松本竣介研究ノート 第28回

情報官鈴木庫三について 下


小松﨑拓男


 ファシスト軍人鈴木庫三像が形成される元となった小説『風にそよぐ葦』の作者石川達三といえば、松本竣介が『みづゑ』に投稿した一文「生きてゐる画家」のタイトルの由来とされる、南京攻略戦を題材にした小説『生きてゐる兵隊』(図1)を書いた小説家でもある。この小説は、1938年『中央公論』3月号に掲載されたが、即日発禁処分となったもので、かつては反戦的な小説のように見做されていたが、『言論統制』の著者佐藤卓己によれば、「石川は国民に非常時を認識させるための必要性を主張」(注1)したものと言い、「その意味で、『生きてゐる兵隊』はおよそ反戦的な作品ではない」(注1)としている。

図1 石川達三『生きている兵隊』図1 石川達三『生きている兵隊』中公文庫版 伏せ字が復元されている。

 この事件の内容と経緯については、石川達三が残した警視庁の「聴取書」や「意見書」などの資料とともにまとめた、河原理子の岩波新書『戦争と検閲 石川達三を読み直す』(図2)に詳しい。またここでも石川達三がこの小説で「戦争のある種の真実を小説の形で伝えようとしたことは確かだが、日本軍の非道を暴こうとしたわけではなかったようだ」(注2)と河原も述べている。

図2 河原理子『戦争と検閲』岩波新書図2 河原理子『戦争と検閲 石川達三を読み直す』岩波新書

 確かに冒頭から中国大陸に進駐した日本兵が、放火をした中国人の首を切り落とす残忍な話で始まるものの、この小説は反戦を意図したものではない。南京陥落を題材にし、実際に現地の日本軍に許可を得て、同行した取材をもとに書き下ろされたルポルタージュ小説であり、軍隊生活を描いた創作物である。ところが、その内容に「老婆からの掠奪、女性殺害、慰安所、錯乱した日本兵」(注3)などが書かれていたことから、中央公論誌への掲載にあたっては、そのままでは軍の検閲を通らないと判断した編集者による伏せ字や章の大幅な削除などがあったにも関わらず、即日発禁処分になり、一旦店頭から回収された後、当該ページが裁断削除され店頭に並んだ。また石川達三と編集者は、終日取り調べを受け、起訴の後、裁判によって控訴審を経た上で、禁固4ヶ月執行猶予3年という有罪が確定した。この事件の経緯が「反戦」的な小説というイメージを植え付けたのだ。また戦後、そのことが石川達三の戦争協力に対する「免罪符、あるいは抵抗の勲章」(注4)となったと佐藤は指摘する。
 この『生きてゐる兵隊』≒(ニアイコール)「生きてゐる画家」の連想は、反戦小説『生きてゐる兵隊』という誤読されたイメージがそのまま「抵抗の画家」松本竣介というレッテルやキャッチフレーズへ繋がっていったのだろうということは想像に難くない。
 石川達三自身も『風にそよぐ葦』で描かれる軍部と戦うような出版人でも小説家でもなかった。むしろ当時は言論弾圧事件とは呼ばれず、筆禍事件と言われた発禁処分の汚名をそそぐべく、戦時中には日本文学報国会実践部長などの役職を歴任していたことからも分かるように、軍に協力的な態度をとっていたことは明らかだった。さらに当時の雑誌に「極端に言ふならば私は、小説といふものがすべて国家の宣伝機関となり政府のお先棒をかつぐことになつても構はないと思ふ」(注5)とまで述べている。繰り返すが、戦争に協力したとか、しないとか、あるいは抵抗の人であったとかの単純なレッテル貼りは意味がないのだ。実際の物事が、敵味方や善悪が明快に分かたれたような歴史の叙述に都合よく行くものばかりとは限らないということなのだろう。

 さて、最後に、この石川達三の小説『風にそよぐ葦』のために実像を見失ってしまった鈴木庫三の思想的な欠落を指摘しておきたい。つまり、教養人であったとしても、やはり情報将校鈴木庫三には決定的な思想的欠落があったということである。貧農出身ゆえの都市文化と資本家(自堕落な富裕層)への批判、そして社会的貧困に対する平等的な視点がありながら、かつ戯画化されたような極端なファシストではなかったはずの鈴木庫三が、情報将校として思想統制や弾圧に辣腕を振る舞ったことは事実だということである。軍人であったという立場だけがそうさせたのではない。そこには鈴木庫三の明らかな思想的欠落があった。
 それは「基本的人権」という人権思想の欠落である。人を出身や身分よって差別をしないという考え方は持っていたとしても、それは経済的な不平等の解消を指向したものであり、佐藤の『言論統制』に引用される鈴木庫三の文章から読み取れるのは、博愛的なそれか、あるいは東洋的、仏教的、あるいは儒教的な倫理的な在り方でしかない。独立した個人が生得的に持つ「権利」という考え方や思想は見当たらない。
 このことは『雜記帳』のなかで松本竣介が一個の独立した個人やヒューマニティについてしばしば触れていた事実とある種の落差を感じる。無論、中産階級の比較的裕福な家庭に育った松本の出自や、画家という芸術に生きる文化人として、自由と都会の生活にシンパシーを感じていたのだから、軍人鈴木庫三との立場は大きく異なって当然ではあるだろう。それでも、小説家や画家の中には国家目的と軍部の要請に積極的に協力して、結果的には戦争協力の片棒を担ぐことになった人たちがいたことも事実である。この戦争の時代にあって、あの鈴木庫三も出席していた座談会「国防国家と美術」に堂々と反論の一文を書くことが出来た松本竣介の存在は、たとえ「戦意高揚ポスター」を描いた事実があってもなお、際立つものなのだと言えるのではないか。そしてその思想は、鈴木庫三とは異なり、「基本的人権」という言葉によって明確に示されてはいなくとも、近代的な個人への揺るぎない信頼に由来するものだったのではないだろうか。

図3 松本竣介『画家の像』宮城県美術館所蔵2図3 松本竣介
『画家の像』
1941年
162.4×112.7cm
板、油彩
宮城県美術館所蔵

注1 佐藤卓己『言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』中公新書1759 中央公論新社 2004.8 p41
注2 河原理子『戦争と検閲 石川達三を読み直す』岩波新書1552 岩波書店 2015.6 px
注3 同上 pv
注4 『言論統制』p45
注5 同上 p45
こまつざき たくお

小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。

小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
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