王聖美のエッセイ「気の向くままに展覧会逍遥」第15回
「アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランドー建築・デザインの神話」展を訪れて
世田谷美術館で2021年3月20日~6月20日まで開催されている「アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランドー建築・デザインの神話」展に行ってきました。アルヴァ・アアルトといえば、東京ステーションギャラリーの「アルヴァ・アアルト もうひとつの自然」(2019)が記憶に新しく、彼の妻といえば、「夏の家」(1954)を共同設計したエリッサも有名ですが、本展は、アイノ(1894-1949)とアルヴァ(1898-1976)が、公私のパートナーとして過ごした1924年から25年間の協働を主題にした展覧会です。2019年にGallery A4で行われた「アノイとアルヴァ 二人のアアルト 建築・デザイン・生活革命 小さな暮らしを考える」と、2020年に竹中大工道具館で行われた「アノイとアルヴァ 二人のアアルト 建築・デザイン・生活革命 木材曲げ加工の技術革新と家具デザイン」の巡回展という位置付けで、今年7月10日から兵庫県立美術館にも巡回します。
個人的には、アイノ・アアルトにスポットライトが当たることは、2000年前後から顕著な、アイリーン・グレイ(1878-1976)、シャルロット・ペリアン(1903-1999)ら女性建築家・デザイナーの再評価の流れと捉えており、国内では2016年にギャラリーA4で行われた「AINO AALTO Architect and Designer -Alvar AALTOと歩んだ25年-」の続編であって欲しい、という勝手な願いがありました。しかし、図録の中でトンミ・リンダ氏(アルヴァ・アアルト財団)とニーナ・ストリッツラー=レヴィン氏(バード・グラデュエート・センター)が書かれているように、アアルト建築事務所におけるアイノとアルヴァの連携が緊密だったために、どれが誰の仕事だったかが研究者にも特定できず、大規模にアイノ・アアルトの個展をつくるのは困難だったようです。
本展は、会期中に緊急事態措置(今年4月25日~5月11日)とその延長(~5月31日)があり、その間、世田谷美術館のYouTube「世田美チャンネル」(*1)で同展に関する4本のガイド動画や、インターネットミュージアム(*2)で会場内の動画が視聴でき、更には展覧会会場に行かなくてもオンライン注文で展覧会図録を入手できました。コロナ禍で各ミュージアムのオンラインサービスが加速し、展覧会に行かなくてもその内容にアクセスできるようになり、鑑賞者としても展覧会を作る者としても、「リアルな展覧会に足を運ぶ理由とそこで得られるもの」について、これまで以上に意識せざるをえなくなったと感じています。展覧会会場では、設計図、建築模型、再現展示、家具のモックアップや実物など、さまざまなスケールの体感できる資料が展示されました。今回は、模型の展示のあった作品の中から、いくつかピックアップして書きたいと思います。


*1:https://www.youtube.com/watch?v=va9fa7R4_EU
Vol.19~23「トゥルクの自宅兼事務所 子ども部屋」、「木材曲げ加工の技術革新」、「ニューヨーク万博フィンランド館」、「アアルトハウス リビングルーム」
*2:https://www.youtube.com/watch?v=warCDZdHp0E
1、会場構成について
世田谷美術館の建築は内井昭蔵の設計で1986年に完成、砧(きぬた)公園の中の美術館として建物が周辺の自然に馴染むよう、分割されたボリュームが回廊で繋がれています。
世田谷美術館模型
昨年2020年7月~8月に開催された「作品のない展示室」展は、作品展示の無い状態の美術館建築を見せた展覧会として、コロナ禍最中の同時代性と企画の斬新さが話題になりました。
本展は、「イタリアから持ち帰ったもの」、「モダンライフ」、「木材曲げ加工の技術革新」、「機能主義の躍進」、「アルテック物語」、「モダンホーム」、「国際舞台でのアアルト夫妻」から成る全7章とエピローグで構成され、アイノ(当時30歳)とアルヴァ(当時26歳)が、新婚旅行で訪れたイタリア旅行、ユヴァスキュラの事務所時代の仕事からトゥルク、ヘルシンキそれぞれの事務所での仕事、その過程にある木材の技術革新やアルテックでの取り組み、アイノが54歳で亡くなるまでが追われています。
順路が、従来の、受付を通過後にサンクンガーデンに面した通路を渡って展示室に入る動線ではなく、受付通過後にミュージアムショップを経由し、収蔵庫と展示室に挟まれた通路を通って企画展示室に入る動線の体験は、少し違和感があるものの、新鮮さと建築の柔軟性を感じるものでした。
今回は収蔵庫と展示室に挟まれた通路の途中に展示室入口がある
また、天井のアーチ型の穴空き吸音板の範囲を意識して配置された第一章の「最小限住宅展」の再現展示「bed room 1・2」とサヴォイベースの形を模した第三章「木材曲げ加工の技術革新」、展示室の窓そのものを病室の窓と見立てた第四章の「パイミオのサナトリウム」、砧公園を望む横長窓を背景に配置された第七章の「ニューヨーク万博フィンランド館」の部分再現展示などの建築空間に呼応した展示デザインは、世田谷美術館の建築のコンセプトでもある「生活空間化」と「オープン化」の延長とも考えられます。
***
2、アイノの人物像と「ヴィラ・フローラ」
都会で生まれ育ち、大学卒業後に大学の友人たちとヨーロッパ大陸の建築を巡り、子どもを家政婦に託児して仕事に励んでいたというアイノのエピソードからは、現代的な自立した女性像が思い描かれる一方で、アアルト姓を名乗り、個人の名前を主張することなく仕事をし、建築家として「ニューヨーク万博フィンランド館」の設計競技で3位という結果を出す実力を持ちながらも、所内では主に内装と家具のデザインを主に担当した、というのは疑問でもあります。
その背景を見てみると、フィンランドでは、1985年まで夫の姓または夫の姓を含む複合姓を名乗ることが決められていたことや、既婚女性は1919年までは知的職業に就けず、彼女が働き始めた頃は女性の社会進出が始まった頃にあたり、女性が建築家として活動する難しさから、多くは内装や家具デザインに取り組むのが通例だったことがあります。
また、「アイノは役割をよくわかっていた」と第六章の映像で解説されていたように、アイノがアアルト建築事務所の財務とアアルト家の家計を管理しており、ブランディングも意識していたようです。事務所のブランド戦略では、自身を含めた所員90人をアルヴァ・アアルトの名の下に統合し、事務所で手がけた仕事は全てアルヴァ・アアルトの功績としました。そして、アルテックでは、夫婦それぞれの名前で家具や製品を売り出すよりも「アアルト」という一つの名前の方が収益が上がると考えました。そんなアイノが個人の名前を出して設計したのが、第一章で展示された「ヴィラ・フローラ」と第五章で展示された「ノールマルック保健センター」(*3)でした。
*3:1946年完成、アイノが建築とランドスケープを担当した。図面には小文字の筆記体で書かれたアイノ・アアルトのサインがある。
「ヴィラ・フローラ」(1926年、所在地:アラヤルヴィ)
第一章で、ファミリームービーとともに紹介されている「ヴィラ・フローラ」は、アイノ・アアルトが家族のために設計した湖畔沿いの別荘です。幅約13mx奥行き約4mの52平米ほどの平屋で、屋根は切妻の草葺き、居間の暖炉とキッチンの火元がそれぞれ煙突として屋根を貫いています。湖に面した庇のある北西側に夕日が沈む贅沢なロケーションですが、意外にも開口は限られており、キッチン、ダイニングテーブル、リーディングテーブルなどの採光の必要なところにだけ窓が設けられています。温暖な日の日中は屋外と半屋外で過ごすことが前提の家だったのだろうと推測します。
図面でとても魅力的に描かれた草葺き屋根は、つい「ニラハウス」(*4)を思い起こしてしまいますが、北欧では伝統的に土葺きの民家があったようです。2016年に三浦模型が制作した縮尺1/40の模型では草に覆われた屋根は綿(わた)で表現され、縮尺1/100の模型ではスチレンボードで表現されていました。そして、水彩画2点と、縮尺1/50の図面はいずれもアイノによるもので、アイノが鉛筆の下書きの上にフリーハンドで用心深くペンを入れていった(図面に費やした)時間や、自身で設計した住宅をスケッチしたり着彩する時間の過ごし方が想像できるものでした。
*4:藤森照信さんが設計した赤瀬川原平さんのご自宅で、日本の民家の芝棟や北欧の民家の土葺き屋根が参照され、竣工当時は屋根一面にニラの鉢植えが埋められていた。
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3、住宅をめぐる社会背景と「スニラ社パルプ工場と住宅地区」
第二章で再現された「最小限住宅展」は、アルヴァ・アアルトが出席した1929年のCIAM(*5)のテーマであった「生活最小限住居」に着想を得て、1930年にフィンランドの工業デザイン博で展示したものでした。アイノは、この「最小限住宅展」においても、第六章で紹介されたヘルシンキの「アアルトハウス」(1936年)においても、女性の社会進出と家政婦職の減少に伴う家事を担う主婦の増加を背景に、維持管理がしやすく、作業効率のいい合理的なキッチンを設計しました。
*5:近代建築国際会議(CIAM)は、1928年に発足し、1929年にドイツで第二回会議が開かれた。ハンス・ライスティコフ(Hans Leistikow)による「生活最小限住居」展ポスターがMoMAに所蔵されている。https://www.moma.org/collection/works/6107
また、エッセイ第11回で登場した建築分離派の一員の山田守(建築分離派)は、逓信省から海外視察に派遣され、この第二回会議に参加している。
二人のアアルトが設計した住宅の大半は、都市化と工業化によって需要が増加した不特定の一般の人のための集合住宅や規格化戸建て住宅で、第二章で展示された「スニラ社パルプ工場と住宅地区」もその一つです。
「スニラ社パルプ工場と住宅地区」(1936-38年、1951-54年、所在地:コトゥカ)
フィンランド湾に流れ込む川の河口に位置する自然豊かな半島に建てられた工場と、森の中に点在する従業員のための住宅群です。住宅には最小限住宅の理念を採用するだけでなく、技術者用のテラスハウスや労働者用の集合住宅にも各住戸専用の外部空間を確保するモデルを作り、住環境の質の向上に取り組みました。
会場には、トレーシングペーパーに描かれたアルヴァによる工場のパースと、アイノによる本社事務所の家具配置図、アアルト財団所蔵の1930年代に作られた敷地模型が展示されています。少し気になったのは、パースのタイトルには「SUNILA」と大文字が使われているのに対し、家具配置図は小文字の筆記体で「sunila」と書かれていたことです。アイノのサインは、バウハウスのタイポグラフィから影響を受けた小文字のものだったそうで、第五章の「ノールマルック保健センター」の図面で確認ができます。そして、アルテックのストアのロゴや図面の左上の社名表記も小文字の筆記体です。
敷地模型は、地形は合板の土台に厚紙のコンタ(等高線に沿って切り出した平面)を重ねて表現され、建造物はスタイロフォームで作られ、全体を白くジェッソで塗ったものでした。決して高価な素材というわけではありませんが、展示された模型の中では唯一の当時のオリジナルで、埃ひとつなかったので大切にケアされていたのだと思います。
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4、戦争とヴィープリの図書館
アイノが生きた当時の社会背景としてもう一つ無視できないのが世界恐慌と戦争です。フィンランドは1917年ロシアから独立後、1939~1940年の冬戦争、1941~1944年の継続戦争を経験します。その中で、フィンランドの一部だったヴィープリの街は、戦後は旧ソ連の支配下になり現在はロシア領となっています。第四章で展示された「ヴィープリの図書館」は、現存しますが、計画・建設中から世界恐慌の影響を受けて工期や敷地の変更があったり、戦争を経てそこに住んでいたフィンランド人の市民図書館だった期間はわずか10年前後と短かく、時に廃墟と化すこともあったという数奇な運命を辿りました。
ヴィープリの図書館(1935、所在地:ヴィープリ)
図書館建築の近代化の歴史から見ると、19世紀のヨーロッパでは、図書館建築は管理部門、閉架書庫、閲覧室の3つの機能空間が明確に分かれているのが一般的でした。一方アメリカでは開架の書棚エリアがあり、利用者自身が資料に自由にアクセスできるのが一般的で、20世紀前半の北欧では新しかったその考えを導入して設計されたのが、ヴィープリの図書館です。アイノは書架、机、椅子、植栽、屋外の家具などを提案しました。
パリ万国博覧会フィンランド館
展覧会では、写真と併せて、アルヴァによる1階講堂の「音響スタディ」、2階閲覧室の天井にくり抜かれた無数の円形のトップライトの「採光スタディ」、アイノによる「児童図書室のカーテンのデザイン」の図面が展示されています。また、建築写真家・模型製作家であり、『アルヴァ・アアルト の住宅-その永遠なるもの 』の著者でもあるヤリ・イェッツォネンが再製作した縮尺1/100の模型があり、そこからはこの建築が構造の技術に支えられた無柱空間であることや、講堂の波型天井、閲覧室の天井の厚みが確認できます。第七章に登場する「パリ万国博覧会フィンランド館」(1937)と見比べたとき、それらのトップライトの試行錯誤から、二人のアアルトは図書館建築や展示空間の課題を光のコントロールだと考えていたことが想像できます。
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5、アメリカ進出と「ベイカーハウス学生寮」
1938年にニューヨークMoMAでアルヴァ・アアルトの個展が開かれ、1939年に第七章で展示された「ニューヨーク万国博覧会フィンランド館」が完成します。アメリカでのキャリアを視野に入れていた矢先に戦争が起こりました。第七章の「ベイカーハウス学生寮」もアメリカの仕事です。
ベイカーハウス学生寮(1949年、所在地:ケンブリッジ)
MIT (マサチューセッツ工科大学)の学生寮で、車通りの多い道路に面し、どの道路に平行して川が流れる敷地に建てられました。寮の個室の窓を前面道路と正対させずに、道路側を流れるチャールズ川の眺望を獲得するため、蛇行した平面形状をしています。CADのない時代に様々な角度のついた各室の作図や施工は苦労しただろうと予想します。学生の個室の内装と造り付け家具などをアイノが設計し、二人が協働した最後の作品になりました。
この作品は、AR(拡張現実)での鑑賞作品になっており、スマートフォンに会場のQRコードを読み込んでアプリケーションを起動し、スマホカメラを壁面や展示台にある展示パネルにかざすと、寮の個室の内観3D、暖炉のあるロビーの内観3Dや、建物の外観や内観の映像が見られます。シーンの操作では、建物の模型の3Dから屋根の取れた模型、次に外観の立体写真という順に切り替えることもできました。


アイノが他界してからアルヴァはアメリカで継続的な活動をすることはありませんでした。フィンランドでの仕事があったからだけでなく、アイノと築いた成功の思い出のある場所に一人で行きたくなかった、という説があります。少し美談すぎるかもしれません。
(おう せいび)
●王 聖美のエッセイ「気の向くままに展覧会逍遥」は偶数月18日に掲載しています。
■王 聖美 Seibi OH
WHAT(旧 建築倉庫)キュレーター。1981年神戸市生まれ、京都工芸繊維大学工芸学部造形工学科卒業。主な企画展に「あまねくひらかれる時代の非パブリック」(2019)、「Nomadic Rhapsody -“超移動社会”がもたらす新たな変容-」(2018)、「UNBUILT : Lost or Suspended」(2018)。
「アイノとアルヴァ 二人のアアルト」展
会期:2021年3月20日(土・祝)~6月20日(日)
※日時指定予約制です。
開館時間:10:00~18:00(最終入場は17:30まで)
休館日:毎週月曜日(祝・休日の場合は開館、翌平日休館)
会場:世田谷美術館 1階展示室
開催概要
アイノ・マルシオ(1894-1949)が、まだ無名の建築家・アルヴァ・アアルト(1898-1976)の事務所を訪ねたのは1924年のことでした。アイノはそこで働きはじめ、ふたりは半年後に結婚します。アイノがパートナーになったことで、アルヴァに「暮らしを大切にする」という視点が生まれ、使いやすさや心地よさを重視した空間には、優しさと柔らかさが生まれます。
やがて国際的潮流となった合理主義的なモダニズム建築の流れのなかでも、ヒューマニズムと自然主義の共存が特徴として語られるアアルト建築は、独自の立ち位置を築きました。実用性や機能性を重視するモダニズムの理論は、ふたりのヴィジョンとも重なるものでしたが、夫妻は自国フィンランドの環境特性をふまえ、自然から感受した要素をモティーフとしたデザインを通じ、彼らなりの答えを探求していきます。アイノは54歳という若さで他界しますが、ふたりが協働した25年間は、かけがえのない創造の時間となりました。
互いの才能を認めあい、影響しあい、補完しあいながら作品をつくり続けたアアルト夫妻。本展は、これまで注目される機会の少なかったアイノの仕事にも着目することで、アアルト建築とデザインの本質と魅力を見つめ直し、新たな価値と創造性を見出そうとするものです。2020年にギャラリーエークワッド、竹中大工道具館にて開催した先行企画で展示された作品資料も網羅するほか、長年遺族のもとで保管されてきた初公開資料などもご紹介します。(公式ホームページより)
●本日のお勧め作品は光嶋裕介です。
光嶋裕介 Yusuke KOSHIMA
"幻想都市風景2020-01"
※画像をクリックすると拡大します。
2020年
和紙にインク、箔画
61.0x41.0cm
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものが青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転して3年が経ちました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
「アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランドー建築・デザインの神話」展を訪れて
世田谷美術館で2021年3月20日~6月20日まで開催されている「アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランドー建築・デザインの神話」展に行ってきました。アルヴァ・アアルトといえば、東京ステーションギャラリーの「アルヴァ・アアルト もうひとつの自然」(2019)が記憶に新しく、彼の妻といえば、「夏の家」(1954)を共同設計したエリッサも有名ですが、本展は、アイノ(1894-1949)とアルヴァ(1898-1976)が、公私のパートナーとして過ごした1924年から25年間の協働を主題にした展覧会です。2019年にGallery A4で行われた「アノイとアルヴァ 二人のアアルト 建築・デザイン・生活革命 小さな暮らしを考える」と、2020年に竹中大工道具館で行われた「アノイとアルヴァ 二人のアアルト 建築・デザイン・生活革命 木材曲げ加工の技術革新と家具デザイン」の巡回展という位置付けで、今年7月10日から兵庫県立美術館にも巡回します。
個人的には、アイノ・アアルトにスポットライトが当たることは、2000年前後から顕著な、アイリーン・グレイ(1878-1976)、シャルロット・ペリアン(1903-1999)ら女性建築家・デザイナーの再評価の流れと捉えており、国内では2016年にギャラリーA4で行われた「AINO AALTO Architect and Designer -Alvar AALTOと歩んだ25年-」の続編であって欲しい、という勝手な願いがありました。しかし、図録の中でトンミ・リンダ氏(アルヴァ・アアルト財団)とニーナ・ストリッツラー=レヴィン氏(バード・グラデュエート・センター)が書かれているように、アアルト建築事務所におけるアイノとアルヴァの連携が緊密だったために、どれが誰の仕事だったかが研究者にも特定できず、大規模にアイノ・アアルトの個展をつくるのは困難だったようです。
本展は、会期中に緊急事態措置(今年4月25日~5月11日)とその延長(~5月31日)があり、その間、世田谷美術館のYouTube「世田美チャンネル」(*1)で同展に関する4本のガイド動画や、インターネットミュージアム(*2)で会場内の動画が視聴でき、更には展覧会会場に行かなくてもオンライン注文で展覧会図録を入手できました。コロナ禍で各ミュージアムのオンラインサービスが加速し、展覧会に行かなくてもその内容にアクセスできるようになり、鑑賞者としても展覧会を作る者としても、「リアルな展覧会に足を運ぶ理由とそこで得られるもの」について、これまで以上に意識せざるをえなくなったと感じています。展覧会会場では、設計図、建築模型、再現展示、家具のモックアップや実物など、さまざまなスケールの体感できる資料が展示されました。今回は、模型の展示のあった作品の中から、いくつかピックアップして書きたいと思います。


*1:https://www.youtube.com/watch?v=va9fa7R4_EU
Vol.19~23「トゥルクの自宅兼事務所 子ども部屋」、「木材曲げ加工の技術革新」、「ニューヨーク万博フィンランド館」、「アアルトハウス リビングルーム」
*2:https://www.youtube.com/watch?v=warCDZdHp0E
1、会場構成について
世田谷美術館の建築は内井昭蔵の設計で1986年に完成、砧(きぬた)公園の中の美術館として建物が周辺の自然に馴染むよう、分割されたボリュームが回廊で繋がれています。
世田谷美術館模型昨年2020年7月~8月に開催された「作品のない展示室」展は、作品展示の無い状態の美術館建築を見せた展覧会として、コロナ禍最中の同時代性と企画の斬新さが話題になりました。
本展は、「イタリアから持ち帰ったもの」、「モダンライフ」、「木材曲げ加工の技術革新」、「機能主義の躍進」、「アルテック物語」、「モダンホーム」、「国際舞台でのアアルト夫妻」から成る全7章とエピローグで構成され、アイノ(当時30歳)とアルヴァ(当時26歳)が、新婚旅行で訪れたイタリア旅行、ユヴァスキュラの事務所時代の仕事からトゥルク、ヘルシンキそれぞれの事務所での仕事、その過程にある木材の技術革新やアルテックでの取り組み、アイノが54歳で亡くなるまでが追われています。
順路が、従来の、受付を通過後にサンクンガーデンに面した通路を渡って展示室に入る動線ではなく、受付通過後にミュージアムショップを経由し、収蔵庫と展示室に挟まれた通路を通って企画展示室に入る動線の体験は、少し違和感があるものの、新鮮さと建築の柔軟性を感じるものでした。
今回は収蔵庫と展示室に挟まれた通路の途中に展示室入口があるまた、天井のアーチ型の穴空き吸音板の範囲を意識して配置された第一章の「最小限住宅展」の再現展示「bed room 1・2」とサヴォイベースの形を模した第三章「木材曲げ加工の技術革新」、展示室の窓そのものを病室の窓と見立てた第四章の「パイミオのサナトリウム」、砧公園を望む横長窓を背景に配置された第七章の「ニューヨーク万博フィンランド館」の部分再現展示などの建築空間に呼応した展示デザインは、世田谷美術館の建築のコンセプトでもある「生活空間化」と「オープン化」の延長とも考えられます。
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2、アイノの人物像と「ヴィラ・フローラ」
都会で生まれ育ち、大学卒業後に大学の友人たちとヨーロッパ大陸の建築を巡り、子どもを家政婦に託児して仕事に励んでいたというアイノのエピソードからは、現代的な自立した女性像が思い描かれる一方で、アアルト姓を名乗り、個人の名前を主張することなく仕事をし、建築家として「ニューヨーク万博フィンランド館」の設計競技で3位という結果を出す実力を持ちながらも、所内では主に内装と家具のデザインを主に担当した、というのは疑問でもあります。
その背景を見てみると、フィンランドでは、1985年まで夫の姓または夫の姓を含む複合姓を名乗ることが決められていたことや、既婚女性は1919年までは知的職業に就けず、彼女が働き始めた頃は女性の社会進出が始まった頃にあたり、女性が建築家として活動する難しさから、多くは内装や家具デザインに取り組むのが通例だったことがあります。
また、「アイノは役割をよくわかっていた」と第六章の映像で解説されていたように、アイノがアアルト建築事務所の財務とアアルト家の家計を管理しており、ブランディングも意識していたようです。事務所のブランド戦略では、自身を含めた所員90人をアルヴァ・アアルトの名の下に統合し、事務所で手がけた仕事は全てアルヴァ・アアルトの功績としました。そして、アルテックでは、夫婦それぞれの名前で家具や製品を売り出すよりも「アアルト」という一つの名前の方が収益が上がると考えました。そんなアイノが個人の名前を出して設計したのが、第一章で展示された「ヴィラ・フローラ」と第五章で展示された「ノールマルック保健センター」(*3)でした。
*3:1946年完成、アイノが建築とランドスケープを担当した。図面には小文字の筆記体で書かれたアイノ・アアルトのサインがある。
「ヴィラ・フローラ」(1926年、所在地:アラヤルヴィ)
第一章で、ファミリームービーとともに紹介されている「ヴィラ・フローラ」は、アイノ・アアルトが家族のために設計した湖畔沿いの別荘です。幅約13mx奥行き約4mの52平米ほどの平屋で、屋根は切妻の草葺き、居間の暖炉とキッチンの火元がそれぞれ煙突として屋根を貫いています。湖に面した庇のある北西側に夕日が沈む贅沢なロケーションですが、意外にも開口は限られており、キッチン、ダイニングテーブル、リーディングテーブルなどの採光の必要なところにだけ窓が設けられています。温暖な日の日中は屋外と半屋外で過ごすことが前提の家だったのだろうと推測します。
図面でとても魅力的に描かれた草葺き屋根は、つい「ニラハウス」(*4)を思い起こしてしまいますが、北欧では伝統的に土葺きの民家があったようです。2016年に三浦模型が制作した縮尺1/40の模型では草に覆われた屋根は綿(わた)で表現され、縮尺1/100の模型ではスチレンボードで表現されていました。そして、水彩画2点と、縮尺1/50の図面はいずれもアイノによるもので、アイノが鉛筆の下書きの上にフリーハンドで用心深くペンを入れていった(図面に費やした)時間や、自身で設計した住宅をスケッチしたり着彩する時間の過ごし方が想像できるものでした。
*4:藤森照信さんが設計した赤瀬川原平さんのご自宅で、日本の民家の芝棟や北欧の民家の土葺き屋根が参照され、竣工当時は屋根一面にニラの鉢植えが埋められていた。
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3、住宅をめぐる社会背景と「スニラ社パルプ工場と住宅地区」
第二章で再現された「最小限住宅展」は、アルヴァ・アアルトが出席した1929年のCIAM(*5)のテーマであった「生活最小限住居」に着想を得て、1930年にフィンランドの工業デザイン博で展示したものでした。アイノは、この「最小限住宅展」においても、第六章で紹介されたヘルシンキの「アアルトハウス」(1936年)においても、女性の社会進出と家政婦職の減少に伴う家事を担う主婦の増加を背景に、維持管理がしやすく、作業効率のいい合理的なキッチンを設計しました。
*5:近代建築国際会議(CIAM)は、1928年に発足し、1929年にドイツで第二回会議が開かれた。ハンス・ライスティコフ(Hans Leistikow)による「生活最小限住居」展ポスターがMoMAに所蔵されている。https://www.moma.org/collection/works/6107
また、エッセイ第11回で登場した建築分離派の一員の山田守(建築分離派)は、逓信省から海外視察に派遣され、この第二回会議に参加している。
二人のアアルトが設計した住宅の大半は、都市化と工業化によって需要が増加した不特定の一般の人のための集合住宅や規格化戸建て住宅で、第二章で展示された「スニラ社パルプ工場と住宅地区」もその一つです。
「スニラ社パルプ工場と住宅地区」(1936-38年、1951-54年、所在地:コトゥカ)
フィンランド湾に流れ込む川の河口に位置する自然豊かな半島に建てられた工場と、森の中に点在する従業員のための住宅群です。住宅には最小限住宅の理念を採用するだけでなく、技術者用のテラスハウスや労働者用の集合住宅にも各住戸専用の外部空間を確保するモデルを作り、住環境の質の向上に取り組みました。
会場には、トレーシングペーパーに描かれたアルヴァによる工場のパースと、アイノによる本社事務所の家具配置図、アアルト財団所蔵の1930年代に作られた敷地模型が展示されています。少し気になったのは、パースのタイトルには「SUNILA」と大文字が使われているのに対し、家具配置図は小文字の筆記体で「sunila」と書かれていたことです。アイノのサインは、バウハウスのタイポグラフィから影響を受けた小文字のものだったそうで、第五章の「ノールマルック保健センター」の図面で確認ができます。そして、アルテックのストアのロゴや図面の左上の社名表記も小文字の筆記体です。
敷地模型は、地形は合板の土台に厚紙のコンタ(等高線に沿って切り出した平面)を重ねて表現され、建造物はスタイロフォームで作られ、全体を白くジェッソで塗ったものでした。決して高価な素材というわけではありませんが、展示された模型の中では唯一の当時のオリジナルで、埃ひとつなかったので大切にケアされていたのだと思います。
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4、戦争とヴィープリの図書館
アイノが生きた当時の社会背景としてもう一つ無視できないのが世界恐慌と戦争です。フィンランドは1917年ロシアから独立後、1939~1940年の冬戦争、1941~1944年の継続戦争を経験します。その中で、フィンランドの一部だったヴィープリの街は、戦後は旧ソ連の支配下になり現在はロシア領となっています。第四章で展示された「ヴィープリの図書館」は、現存しますが、計画・建設中から世界恐慌の影響を受けて工期や敷地の変更があったり、戦争を経てそこに住んでいたフィンランド人の市民図書館だった期間はわずか10年前後と短かく、時に廃墟と化すこともあったという数奇な運命を辿りました。
ヴィープリの図書館(1935、所在地:ヴィープリ)
図書館建築の近代化の歴史から見ると、19世紀のヨーロッパでは、図書館建築は管理部門、閉架書庫、閲覧室の3つの機能空間が明確に分かれているのが一般的でした。一方アメリカでは開架の書棚エリアがあり、利用者自身が資料に自由にアクセスできるのが一般的で、20世紀前半の北欧では新しかったその考えを導入して設計されたのが、ヴィープリの図書館です。アイノは書架、机、椅子、植栽、屋外の家具などを提案しました。
パリ万国博覧会フィンランド館展覧会では、写真と併せて、アルヴァによる1階講堂の「音響スタディ」、2階閲覧室の天井にくり抜かれた無数の円形のトップライトの「採光スタディ」、アイノによる「児童図書室のカーテンのデザイン」の図面が展示されています。また、建築写真家・模型製作家であり、『アルヴァ・アアルト の住宅-その永遠なるもの 』の著者でもあるヤリ・イェッツォネンが再製作した縮尺1/100の模型があり、そこからはこの建築が構造の技術に支えられた無柱空間であることや、講堂の波型天井、閲覧室の天井の厚みが確認できます。第七章に登場する「パリ万国博覧会フィンランド館」(1937)と見比べたとき、それらのトップライトの試行錯誤から、二人のアアルトは図書館建築や展示空間の課題を光のコントロールだと考えていたことが想像できます。
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5、アメリカ進出と「ベイカーハウス学生寮」
1938年にニューヨークMoMAでアルヴァ・アアルトの個展が開かれ、1939年に第七章で展示された「ニューヨーク万国博覧会フィンランド館」が完成します。アメリカでのキャリアを視野に入れていた矢先に戦争が起こりました。第七章の「ベイカーハウス学生寮」もアメリカの仕事です。
ベイカーハウス学生寮(1949年、所在地:ケンブリッジ)
MIT (マサチューセッツ工科大学)の学生寮で、車通りの多い道路に面し、どの道路に平行して川が流れる敷地に建てられました。寮の個室の窓を前面道路と正対させずに、道路側を流れるチャールズ川の眺望を獲得するため、蛇行した平面形状をしています。CADのない時代に様々な角度のついた各室の作図や施工は苦労しただろうと予想します。学生の個室の内装と造り付け家具などをアイノが設計し、二人が協働した最後の作品になりました。
この作品は、AR(拡張現実)での鑑賞作品になっており、スマートフォンに会場のQRコードを読み込んでアプリケーションを起動し、スマホカメラを壁面や展示台にある展示パネルにかざすと、寮の個室の内観3D、暖炉のあるロビーの内観3Dや、建物の外観や内観の映像が見られます。シーンの操作では、建物の模型の3Dから屋根の取れた模型、次に外観の立体写真という順に切り替えることもできました。


アイノが他界してからアルヴァはアメリカで継続的な活動をすることはありませんでした。フィンランドでの仕事があったからだけでなく、アイノと築いた成功の思い出のある場所に一人で行きたくなかった、という説があります。少し美談すぎるかもしれません。
(おう せいび)
●王 聖美のエッセイ「気の向くままに展覧会逍遥」は偶数月18日に掲載しています。
■王 聖美 Seibi OH
WHAT(旧 建築倉庫)キュレーター。1981年神戸市生まれ、京都工芸繊維大学工芸学部造形工学科卒業。主な企画展に「あまねくひらかれる時代の非パブリック」(2019)、「Nomadic Rhapsody -“超移動社会”がもたらす新たな変容-」(2018)、「UNBUILT : Lost or Suspended」(2018)。
「アイノとアルヴァ 二人のアアルト」展
会期:2021年3月20日(土・祝)~6月20日(日)
※日時指定予約制です。
開館時間:10:00~18:00(最終入場は17:30まで)
休館日:毎週月曜日(祝・休日の場合は開館、翌平日休館)
会場:世田谷美術館 1階展示室
開催概要
アイノ・マルシオ(1894-1949)が、まだ無名の建築家・アルヴァ・アアルト(1898-1976)の事務所を訪ねたのは1924年のことでした。アイノはそこで働きはじめ、ふたりは半年後に結婚します。アイノがパートナーになったことで、アルヴァに「暮らしを大切にする」という視点が生まれ、使いやすさや心地よさを重視した空間には、優しさと柔らかさが生まれます。
やがて国際的潮流となった合理主義的なモダニズム建築の流れのなかでも、ヒューマニズムと自然主義の共存が特徴として語られるアアルト建築は、独自の立ち位置を築きました。実用性や機能性を重視するモダニズムの理論は、ふたりのヴィジョンとも重なるものでしたが、夫妻は自国フィンランドの環境特性をふまえ、自然から感受した要素をモティーフとしたデザインを通じ、彼らなりの答えを探求していきます。アイノは54歳という若さで他界しますが、ふたりが協働した25年間は、かけがえのない創造の時間となりました。
互いの才能を認めあい、影響しあい、補完しあいながら作品をつくり続けたアアルト夫妻。本展は、これまで注目される機会の少なかったアイノの仕事にも着目することで、アアルト建築とデザインの本質と魅力を見つめ直し、新たな価値と創造性を見出そうとするものです。2020年にギャラリーエークワッド、竹中大工道具館にて開催した先行企画で展示された作品資料も網羅するほか、長年遺族のもとで保管されてきた初公開資料などもご紹介します。(公式ホームページより)
●本日のお勧め作品は光嶋裕介です。
光嶋裕介 Yusuke KOSHIMA"幻想都市風景2020-01"
※画像をクリックすると拡大します。
2020年
和紙にインク、箔画
61.0x41.0cm
サインあり
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WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
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