石原輝雄のエッセイ「美術館でブラパチ」─12

『ボイスのこだま』


展覧会 Beuys Room 
    COCON KARASUMA 3F SKWAT HERTZ
    2021年10月5日(火)~12月28日(火)

BP12-01 ボイスのポストカード(1970年) 15.9×10.3cm

 美術館でも画廊でもなく、物販を伴うイベントスペースとも、なにか違う奇妙な空間が、四条烏丸交叉点近くの複合ビル・COCON KARASUMA(古今烏丸)の3階に登場した。本稿を皆さんに読んでもらう頃には、なくなっていると聞くから、ある種の戸惑いがあるのも事実。ビル内に会場や展示内容の掲示も、ほとんどなく、一般的なメデアでの広報も、スルーしているようで、内輪のSNSからもステルス飛行。友人・知人の本来的な口コミを通して知られ、観覧されるスタイル。3ヶ月に限った「ボイス・ルーム」が、いかなるものか、いや、たまたま拝見し、面白いと感じた「生の眼」を、小生のスナップ写真で紹介したい。


BP12-02 複合商業施設COCON KARASUMA (烏丸通四条下ル) 地上8階、塔屋2階、地下1階

BP12-03 テラスから四条烏丸交叉点を望む、正面に京都三井ビルデイング、右に京都ダイヤビル。

BP12-04 Joseph Beuys, Appeal for An Alternative 1980. ed.40


 もちろん「声の部屋」ではなくて、現代美術作家で社会と芸術の関わりを問いかけたカリスマ、ドイツ生まれのヨーゼフ・ボイス(1921-1986)に魅せられたコレクター・伊藤信吾の、愛が詰まった部屋の話である。

BP12-05 2F (アトリウム) SKWAT HERTZでの即興ピアノ演奏

BP12-06 3F 突き当りに京都シネマ

BP12-07 「京都経済倶楽部」の看板


12-1 Beuys Room (ボイス・ルーム)

 COCON KARASUMAは、1938年竣工の呉服商社・京都丸紅の8階建社屋が前身で、2004年に建築家・隈研吾によって複合商業施設として生まれ変わり、21年に同じく隈によりリノベーション。木のパネルによる烏丸通りを見下ろすテラスやベンチのように使える階段など、やさしいデザインの空間となっている。このタイミングでSKWAT(スクワット)が「都市の空き物件を占拠」した訳である。中村圭佑、濱中敦史、エドストローム淑子の活動については、検索をしていただくとして、京都で3ヶ月間存在した「ダメージ本など流通に乗らなくなったアートブックを一律1,000円で提供するthousandbooks(サウザンドブックス)と、ボイスの貴重なアーカイブ資料を展示販売するBeuys Room(ボイス・ルーム)」については、スルー出来ません。そこは京都経済倶楽部なる会員制サロンのあった場所。トップクラスの財界人が贔屓にした祇園のクラブが発祥とも聞く同倶楽部は、2005年4月の開業で、当時のHPには「ボルドーとブルゴニューのワインをセラーに取り揃え、映像音楽などでフランスを体験してもらう設え、論壇風発の場」とあり、同ビル直営のテナントだと云う。

BP12-08 thousandbooks

Bp12-09 同上 ボイス展覧会ポスター(1988年、1970年)など

BP12-10 同上 モニターではボイス『私はアメリカが好き、アメリカも私が好き』

 この場所が空き、中央に面出しの書籍棚を持ち込んだthousandbooks、奥のカラオケルーム(?)のソファを取り外し紫色の絨毯(フェルト風?)をひき詰めたBeuys Room。後者では床に直置きで、ポストカードのファイルが幾冊も置かれている。展覧会の会期と会場を示したエフェメラ類(ポスター、カタログ、案内状など)に特別の愛情を持つ小生にとって、宛名と消印が残るエンタイアは、涙ものなのです。

BP12-11 Beuys Room

BP12-12 同上
 
BP12-13 同上
 
BP12-14 同上

 ファイルに入ったカードは、銀座のかんらん舎で開かれた個展(1980.11)が最初であるようだが、郵便としては未使用。第三者に臨場感があるのは蝶が舞う図柄の切手に消印があるギャルリーワタリでの『ボイス展』(1982.11)案内状からである。受取人の住所と名前を見ながら、展覧会への期待と売り物の告知に一喜一憂したであろう伊藤信吾を想像する。彼も展示前に交渉しただろうね、コレクター心理は恋愛だと思うのですな。

BP12-15 国内案内状ファイル 上段右端にGALLERY SEKI、その左下にトアロード画廊

BP12-16 同上 裏面(左頁)他

 案内状を拝見しながら、神戸のトアロード画廊(1984.3)と名古屋のGALLERY SEKI(1984.10)で手が止まった。マン・レイ繋がりでお世話になっていた二つの画廊の、小生も受け取っていたカードの、別の人生(?)を知った訳で興味つきない。特に前者では出品作品がメモされていて、油彩や黒板の提示価格に改めて対決している。── 「黒板」って「黒板消し」のこと? ボイスのコレクターではないから、穏やかな気分、ハハ。「伊藤さん、新幹線に乗ったのかしら」。画廊への階段を思い出しつつ、ボイスが初来日した当時の様子が巡る。
 体調悪化などの理由で延期されたボイスの来日は、西武美術館での個展(1984.5.29-6.5)を契機に実現。これには『7000本の樫の木』プロジェクトに「500本寄贈してほしいという要求があったという」。一週間の滞在中に展示監修の他、幾つかのインタビューを受け、朝日ホールでの講演、アクション、東京芸術大学での対話集会、パフォーマンス、握手、サイン、そして、明治神宮訪問。異国でのバブル期熱狂に重なる部分、消費する傾向も顕著かと思う。ボイスは86年1月に亡くなるが、一般的に没後数年は市場に作品も供給された状態であり、展覧会も多く開かれる。GALLERY360°、M画廊、かねこ・あーとギャラリーなどでの開催を改めて確認出来たのは、ファイルされた案内状のおかげである。切手の消印から30年も経っているとは思えない。紫色の部屋には時計とは別の法則があるようだ。

BP12-17 GALLERY 360°の案内状、1989年、1990年、1994年、2000年

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12-2 伊藤兄弟と清里現代美術館

 伊藤信吾は筆者より5歳上年長の1947年生まれ。東京の人で中学校の美術教師を定年まで勤めたサラリーマン・コレクター。美術品・ポスターの収集過程で、前述したかんらん舎でボイス作品のマルティプル購入を開始。ボイスが亡くなった年には自室を改装して収集資料を展示公開。中学時代の教え子で、美術に関する仕事をするようになった廣瀬友子は、「ガラスのショーケースの下にはベッドが格納されており、伊藤氏はこの住居から教員の仕事に出勤していました」と、予約制で週末に公開されたボイス・ルームを回想している。教員を続けながらアーノルフ・ライナーやフルクサス作家も含めたコンセプチャル・アートをマルティプルや資料を中心に集め、1990年に清里現代美術館(山梨県)を設立。館長を務めた兄の修吾は、「全て弟のコンセプトで展示されていますから私はいつも見ることの大切さを思い知らされます。展示は芸術を説明するためじゃない。芸術を機能させるためにあるんです」「ボイスが凄いのは、現代の芸術というのは社会の改革なんだ、社会を改革するために自分を変えることなんだと呼びかけ、自らも行動したことです。だから、美術館そのものも社会に向かう姿勢が問われている」(『アクリラート』32号、1997年10月)とインタビューに答えている。
 経済の停滞が長く続く日本では、「社会彫刻」の継続は困難を極めたと思う。常設で現代美術を展示した「二泊三日の美術館」は、残念なことに2014年閉館。兄弟は清里から転居、信吾氏は3年後に急逝された。享年70、謹んでご冥福を祈りたい。

BP12-18 ボイス・ルーム(自室改装)の伊藤信吾

BP12-19 清里現代美術館開館記念展『清里の静かな衝撃』ポスター、1990年

 エフェメラ類の収集に熱中したコレクターの先輩に、どのような連帯の挨拶を送れば良いのだろうか。自室での公開から美術館設立へと至る夢の実現は、関心領域の確かな手応えとともにあったのだと思う。「先生は『買うことが表現だ』とおっしゃられた」と廣瀬さん。先日、昼食をともにしていろいろ話を伺った。── そう、お会いしたからここまで書けたのである。宛先が上書きされ、思いは次世代に引き継がれているのですな。
 ボイスから跳ね返ったこだまは、廣瀬友子が運営する現代美術のネット古書店telescopeartbooksを経て、日本国内を様々に飛び回る。Instagramでの発信が中心だと思うがHPも用意され、日々アップされるエフェメラ類に、わたし見入っております。SNSのスピードを後追いして案内状が走る。廣瀬の扱い商品は旧清里現代美術館の蔵書資料なので、伊藤信吾のコンセプトが若い人たちに突き刺さったと言えるだろう(シニアの小生にも届いております)。
 伊藤の元で働いた彼女はHPのブログで、マルティプルや細かな資料、エフェメラといったものが多く、大きな作品をあまり含まない伊藤コレクションは、既存の研究施設には軽視されがちで、伊藤本人が「よく悔しがっていた」と打ち明け、さらに「海外には一度も行かずに、ネットで世界中から収集していました」と続ける。「情熱によって集められた資料をどうしたら紹介できるか」の課題を彼女は実現していく。ありがたい、充分に伝わっておりますよ。 

 やっと美術アーカイバル(保存記録)の重要性に人々が気づく時代になった。長く熱中して集めてきた小生にも陽が当たる──しかし、これは、時代が作家や作品と途絶した現れと自覚せねばならない。展覧会の案内状はエフェメラと総称されるが、わたしはフランスの人たちのように「パピヨン(蝶)」と呼びたい、楽しく夢があるではないか。──などと、GALLERY SEKIの案内状を取り出し、37年前を手元でひらひらさせている。 

BP12-20 小生宛GALLERY SEKI案内状(1984年)  15 × 10.4 cm
 
BP12-21 同上 裏面

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12-3 ユーラシアのこだま

 COCON KARASUMAでの展示と同時期に、大阪・中之島の国立国際美術館で先駆者と生徒を対比させた『ボイス+パレルモ』展が催された。これは「約10年ぶりとなる日本でのボイス展で」豊田市美術館、埼玉県立近代美術館と巡回した最後の会場──解釈がそれぞれ違う印象だったと聞く。

BP12-22  国立国際美術館 『ボイス+パレルモ』展 2021.10.12-2022.1.16

 小生はBeuys Roomを体験した後だったので、『ユーラシアの杖』や『ジャッキー帽』よりも、時代の変色を受けた封筒の裏面が不吉な連想を誘う『脂肪と蜜蝋のなかの十字架』(1964年)に惹かれた。案内状がわたしたちの世界へ飛来する場面と思うのである。そして、さらにケースに入った二枚のフェルト製葉書に誘われた。老眼ではシルクスクリーンで刷られた文字が読めないし、リストに表記があるものの厚みの感触がつかめない。これらが飛ぶ姿は永久凍土の消えた世界のように思う。ボイスの思想とは別の世界を生きてきた小生にとって、ドイツ的な禁欲主義と社会参加は、エスプリの効いたフランス的気質や作品を気楽に受け入れるイタリア的土壌でのマン・レイ理解との隔たりを意識するばかりの体験となった。松山聖央は「ボイスの表現を読み解く重要概念」(水戸芸術館現代美術センター編、2010年 *)の中で「社会彫刻」の項を担当し、「芸術活動とは本来、一握りの芸術家が生み出す、特殊な芸術作品へ至るプロセスではなく、われわれが生きる社会や世界を、人間の創造性によって未来へと造形していくプロセスだとボイスは考えるのである」(182頁)と紹介する。これは、アンドレ・ブルトンがランボーとマルクスを一つのスローガンとしてとらえたシュルレアリスムの思想とは、似て非なるものと思うが、説明するのは難しい。

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BP12-23 シボレー・コルベット ミントブルー塗装 1950年代

 話を京都に戻す。Beuys Roomを初日に拝見した折、帰宅途中の綾小路通りで鮮やかな色彩をまとったシボレーと遭遇した。会場での紫色がこだましている感触、 「客観的偶然」と「社会彫刻」のせめぎ合いの場と思った。マンションから出てきた初老の紳士が乗り込み走り去る。「一握りのお金持ち」とは、やれやれ、嫉妬はいけません。ボイスの愛車はベントレーで「自分の全生活を芸術視するボイスにとって、車はただの乗り物ではない。それはすでに一個の選ばれた独自のメッセージを負わされた、ボイス的作品としてそこに置かれている」(『ヨーゼフ・ボイスの足型』みすず書房、2013年 16頁)と実際にボイス邸を訪問した若江漢字が書いているが、サラリーマン・コレクターとしては、屈折しますな。
 若江の著書には、自身の『世界地図メイル・アート』の仕事が報告されていて、郵便システムと世界地図からの展開は本稿と密接に絡み合う視点であり、ボイスの筆跡から「geiser(間欠泉)」の単語を導き出す過程には特に興味を持った。「血痕のように見えた」三つの点は、「地球の傷口」で「赤緑色に輝くヨードチンキ」だと云う。
 
BP12-24 『フェルトの葉書』 1985年


 最終日も出かけた。それまでには無かったと思うが、国立国際美術館で展示されていたものと同じシリーズのフェルト製葉書(マルティプル作品)に気がついた。非売品らしいが、白いシルクスクリーン刷りの文字が剥がれ判読が覚束ない。この経年変化はボイスの声がフェルトに吸収され、私たちには届かない時代となった暗喩だろうか?
 学芸員のオイゲン・ブルーメは書く「ボイス亡き後、彼が残した作品は声が失われたかのようにも思えます。なぜなら、それらの作品は──ボイス自身の言葉でありますが──『乗り物』だったからです」(* 55頁)。 ユーラシア大陸の両端はあまりに遠く、フェルトの翼は、「声」を過剰に含んで役目を放棄せざるを得ない。気楽な紙のポストカードは、冒頭で「シベリア交響曲第34楽章」を乗せたように、ウサギの血を含みつつも風に乗りどこまでも舞う、誰の手に届くのか、誰も知らない。
 小生はマン・レイ的な意味でのペシミストだから、こんな連想をしても、廣瀬さんは許してくれるだろう。──と、思いたい。


(いしはら てるお)

●石原輝雄さんのエッセイ「美術館でブラパチ」は隔月・奇数月の18日に更新します。次回は3月18日です、どうぞお楽しみに。

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。もともと住宅だった阿部勤設計の建物LAS CASASを使って、企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています。WEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>の特集も是非ご覧ください。
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