松井裕美のエッセイ「線の詩情、色彩の調和――ジャック・ヴィヨンの生涯と芸術」第7回
「ピュトーでの生活」
松井裕美

アルベール・グレーズ《浴女たち》1912年。カンバスに油彩、105 x 171 cm。
パリ市立近代美術館

レディメイド《自転車の車輪》とともに写るマルセル・デュシャン

ピュトーのアトリエでのデュシャン三兄弟
デュシャン兄弟を写した写真には、ここで語られている猫や犬が登場するものが何枚かある。そこで動物達に明らかな親密さを示しているのはジャックかレイモンで、マルセルはあまり関心を示していない様子なのが興味深い。
(まつい ひろみ)
■松井 裕美(まつい ひろみ)
・松井裕美さんの連載エッセイ「線の詩情、色彩の調和――ジャック・ヴィヨンの生涯と芸術」は毎月25日の更新です。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
「ピュトーでの生活」
松井裕美
ジャック・ヴィヨンが弟のレイモン・デュシャン=ヴィヨンと共に使用していたアトリエは、セーヌ川左岸に位置するパリ近郊の街ピュトーにあった。私が学んでいたパリ第10大学(現在のパリ・ナンテール大学)の近くでもあったので、友人とふらりと訪れたこともあるのだが、都市再開発政策の影響で完全に近代化されてしまっていて、当時の街の面影を知ることはできなかった。
この街には、1860年代からフランス軍の工廠(ピュトー工廠)が存在していた。そこから30分も歩けば、クールブヴォワという街につく。キュビスムの画家アルベール・グレーズは、1880年代に家族でクールブヴォワに越してきており、1912年の油彩画《浴女たち》は、19世紀末以来急速に工業化が進みつつあったこの街を背景に、水浴する女性たちの姿を描いている。自然の中の牧歌的な人間の生活と近代都市との調和を描いた、ピュトー・グループらしい題材の作品だ。
この街には、1860年代からフランス軍の工廠(ピュトー工廠)が存在していた。そこから30分も歩けば、クールブヴォワという街につく。キュビスムの画家アルベール・グレーズは、1880年代に家族でクールブヴォワに越してきており、1912年の油彩画《浴女たち》は、19世紀末以来急速に工業化が進みつつあったこの街を背景に、水浴する女性たちの姿を描いている。自然の中の牧歌的な人間の生活と近代都市との調和を描いた、ピュトー・グループらしい題材の作品だ。

アルベール・グレーズ《浴女たち》1912年。カンバスに油彩、105 x 171 cm。
パリ市立近代美術館
すでに前回の記事でも触れたように、ジャック・ヴィヨンたちのアトリエが位置していたピュトーのルメートル通り7番地の建物には、毎週日曜日になると芸術家たちが集い芸術談義を繰り広げていた。チェコ人の芸術家フランティセック・クプカもその一人であり、ヴィヨンの近所に住んでいた。クプカはキュビスムの芸術家との対話だけでなく、神秘主義や生物学・生理学の知識といった様々なリソースからインスピレーションを得て、抽象絵画の先駆的存在となった画家である。
興味深いのは彼らの美学的交流だけではない。研究の過程で、デュシャン兄弟の私的な生活を垣間見ることができる資料に出会った。デュシャン=ヴィヨンの弟子アデルハイド・ラング・ルーズヴェルトが記した手記である。手記をタイプ打ちしたものが、合衆国ワシントンD.C.のスミソニアン・インスティテューションに所蔵されており、希望すればいつでもマイクロフィルムを閲覧できる。そこで紹介されているエピソードを二つほど紹介しておこう(おそらく今後研究論文で触れることはないだろうから)。
一つ目は自転車旅行のエピソードだ。アデルハイドとデュシャン兄弟は、ある夏、その年のサロン・ドートンヌへの出品作の準備で働き詰めだったのだが、ふと朝思い立って一緒にロワール川の自転車旅行に出かけることにした。だがアデルハイドは自転車も持っていないし、そのための服もない。気後れする彼女のために、二人の友人芸術家(ジャックとデュシャン=ヴィヨン)は自転車を借りることを申し出た。彼らは翌朝早くにオルレアン駅で待ち合わせた。アデルハイドは嬉々としてデュシャン兄弟が用意してくれた自転車に乗った。しかし何年も前に一度自転車に乗ったきりだった彼女には、不運なことに走り出した自転車のとめ方がわからない。結局駅から広場まで走ったところで女性漁師の荷馬車に追突し、「フランスの女性漁師のみがつくことのできる悪態とともに、あらゆる方向から魚が飛んでくる」状況になった。そこでデュシャン兄弟を含む4人の男達が彼女を救いに来て、怒れる漁師をなだめ、台無しになった魚に市場の二倍のお金を払ったのだという。私はマルセル・デュシャンのレディメイド《自転車の車輪》を見るたびに、このエピソードを思い出して、ひっくり返った自転車とその周りに飛び散った魚、そして漁師をなだめるデュシャン兄弟を想像し、ひっそりと微笑んでしまう。
興味深いのは彼らの美学的交流だけではない。研究の過程で、デュシャン兄弟の私的な生活を垣間見ることができる資料に出会った。デュシャン=ヴィヨンの弟子アデルハイド・ラング・ルーズヴェルトが記した手記である。手記をタイプ打ちしたものが、合衆国ワシントンD.C.のスミソニアン・インスティテューションに所蔵されており、希望すればいつでもマイクロフィルムを閲覧できる。そこで紹介されているエピソードを二つほど紹介しておこう(おそらく今後研究論文で触れることはないだろうから)。
一つ目は自転車旅行のエピソードだ。アデルハイドとデュシャン兄弟は、ある夏、その年のサロン・ドートンヌへの出品作の準備で働き詰めだったのだが、ふと朝思い立って一緒にロワール川の自転車旅行に出かけることにした。だがアデルハイドは自転車も持っていないし、そのための服もない。気後れする彼女のために、二人の友人芸術家(ジャックとデュシャン=ヴィヨン)は自転車を借りることを申し出た。彼らは翌朝早くにオルレアン駅で待ち合わせた。アデルハイドは嬉々としてデュシャン兄弟が用意してくれた自転車に乗った。しかし何年も前に一度自転車に乗ったきりだった彼女には、不運なことに走り出した自転車のとめ方がわからない。結局駅から広場まで走ったところで女性漁師の荷馬車に追突し、「フランスの女性漁師のみがつくことのできる悪態とともに、あらゆる方向から魚が飛んでくる」状況になった。そこでデュシャン兄弟を含む4人の男達が彼女を救いに来て、怒れる漁師をなだめ、台無しになった魚に市場の二倍のお金を払ったのだという。私はマルセル・デュシャンのレディメイド《自転車の車輪》を見るたびに、このエピソードを思い出して、ひっくり返った自転車とその周りに飛び散った魚、そして漁師をなだめるデュシャン兄弟を想像し、ひっそりと微笑んでしまう。

レディメイド《自転車の車輪》とともに写るマルセル・デュシャン
二つ目はデュシャン家の動物のエピソードである。彼女はピュトーのアトリエに毎日通い制作に励んでいたのだが、あるときデュシャン=ヴィヨンと彼の配偶者に招待されて昼食をご馳走になった。そこに居合わせたのは6匹の猫達と毛が長い1匹の犬だった。猫達はたいそう優雅に食卓の上を歩き、決して食卓の上に並んだものに触りはしないのだが、皿の隅に取り分けてもらった料理にだけは前足を伸ばして器用に掴み取り、テーブルクロスに落とすこともなく食べるのだという。犬の方は食卓の周りを走り回っているか、あるいは主人の隣に座って、デュシャン=ヴィヨンが持つ葡萄の房から一度に一粒ずつを口で受け取って食べるのだそうだ。

ピュトーのアトリエでのデュシャン三兄弟
デュシャン兄弟を写した写真には、ここで語られている猫や犬が登場するものが何枚かある。そこで動物達に明らかな親密さを示しているのはジャックかレイモンで、マルセルはあまり関心を示していない様子なのが興味深い。
(まつい ひろみ)
■松井 裕美(まつい ひろみ)
著者紹介:1985年生まれ。パリ西大学ナンテール・ラ・デファンス校(パリ第10大学)博士課程修了。博士(美術史)。現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。専門は近現代美術史。単著に『キュビスム芸術史』(名古屋大学出版会、2019年)、共編著に『古典主義再考』(中央公論美術出版社、2020年)、編著に『Images de guerres au XXe siecle, du cubisme au surrealisme』(Les Editions du Net, 2017)、 翻訳に『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
・松井裕美さんの連載エッセイ「線の詩情、色彩の調和――ジャック・ヴィヨンの生涯と芸術」は毎月25日の更新です。
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊。
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