瀧口修造と作家たち ― 私のコレクションより ―

第9回「池田満寿夫と靉嘔」

清家克久

「池田満寿夫」

 
図版1図版1.
「紐」
1973年作
カラーメゾチント
18×15.5cm
限定100部
E.P.12部

図版2図版2.
『GQ3』特装限定本、函

 GQ第3号特装限定本(株式会社ジイキュウ出版社1973年4月刊定価4万円)に挿入された池田満寿夫のオリジナルカラーメゾチント作品。本書の創作メモには「複製に適さない作品をつくること、それは作者の写真製版万能時代へのささやかな抵抗である。」と書かれており、敢えて暗く表現している。
 1970年代に版画ブームに乗って版画雑誌や版画集が盛んに出版されたが、GQ誌もその一つ。ややマニアックな版画専門季刊誌で編集発行人は森口陽である。森口は1973年9月にフィラデルフィア美術館で開催されたマルセル・デュシャン回顧展に瀧口修造と同行している。

図版3図版3.
『traveller's joy』より「くずれた土」
1973年
カラーメゾチント
22×19.5cm
限定97部A.P.28部
南天子画廊刊

 西脇順三郎との詩画集『traveller’s joy』(南天子画廊1973年刊)中の一点「くずれた土」で、これもカラーメゾチントによるものだがシュルレアリスムを彷彿させるような作品である。ネットオークションに額付きで出品され1万円ほどで落札したもので、シートにサインは無いが額の裏にエナメルで大きく書かれた池田の自筆の署名と日付が入っている。本冊は限定97部A.P.28部で、オリジナル銅版画9点(各サイン)及び別刷スイート9点(別色)の全18点からなる豪華本である。

図版4図版4.
池田満寿夫の署名と日付


 池田満寿夫が版画を始めたきっかけは、1955年に絵画グループ「実在者」の仲間であった靉嘔の紹介で瑛九と知り合い、瑛九から銅版画の制作を勧められたからである。翌年に彼の協力で「色彩銅版画集」を作り、美術評論家で有数の版画コレクター久保貞次郎に見せると「池田君これはエルンストの銅版画に匹敵しますよ!」と賛嘆し、即座に5冊買い取った。また、池田と靉嘔に一年契約で銅版画制作を依頼するなど彼らの生計を助けた。久保は子どもたちが自由な感性で美術に接することを目的とした創造美育運動を推進する一方で、「小コレクターの会」を結成し、作品の頒布会や若い作家の育成を支援していた。1957年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展では、公募部門の審査員だった久保の助言で池田は辛くも初入選を果たしている。(以上は川合昭三著『池田満寿夫』保育社カラーブックス1978年9月刊を参考に一部記述を引用した。)

図版5図版5.
川合昭三著『池田満寿夫』
保育社カラーブックス1978年9月刊・表紙

 池田はタケミヤ画廊で1957年1月に開催された「第3回銅版画展」に初めて出品しているが、「瀧口さんには五七年一月の神田のタケミヤ画廊での”銅版画展”のかざりつけの日にお会いしていた。その銅版画展は瀧口さんが主催していて、その年はじめて瀧口さん自身から出品を依頼されたのである。五六年に最初の”色彩銅版画集”を自費で出版しそのなかの一部を瀧口さんに寄贈したものを、ご覧になって気に入ってくれたからであった。それまでにも瀧口さんには画廊のオープニングで何度かお目に掛ったことはあったが、直接話をする機会は”銅版画展”の時がはじめてであった。かざりつけが終わってから加納光於、野中ユリ、瀧口さんと四人でお茶の水の喫茶店でお喋りをした。多分加納、野中両君にあったのもこの時がはじめてだったかも知れない。」(「現代詩手帖」1974年10月臨時増刊瀧口修造所収「詩人の贈物」より)と回想している。
 1963年9月に日本橋画廊で開催された「池田満寿夫銅版画展」のカタログに瀧口は「朝食のときから始まる」(it begins with breakfast time : )と題して寄稿した。(『余白に書く』みすず書房1966年5月刊所収、原文は英文だが和訳も併載)そこで池田のことを「金属板の上に降りてきた鳥」になぞらえているが、引っ搔いたようなドライポイントの線と彼の制作する姿に鳥のイメージを重ねていたのだろう。
 池田は1960年の第2回東京国際版画ビエンナーレ展(招待制に移行)に久保の推薦で選ばれ、文部大臣賞を受賞する。その後も国内外の展覧会で数々の受賞を重ね、遂には1966年の第33回ヴェニス・ビエンナーレ展の版画部門で最高の栄誉であるグランプリを獲得し一躍有名になった。彼は版画の多様な技法を駆使して次々と作風を変えていったが、テーマは「女とエロス」で一貫している。版画のみならず芸術の様々な分野で多彩な才能を発揮し、女性遍歴も相俟って脚光を浴び時代の寵児ともてはやされたのは周知のとおりである。


「靉嘔」
 
図版6図版6.
「アンフォルメールNo.1」
1957年作
リトグラフ
38×25cm部
数僅少

 この作品は「1957年代に『アンフォルメール』と題して追求した恐らくは百点に及ぶと推察される連作」(長谷川公之執筆「現代版画イメージの追跡」美術手帖1986年9月号増刊より)の一点である。数年前にネットオークションで1万5千円で落札した。シートの右下に自筆サインと制作年月、左下にNo.1の記載がある。当ギャラリーの綿貫不二夫さんにカタログレゾネを調べていただいたところ、レゾネ番号100、作品名「アンフォルメールNo.5」と同一作品と判明した。だが、No.1~No.4はレゾネに無いので実質のNo.1にあたるだろうとのことであった。タイトルそのままに日本にアンフォルメル旋風が巻き起こった時代の影響をまともに受けた作品で激しい筆致がそれを物語っている。


 靉嘔(本名:飯島孝雄)は1955年2月にタケミヤ画廊で「若い仲間たち」と題して最初の個展を行った。瀧口修造は早くから読売アンデパンダン展に出品していた靉嘔に注目しており、第7回展を見て「靉嘔も昨年までの混とんとした表現から、明るい肯定的な人間の世界を描いている。若さが仮説に終らずに、絵画的実在として充実することが期待される。」(「第7回読売アンデパンダン展」美術手帖1955・5コレクション瀧口修造第7巻所収)と評している。出品作は個展と同タイトルの油彩画の大作であった。
 ジャクソン・ポロックやマルセル・デュシャンに魅かれていた靉嘔は1958年に渡米するが「靉嘔渡米後援会」が発足し、発起人には美術関係者や政治家から女優まで錚々たる人物が名を連ねている。当然のことながら瀧口修造、久保貞次郎、瑛九も含まれており、彼の才能と将来に大きな期待が寄せられていたことが伺える。
アメリカではいち早く国際的な前衛美術運動のグループ「フルクサス」に参加し、ジョン・ケージ、オノ・ヨーコ、ナム・ジュン・パイクらと活動している。日本人では他に一柳彗、刀根靖尚、塩見允枝子らがいた。1963年にニューヨークの個展で初めて虹の構成による空間を発表するが、虹の画家として一躍注目を浴びたのは1966年の第33回ヴェニス・ビエンナーレ展であった。奇しくもその時の日本のコミッショナーは久保貞次郎で、池田満寿夫が版画部門でグランプリを受賞している。
 靉嘔はその年の11月に帰国し、南画廊で第1回個展を行ったが作品はあまり売れなかったという。久保貞次郎に師事し「わたくし美術館」運動を行っていたコレクターの尾崎正教が売れ残った作品を買い取り、友人達に頒布している。尾崎はかつて心酔していた瑛九から「僕の作品を買って呉れるのは嬉しいが、君はもっと多くのすぐれた作家の絵も買うべきだ。靉嘔がいいだろう。靉嘔へは僕が話をつけてあげよう。」と言われていたそうである。(尾崎正教著「わたくし美術館」文化書房博文社1980年1月刊より)本書には尾崎が写した1950年代の貴重な写真(図版8)も掲載されているので紹介しておきたい。
 靉嘔はフルクサスの影響から環境芸術に取組んでいるが、それは虹の連作として今日まで展開されている。それが国際的な舞台で数々の受賞を重ね「虹の画家」として世界的な名声を博する結果をもたらしているのではないだろうか。

図版7図版7.
尾崎正教著『わたくし美術館』
文化書房博文社1980年1月刊・表紙

図版8図版8.
同上書掲載写真
・左より瑛九、靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久

 池田満寿夫と靉嘔、それぞれに才能を開花し、版画というジャンルを越えて美術界に大きな足跡を残した二人だが、その陰には彼らの若い頃から支援していた瑛九、久保貞次郎、そして瀧口修造の存在があったことを忘れてはならないだろう。

(せいけ かつひさ)

清家克久 Katsuhisa SEIKE
1950年 愛媛県に生まれる。

・清家克久さんの連載エッセイ瀧口修造と作家たち―私のコレクションより―は毎月23日の更新です。

清家克久さんの「瀧口修造を求めて」全12回目次
第1回/出会いと手探りの収集活動
第2回/マルセル・デュシャン語録
第3回/加納光於アトリエを訪ねて、ほか
第4回/綾子夫人の手紙、ほか
第5回/有楽町・レバンテでの「橄欖忌」ほか
第6回/清家コレクションによる松山・タカシ画廊「滝口修造と画家たち展」
第7回/町立久万美術館「三輪田俊助回顧展」ほか
第8回/宇和島市・薬師神邸「浜田浜雄作品展」ほか
第9回/国立国際美術館「瀧口修造とその周辺」展ほか
第10回/名古屋市美術館「土渕コレクションによる 瀧口修造:オートマティスムの彼岸」展ほか
第11回/横浜美術館「マルセル・デュシャンと20世紀美術」ほか
第12回/小樽の「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展ほか。
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