「平木コレクションによる 前川千帆展」

西山純子


 前川千帆(まえかわせんぱん 1888-1960)という作家をご存じだろうか。大正から昭和にかけて活躍した、漫画家にして木版画家である。漫画家としては、新聞の連載で「一世を風靡した」と語られるほど著名だったし(図1)、木版画家としても恩地孝四郎・平塚運一とともに「御三家」と称されるほどの実力者であったが、今ではその名を知る人は少ない。このほど、筆者の勤務する千葉市美術館で、公益財団法人平木浮世絵財団の全面的なご協力のもと「平木コレクションによる 前川千帆展」が開催される運びとなった(9月20日まで開催中)。近代版画を担当している筆者にとって、千帆の名と作品はごく親しいものであったが、展覧会を準備するなかで、自分がいかにその仕事の一端しか見ていなかったかに気づかされた。千帆のユニークさと魅力、そして忘れられてしまった背景についても、改めて考えさせられることになった。

202108西山純子1図1 前川千帆・下川凹天『現代連続漫画全集 第1巻 あわて者の熊さん 男やもめの巌さん』アトリヱ社/昭和10年/夜鳥文庫

 千帆は、明治期の末に南薫造の作品にふれて創作版画の魅力を知り、大正7年頃から、おそらくは石井鶴三に勧められて本格的に制作を始めるのだが、世が知る千帆は疑いなく、圧倒的に漫画家としてであった。それは彼の漫画が愛されたからというだけでなく、露出においても木版画を大きく引き離していたからである。調べてみれば、明治期末の紙誌へのコマ絵の投稿に始まり、新聞のコマ割漫画や雑誌の漫画漫文へと続いてゆくその仕事量は、実に膨大なものであった。加えて、これは近年掘り起こされた事実だが、国産アニメーションの元年とされる大正6年、千帆は幸内純一の第一作「なまくら刀」を共作している。版画界から眺めると朴訥なイメージが先行する千帆だが、意外にもジャーナリズムや活動写真界の尖端を知る場にいたらしく、千帆の版画も、こうした背景から見直されるべきなのかもしれない。たとえば《少女》の、かわいらしいだけでなく、なんともモダンで垢抜けた、ファッショナブルな雰囲気(図2)。あるいはシリーズ『野外小品』が見せる、現代風俗図鑑とも言うべき視点(図3)。漫画を山ほどこなして来たゆえの手の早さやそこから来るスピード感も千帆ならではの個性であろうし、『野外小品』などは、それぞれがフィルムの一コマ一コマのようであり、今にも動きだしそうな動感に満ちている。少なくとも千帆の木版画が、こうした尖端的なメディアでの仕事と並行して手がけられたことは覚えておくべきだと思う。

202108西山純子2図2 前川千帆《少女》木版多色摺/昭和2年頃/平木浮世絵財団

202108西山純子3a202108西山純子3b図3 前川千帆『第二野外小品』より リノカット墨摺/昭和4-5年/平木浮世絵財団

 だが千帆は、昭和10年の頃、漫画家の看板をおろして忙しい連載生活から離れ、木版画に軸足を移す。漫画界での人気ぶりを「虚名」と感じての撤退だったようだが、以後の仕事に重要な役割を果たしたのがアオイ書房主・志茂太郎であった。千帆は志茂に支えられて、新聞漫画からの反動のように、手作り感に満ちた木版による「本」を自身の主業としてゆく。それらの部数は50から多くても200ほどで、大半は会員制で頒布された。マスコミからミニコミへの劇的とも言える転向―これもまた千帆のユニークな点であり、あまり知られていない事実であろう。そして版画家千帆の本領はここから始まったと言ってよい。とりわけ、日本の温泉地を巡る連作『版画浴泉譜』や、戦中に始まる小本のシリーズ『閑中閑本』の素材の多彩さ、表現の楽しさは格別だ(図4、5)。ただしはがゆいことに、実際に掌に載せて、また個ではなく群れで鑑賞しないと魅力が伝わらない。ケースのなかで、しかも一部しか披露できない展覧会にはまことに不向きな作品世界なのである。今春展覧会図録の編集に苦しみながら、図録をだすよりも、復刻本を一冊作ったほうがはるかに顕彰できるのでは?と何度思ったことかー(ゆえに会場では、家蔵の『閑中閑本』を手にとってご覧いただくことにした)。このはがゆさは、千帆の評価の低さへのはがゆさでもある。千帆はまことに欲のない人で、作品を欲しがる人に頒けることで満足したし、一枚摺の作品もわずか2、3枚しか摺らなかったという。幸運なファンが愛蔵するだけで(あるいは関野凖一郎が書くように古書店を儲けさせるだけで)、作例の乏しさから紹介の機会も減り、評価が広がらなかったのである。戦後の創作版画ブームにも乗ることなく、昭和35年に72歳で亡くなった。

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図4 前川千帆『続版画浴泉譜』より《雲仙》《指宿》 木版多色摺/昭和19年/個人

202108西山純子5図5 前川千帆『閑中閑本 第四冊 北越雪見帖』より 木版多色摺/昭和23年/平木浮世絵財団


 千帆の木版画は底抜けに明るく、実に平和だ。千帆自身、アートの尖端に立つよりも制作を楽しみ、鑑賞者を楽しませることを至上とする人だった。これも残念ながら、どちらかと言えば悲劇的な作家像を尊ぶ日本で、評価の低さを招いたのかもしれない。けれども改めて作品群を見渡してみると、千帆の良さになぜ気づかなかったかと感じるし、コロナが猛威をふるうこの時期に、千帆作品の突き抜けた明るさがより一層沁みるのも事実である。緊急事態宣言下で展示室にはまさに閑古鳥が鳴いているが、千帆の作品世界を再評価するいい時期かもしれないと密かに思っている。大きな声では言いにくいが、できたらこっそり展示室をお訪ねいただきたい。「欲しく」なること受け合いである。
にしやま じゅんこ

■西山純子(にしやま・じゅんこ)
1966年東京都生まれ。1993年早稲田大学大学院文学研究科芸術学(美術史)修士課程修了。1995年より千葉市美術館学芸員。専門は日本近代の版画。1997年より5回にわたり、明治期末から戦後にかけての日本版画を総覧するシリーズ展「日本の版画」を手がける。他に「竹久夢二展ー描くことが生きることー」「生誕130年 橋口五葉展」「生誕130年 川瀬巴水展ー郷愁の日本風景」「生誕140年 吉田博展」「木版画の神様 平塚運一展」などを企画。著書に『橋口五葉ー装飾への情熱』『新版画作品集ーなつかしい風景への旅』、共著に『すぐわかる画家別近代日本版画の見かた』(いずれも東京美術刊)がある。

●展覧会のお知らせ
平木コレクションによる 前川千帆展
会期:2021年7月13日[火] – 9月20日[月・祝]
(前期:7月13日[火] – 8月15日[日]後期:8月17日[火] – 9月20日[月・祝])
休室日:8月2日[月]、8月16日[月]、9月6日[月]
※8月2日[月]、9月6日[月]は休館日
会場:千葉市美術館
主催:千葉市美術館
協力:公益財団法人平木浮世絵財団
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前川千帆(まえかわせんぱん:1888-1960)は、恩地孝四郎・平塚運一とともに「御三家」と称された、近代日本を代表する創作版画家です。京都に生まれ、漫画家として名を成すかたわら木版画を手がけ、清澄な彫摺と躍動感のあるユーモラスな造形により独自の作風を拓いたその作品は、今なお色褪せない魅力を有します。また近年、日本のアニメーション草創期に少なからぬ役割を果たした事実も掘り起こされ、マンガやアニメがクールジャパンの象徴として評価される今こそ再検証すべき作家と言えるでしょう。
1977年にリッカー美術館で開催された「前川千帆名作展」以来、実に44年ぶりの大回顧展となる本展は、浮世絵の大コレクションで知られる公益財団法人平木浮世絵財団の所蔵品を中心に、約350点の作品から前川千帆の版業を総覧いたします。庶民のつましくも平和な日常に温かなまなざしを注ぎ、時にほのぼのと、時にしみじみと、人や街、温泉地を刻んだセンパンさんの作品世界を、どうぞお楽しみください。(千葉市美術館ホームページより)

●図録のご紹介
1631256894399『平木コレクションによる 前川千帆展』図録
編集:西山純子(千葉市美術館)
展示編集協力:公益財団法人平木浮世絵財団、佐藤光信、森山悦乃、松村真佐子
ブックデザイン:川添英昭
印刷製本:日本写真印刷コミュニケーションズ株式会社
発行:千葉市美術館
発行日:2021年7月13日
サイズ:231 × 185 × 20 mm
ページ数:256ページ
税込価格 2,420円
※ときの忘れものでも取り扱っています。

●本日のお勧めは倉俣史朗です。
kuramata-34倉俣史朗 Shiro KURAMATA
《#1071 灰皿》
1981年デザイン(2020年製造)
アルミニウム
18.0×18.0×3.8cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆「没後30年 倉俣史朗展 今尚色褪せないデザインの革命児」は本日最終日です。

会期=8月12日~8月22日(無休)
会場=渋谷・Bunkamura Gallery

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
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