中尾美穂「ときの忘れものの本棚から」第10回
山下和美『世田谷イチ古い洋館の家主になる ①』

山下和美『世田谷イチ古い洋館の家主になる ①』集英社、2021年6月
緑に包まれたさわやかなブルーの外壁。瀟洒な邸宅の窓辺に肘をついて思いにふける――そんな優雅で穏やかな暮らしを描いたコミック、ではなかった。解体の危機にある明治時代の洋館を守ろうと立ち上がった人気漫画家の山下和美氏らによる、常識破りで波乱万丈の活動の舞台裏である。しかも現在進行中。あっという間に引き込まれた。2億、3億という金額に目がくらむが、“庶民には無縁の話”と思わせない切迫感がある。
もともと作者は閑静な住宅地に佇むこの洋館を見かけて気に入り、近隣に自宅を構えたという。明治時代の西洋建築が一般住居として都内に現存している事実に、まず驚かされる。近代日本建築の基礎を築いた英国の建築家ジョサイア・コンドルの来日が、明治10年(1877年)。明治期の45年間に建てられた西洋邸宅ですぐに思い浮かぶのは彼が設計した旧岩崎邸の洋館など、今では歴史的建築物の数々である。それも大規模な修復を経て今日の姿があるはず。かたや関東大震災や大戦の打撃を免れて長い年月を幸運にも生き延びた同館が、今になって取り壊しの危機とは!
失われゆく街並みをとどめたい作者は、同じ思いの近隣住民らと保存運動へと向かうのだが、かくもハラハラするものなのか。難題山積みである。いつのまにか画中の洋館が険しい崖の頂上にそびえたち、皆が勇者の装いで登場する場面では、こちらも思わず手に汗握る。驚くべきは作者の捨て身とも思える行動力だ。「まだ家のローンが……」と逡巡しながらも、自らの資産の処分を考え始める人がいるだろうか。成り行きではあるが、住民による保存の会の主導役も引き受ける。幼いころからの洋館への憧れがもはや憧れ以上の強い原動力となって作者を突き動かしていく。こうしてみると表紙は「家主になる」という鮮明な未来の画なのだった。
いつのまにか10人近くに増えた仲間と手を取り合うページをみてこぶしを握る、熱心な読者に私もなっているのだが、頭の隅では考えてしまう。手をかけて建てた家はどうなるのだろう。その風情ある数寄屋の和室で洋館の存在を感じるひとときの妄想はどこへ? 数寄屋ができるまでを描いたコミック・エッセイ『数寄です!』(全3巻、集英社、2011年、2013年)『続 数寄です!』(全2巻、集英社、2014年、2017年)の読者なら合点がいくに違いない。あの施工のディテールを丁寧に再現したカットの数々や技術への関心。床の間の掛け軸のために通う表装教室での細部の描写。作者には住居への特別な好奇心がみられるように思う。それぞれの建物の歴史や佇まいから物語を引き出し、あるいは自らストーリーを与えて人と建物をより感覚的に結びつけようとするような。景観のみならず関係性を惜しむからこそ、この洋館も守りたいのだと思わせる。晴れて洋館の存続が決定すれば、作者も補修活動に奔走して設計図や建材探しにスリリングな日々を送るのかもしれない。そんな楽しい先の想像を制するように、現実の交渉ごとや購入問題が否応なくからんでくるから、本書はおもしろい。
件の館は世田谷区豪徳寺にある、政治家の尾崎行雄ゆかりの邸宅で、都内でも最古級という。昭和の初めにさる英文学者の所有となり、麻布から移築された。解体して大八車で運んだと描かれている。昭和50年代にこの一室に住んだ写真家の島尾伸三一家は、転居後も撮影スタジオとして部屋を借りつづけ、住人として本に登場する。写真集「まほちゃん」の撮影場所でもあるといえば、一気に親密度が増すだろうか。ちなみに予告されている後の大論争(麻布時代の写真がヒントだという)や数々の不思議な出来事は、まだ1巻では明かされていない。続きは集英社の『グランドジャンプ』に連載中である。
また、住民らで立ち上げた「旧尾崎行雄邸保存プロジェクト」は2021年11月現在も進行中であり、購入資金集めに続く補修金問題などを抱えつつも、着実に成果を上げつつある。クラウドファンディングも行った。10月にはその参加者対象の抽選制で見学ツアーを開催したそうである。ツアーの様子を含めてフェイスブックやツィッターで情報を発信しているので、ぜひフォローいただきたい。
●Facebook
旧尾崎行雄邸保存プロジェクト
@ozakiyukiohouse
●Twitter
旧尾崎邸保存プロジェクト(公式)
●ギャラリー ときの忘れものWEBブログ
2021年09月12日|画廊亭主の徒然なる日々 創作版画について
*ギャラリーの“亭主”綿貫さんが、山下和美の大ファンとコメントしています。
(なかお みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日に掲載します。
次回は2022年1月19日の予定です。
●本日のお勧めは井桁裕子です。
井桁裕子
《半身像2》
2014年
陶
21.0×11.0×h11.0cm
裏側にサイン
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
山下和美『世田谷イチ古い洋館の家主になる ①』

山下和美『世田谷イチ古い洋館の家主になる ①』集英社、2021年6月
緑に包まれたさわやかなブルーの外壁。瀟洒な邸宅の窓辺に肘をついて思いにふける――そんな優雅で穏やかな暮らしを描いたコミック、ではなかった。解体の危機にある明治時代の洋館を守ろうと立ち上がった人気漫画家の山下和美氏らによる、常識破りで波乱万丈の活動の舞台裏である。しかも現在進行中。あっという間に引き込まれた。2億、3億という金額に目がくらむが、“庶民には無縁の話”と思わせない切迫感がある。
もともと作者は閑静な住宅地に佇むこの洋館を見かけて気に入り、近隣に自宅を構えたという。明治時代の西洋建築が一般住居として都内に現存している事実に、まず驚かされる。近代日本建築の基礎を築いた英国の建築家ジョサイア・コンドルの来日が、明治10年(1877年)。明治期の45年間に建てられた西洋邸宅ですぐに思い浮かぶのは彼が設計した旧岩崎邸の洋館など、今では歴史的建築物の数々である。それも大規模な修復を経て今日の姿があるはず。かたや関東大震災や大戦の打撃を免れて長い年月を幸運にも生き延びた同館が、今になって取り壊しの危機とは!
失われゆく街並みをとどめたい作者は、同じ思いの近隣住民らと保存運動へと向かうのだが、かくもハラハラするものなのか。難題山積みである。いつのまにか画中の洋館が険しい崖の頂上にそびえたち、皆が勇者の装いで登場する場面では、こちらも思わず手に汗握る。驚くべきは作者の捨て身とも思える行動力だ。「まだ家のローンが……」と逡巡しながらも、自らの資産の処分を考え始める人がいるだろうか。成り行きではあるが、住民による保存の会の主導役も引き受ける。幼いころからの洋館への憧れがもはや憧れ以上の強い原動力となって作者を突き動かしていく。こうしてみると表紙は「家主になる」という鮮明な未来の画なのだった。
いつのまにか10人近くに増えた仲間と手を取り合うページをみてこぶしを握る、熱心な読者に私もなっているのだが、頭の隅では考えてしまう。手をかけて建てた家はどうなるのだろう。その風情ある数寄屋の和室で洋館の存在を感じるひとときの妄想はどこへ? 数寄屋ができるまでを描いたコミック・エッセイ『数寄です!』(全3巻、集英社、2011年、2013年)『続 数寄です!』(全2巻、集英社、2014年、2017年)の読者なら合点がいくに違いない。あの施工のディテールを丁寧に再現したカットの数々や技術への関心。床の間の掛け軸のために通う表装教室での細部の描写。作者には住居への特別な好奇心がみられるように思う。それぞれの建物の歴史や佇まいから物語を引き出し、あるいは自らストーリーを与えて人と建物をより感覚的に結びつけようとするような。景観のみならず関係性を惜しむからこそ、この洋館も守りたいのだと思わせる。晴れて洋館の存続が決定すれば、作者も補修活動に奔走して設計図や建材探しにスリリングな日々を送るのかもしれない。そんな楽しい先の想像を制するように、現実の交渉ごとや購入問題が否応なくからんでくるから、本書はおもしろい。
件の館は世田谷区豪徳寺にある、政治家の尾崎行雄ゆかりの邸宅で、都内でも最古級という。昭和の初めにさる英文学者の所有となり、麻布から移築された。解体して大八車で運んだと描かれている。昭和50年代にこの一室に住んだ写真家の島尾伸三一家は、転居後も撮影スタジオとして部屋を借りつづけ、住人として本に登場する。写真集「まほちゃん」の撮影場所でもあるといえば、一気に親密度が増すだろうか。ちなみに予告されている後の大論争(麻布時代の写真がヒントだという)や数々の不思議な出来事は、まだ1巻では明かされていない。続きは集英社の『グランドジャンプ』に連載中である。
また、住民らで立ち上げた「旧尾崎行雄邸保存プロジェクト」は2021年11月現在も進行中であり、購入資金集めに続く補修金問題などを抱えつつも、着実に成果を上げつつある。クラウドファンディングも行った。10月にはその参加者対象の抽選制で見学ツアーを開催したそうである。ツアーの様子を含めてフェイスブックやツィッターで情報を発信しているので、ぜひフォローいただきたい。
旧尾崎行雄邸保存プロジェクト
@ozakiyukiohouse
旧尾崎邸保存プロジェクト(公式)
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2021年09月12日|画廊亭主の徒然なる日々 創作版画について
*ギャラリーの“亭主”綿貫さんが、山下和美の大ファンとコメントしています。
(なかお みほ)
■中尾美穂
1965年 長野市生まれ。
1997年から2017年まで池田満寿夫美術館学芸員。
池田満寿夫研究をライフワークとする中尾美穂さんの連載エッセイ「ときの忘れものの本棚から」は奇数月の19日に掲載します。次回は2022年1月19日の予定です。
●本日のお勧めは井桁裕子です。
井桁裕子《半身像2》
2014年
陶
21.0×11.0×h11.0cm
裏側にサイン
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、毎月展覧会(Web展)を開催し、美術書の編集事務所としても活動しています。
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ときの忘れものはJR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
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