明るい影 ―― 建築家杉山幸一郎の描くドローイング
「杉山幸一郎展 スイスのかたち、日本のかたち」
会期:2022年1月20日(木)~1月29日(土)
戸田 穣(昭和女子大学・環境デザイン学部環境デザイン学科 専任講師)
建築家の描くイメージは、どこまで建物に似ることができて、また、どこまで平面の世界にとどまることができるのだろうか。杉山幸一郎(1984-)の水彩画の作品をみてまずそのようなことを想った。水彩画のやわらかい表現は、スイスに暮らす建築家のエッセイともあいまって、やさしく、またかわいらしいミニチュアの建築イメージのようにも受け取られてしまうかもしれない。しかし彼との対話から、その表現のインスピレーション、これらのイメージのもつ重層性について多くを教えられることとなる(ぜひYoutubeのインタビューも視聴してもらいたい Part 1/Part 2)。
建築家は多くのイメージを描く。ひとつの建物が創造されるプロセスにおいては、最初のインスピレーションをとどめたスケッチから、プレゼンテーションのためのショードローイングまで、いくつかのイメージが描かれる。一方で、そのような実務から離れた場で、ひとつの作品としてイメージを描く建築家がいる。そのような建築家たちの作品を集めて、2017年に『紙の上の建築 日本の建築ドローイング1970s-1990s』展(文化庁国立近現代建築資料館)を企画した。建築家たちのスタイルは様々であり、光と影、線と面による抽象化に向かう作家もいれば、克明なリアリズムに向かう作家もいた。自立した作品として制作されるそれらのイメージ(版画、ドローイング、ペインティング、コラージュ)だが、とはいえそのほとんどは、建築家が設計した建物のヴァリエーションとして制作されている。やはり建築家にとっては、設計以外の表現手段をとるときであっても、自分が建物を設計するという機会がなくては、動機が生まれないのかもしれない。
杉山幸一郎の作品は、自立した絵画表現を目指して制作されている。また自分の設計した建物のイメージを描いたわけでもない。そもそも独立したばかりの彼にはまだ描くべき自分の建築作品というものがない。そんな彼に筆をとらせたのはギャラリーの英断で、実際、わたしが画廊を訪ねたときも、来客のほとんどが若い人たちであることに驚いた。
あらたに作品を制作するときに、杉山の創造力の源泉となったのは、その旅の記憶だった。修士研究のために敢行した、徒歩での巡礼路の旅。フランス中西部の街サント(Saintes)から出発して、徒歩でサン・ティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂までの道のりを歩いた57日間の旅。そこで若き建築家が出会ったのは、道々に訪れる小さな教会堂のファサードだった。近代建築においてファサードは、往々にして内部と外部の対応関係で考えられるが、教会堂のファサードは文字通り自立した存在である。ファサードそのものがもつ空間性の経験。それは表面がもつ厚みであり、表層がもつ深さである。組積造においては、垂直に立つファサードの凹凸、施された彫刻、レリーフに、太陽の光が差して生まれる陰影が建物の表情となる。
では杉山の絵画作品が、直截にそのような表面のもつ厚みを表現する方向に向かったかといえばそうではない。ここで少し建築史に寄り道をしてみたい。平面の中に奥行きを与えることはむずかしくない。そこに斜めの線を導入すればいい。たとえば近代建築が好んだ軸測投影法の斜めの線がある。他にも斜線の導入を巡っては、モンドリアンとドゥースブルフの対立、つまり画家と建築家との間の対立があったように、建築と平面表現の関係を考える上で注目すべき点である。磯崎新は、平面に斜めに影が差すと建築が浮かび上がることをもって平面に建築を還元した(「ヴィッラ」シリーズであり「還元」シリーズ)。建築における斜めの主題、あるいは影の主題といったものがあり、また平面の上を斜めに横切りたいという誘惑がある。
杉山の《Line & Fill》のシリーズはいずれとも無縁である。影の差さない杉山の画面には明澄な楽しさがある。物と物の組み立てを尊重する建築家は、ひとつひとつのタッチを、石を積むように左下から順に置いていくという。しかしながら、建物のファサードをインスピレーションとしているとはいっても、杉山が巡礼路で訪れた教会たちのイメージがそのまま写されているかといえばそうではない。杉山が撮影したたくさんの教会堂 ―― そのどれもが素晴らしい建物たち!―― の写真をみると、地上から上層までのアーチの構成には、重力に抗う階層性がおのずと表現されている。しかし、ほぼ同大のタッチがスペースを空けて並ぶ杉山のドローイングは、まずスケールも自由であり、重力は感じられない。杉山のドローイングの魅力のひとつはここにある。石に擬せられながらも、ひとつひとつのタッチに感じられる浮遊感。その後の《Line & Fill》No. 70番台の後半では、建築記号に擬された様々なモチーフが蝶のようにひらひらと舞いはじめるのだが、この水平的な展開も《Line & Fill》シリーズの必然と思われてくるのだ。
そしてモチーフが飛び立ったあとで、改めてファサードに立ち返った《Line & Fill》No. 80番台では、タッチに明らかな変化がみられる。ここで作家が直面したのは、動きだしたタッチをどのように繋ぎ止めていくかという課題であり、そのために建築という垂直的な構造体としてのスケールが、改めて画面に導入されたということではないだろうか(《Line & Fill》No. 82-84)。さらに《Line & Fill》No. 85-86では、画面のサイズが大きくなったこともあって画材が変わり、タッチも大きく変化したと杉山は語っているが、画面が大きくなることで、支持体と技法の物としての手応えも、よりしっかりと受け止めなくてはならなかったのではないだろうか。
そんなことを思いながら、建築家との対話の中で、右下のサインがなければ天地左右がわからなくなってしまいそうですねと問いかけたのだが、作家の回答は明快なものだった。画面に向かう自分がおり、その利き手のストロークがあるので、絵と自分との関係がおのずとそのタッチに表れる。それがこの絵の向きだと。水彩画だからこそ生まれるタッチのグラデーション、その方向とニュアンスが、画面全体を整えている。抽象的な面と線の表現のなかに差す具象の影。それはいわば明るい影とでもいうべきものだ。これらひとつひとつのタッチがもつ色は、建物を構成するマテリアルの表現なのだろうか。それとも時間を追って移り変わっていく光の表現なのだろうか。そうしたことを想像するのも楽しい。杉山にとってははじめてのシリーズとなる《Line & Fill》だが、すでに幾節かの展開がある。建築設計だけでなく、美術家としての活躍にも期待したい。
(とだ じょう)
個展展示風景動画
展示風景


●本日のお勧めは杉山幸一郎です。
杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
"Line & Fill 77"
2020年
水彩
29.7×21.0cm
サインあり
※展覧会カタログ『スイスのかたち、日本のかたち』p.39掲載
杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro
"Line & Fill 83"
2021年
水彩
21.0×14.8cm
サインあり
※展覧会カタログ『スイスのかたち、日本のかたち』p.39掲載
作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日
「杉山幸一郎展 スイスのかたち、日本のかたち」
会期:2022年1月20日(木)~1月29日(土)
戸田 穣(昭和女子大学・環境デザイン学部環境デザイン学科 専任講師)
建築家の描くイメージは、どこまで建物に似ることができて、また、どこまで平面の世界にとどまることができるのだろうか。杉山幸一郎(1984-)の水彩画の作品をみてまずそのようなことを想った。水彩画のやわらかい表現は、スイスに暮らす建築家のエッセイともあいまって、やさしく、またかわいらしいミニチュアの建築イメージのようにも受け取られてしまうかもしれない。しかし彼との対話から、その表現のインスピレーション、これらのイメージのもつ重層性について多くを教えられることとなる(ぜひYoutubeのインタビューも視聴してもらいたい Part 1/Part 2)。
建築家は多くのイメージを描く。ひとつの建物が創造されるプロセスにおいては、最初のインスピレーションをとどめたスケッチから、プレゼンテーションのためのショードローイングまで、いくつかのイメージが描かれる。一方で、そのような実務から離れた場で、ひとつの作品としてイメージを描く建築家がいる。そのような建築家たちの作品を集めて、2017年に『紙の上の建築 日本の建築ドローイング1970s-1990s』展(文化庁国立近現代建築資料館)を企画した。建築家たちのスタイルは様々であり、光と影、線と面による抽象化に向かう作家もいれば、克明なリアリズムに向かう作家もいた。自立した作品として制作されるそれらのイメージ(版画、ドローイング、ペインティング、コラージュ)だが、とはいえそのほとんどは、建築家が設計した建物のヴァリエーションとして制作されている。やはり建築家にとっては、設計以外の表現手段をとるときであっても、自分が建物を設計するという機会がなくては、動機が生まれないのかもしれない。
杉山幸一郎の作品は、自立した絵画表現を目指して制作されている。また自分の設計した建物のイメージを描いたわけでもない。そもそも独立したばかりの彼にはまだ描くべき自分の建築作品というものがない。そんな彼に筆をとらせたのはギャラリーの英断で、実際、わたしが画廊を訪ねたときも、来客のほとんどが若い人たちであることに驚いた。
あらたに作品を制作するときに、杉山の創造力の源泉となったのは、その旅の記憶だった。修士研究のために敢行した、徒歩での巡礼路の旅。フランス中西部の街サント(Saintes)から出発して、徒歩でサン・ティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂までの道のりを歩いた57日間の旅。そこで若き建築家が出会ったのは、道々に訪れる小さな教会堂のファサードだった。近代建築においてファサードは、往々にして内部と外部の対応関係で考えられるが、教会堂のファサードは文字通り自立した存在である。ファサードそのものがもつ空間性の経験。それは表面がもつ厚みであり、表層がもつ深さである。組積造においては、垂直に立つファサードの凹凸、施された彫刻、レリーフに、太陽の光が差して生まれる陰影が建物の表情となる。
では杉山の絵画作品が、直截にそのような表面のもつ厚みを表現する方向に向かったかといえばそうではない。ここで少し建築史に寄り道をしてみたい。平面の中に奥行きを与えることはむずかしくない。そこに斜めの線を導入すればいい。たとえば近代建築が好んだ軸測投影法の斜めの線がある。他にも斜線の導入を巡っては、モンドリアンとドゥースブルフの対立、つまり画家と建築家との間の対立があったように、建築と平面表現の関係を考える上で注目すべき点である。磯崎新は、平面に斜めに影が差すと建築が浮かび上がることをもって平面に建築を還元した(「ヴィッラ」シリーズであり「還元」シリーズ)。建築における斜めの主題、あるいは影の主題といったものがあり、また平面の上を斜めに横切りたいという誘惑がある。
杉山の《Line & Fill》のシリーズはいずれとも無縁である。影の差さない杉山の画面には明澄な楽しさがある。物と物の組み立てを尊重する建築家は、ひとつひとつのタッチを、石を積むように左下から順に置いていくという。しかしながら、建物のファサードをインスピレーションとしているとはいっても、杉山が巡礼路で訪れた教会たちのイメージがそのまま写されているかといえばそうではない。杉山が撮影したたくさんの教会堂 ―― そのどれもが素晴らしい建物たち!―― の写真をみると、地上から上層までのアーチの構成には、重力に抗う階層性がおのずと表現されている。しかし、ほぼ同大のタッチがスペースを空けて並ぶ杉山のドローイングは、まずスケールも自由であり、重力は感じられない。杉山のドローイングの魅力のひとつはここにある。石に擬せられながらも、ひとつひとつのタッチに感じられる浮遊感。その後の《Line & Fill》No. 70番台の後半では、建築記号に擬された様々なモチーフが蝶のようにひらひらと舞いはじめるのだが、この水平的な展開も《Line & Fill》シリーズの必然と思われてくるのだ。
そしてモチーフが飛び立ったあとで、改めてファサードに立ち返った《Line & Fill》No. 80番台では、タッチに明らかな変化がみられる。ここで作家が直面したのは、動きだしたタッチをどのように繋ぎ止めていくかという課題であり、そのために建築という垂直的な構造体としてのスケールが、改めて画面に導入されたということではないだろうか(《Line & Fill》No. 82-84)。さらに《Line & Fill》No. 85-86では、画面のサイズが大きくなったこともあって画材が変わり、タッチも大きく変化したと杉山は語っているが、画面が大きくなることで、支持体と技法の物としての手応えも、よりしっかりと受け止めなくてはならなかったのではないだろうか。
そんなことを思いながら、建築家との対話の中で、右下のサインがなければ天地左右がわからなくなってしまいそうですねと問いかけたのだが、作家の回答は明快なものだった。画面に向かう自分がおり、その利き手のストロークがあるので、絵と自分との関係がおのずとそのタッチに表れる。それがこの絵の向きだと。水彩画だからこそ生まれるタッチのグラデーション、その方向とニュアンスが、画面全体を整えている。抽象的な面と線の表現のなかに差す具象の影。それはいわば明るい影とでもいうべきものだ。これらひとつひとつのタッチがもつ色は、建物を構成するマテリアルの表現なのだろうか。それとも時間を追って移り変わっていく光の表現なのだろうか。そうしたことを想像するのも楽しい。杉山にとってははじめてのシリーズとなる《Line & Fill》だが、すでに幾節かの展開がある。建築設計だけでなく、美術家としての活躍にも期待したい。
(とだ じょう)
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●本日のお勧めは杉山幸一郎です。
杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro"Line & Fill 77"
2020年
水彩
29.7×21.0cm
サインあり
※展覧会カタログ『スイスのかたち、日本のかたち』p.39掲載
杉山幸一郎 SUGIYAMA Koichiro"Line & Fill 83"
2021年
水彩
21.0×14.8cm
サインあり
※展覧会カタログ『スイスのかたち、日本のかたち』p.39掲載
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
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