さんとは今度「もこもこもこ」というタイトルで、幼児向けながら文学は音楽的で大変視覚的な本を出版したのですが、そういう例は少なくないのやろうか。

——そうですね、好みと、今の美術の中で何を支持していこうかということは別で、私も何が好きかというと、どうもやっぱりファン・エイクがいいとか何とかがいいと言いたくなっちゃいますでしょ。小説家だからといって、昔の小説のような小説を書くわけではないのだけれど、ことが美術のことになると、どうも気楽になるのか。やっぱり、いくら昔の作家が好きだと云っても、昔の作家がいいとは云わないわけで、どうもその辺にある......。

元永 あーなるほどね。

——だけれども活字になっていくのが、今日本だとみんなに影響を与えていくわけですよね。そうすると、どうも現代美術っていうのはあんまりよくないのではないかという感じがあって、それはかなり大きいような気がするんですね。

元永 そうですね、作家とのつきあいは先程お話しした俊太郎さんの他に、田辺聖子さんとは女について対話をやったり、酒の席で時々会ったり、SFの眉村さんの表紙をかいたこともあります。陳舜臣さんとは「こんにちは」と挨拶をかわす程度のおつきあいですが、陳さんは絵がお好きなようですね。絵についての深い話はしたことはないのですが......。アメリカ文学の金関寿夫さんとも親しいのですけれど、彼は現代美術が大変お好きでいろいろ集めておりますね。しかし詩人の人は滝口修造さんとか大岡信さんとか、評論の世界へも関係してきて、一番美術とは密着しているようですが......。

——日本中の本屋さんに必ず文庫のコーナーが あって、その中に現代詩文庫というのがありますが、今度現代美術文庫をつくりたいと思っています。作品というのはなかなかみれないでしょう。やっぱりその人のことがパッとわかるようにカラー写真も入れるわけですが、作品論というのは美術関係の人に書いてもらっていいと思うのですが、そうじゃない人に作家についていろいろ書いてもらってというような本なのです。絵だけじゃちょっと伝えにくいところがあるでしょう。

元永 作家の人間性というものなんかもね。

——ところで、SFの筒井康隆さんはこちらの人だと思うんですが、お知りあいですか。

元永 あまりよく知らないのですけれど、この間あるパーティで初めて少しだけお話をしたくらいです。

——ちょっと前に元永さんのことを考えていたときに、筒井さんのことが頭に浮んできたのですが、文学と絵とは大分違うんだけど、何かすごく似てるところがあって、それはどの辺から来るのかなあ。筒井さんに元永さんのことを一度書いてもらったら面白いと思ったりしているんですが...。

元永 そうですか。そやけど、彼はぼくのことは何にも知らんのやないかと思うのやけど......。知らん人とつきあいが始まるのはよいことだけど、どこかでわかりあえないとつきあいできへんね。

——そういう点で本人同士が知らなくても、第三者がわりとあうなあと思ったら会ってみるのも面白いのじゃないでしょうか。この場合はもうすでに出会ってるのだけれど......。

元永 強制的に見合いさせられるわけですね。音楽の人たちとも少しは知合いがあるのですが、この間も芦屋のルナ・ホールで高橋悠治さんや武満さんのリサイタルがあった後、歓迎パーティーの席で会ったとき、10何年ぶりやねえなんてなつかしがっていたのやけれど、それ以上に話が進まないみたいやった。やっぱりみんな賢い人たちばかりのようで、ぼくはどちらかといえば阿呆のほうで、ぼくの作品はコミカルなところであるからファニーアートやなんて云ってたのですが、この頃はアホ派やなんて云ってるのです。

——アホ派って何ですか。

4e83a888-s「'77現代と声」エディション目録より
※クリックで拡大します。

アホ派一とにかくケッタイナものを

元永 ぼくは作品をつくるとき、むつかしい理屈はいっさい抜きにして気分の趣くままに何にもとらわれないで不思議な空間をつくれたらと思っているのやけど、それはなかなかむつかしい。そんな作品ができたら、見る方はまず「何やこれは?」と思うやろし、見ているうちに底知れないような広がりも感じられるし、何か強い力があるようで、しかしとらえどころがなく「何やこれは、阿呆みたいや。こんな絵を描いた奴の顔みたいわ」なんて言われるような絵を描きたいと思ってるのですわ。だいたいぼくは学校もどこも行ってないし土方あがりでね。職業も20いくつも変わってるしね。

——へえ、そんなに......。

元永 まあかたいところでは国鉄職員とか郵便局員、それからアイスクリームのセールスマンに新聞の売り込み、弟と2人で少しの間料理屋をやったこともあるし、八百屋の丁稚や砲兵工廠の仕上げ工員、駅で木材を貨車に積込む材木仲士、駐留軍の荷物運び、社交ダンスの先生に子供の絵の先生、タオルに印刷するための木版も彫っていたこともあるわ。それで一番初めの仕事といったら大阪の機械工具を売っている店に勤めたのやけど、これが又えらい仕事でね。昭和13~14年の頃やったんかなあ、大阪にはまだ馬が車を引っぱって歩いていた頃なんやけどね、重い重い10馬力もするモーターとか50貫ぐらいある鉄の塊をリヤカーに積んでほとんど毎日西の宮まで持っていく仕事でね。往復40キロぐらいはあると思うのやけど、むろん自転車には乗れへんさかいエンヤコラサと引っぱって歩いていくのですわ。住込み店員では夜は南京虫がワーッとたかってくるしね。体の弱い奴は夜中に心蔵マヒおこして死んでしまったりで、こんなんかなわんなあと思って......。その頃やっぱり大阪の勝山通りというところに、あのチャンバラの阪妻のプロダクションがあって、映画俳優にでもなったろかなんて思って規則書送れと手紙出したんやけれど、そんなものになるのは親が反対しとったし、店にも知られたらかなわんので内緒で送れと書いといたらとうとう送ってこなかったわ。

——いろいろお聞きしてますけれど、絵の話は少しもでてきませんね。

伊賀を出て.....。

元永 絵はやっぱり好きだったんですが、時間があれば似顔みたいなものや漫画を十六七才ぐらいから描いていたように思いますけどね。絵かきというのは考えてみるとあんまりもうかりそうにもないし、そやから生活できへんと思うてあんまりなりとうなかったんや。その頃は自分を表現できるものやったら何になってもええわと思ってたようで、それでさっき言うたみたいに映画俳優になろうと考えたり、歌うたいになろうと思ったりしてたのですが、絵の方やったら漫画家になったろうとしていたので、漫画やったらもうかるやろうと思っていたわけです。しかし漫画かくのにはやっぱり絵の勉強せなあかんので、戦後郷里伊賀上野で郵便局勤めをしていた時の局長さん、日展系のベテランで浜辺萬吉さんというのですが、その浜辺先生に絵をみてもらっているうちにだんだん絵の方になってきたのです。
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『'77現代と声 版画の現在』より
元永定正《いいろろ


——伊賀からこちらに出てきたのはいつ頃なのですか。

元永 そうですね、ぼくみたいな天才が伊賀にうずもれていたのではあかんとうぬぼれていたので、 初め神戸に出てきたのは1952年ぐらいのようやったなあ。そやからもう25年も前になるわけやなあ、その時は仕事もお金もなかって何かしてたわけや。

——具体美術に入ったのはその頃ですか。

元永 そうです。それから2~3年してからです。駐留軍要員の仕事があって少しお金が入った。といっても1ヶ月1万4千円ぐらいですが、それでフォビズムのような感じの裸婦の絵をかいて芦屋の市展に出したのです。そしたら賞をもらったのですが、もうその頃から芦屋の市展はほとんどが抽象絵画ですね。そのフレッシュさにびっくりして、次の年には我流の抽象画と抽象彫刻を出品したら、また賞をもらってね。そんな頃の受賞は特にうれしいもんですわ。審査委員長の吉原治良先生がえらいほめてくれましてね、具体のグループへ入れと誘われたのですが、具体って何のことかさっぱりわからへんのや。けど考えてみたらぼくは神戸に知合いが1人もいてへんし、グループに入って友達ができたらお金貸してなんて言えるし腹がへったら何かおごれよなんてことも言えるし......。話をきくと何でも面白いこと考えたらええのや云うし、それやったら漫画を考える時にきたえてあるし、まかしときと思って入ったのです。
 それから調子がでてきたみたいで、絵かきみたいになってきたんです。

——運命というのはそんなもんですね。

元永 具体というところは、何でも人のやらない新しいものをしないとあかんというグループで、奇妙なもの、不思議なもの、阿呆みたいなもの、とにかく見たこともないような絵や立体や何とも言い方のないようなものをつくろうと一生懸命やったのですが、ただそれだけのことで他に理屈は何もないのです。

——なるほど、それでアホ派のことにもつながってくるわけですね。

元永 それでぼくは舞台を使用した具体美術展の時に、大きな煙の輪を飛ばして色の光をあててみたり、野外に色の水をハンモックのように吊してみたり、空中展覧会の提案をしたり、絵もたくさ んかきました。具体というところはものすごく忙しいのです。毎年10何回も展覧会を開いていたので、ボヤボヤしてたらついていかれへん。それで大変きたえられた感じですわ。具体グループがなくなった今、ぼくは具体美術学校を卒業したのやと思っています。

元永定正オレンジの中で『'77現代と声 版画の現在』より
元永定正
オレンジの中で


——新しいということについて、もっとまじめに考えるべきですね。

元永 新しい作品が生れる時は、それが新しいか何かもわからないのです。芸術かどうかもわからんわけで、今流行のコンセプチュアルアートなんかも、初めて考えた作家はその時「こんなものでよいのだろうか?」ときっと悩んだのやろうと思うけど、しかしもう古いのです。

——それが歴史になっていくのですね。

元永 そうです。新しいものも1秒過ぎたら古くなるわけでね。それで自然に大衆の中にとけこんで概念化されて伝統となってゆくのやけど、その途中で必要でないものは消えてゆくのです。仏像とか骨董品の好きな人は、それが趣味やさかいしょうがないけれど、本当にいいものはやっぱりそれが生れた時代には前衛的なもの、新しさの故に顰蹙されたものが古美術として残っているのです。今は誰にでも楽しむことができる印象派の作品もそうやったわけです。古い芸術は苦労して残してくれたパイオニアの遺産なので、現代の前衛に拍手をおくらないと、未来の人たちに残す遺産ができへんということです。そやから、1秒前の歴史をもっともっと大事にしないとあかんということやねえ。

01『'77現代と声 版画の現在』
編集:北川フラム (「現代と声」実行委員長)
発行:1978年9月5日
発行所:現代版画センター
発行人:綿貫不二夫
印刷所:三信印刷
写真植字:P-man、印字部労働組合
製本所:日本出版工業株式会社
発売所:アディン書房
©1978 1370-1056-0137

『'77現代と声 版画の現在』についてはこちらのブログをご覧ください。
1978年09月05日 北川フラム編『'77現代と声 版画の現在』刊行

●「’77 現代と声 一日だけの展覧会」東京ヤマハエピキュラス
日時:1977年10月21日
会場:東京渋谷・ヤマハエピキュラス
主催:現代版画センター、現代と声’77実行委員会

1977年の現代版画センターの全国展企画は、北川フラムを実行委員長に迎え、「現代と声」と題して各ジャンル(油彩、日本画、版画、彫刻、建築)から9作家を選び、新作版画の制作を依頼した。
既成のジャンル(油彩、日本画、版画、彫刻)以外に初めて「建築」を加え、満を持して磯崎新先生を口説いて版画のエディションに成功した。
当初の実行委員会の計画では「漫画」を入れ10人の予定だったが、つげ義春さんを口説き落とせなかった。
「現代と声」は、現代美術の状況に対するメッセージとして、新たな共同性の 構築をめざす目的をもって、現代版画センターが1977年度の企画として行なっ たイヴェント全体の呼び名である。その全体は以下のものによって構成される。
作家の選定には関根伸夫が深く関わった。
○現代日本美術の断面を示す9人の作家による作品23点の制作
○全国展形式による作品の発表
○全国展開催地でのパネルディスカッション等のイヴェント
○連続シンポジウム
○「現代と声」に関連した出版

■「現代と声」参加作家
靉嘔、磯崎新、一原有徳小野具定オノサト・トシノブ加山又造、関根伸夫、野田哲也元永定正

1977年10月21日 (8)左から、針生一郎、北川フラム(「現代と声」実行委員長)、一原有徳、元永定正、オノサト・トシノブ、野田哲也、飯田善国、関根伸夫、尾崎正教(現代版画センター事務局長)

1977年10月21日 (14)1977年10月21日 (15)

1977年10月21日 (16)1977年10月21日 (17)

1977年10月21日 (49)

19771021現代と声一日だけの展覧会渋谷ヤマハエピキュラスにて_00006


●本日のお勧め作品は元永定正です。
motonaga150520_35元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《おれぐりん》
1979年   シルクスクリーン
イメージサイズ:27.5×22.0cm
Ed.350   サインあり
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「没後10年 元永定正もこもこワールドPartⅡ」(予約制)開催中
会期=2021年6月1日[火]―6月12日[土]*日・月・祝日は休廊
330_a元永定正(1922-2011)の没後10年を記念して、現代版画センターエディションを中心に版画26点をご覧いただきます。
谷川俊太郎との絵本「もこ もこもこ」で知られる元永のユーモラスなかたちや、多彩なぼかし、グラデーションをお楽しみください。
ブログでは元永定正の1977年のインタビューや、谷川俊太郎高橋亨のエッセイを再録掲載しています。
出品全作品は5月29日ブログに掲載しました。

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