松本竣介研究ノート 第29回
都会の風景
小松﨑拓男
以前にも指摘したことだが、松本竣介には自然を描いた風景画は、初期の学生時代に描いたもの以外にはほとんどない。どの風景画にも、自然にある樹木や空などだけではなく、必ず建物、つまり人工物が描かれていて、それらが作品の主題をなしている。だから、あのスケッチ帳にあった「志賀高原」での水彩で描かれた写生画(図1)はすこぶる珍しいものだと言わざるを得ない。ほとんど例外的なものだ。
図1
スケッチ部分(志賀高原)
松本竣介手帖『ZATU』より
もし自然を描くことが不得手で、その技術がなく描かないのならそれも理解できる。しかし、例外的なものだからと言って、その技量において、どこか松本竣介の作品としては見劣りするものだとも思えない。確かに珍しいが、素直で実直な写生画であり、その意味では得手ではなかった故に、描くことをしなかった訳ではなさそうである。やはりあえて主題としての「自然のままの風景」は描かなかったということで、そこには明らかに何らかの、あるいは無意識の選択があったと言えるだろう。
なぜ、松本竣介は自然の風景を描かずに、建物や都会の風景を描いていたのだろうか。単に主題としての好き嫌いだけなのか。好悪の問題に還元してしまうことは容易いが、これではほとんど何の意味も持たない。それではなぜ好きなのか、という次の問いに答えなければならなくなるからだ。これは私にとって松本竣介に関する疑問の一つでもある。なぜ彼は都会風景を描き続けたのか。
一般的に、絵画における風景画は、クロード・ロラン(注1)の描いたような理想的な風景(つまり、現実の風景ではない)から、やがてチューブ入りの絵の具の発明によって戸外での油絵による写生が可能になると、コンスタブル(注2)のように実際の風景を描く風景画が登場する。コンスタブルは英国の自分の故郷の姿をそのままに描いた。そこには現実の大気の光に溢れる描写があり、それは歴史的には印象派の登場を促すことになる。
コンスタブル以前の風景画は、全て画家たちのアトリエや工房で仕上げられていたのだ。それに対して印象派の画家たちは実際にその場所に赴き、イーゼルを立て、キャンバスを置き、戸外で現前する景色を写した。彼らが暮らす、あるいは旅行によって訪れた土地の森、あるいは川縁や海辺の光景といったものを素早い筆のタッチで描いた。なぜなら戸外では太陽がある明るい内でしか描けないからだ。こうして私たちがよく知る風景画がごく普通に描かれるようになったのは印象派以降だと考えていいだろう。
もちろん、日本人が明治以降に西洋の絵画、油彩画を本格的に学び始めた頃には、すでに風景画はこうした写生をして描くものであった。
印象派の風景画の主題は単に自然だけではない。彼らの生活を取り囲むあらゆるシーンが絵画の題材となった。だから自然もあれば都会の建物も、家族や友人、汽車や船、場末の酒場も、競馬場もサーカスもあった。こうした作品は、私たちにあることを物語っている。それは何か。
それは「近代」という時代が誕生したこと、そしてその近代を象徴する場所としての都会での生活とその環境が描き出されているということであるだろう。市民革命によって王権が倒れ、また産業革命によって資本主義が勃興して近代的な産業が起きると、ヨーロッパには新しい社会が出現する。資本家と労働者、やがて都市生活者としての中産階級という新たな市民たちが生まれる。こうした市民たちが生活する都会の喧噪、さらにはその都会の騒がしい日常から逃れ、心を癒やす場所としての郊外と緑の自然。パリ近郊のバルビゾン(注3)に集う画家たちによって自然を描くことが流行したのも、こうした時代の一つの現れなのだ。あるいは、自然と共に生きることを主張したソロー(注4)のような思想家が生まれるのも、それが、人工物に囲まれ、合理主義と効率主義、時間や数字に追われ、めまぐるしい社会の動きに従わなければならない都市生活の対極の生活であったからなのだ。
こうした自然と、あるいは郊外の緑の風景と近代的な都会の生活というものが、対極的なものとして近代では措定されている。印象派以降の画家たちは、自分の物語を紡ぎながら、実はこの近代社会の姿を絵画として図らずも描き出していたのだ。あるものは踊り子たちの世界に、あるものは娼婦やその場末の酒場に耽溺し、あるものは池の水面に映る睡蓮を、郊外の森をと。つまり、ここには内側と外側、あるいは中心と外縁といった対立的な構造が映し出されているのだ。
松本竣介は、終始「都会の風景」を描いた。これは彼が徹底した都会を生きる近代人であったからではないか。つまり、単に主題に対する好悪の問題ではなく、必然的な選択であったのではないかということである。ヒューマニティ、あるいはモダーンという言葉が、松本竣介の絵画にマッチするのは、本質的に松本が近代人の精神を生きていたからなのだ。それは神の世界からも独立し、擬制的な地縁や血縁によって共同体に結び付けられるような封建的なそれでもなく、自立し独立した自我としての存在、その精神の現れが絵画に表現される時、自らの住処としての都会風景となったのではないだろうか。
図2
『街』
1938年8月
油彩・板
131.0×163.0cm
第25回二科展出品
(公財)大川美術館
注1 クロード・ロラン(1600年代~1682)フランスの古典主義の風景画家。
注2 ジョン・コンスタブル (1776~1837)イギリスを代表する風景画家。フランスのサロンで発表された『乾草車』はドラクロワの称賛を受け、のちの印象派の誕生に影響を与えたとされる。ターナーと同時代人。
注3 バルビゾン パリ郊外のフォンテンブローの森に隣接する地域の名前。コローやミレーなどフランスを代表する風景画家が集い、その美しい自然を題材に作品を制作した。
注4 ヘンリー・ディビッド・ソロー(1817~1862)アメリカの思想家、詩人。森で自給自足の自然生活を実践。
(こまつざき たくお)
●小松﨑拓男のエッセイ「松本竣介研究ノート」は毎月3日の更新です。
■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●本日のお勧め作品は松本竣介です。

松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
《作品》
紙に鉛筆(表と裏、両面に描画されています)
イメージサイズ:22.5x25.2cm
シートサイズ: 28.5x37.5cm
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
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都会の風景
小松﨑拓男
以前にも指摘したことだが、松本竣介には自然を描いた風景画は、初期の学生時代に描いたもの以外にはほとんどない。どの風景画にも、自然にある樹木や空などだけではなく、必ず建物、つまり人工物が描かれていて、それらが作品の主題をなしている。だから、あのスケッチ帳にあった「志賀高原」での水彩で描かれた写生画(図1)はすこぶる珍しいものだと言わざるを得ない。ほとんど例外的なものだ。
図1スケッチ部分(志賀高原)
松本竣介手帖『ZATU』より
もし自然を描くことが不得手で、その技術がなく描かないのならそれも理解できる。しかし、例外的なものだからと言って、その技量において、どこか松本竣介の作品としては見劣りするものだとも思えない。確かに珍しいが、素直で実直な写生画であり、その意味では得手ではなかった故に、描くことをしなかった訳ではなさそうである。やはりあえて主題としての「自然のままの風景」は描かなかったということで、そこには明らかに何らかの、あるいは無意識の選択があったと言えるだろう。
なぜ、松本竣介は自然の風景を描かずに、建物や都会の風景を描いていたのだろうか。単に主題としての好き嫌いだけなのか。好悪の問題に還元してしまうことは容易いが、これではほとんど何の意味も持たない。それではなぜ好きなのか、という次の問いに答えなければならなくなるからだ。これは私にとって松本竣介に関する疑問の一つでもある。なぜ彼は都会風景を描き続けたのか。
一般的に、絵画における風景画は、クロード・ロラン(注1)の描いたような理想的な風景(つまり、現実の風景ではない)から、やがてチューブ入りの絵の具の発明によって戸外での油絵による写生が可能になると、コンスタブル(注2)のように実際の風景を描く風景画が登場する。コンスタブルは英国の自分の故郷の姿をそのままに描いた。そこには現実の大気の光に溢れる描写があり、それは歴史的には印象派の登場を促すことになる。
コンスタブル以前の風景画は、全て画家たちのアトリエや工房で仕上げられていたのだ。それに対して印象派の画家たちは実際にその場所に赴き、イーゼルを立て、キャンバスを置き、戸外で現前する景色を写した。彼らが暮らす、あるいは旅行によって訪れた土地の森、あるいは川縁や海辺の光景といったものを素早い筆のタッチで描いた。なぜなら戸外では太陽がある明るい内でしか描けないからだ。こうして私たちがよく知る風景画がごく普通に描かれるようになったのは印象派以降だと考えていいだろう。
もちろん、日本人が明治以降に西洋の絵画、油彩画を本格的に学び始めた頃には、すでに風景画はこうした写生をして描くものであった。
印象派の風景画の主題は単に自然だけではない。彼らの生活を取り囲むあらゆるシーンが絵画の題材となった。だから自然もあれば都会の建物も、家族や友人、汽車や船、場末の酒場も、競馬場もサーカスもあった。こうした作品は、私たちにあることを物語っている。それは何か。
それは「近代」という時代が誕生したこと、そしてその近代を象徴する場所としての都会での生活とその環境が描き出されているということであるだろう。市民革命によって王権が倒れ、また産業革命によって資本主義が勃興して近代的な産業が起きると、ヨーロッパには新しい社会が出現する。資本家と労働者、やがて都市生活者としての中産階級という新たな市民たちが生まれる。こうした市民たちが生活する都会の喧噪、さらにはその都会の騒がしい日常から逃れ、心を癒やす場所としての郊外と緑の自然。パリ近郊のバルビゾン(注3)に集う画家たちによって自然を描くことが流行したのも、こうした時代の一つの現れなのだ。あるいは、自然と共に生きることを主張したソロー(注4)のような思想家が生まれるのも、それが、人工物に囲まれ、合理主義と効率主義、時間や数字に追われ、めまぐるしい社会の動きに従わなければならない都市生活の対極の生活であったからなのだ。
こうした自然と、あるいは郊外の緑の風景と近代的な都会の生活というものが、対極的なものとして近代では措定されている。印象派以降の画家たちは、自分の物語を紡ぎながら、実はこの近代社会の姿を絵画として図らずも描き出していたのだ。あるものは踊り子たちの世界に、あるものは娼婦やその場末の酒場に耽溺し、あるものは池の水面に映る睡蓮を、郊外の森をと。つまり、ここには内側と外側、あるいは中心と外縁といった対立的な構造が映し出されているのだ。
松本竣介は、終始「都会の風景」を描いた。これは彼が徹底した都会を生きる近代人であったからではないか。つまり、単に主題に対する好悪の問題ではなく、必然的な選択であったのではないかということである。ヒューマニティ、あるいはモダーンという言葉が、松本竣介の絵画にマッチするのは、本質的に松本が近代人の精神を生きていたからなのだ。それは神の世界からも独立し、擬制的な地縁や血縁によって共同体に結び付けられるような封建的なそれでもなく、自立し独立した自我としての存在、その精神の現れが絵画に表現される時、自らの住処としての都会風景となったのではないだろうか。
図2『街』
1938年8月
油彩・板
131.0×163.0cm
第25回二科展出品
(公財)大川美術館
注1 クロード・ロラン(1600年代~1682)フランスの古典主義の風景画家。
注2 ジョン・コンスタブル (1776~1837)イギリスを代表する風景画家。フランスのサロンで発表された『乾草車』はドラクロワの称賛を受け、のちの印象派の誕生に影響を与えたとされる。ターナーと同時代人。
注3 バルビゾン パリ郊外のフォンテンブローの森に隣接する地域の名前。コローやミレーなどフランスを代表する風景画家が集い、その美しい自然を題材に作品を制作した。
注4 ヘンリー・ディビッド・ソロー(1817~1862)アメリカの思想家、詩人。森で自給自足の自然生活を実践。
(こまつざき たくお)
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■小松﨑拓男 Takuo KOMATSUZAKI
千葉県生まれ。横浜そごう美術館、郡山市美術館準備室、平塚市美術館の主任学芸員を経て、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]学芸課長、広島市現代美術館学芸課長、副館長を歴任後、金沢美術工芸大学教授を2019年まで務める。現在、美術評論家連盟会員、文教大学情報学部非常勤講師として「美術」「サブカルチャー論」担当。
キュレーター時代には絵画をはじめとしてメディア・アートなど先端領域を含めた幅広い分野で近現代美術の展覧会を企画。村上隆、奈良美智、会田誠などを公立美術館で初めて本格的に紹介した。
主な展覧会に「TOKYO POP」(平塚市美術館)「New Media New Face / New York」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC])「絵画新世紀」「サイバー・アジア」(広島市現代美術館)「エコメトロ」(光州ビエンナーレ)などがある。
●本日のお勧め作品は松本竣介です。

松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO《作品》
紙に鉛筆(表と裏、両面に描画されています)
イメージサイズ:22.5x25.2cm
シートサイズ: 28.5x37.5cm
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