大西洋のファサード -ポルトガルで思うこと-
第2回 散歩
佐藤圭多

ようやく住む家が定まって、窓から外を眺めていると、一匹の犬が向かいの道をうろうろしている。この国は一家に一匹飼う事が義務付けられているのかというほど飼い犬だらけだけれど、どうやら彼に主人はいないらしい。ワンゴロウと勝手に名づけたその犬は、どこかに餌場があるのかやつれる様子はなく、今日もうろうろしては道の向こうに消えていく。娘が「がんばれワンゴロウ!」と窓の外に向かって叫ぶ。


新しい街に引っ越すと、毎日何かの巡礼者のようにひたすら歩き回る。そうして自分の見た風景、音、匂いなどをパッチワークのように紡いでいって、徐々に頭の中の地図を広げていく。木漏れ日がきれいな道端のベンチとか、子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる路地とか、二階の窓にいつも猫がいて和む家とか、街がシーンの連なりに見えてくる感覚を得たくて歩く。そのうち道の個性のようなものがわかってきて、来たことのない場所でも「ここを行くとあの道になっているかも」と予感が働くようになる。人と同じように、道にも性格があるように思うのだ。
リスボンはほとんどが石畳で、場所によってはくねくねと細い道で歩道もすれ違えないほど狭く、更に急なアップダウンが続く。絵になる美しさだけれど、ベビーカーを押して歩こうものならまるで苦行だ。そんな中救われるのは、道路を渡ろうとするとほとんどの車が止まって歩行者に道を譲ってくれることだ。特に子連れの場合は例外なく止まってくれる。あの車が行ったら渡ろうと思っていても、手前で減速してしまうので、恐縮しながら前を急いで渡ることになる。地元の人を見ると、車が来るか来ないかはろくに見ずに渡り始めたりする。あぶない!とヒヤヒヤしているのは傍で見ている自分だけで、やっぱり車は必ず止まってくれる。そんなふうにして、歩道は狭く石畳はガタガタでもそのまま使われ続けている。人々の寛容さによってこの街並みは保たれているのだと気づく。


散歩で疲れた時に教会を見つけるとたいてい入る。休憩するにはカフェも良いけれど、「混んでいてゆっくりできなそう」とか「もう少し歩けばパステル・デ・ナタの美味しい店がある」などと余計な事を考えがちだ。教会は入るまで内部がまるで見えず予想がつかないのが良い。足を踏み入れた瞬間に街の喧騒は遠のいて、涼しく、心地よく「何もしない」でいられる。旅でヨーロッパを巡っていた時は、シャルトル大聖堂でもケルン大聖堂でも、その建築的特徴を見逃すまいと隅々まで目を皿のようにして見てまわったものだ。珍しい薔薇窓だ、尖頭アーチだと感心していたのだけれど、最近はもっぱら適当な椅子に座りただしばらく佇んでいることが多い。もちろん教会は敬虔な祈りの場であって、休憩場所ではないとする向きもあるだろう。もっともなのだけれど、案外この「何もしない」道を進んで行った先に祈りがあるのかも、とも思う。
リスボン近郊にある古い町の小さな教会で、修復現場を公開しているというので友人家族と訪ねた。14世紀に村人たちによって建てられた後、幾度かの改修、リスボン大地震による鐘塔の倒壊を経て、1970年に現在の形になったという。中に足を一歩踏み入れると、両壁面を埋めるアズレージョ(装飾絵タイル)が目を引く。単廊式のシンプルな教会だけれど、祭壇は手が込んでいて、ポルトガル産のピンクがかった大理石と青いアズレージョの壁面の組み合わせはちいさな宝石箱のような愛らしさがある。祭壇の柱は実は木製で、台座にあわせて大理石模様にペイントしているというから手間がかかっている。アズレージョはもちろん一枚一枚手書きされたものだし、ちいさな手仕事の数々が単純な空間ボリュームに密度を与えていて、とても親密さを感じる教会だった。


聖水盤の下のアズレージョを、水がかりで傷みが激しかったため作り直したエピソードが面白かった。そこには天使の絵が描かれていたので、その絵を忠実に再現してタイルを焼き直したのだが、その際ひとりの天使にマスクをつけたというのだ。タイルを一枚一枚慎重に外しては洗浄し、破損があれば丁寧に修復し貼り直すという気の遠くなる作業は、パンデミックの最中に行われた。ポルトガルでは屋内でのマスク着用が法律で義務化され、長い修復作業のあいだ職人たちはみなマスクをつけて仕事をしていた。こんな時代があったことを後世につたえたいので、マスクを描いたのだという。教会は今も現役で、この町に住む人々の確かな心の支えなのだとしみじみ思った。そして僕らは今この瞬間も歴史の中を生きている、そんなことを実感したのだ。
(さとう けいた)
■佐藤 圭多 / Keita Sato
プロダクトデザイナー。1977年千葉県生まれ。キヤノン株式会社にて一眼レフカメラ等のデザインを手掛けた後、ヨーロッパを3ヶ月旅してポルトガルに魅せられる。帰国後、東京にデザインスタジオ「SATEREO」を立ち上げる。2022年に活動拠点をリスボンに移し、日本国内外のメーカーと協業して工業製品や家具のデザインを手掛ける。
SATEREO(佐藤立体設計室) を主宰
・佐藤圭多さんの連載エッセイ「大西洋のファサード -ポルトガルで思うこと-」は隔月、偶数月の20日に更新します。次回は8月20日の予定です。
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●『ITO KOSHO 伊藤公象作品集』予約受付中
『ITO KOSHO 伊藤公象作品集』
刊行:2022年6月
著者:伊藤公象
監修:小泉晋弥
監修助手:田中美菜希(ARTS ISOZAKI)
企画:ARTS ISOZAKI(代表・磯崎寛也)
執筆:小泉晋弥、伊藤公象、磯崎寛也
デザイン:林 頌介
写真:内田芳孝、堀江ゆうこ、他
体裁:サイズ30.6cm×24.6cm×1.6cm、164頁
日本語・英語併記
発行・編集:ときの忘れもの
価格: 3,300円(税込)+梱包送料250円
●陶オブジェ付の特別頒布(限定50個): 25,300円(税込)+桐箱代3,000円+梱包送料1,600円
*桐箱不要の方はダンボールの箱にお入れします(無料)。

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
第2回 散歩
佐藤圭多

ようやく住む家が定まって、窓から外を眺めていると、一匹の犬が向かいの道をうろうろしている。この国は一家に一匹飼う事が義務付けられているのかというほど飼い犬だらけだけれど、どうやら彼に主人はいないらしい。ワンゴロウと勝手に名づけたその犬は、どこかに餌場があるのかやつれる様子はなく、今日もうろうろしては道の向こうに消えていく。娘が「がんばれワンゴロウ!」と窓の外に向かって叫ぶ。


新しい街に引っ越すと、毎日何かの巡礼者のようにひたすら歩き回る。そうして自分の見た風景、音、匂いなどをパッチワークのように紡いでいって、徐々に頭の中の地図を広げていく。木漏れ日がきれいな道端のベンチとか、子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる路地とか、二階の窓にいつも猫がいて和む家とか、街がシーンの連なりに見えてくる感覚を得たくて歩く。そのうち道の個性のようなものがわかってきて、来たことのない場所でも「ここを行くとあの道になっているかも」と予感が働くようになる。人と同じように、道にも性格があるように思うのだ。
リスボンはほとんどが石畳で、場所によってはくねくねと細い道で歩道もすれ違えないほど狭く、更に急なアップダウンが続く。絵になる美しさだけれど、ベビーカーを押して歩こうものならまるで苦行だ。そんな中救われるのは、道路を渡ろうとするとほとんどの車が止まって歩行者に道を譲ってくれることだ。特に子連れの場合は例外なく止まってくれる。あの車が行ったら渡ろうと思っていても、手前で減速してしまうので、恐縮しながら前を急いで渡ることになる。地元の人を見ると、車が来るか来ないかはろくに見ずに渡り始めたりする。あぶない!とヒヤヒヤしているのは傍で見ている自分だけで、やっぱり車は必ず止まってくれる。そんなふうにして、歩道は狭く石畳はガタガタでもそのまま使われ続けている。人々の寛容さによってこの街並みは保たれているのだと気づく。


散歩で疲れた時に教会を見つけるとたいてい入る。休憩するにはカフェも良いけれど、「混んでいてゆっくりできなそう」とか「もう少し歩けばパステル・デ・ナタの美味しい店がある」などと余計な事を考えがちだ。教会は入るまで内部がまるで見えず予想がつかないのが良い。足を踏み入れた瞬間に街の喧騒は遠のいて、涼しく、心地よく「何もしない」でいられる。旅でヨーロッパを巡っていた時は、シャルトル大聖堂でもケルン大聖堂でも、その建築的特徴を見逃すまいと隅々まで目を皿のようにして見てまわったものだ。珍しい薔薇窓だ、尖頭アーチだと感心していたのだけれど、最近はもっぱら適当な椅子に座りただしばらく佇んでいることが多い。もちろん教会は敬虔な祈りの場であって、休憩場所ではないとする向きもあるだろう。もっともなのだけれど、案外この「何もしない」道を進んで行った先に祈りがあるのかも、とも思う。
リスボン近郊にある古い町の小さな教会で、修復現場を公開しているというので友人家族と訪ねた。14世紀に村人たちによって建てられた後、幾度かの改修、リスボン大地震による鐘塔の倒壊を経て、1970年に現在の形になったという。中に足を一歩踏み入れると、両壁面を埋めるアズレージョ(装飾絵タイル)が目を引く。単廊式のシンプルな教会だけれど、祭壇は手が込んでいて、ポルトガル産のピンクがかった大理石と青いアズレージョの壁面の組み合わせはちいさな宝石箱のような愛らしさがある。祭壇の柱は実は木製で、台座にあわせて大理石模様にペイントしているというから手間がかかっている。アズレージョはもちろん一枚一枚手書きされたものだし、ちいさな手仕事の数々が単純な空間ボリュームに密度を与えていて、とても親密さを感じる教会だった。


聖水盤の下のアズレージョを、水がかりで傷みが激しかったため作り直したエピソードが面白かった。そこには天使の絵が描かれていたので、その絵を忠実に再現してタイルを焼き直したのだが、その際ひとりの天使にマスクをつけたというのだ。タイルを一枚一枚慎重に外しては洗浄し、破損があれば丁寧に修復し貼り直すという気の遠くなる作業は、パンデミックの最中に行われた。ポルトガルでは屋内でのマスク着用が法律で義務化され、長い修復作業のあいだ職人たちはみなマスクをつけて仕事をしていた。こんな時代があったことを後世につたえたいので、マスクを描いたのだという。教会は今も現役で、この町に住む人々の確かな心の支えなのだとしみじみ思った。そして僕らは今この瞬間も歴史の中を生きている、そんなことを実感したのだ。
(さとう けいた)
■佐藤 圭多 / Keita Sato
プロダクトデザイナー。1977年千葉県生まれ。キヤノン株式会社にて一眼レフカメラ等のデザインを手掛けた後、ヨーロッパを3ヶ月旅してポルトガルに魅せられる。帰国後、東京にデザインスタジオ「SATEREO」を立ち上げる。2022年に活動拠点をリスボンに移し、日本国内外のメーカーと協業して工業製品や家具のデザインを手掛ける。
SATEREO(佐藤立体設計室) を主宰
・佐藤圭多さんの連載エッセイ「大西洋のファサード -ポルトガルで思うこと-」は隔月、偶数月の20日に更新します。次回は8月20日の予定です。
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●『ITO KOSHO 伊藤公象作品集』予約受付中
『ITO KOSHO 伊藤公象作品集』刊行:2022年6月
著者:伊藤公象
監修:小泉晋弥
監修助手:田中美菜希(ARTS ISOZAKI)
企画:ARTS ISOZAKI(代表・磯崎寛也)
執筆:小泉晋弥、伊藤公象、磯崎寛也
デザイン:林 頌介
写真:内田芳孝、堀江ゆうこ、他
体裁:サイズ30.6cm×24.6cm×1.6cm、164頁
日本語・英語併記
発行・編集:ときの忘れもの
価格: 3,300円(税込)+梱包送料250円
●陶オブジェ付の特別頒布(限定50個): 25,300円(税込)+桐箱代3,000円+梱包送料1,600円
*桐箱不要の方はダンボールの箱にお入れします(無料)。

●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
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営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
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