石原輝雄のエッセイ「美術館でブラパチ」─9
『セミの抜け殻』
展覧会 令和3年度第2回コレクション展 長谷川潔の版画
京都国立近代美術館4階展示室
2021年6月24日(木)~8月29日(日)
長谷川潔使用 銅版画用道具
コロナ禍と大雨に悩まされたこの夏にあって、京都国立近代美術館(以下、京近美)のコレクションルームで拝見した『長谷川潔の版画』展示は、清楚な空気に包まれ、観る者の背筋を伸ばさせてくれる良い企画だった。個人的に作品と作者に初めてお会いしたと打ち明けたい気持ちである。
コレクションルームがある四階に上がって開放的な窓から平安神宮大鳥居、京都市京セラ美術館、東山如意ヶ嶽を望むと朱色が華やかに浮かぶ、しかし、従前のようには人が居りません。本稿がアップされる頃には賑わいは戻っているのだろうか? 8月29日に終了した展覧会を報告するのは心苦しいが、京近美のコレクションなので、次回への備忘録と解してもらえたら幸いである。
京都国立近代美術館4階
ビュランなど
四階奥の壁面に長谷川潔(1891~1980)の版画作品が渡仏前の文学雑誌『仮面』、短歌雑誌『水甕』の表紙画や挿画から、晩年のマニエール・ノワールまでおよそ40点と、油彩5点が掛けられている。京近美がコレクションする243点におよぶ作品や資料から、どれが選ばれ展示されているかは興味ある事柄なのだが、部屋に入って長谷川が用いた道具類に心奪われた。オブジェの様に美しい。ビュランの黒光りした木製の取手と金属の刃先。昆虫の標本ではありませんか。素人なので取手を掌に当て押すのかと思い、作品との関連を見比べながら、時間を忘れた。道具が並べられたケースを回り、菱形や正方形の刃先を覗き込む。長谷川は道具を自作しているし、古い技法を蘇らせたベルソーの場合などでは、芸術的な版画が出来ると確信するも、一旦廃れた道具はパリでも姿を消し「それで、二、三年たちまして、ようやくイギリス製のものを見つけて、それでやり出したのが、1924年だったんです」(『白昼に神を視る』白水社1982年刊。23頁。以下頁数のみの引用表記は同書)と回想する。
9-1 同時代人
大阪・梅田にあった古書店リブレリ・アルカードで長谷川潔の版画を手にしたのは1970年代の中頃だったと記憶する。生半可なアプローチを許さない厳しさがあって、マニエール・ノワールにたじろいだものの、ビュランの鋭い線描と紙の質感には癒やされた。唐墨の魅力に疎い若造は、明晰な線の表現が知的な碧眼と結びつくと勝手に思ってビュランによる表現を好んだ。画家は女性像をあまり残さなかったので(古書店では観なかった)、遠ざかったとも言える。そんな記憶が、文学同人雑誌『聖盃』の表紙画として提供した素描が、原画とはまるっきりかけ離れ「生気」の失われた印刷物になったのに落胆したのが「自刻木版画をはじめる動機となった」(109頁)という年譜の辺りから、筆者が専門とするマン・レイとの共通点に気づき驚いた。展示されている『仮面』(前述『聖盃』改題)に用いられた1914~15年の板目木版画『ダンス』と『金色に踊れる男』の躍動感に惹かれた。── 個人的には発見なのである。後者の制作はマン・レイが初個展を開いたのと同年で、二人は年齢差一年の同時代人。年下の長谷川は1914年にフランスから銅版画用印刷機を取り寄せているし、マン・レイもマンハッタンから重量物の印刷機をリッジフィールドの住まいに運び、印刷工程に触手を伸ばす。職人に任せきれないこだわりが二人には色濃く、また、文学への関心、正規の美術教育を受けていないのも共通する要素だった。
長谷川潔 原版
彫刻刀、ルーレットなど
道具
前後するが、ケースには版木や彫刻刀なども並び、こちらには筆者も親近感。掌と云うより身体の動きが、道具から伝わる感覚。「日本伝統木版画とはぜんぜん異質の、自由な荒彫りの黒色木版画の制作へと私は乗りだしていった」(109頁)と長谷川。大胆でありながら精緻な画面構成に躍動感が伴うのは、この身体性からもたらされると思うが、浮世絵版画において用紙の裏側からこするバレン刷りの力加減を想像する。画家の場合は「洋風印刷機」を用いた刷りで、「西洋の活版インクの油びかり」を取り除く「いちじるしい労力と時間を食う」(115頁)独自の印刷法の成果であるだろう。展示されている作品個々の技法についての知識を持たない身であっても、落ち着いた作品の精神性を感受する事が出来た。
左から『アレキサンドル三世橋とフランス飛行船』(1930年)、『キャンベルの古い橋』(1922年)、『ムードンの陸橋』(1921年)、『ラ・コル村風景』(1928年)、『ジゴン古村の礼拝堂』(1938年)
左から『ニオンスの村』(1923年)、『ヴォルクスの村』(1930年)
1919年に渡仏した画家は、木版はやわらかすぎ、「銅版が質として一番適している」と打ち明け、さらに銅版画に熱中して行くのだが、わたしは過渡期にあたる多色刷り試作の板目木版『ムードンの陸橋』(1921年)に目を留める。写実的でありながら右に曲がる道の傾斜がリズムを醸し出す不思議な遠近法が、彼の地の空気感を伝える。長谷川の薫陶を受けた魚津章夫は、苦心して試作する画家に言及し「木版画の制作材料を調えるには不便な外国にあって、しかも湿度の違う気候のなかで、多色板目木版画の作品を完成させることはいかに困難であったか」(『長谷川潔の全版画』玲風書房1999年刊。44頁)と伝えている。未完成でその後ほとんど制作されなかった理由について、フランスから取り寄せた版画や書籍の疲れ具合に心痛める筆者などは湿度の問題を特に指摘したい。完璧な保存環境を用意するより、作品入手に走った凡夫の浅はかさを反省。『ムードンの陸橋』に惹かれたのは、フランスの空気、憧れの地を前に船上から若い長谷川が「これこそモネの色だ、フランスの青なのだ!」(137頁)と心に叫んだ感動の静かな表現がもたらすもの。良いのですよ、これが。湿気からマン・レイ作品を守るべきだったと、凡夫は70歳にして思う。
『アレキサンドル三世橋とフランス飛行船』(1930年)とは、前述の古書店で接しているので、懐かしい。渡仏直後の油彩を含め、心象から風景に至る明るさが空間を満たしている。急いで付け加えると、長谷川は1921年5月に後に妻となるミシェリーヌ・ビアンキと出会うのだが、子供が居ると云う事では、マン・レイの最初の妻アドン・ラクロアを、踊り子と云う事では、キキ・ド・モンパルナス、あるいは、アディ・フィドランを同じような例と指摘出来るだろう。異国での男女の物語については別の機会に触れたい。
9-2 ボン・ジュール!
マニエール・ノワール 『コップに挿したアンコリの花(過去・現在・未来)』(1965年)、『飼馴らされた小鳥(草花と種子)』(1962年)他
長谷川潔 道具
左から『鳥と花』(1926年)、『アネモネ』(1930年)、『宝石と香水』(1946年)、『一樹(ニレの樹)』(1941年)、『彫像のある静物』(1951年)
さて、京近美の『長谷川潔の版画』を展示するコレクションルームは、二つに分かれている。次の部屋は画家の代名詞であるマニエール・ノワールの仕事17点などが並べられ、対向の壁面には草花を描いた油彩が3点。フランスでも忘れられていたマニエール・ノワールと云う技術は、中間色がたくさんあって精巧で非常に写真に似たもので、「ほかの技術であらわせない特別な美しいマチエールを持っているにもかかわらず、つくられたものは非常につまらないものだと思いまして、で、これに活を入れるつもりでもってやり出したわけです」(23頁)と画家は説明する。眼の前にあるのは1959~69年にかけての、技法が完成した静物画。画家の親しむモチーフが完璧な構図の中に置かれている。わたしは見入るのだが、静寂がありすぎ、若造の頃とおなじようにたじろぐ。
武家の先祖を持つ裕福な家系の5人姉弟の第3子と生まれながら父を12歳、母を19歳で亡くし、姉弟も姉の幸子の他は早い別れ、第二次世界大戦間にも日本に戻ることなくパリで暮らした画家。継子にまつわる不幸もあって、版画の底知れぬ魅力を長谷川の回想にある実家のお稲荷様の神体「白狐像」から解釈しようとするのは、凡夫としてしかたのないことだろうか──「かようなご神体は衆俗の家に置くべきではありません。人天の両界は飽くまで一線を画すべきであって、さもないときは、かならず天罰がくだりましょうぞ」(132頁)と語った易者の勧めにしたがって画家が庭に建てた社、神祠の内部ではないか、眼を凝らすも唐墨に例えられる発色を感受できなく、自然の光に当てることも叶わず、ただ、ポアント・セーシュ技法による『一樹(ニレの木)』(1941年)の挨拶を聴くのみ「ボン・ジュール!」(11頁)。油彩のきらめく色合いが仏花のようでもあって、凡夫と画家との住む世界の相違を改めて感じるのであった。
ここに刃が櫛状に並んだ道具、ベルソーが置かれていたら、作品との回路となったのではと思う。しかし、隣の部屋にも無いから対話には遠い。
左から『コップに挿した草花』(1932年)、『白い花瓶に挿した薔薇その他』(1938年頃)、『白い花瓶に挿した草花』(1948年)
最晩年の長谷川潔が自選した、状態が完璧な版画などによって京近美のコレクションは構成されている。1972年に同館で催された『ヨーロッパの日本作家』展に出品された作品を契機として、毎年15点から30点を購入されたと云う。今回の展示作品に示された表記で、購入年度を確認しながら、画家が残そうとした神祠内部の様子を想像する事になった。それによれば、わたしが好む木版画は最終段階の購入であったらしく、画家が亡くなる半年前に叶ったコレクションによる同館での回顧展以降だった(1979年に受け取るも予算の関係で購入を遅らせたかと思う)。──とすると、人生の明るい時期の記憶にあたるのだろうか。尚、会場には展覧会と作品収集を提案した当時の館長・河北倫明寄贈による油彩『コップに挿した草花』(1932年)も掛けられている。程よい位置取りで慰められた。
仁王門通白川橋
コレクションルームを後に、階段を降りながら外を観ると、疎水から白川への流れが緑の中。美術館では明治の超絶技法も含む『モダンクラフトクロニクル』展、長谷川潔にもこうした文化の流れがあるのだろうか? わたしとしては、返答までに今しばらくの猶予をいただきたい。マン・レイについては雄弁であるのだが、我が国の事柄は難しい。
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9-3 それぞれの道具
ブックス・ヘリング 店主の選書に一喜一憂する古書ファン憩いの場。店内は外見と同じくある種カオス。
林哲夫『父の道具』展
本展開催前の6月初旬、京近美近くの古書店、ブックス・ヘリングで画家・林哲夫による『父の道具』展が催された。農家の長男として育った林が画家をこころざし家を離れて幾星霜、亡父が残した道具に美を見出した。鋤や鍬や鋸、作柄の変化に伴い手を加えた農具と、これを造るための鋸や金槌やペンチの数々。民芸で言う「用の美」と異なる道具そのもの、湿度の国で錆びに覆われ、納屋に長く据え置かれた「物」たち。記憶の世界で、ありふれた鎌やスパナやレンチが、古書店の二階に、納屋と指摘されても可笑しくない空間に置かれていた。画家の眼と云うより、息子の眼が、郷愁を絡めながら埃を払い並べ、展示したかと思う。道具から作業の様子、日常の記憶が蘇る。わたしにも、道具を持った父親の記憶が現れる一時だった。京近美の会場で長谷川潔の工夫を凝らし、手そのものとなった黒ずんだ道具に、心が騒いだのは、林哲夫の並べた道具たちの声でもあったかと思う。こちらは売り物で、手に取り重さを体験できた。
鴨川四条大橋、遠景に三条大橋
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北観音山(新町六角上ル)
駒形提灯部材
工夫し手に馴染んだ道具が気になりつつ、祇園祭りの鉾町を歩いていると山鉾を「バラシ」ている最中で、路肩を見ると使い込まれた金具の類が置かれている。京都は夏の蒸し暑い盛り、汗まみれの大工方の手際のよさに唸るが、黒ずんだ鉄は良い顔をしている。今年もコロナ禍の蔓延防止対策で巡行は中止となったが、伝統継承の趣旨で鉾建てが行われた。実施出来たのは一部の山鉾、縄がらみで組み立てる際の「掌の加減といった感覚的な調整」は、伝える難しさを伴う。海老などと呼ぶ縄を束ねた形は京都人の美意識に通じるものだが、脇役の鉄の部材もベテランから若手へ伝わり、無骨で美しい。
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後日、林哲夫はビュランの扱いについて「力加減と云うより刃先が重要で、巨匠が古い道具を探したのは、鉄の材質じゃないかな」と教えてくれた。微妙に何かが違うらしい。それで、古い写真の魅力が銀の含有量によって左右されるのと同じ道理だと知った。意志を持つ手は、手そのものであるような道具を育てる。「できるだけ厳しく描いて一木一草の『神』を表わしたいがゆえ」(13頁)の画業は、幼時に父から受けた教育が手本にあり、東洋の唐墨の深みを語って「亡父が珍蔵していた、桐の煙と真珠の粉で造られた古墨を、今でも持っていますよ」(18頁)と長谷川。
彼の出自に比べると、貧しいマン・レイは視覚の驚きに突き動かされた人生で、精神の自由を守るために技術を軽視する態度だった。写真が科学反応の結果であるのが理由であるのかもしれない。カサティ伯爵夫人にマン・レイは説明する──「道具は問題ではない。主題を手段に合わせて興味深い成果を手に入れることは常に可能である、たとえそれがアカデミックな眼には何かを欠いたものに見えようともだ。ゴヤは手元に絵筆がなかったとき、スプーンで絵を描きはしなかったか? またヴィーナスの肉体は泥でだって表しうると言ったティツィアーノはどうか? 限られた手段を超克すべきであり、想像力を活かして、創意工夫に長けるべきなのだ」(マン・レイ著『セルフポートレイト』千葉成夫訳 美術公論社1981年刊。168-169頁)。これを知っている為か、筆者は展覧会などで写真作品の前に置かれたカメラに違和感を覚える、カメラと印画紙は結びつかないのである。
同時期に渡仏したマン・レイも、ドイツ軍の侵攻に際し一時母国へ逃れるものの、半生をパリで過ごした。長谷川と同じ様に画家への尊厳が残る街、透明な空気に惹かれるものがあったと思う。
桂の木でセミの抜け殻を見た。
繰り返すが京近美のコレクションルームで筆者が会ったのは、宇宙の真理が詰まった版画と、これらを生み出した道具たち。画家の姉・幸子の次男長谷川仁を経て美術館に寄贈された生涯にわたる道具は、体は黒く翅は透明。昆虫学者となった仁が回想する「南仏で叔父自身が採ったトネリコゼミ(Cicada orni)を一匹貰って小躍りした」(180頁)ものであるかも知れない。坑道を塗り固めた幼虫は6~8月に現れ、「鳴き声は、ジー、ジーと単調な音の繰り返しでとても地味である」と云う。
(いしはら てるお)
●石原輝雄さんのエッセイ「美術館でブラパチ」は隔月・奇数月の18日に更新します。次回は11月18日です、どうぞお楽しみに。
●本日のお勧めは長谷川潔です。
長谷川潔「ヴォルクスの村」
1927年 メゾチント
イメージサイズ:20.1×28.0cm
シートサイズ:33.0×46.0cm
Ed.50 サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
『セミの抜け殻』
展覧会 令和3年度第2回コレクション展 長谷川潔の版画
京都国立近代美術館4階展示室
2021年6月24日(木)~8月29日(日)
長谷川潔使用 銅版画用道具コロナ禍と大雨に悩まされたこの夏にあって、京都国立近代美術館(以下、京近美)のコレクションルームで拝見した『長谷川潔の版画』展示は、清楚な空気に包まれ、観る者の背筋を伸ばさせてくれる良い企画だった。個人的に作品と作者に初めてお会いしたと打ち明けたい気持ちである。
コレクションルームがある四階に上がって開放的な窓から平安神宮大鳥居、京都市京セラ美術館、東山如意ヶ嶽を望むと朱色が華やかに浮かぶ、しかし、従前のようには人が居りません。本稿がアップされる頃には賑わいは戻っているのだろうか? 8月29日に終了した展覧会を報告するのは心苦しいが、京近美のコレクションなので、次回への備忘録と解してもらえたら幸いである。
京都国立近代美術館4階
ビュランなど四階奥の壁面に長谷川潔(1891~1980)の版画作品が渡仏前の文学雑誌『仮面』、短歌雑誌『水甕』の表紙画や挿画から、晩年のマニエール・ノワールまでおよそ40点と、油彩5点が掛けられている。京近美がコレクションする243点におよぶ作品や資料から、どれが選ばれ展示されているかは興味ある事柄なのだが、部屋に入って長谷川が用いた道具類に心奪われた。オブジェの様に美しい。ビュランの黒光りした木製の取手と金属の刃先。昆虫の標本ではありませんか。素人なので取手を掌に当て押すのかと思い、作品との関連を見比べながら、時間を忘れた。道具が並べられたケースを回り、菱形や正方形の刃先を覗き込む。長谷川は道具を自作しているし、古い技法を蘇らせたベルソーの場合などでは、芸術的な版画が出来ると確信するも、一旦廃れた道具はパリでも姿を消し「それで、二、三年たちまして、ようやくイギリス製のものを見つけて、それでやり出したのが、1924年だったんです」(『白昼に神を視る』白水社1982年刊。23頁。以下頁数のみの引用表記は同書)と回想する。
9-1 同時代人
大阪・梅田にあった古書店リブレリ・アルカードで長谷川潔の版画を手にしたのは1970年代の中頃だったと記憶する。生半可なアプローチを許さない厳しさがあって、マニエール・ノワールにたじろいだものの、ビュランの鋭い線描と紙の質感には癒やされた。唐墨の魅力に疎い若造は、明晰な線の表現が知的な碧眼と結びつくと勝手に思ってビュランによる表現を好んだ。画家は女性像をあまり残さなかったので(古書店では観なかった)、遠ざかったとも言える。そんな記憶が、文学同人雑誌『聖盃』の表紙画として提供した素描が、原画とはまるっきりかけ離れ「生気」の失われた印刷物になったのに落胆したのが「自刻木版画をはじめる動機となった」(109頁)という年譜の辺りから、筆者が専門とするマン・レイとの共通点に気づき驚いた。展示されている『仮面』(前述『聖盃』改題)に用いられた1914~15年の板目木版画『ダンス』と『金色に踊れる男』の躍動感に惹かれた。── 個人的には発見なのである。後者の制作はマン・レイが初個展を開いたのと同年で、二人は年齢差一年の同時代人。年下の長谷川は1914年にフランスから銅版画用印刷機を取り寄せているし、マン・レイもマンハッタンから重量物の印刷機をリッジフィールドの住まいに運び、印刷工程に触手を伸ばす。職人に任せきれないこだわりが二人には色濃く、また、文学への関心、正規の美術教育を受けていないのも共通する要素だった。
長谷川潔 原版
彫刻刀、ルーレットなど
道具前後するが、ケースには版木や彫刻刀なども並び、こちらには筆者も親近感。掌と云うより身体の動きが、道具から伝わる感覚。「日本伝統木版画とはぜんぜん異質の、自由な荒彫りの黒色木版画の制作へと私は乗りだしていった」(109頁)と長谷川。大胆でありながら精緻な画面構成に躍動感が伴うのは、この身体性からもたらされると思うが、浮世絵版画において用紙の裏側からこするバレン刷りの力加減を想像する。画家の場合は「洋風印刷機」を用いた刷りで、「西洋の活版インクの油びかり」を取り除く「いちじるしい労力と時間を食う」(115頁)独自の印刷法の成果であるだろう。展示されている作品個々の技法についての知識を持たない身であっても、落ち着いた作品の精神性を感受する事が出来た。
左から『アレキサンドル三世橋とフランス飛行船』(1930年)、『キャンベルの古い橋』(1922年)、『ムードンの陸橋』(1921年)、『ラ・コル村風景』(1928年)、『ジゴン古村の礼拝堂』(1938年)
左から『ニオンスの村』(1923年)、『ヴォルクスの村』(1930年)1919年に渡仏した画家は、木版はやわらかすぎ、「銅版が質として一番適している」と打ち明け、さらに銅版画に熱中して行くのだが、わたしは過渡期にあたる多色刷り試作の板目木版『ムードンの陸橋』(1921年)に目を留める。写実的でありながら右に曲がる道の傾斜がリズムを醸し出す不思議な遠近法が、彼の地の空気感を伝える。長谷川の薫陶を受けた魚津章夫は、苦心して試作する画家に言及し「木版画の制作材料を調えるには不便な外国にあって、しかも湿度の違う気候のなかで、多色板目木版画の作品を完成させることはいかに困難であったか」(『長谷川潔の全版画』玲風書房1999年刊。44頁)と伝えている。未完成でその後ほとんど制作されなかった理由について、フランスから取り寄せた版画や書籍の疲れ具合に心痛める筆者などは湿度の問題を特に指摘したい。完璧な保存環境を用意するより、作品入手に走った凡夫の浅はかさを反省。『ムードンの陸橋』に惹かれたのは、フランスの空気、憧れの地を前に船上から若い長谷川が「これこそモネの色だ、フランスの青なのだ!」(137頁)と心に叫んだ感動の静かな表現がもたらすもの。良いのですよ、これが。湿気からマン・レイ作品を守るべきだったと、凡夫は70歳にして思う。
『アレキサンドル三世橋とフランス飛行船』(1930年)とは、前述の古書店で接しているので、懐かしい。渡仏直後の油彩を含め、心象から風景に至る明るさが空間を満たしている。急いで付け加えると、長谷川は1921年5月に後に妻となるミシェリーヌ・ビアンキと出会うのだが、子供が居ると云う事では、マン・レイの最初の妻アドン・ラクロアを、踊り子と云う事では、キキ・ド・モンパルナス、あるいは、アディ・フィドランを同じような例と指摘出来るだろう。異国での男女の物語については別の機会に触れたい。
9-2 ボン・ジュール!
マニエール・ノワール 『コップに挿したアンコリの花(過去・現在・未来)』(1965年)、『飼馴らされた小鳥(草花と種子)』(1962年)他
長谷川潔 道具
左から『鳥と花』(1926年)、『アネモネ』(1930年)、『宝石と香水』(1946年)、『一樹(ニレの樹)』(1941年)、『彫像のある静物』(1951年)さて、京近美の『長谷川潔の版画』を展示するコレクションルームは、二つに分かれている。次の部屋は画家の代名詞であるマニエール・ノワールの仕事17点などが並べられ、対向の壁面には草花を描いた油彩が3点。フランスでも忘れられていたマニエール・ノワールと云う技術は、中間色がたくさんあって精巧で非常に写真に似たもので、「ほかの技術であらわせない特別な美しいマチエールを持っているにもかかわらず、つくられたものは非常につまらないものだと思いまして、で、これに活を入れるつもりでもってやり出したわけです」(23頁)と画家は説明する。眼の前にあるのは1959~69年にかけての、技法が完成した静物画。画家の親しむモチーフが完璧な構図の中に置かれている。わたしは見入るのだが、静寂がありすぎ、若造の頃とおなじようにたじろぐ。
武家の先祖を持つ裕福な家系の5人姉弟の第3子と生まれながら父を12歳、母を19歳で亡くし、姉弟も姉の幸子の他は早い別れ、第二次世界大戦間にも日本に戻ることなくパリで暮らした画家。継子にまつわる不幸もあって、版画の底知れぬ魅力を長谷川の回想にある実家のお稲荷様の神体「白狐像」から解釈しようとするのは、凡夫としてしかたのないことだろうか──「かようなご神体は衆俗の家に置くべきではありません。人天の両界は飽くまで一線を画すべきであって、さもないときは、かならず天罰がくだりましょうぞ」(132頁)と語った易者の勧めにしたがって画家が庭に建てた社、神祠の内部ではないか、眼を凝らすも唐墨に例えられる発色を感受できなく、自然の光に当てることも叶わず、ただ、ポアント・セーシュ技法による『一樹(ニレの木)』(1941年)の挨拶を聴くのみ「ボン・ジュール!」(11頁)。油彩のきらめく色合いが仏花のようでもあって、凡夫と画家との住む世界の相違を改めて感じるのであった。
ここに刃が櫛状に並んだ道具、ベルソーが置かれていたら、作品との回路となったのではと思う。しかし、隣の部屋にも無いから対話には遠い。
左から『コップに挿した草花』(1932年)、『白い花瓶に挿した薔薇その他』(1938年頃)、『白い花瓶に挿した草花』(1948年)最晩年の長谷川潔が自選した、状態が完璧な版画などによって京近美のコレクションは構成されている。1972年に同館で催された『ヨーロッパの日本作家』展に出品された作品を契機として、毎年15点から30点を購入されたと云う。今回の展示作品に示された表記で、購入年度を確認しながら、画家が残そうとした神祠内部の様子を想像する事になった。それによれば、わたしが好む木版画は最終段階の購入であったらしく、画家が亡くなる半年前に叶ったコレクションによる同館での回顧展以降だった(1979年に受け取るも予算の関係で購入を遅らせたかと思う)。──とすると、人生の明るい時期の記憶にあたるのだろうか。尚、会場には展覧会と作品収集を提案した当時の館長・河北倫明寄贈による油彩『コップに挿した草花』(1932年)も掛けられている。程よい位置取りで慰められた。
仁王門通白川橋コレクションルームを後に、階段を降りながら外を観ると、疎水から白川への流れが緑の中。美術館では明治の超絶技法も含む『モダンクラフトクロニクル』展、長谷川潔にもこうした文化の流れがあるのだろうか? わたしとしては、返答までに今しばらくの猶予をいただきたい。マン・レイについては雄弁であるのだが、我が国の事柄は難しい。
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9-3 それぞれの道具
ブックス・ヘリング 店主の選書に一喜一憂する古書ファン憩いの場。店内は外見と同じくある種カオス。
林哲夫『父の道具』展本展開催前の6月初旬、京近美近くの古書店、ブックス・ヘリングで画家・林哲夫による『父の道具』展が催された。農家の長男として育った林が画家をこころざし家を離れて幾星霜、亡父が残した道具に美を見出した。鋤や鍬や鋸、作柄の変化に伴い手を加えた農具と、これを造るための鋸や金槌やペンチの数々。民芸で言う「用の美」と異なる道具そのもの、湿度の国で錆びに覆われ、納屋に長く据え置かれた「物」たち。記憶の世界で、ありふれた鎌やスパナやレンチが、古書店の二階に、納屋と指摘されても可笑しくない空間に置かれていた。画家の眼と云うより、息子の眼が、郷愁を絡めながら埃を払い並べ、展示したかと思う。道具から作業の様子、日常の記憶が蘇る。わたしにも、道具を持った父親の記憶が現れる一時だった。京近美の会場で長谷川潔の工夫を凝らし、手そのものとなった黒ずんだ道具に、心が騒いだのは、林哲夫の並べた道具たちの声でもあったかと思う。こちらは売り物で、手に取り重さを体験できた。
鴨川四条大橋、遠景に三条大橋---
北観音山(新町六角上ル)
駒形提灯部材工夫し手に馴染んだ道具が気になりつつ、祇園祭りの鉾町を歩いていると山鉾を「バラシ」ている最中で、路肩を見ると使い込まれた金具の類が置かれている。京都は夏の蒸し暑い盛り、汗まみれの大工方の手際のよさに唸るが、黒ずんだ鉄は良い顔をしている。今年もコロナ禍の蔓延防止対策で巡行は中止となったが、伝統継承の趣旨で鉾建てが行われた。実施出来たのは一部の山鉾、縄がらみで組み立てる際の「掌の加減といった感覚的な調整」は、伝える難しさを伴う。海老などと呼ぶ縄を束ねた形は京都人の美意識に通じるものだが、脇役の鉄の部材もベテランから若手へ伝わり、無骨で美しい。
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後日、林哲夫はビュランの扱いについて「力加減と云うより刃先が重要で、巨匠が古い道具を探したのは、鉄の材質じゃないかな」と教えてくれた。微妙に何かが違うらしい。それで、古い写真の魅力が銀の含有量によって左右されるのと同じ道理だと知った。意志を持つ手は、手そのものであるような道具を育てる。「できるだけ厳しく描いて一木一草の『神』を表わしたいがゆえ」(13頁)の画業は、幼時に父から受けた教育が手本にあり、東洋の唐墨の深みを語って「亡父が珍蔵していた、桐の煙と真珠の粉で造られた古墨を、今でも持っていますよ」(18頁)と長谷川。
彼の出自に比べると、貧しいマン・レイは視覚の驚きに突き動かされた人生で、精神の自由を守るために技術を軽視する態度だった。写真が科学反応の結果であるのが理由であるのかもしれない。カサティ伯爵夫人にマン・レイは説明する──「道具は問題ではない。主題を手段に合わせて興味深い成果を手に入れることは常に可能である、たとえそれがアカデミックな眼には何かを欠いたものに見えようともだ。ゴヤは手元に絵筆がなかったとき、スプーンで絵を描きはしなかったか? またヴィーナスの肉体は泥でだって表しうると言ったティツィアーノはどうか? 限られた手段を超克すべきであり、想像力を活かして、創意工夫に長けるべきなのだ」(マン・レイ著『セルフポートレイト』千葉成夫訳 美術公論社1981年刊。168-169頁)。これを知っている為か、筆者は展覧会などで写真作品の前に置かれたカメラに違和感を覚える、カメラと印画紙は結びつかないのである。
同時期に渡仏したマン・レイも、ドイツ軍の侵攻に際し一時母国へ逃れるものの、半生をパリで過ごした。長谷川と同じ様に画家への尊厳が残る街、透明な空気に惹かれるものがあったと思う。
桂の木でセミの抜け殻を見た。繰り返すが京近美のコレクションルームで筆者が会ったのは、宇宙の真理が詰まった版画と、これらを生み出した道具たち。画家の姉・幸子の次男長谷川仁を経て美術館に寄贈された生涯にわたる道具は、体は黒く翅は透明。昆虫学者となった仁が回想する「南仏で叔父自身が採ったトネリコゼミ(Cicada orni)を一匹貰って小躍りした」(180頁)ものであるかも知れない。坑道を塗り固めた幼虫は6~8月に現れ、「鳴き声は、ジー、ジーと単調な音の繰り返しでとても地味である」と云う。
(いしはら てるお)
●石原輝雄さんのエッセイ「美術館でブラパチ」は隔月・奇数月の18日に更新します。次回は11月18日です、どうぞお楽しみに。
●本日のお勧めは長谷川潔です。
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