ウォーホルと栗山豊の時代

第2回 ウォーホル・ウォッチャー、栗山豊ファイルから見えるもの

森下泰輔(現代美術家/美術評論家)


栗山豊が収集したアンディ・ウォ―ルに関する日本の新聞・雑誌記事、美術手帖、映画評論などの論評、展覧会のチケット、チラシ、映像を録画したヴィデオテープなど膨大な記録は一体なんであったのか。まず、栗山が興味を持ったものであり、アカデミックな意味での画集や単行評論集などは、一部しか入ってはいない。

通常、美術に関わる重要度からいえば、そのようないわば公式な出版物が最初に来るのだが、栗山の収集物は、ゴシップやもっとも一過性に消費される日常的な出版物が中心である。
これらは、「芸術の日常性への下降」宮川淳(*宮川はこれを反芸術、ないし非芸術の、と考えたが、半世紀以上も経過し、当時の「反」芸術は単に芸術になった、と思われる)からすると、まさに「日常性へ下降」したエッセンスであるとはいえ、栗山はアンディ・ウォ―ホルやポップの本質にきわめて忠実に反応しつつ感覚的に収集していったのだろう。
ここで参照するのは当のウォ―ホル自身による《タイムカプセル》という考え方だ。それまでも気になる文物を収集していたウォ―ホルは、1974年ユニオンスクエアからブロードウェイ860番地の「オフィス」と呼ばれるスタジオに移転。その際に規格サイズの段ボール箱に物を入れて保管するようになった。
現在では610個、約31万点の文物が収められていることがわかっている。

11. アンディ・ウォーホル《タイムカプセル》 アンディ・ウォーホル美術館アーカイヴ

ウォ―ホルは、これらにサインを入れて作品として売却することも考えていたが実現しなかった。ゆえに現在ではこの段ボール、もしくは総体としての考え方がアート「作品」としてみなされている。《タイムカプセル》を軸として収集された全アンディのコレクション(アンディ・ウォーホル・アーカイヴ)には作品制作の参考にした新聞・雑誌記事の切り抜きやチラシなどのほか、奇妙なものも混じっていた。30以上のカツラ、4000ものオーディオテープ、ビジネスの契約書、展覧会の招待状、ファンからの手紙、飛行機のメニュー、小切手、未払いの請求書、クッキーの瓶、ピザの生地、カットした爪、古代エジプトのミイラ化した足なども含まれる。友人ヴィンセント・フレモントは「彼の使命は接触したすべてを記録することだった」と述べた。

2.タイムカプセル21
2. 《129 DIE IN JET!》の元になった新聞記事。《タイムカプセル#21》の内容物。

ウォ―ホル研究は近年《タイムカプセル》分析に主軸が置かれ、より「トリビア」化している。2020年に刊行された美術評論家ブレイク・ゴプニク「WARHOL」の976ページに及ぶ伝記はトリビアで埋まっている。そのゴプニクが、(*1972年)ウォ―ホルは掃除機で画廊を掃除し、集塵袋に署名し、ゴミを作品としたことを引用し(The Wall Street Journal 2020年4月24日)、ウォーホルを概念芸術家の方向から再認識しようとしている。そもそもデュシャンのレディメイドの手法はウォ―ホルによって、無限に拡張しゴミまでをアートにする概念芸術化した(*アルマンの影響を指摘する向きもある)。《タイムカプセル》を加味すれば、情報ののった新聞・雑誌類切り抜きを含む廃棄物フェティッシュであり、これらは「作者がそれを選ぶ」(*デュシャン)ことで成立するコンセプチュアル・アートなのだ。

3.
3. ブレイク・ゴプニク「Warhol: A Life as Art」(2020刊)表紙。Photo by Michael Childers, Andy in New York Studio、1976 この写真のサングラス、皮ジャン姿は1965~66あたりのシルヴァー・ファクトリー時代のものだ。1976とはアンディは、あえて伝説の姿で写真を撮らせていたのだろう。

翻って、概念芸術家・栗山豊の場合も、単なる情報ではなく、ウォーホルの新聞・雑誌の切り抜き自体に同様のフェティシズムを感じていたのである。
栗山はウォ―ホルの代わりに日本版《タイムカプセル》を「制作」していた、とも考えられないだろうか。ゆえに栗山《タイムカプセル》は派生したウォ―ホル作品ともいえる。これは例えばルーベンスの影響を受けた一派を「スクール」と解釈するのと同様に「アンディ・ウォ―ホル・スクール」というべきものであろう。おそらく全世界に同様の現象が起こっていたのではないか。

4.
4. ときの忘れものでの「栗山ファイル」資料展示の一部 2006

もしくは、ウォ―ホルの小説「a」(1968刊)はだらだらと録音されたファクトリーの会話のテープおこしが主(*擬音まで活字化されている)だが、長谷川真紀男の「a'」(1971)概念はA.W.観念に「’」をつけるというものだった。栗山のA.W.日本資料収集もまたこれと同じく《タイムカプセル》に付加された「’」であるといえようか。

5.
5.栗山のスクラップブックの表紙にはアンディ・ウォ―ホルの中国語のレタリングが書かれている(*1994年台北市立美術館で開催された際の漢字表記を引用)。

最初期のものは「映画評論 1967年3月号 アンディ・ウォ―ホル論 飯村隆彦」をはじめ、おおむね映画雑誌を中心に集められた。
日本でウォ―ホル没後、実質的に大回顧展となった東京都現代美術館「アンディ・ウォ―ホル 1956-86:時代の鏡」展1996図録中(P240-241)で、当時、朝日新聞文化企画局・帯金章郎は、栗山の資料をつぶさに分析したことを註釈で謝辞として述べながら次のようにいう。
「ウォ―ホル受容の揺籃期(*1960年代)とも言えるこの時代、美術作品よりもむしろ彼の映画に注目が集まり、紹介も映画関係者を中心に行われていった。(中略)
前述の二人(*石崎浩一郎と飯村隆彦)にさらに金坂健二、宮井陸郎、日向あき子らアンダーグラウンド映画の作家、もしくは関係者によって発表されている」。
ほかに60年代のモダンジャズ喫茶・上野「ITO」のマッチ。50年代のイラストレーター時代の絵が使用されているが、許可を取ったのか否かは不明。渋谷・天井桟敷館での映画「ウォーホル E.P.I.」(ロナルド・ナメス監督)のチラシ(1970年代初頭)。

6

6. 60年代のモダンジャズ喫茶・上野「ITO」のマッチ。50年代のイラストレーター時代の絵が使用されている。

ここからは栗山ファイルをざっと羅列をしてみる。ウォ―ホルの紹介によく使われた彼のキャンベルスープ缶のような、タイムカプセルのような並列という手法を取る。見出しないし内容が最低限わかるようにテキストも入れてみた。
あえて美術専門誌の単体の評論や単行本、図録での評論は評者の名前をここに列挙し詳細には触れない。1969年~1999年までの30年間どのような論者がウォ―ホル論を書いたのか。東野芳明、石崎浩一郎、日向あき子、久保田成子、秋田由利、浜野安宏、谷川晃一、市川浩、藤枝晃雄、ヨシダ・ヨシエ、武邑光裕、磯崎新、中村敬治、近藤竜男、伊藤順二、篠田達美、米倉守、寺山修司、中原佑介、針生一郎、松本俊夫、建畠晢、清水俊彦、伊藤俊治、金坂健二、桑原住雄、粉川哲夫、宮下規久朗、黒田雷児などのウォ―ホル論がある。

それでは、栗山ファイルに存在するものより、ポッピズム形式でウォ―ホル的大衆的な新聞・雑誌に力点を置いて主だった一部を紹介していこう(*ウォーホルの著作では、難しい美術論よりも世俗的な話題がナラティーフに語られている。それが彼の考えたポップアートだった)。

〔季刊FILM 1971年7月号 No.9 アンディはリュミエールに戻った ジョナス・メカス(飯村昭子訳)/フィルモグラフィ 飯村隆彦編〕(メディアは〔〕で示す)。「渋谷・西武デパート画廊で1971年開催された本邦初のウォ―ホル個展の案内状」(物は「」で示す)。〔平凡パンチ 1972年月日不明 ジェーン・フォース来日〕、まず能面のような女といわれウォ―ホル映画「トラッシュ」に出演したスーパースターのフォースが来日した。
〔サブ 5号 1972年12月号 吉田大朋撮影のウォ―ホル〕。
〔朝日新聞 1974年9月8日「ウォ―ホル氏が来日」来月から美術展〕、来日の先行告知。安斎慶子が紹介される。〔週刊朝日 1974年9月27日号 来日するウォ―ホルの鬼才を”生体解剖”する 映画「悪魔のはらわた」の製作者 蜷川真夫〕、74年はウォ―ホルが名前を貸した劇場用映画が封切られた年でもあった。〔週刊朝日 1974年10月4日号 ウォ―ホルを撃った女のスゴい本 松井やより〕、〔週刊プレイボーイ 1974年10月15日号 ポップアートの”神様”が10月に来日 天才か狂人か?〕、〔朝日新聞 1974年10月23日夕刊 世界の顔 「エンパイア(⋆1964)は京都の庭で石をじっとみつめている人たち」にヒントを得た。有吉特派員〕、来日直前、主催の朝日新聞特派員がウォ―ホルに取材(*だがこの実験映画「エンパイア」の制作動機に関しては日本向けの発言でしか、石庭を語っておらず、たぶんに来日用リップサービスであった可能性もある。詳細な分析を待ちたい)。
〔平凡パンチ 1974年10月28日号 ザ・チャレンジャー 安斎慶子をクローズアップ〕、〔GORO 1974年11月号 アンディ・ウォ―ホルの”奇妙奇天烈世界”「『ウォ―ホルの芸術』がこれまで日本で本格的にとりあげられなかったのは《文化の偏向》のほうが問題かもしれない」なぜ今頃。「それにしても、彼は自分では何ひとつつくらなかったともいえます」「はたしてホンモノがくるかどうか」〕。

7
7. GORO 1974年11月号

同誌には「三菱、三井の次が憂慮される大商社爆破事件の背景」と題された記事も散見できる。この時代はまだ左翼テロが色濃くあった。雑誌のスクラップは同時代を封入したタイムカプセルでもある。
さても“カリスマ”アンディ・ウォ―ホルは、大丸での展覧会のため、10月29日夜エールフランス機で羽田に着く。1974年は来日と展覧会開催でマスコミは俄然盛り上がりを見せる。来日時の新聞記事では、ウォ―ホルをビートルズと並べまるでロックスター来日のような報道が相当数現れた。50媒体以上に掲載されている。

8
8. アンディ・ウォ―ホルは、大丸での展覧会のため、1974年10月29日夜エールフランス機で羽田に着く。出迎えた仕掛け人・安斎慶子(右)と女優の岡田京子(左)。 撮影:鶴田義久

〔スポーツ・ニッポン 1974年10月30日 「ウォ―ホル来日」「日本で映画撮りたい 教祖的な風ぼう」「銀色の生ける死者」〕、〔朝日新聞 1974年10月30日 「日本の印象は?」「ハッピーです」〕、〔1974年10月 大丸展の新聞広告「今世紀最後のスーパースター」〕、〔11PM「あんなとこまで見ちゃった」朝日新聞 1974年10月30日 テレビ番組欄〕、来日翌日、東野芳明、寺山修司、黒柳徹子と「11PM」に出演。

9
9. 1974年10月 大丸展の新聞広告「今世紀最後のスーパースター」

10
10. 11PM「あんなとこまで見ちゃった」朝日新聞 1974年10月30日 テレビ番組欄、来日翌日、東野芳明、寺山修司、黒柳徹子と「11PM」に出演。

「大丸ウォ―ホル展チケット」、栗山が入場したもの。〔夕刊フジ 1974年10月31日「”前衛の王者” A・ウォ―ホル氏が来日」〕、〔朝日新聞 1974年10月31日夕刊 神式で開会 ウォ―ホル展〕、〔朝日新聞 1974年11月5日夕刊 大丸オープン(*牛の)壁紙も「売って」〕、〔藝術生活 1974年12月号 ウォーホル資料 松崎彰・編〕。

11
11. 「大丸ウォ―ホル展チケット」、栗山豊が入場したもの。

12
12. 朝日新聞 1974年11月5日夕刊 大丸オープン(*牛の)壁紙も「売って」

〔週刊朝日 1974年11月8日号 喜美子・パワーズが着物でモデルになった話〕、〔朝日ジャーナル 1974年11月22日号「華麗なる反芸術 アンディ・ウォ―ホルに聞く」ウォ―ホル×東野芳明〕、「反芸術」なる語は東野の過失だと思う。ためにいまだに本邦の現代芸術は認知されるのが遅れている。
〔アサヒグラフ 1974年11月22日号 ウォ―ホル日本の印象〕、〔週刊朝日 1974年11月22日号「ウォ―ホル来日で煙に巻かれたニッポン人たち」蜷川真夫〕、〔ローリング・ストーン 日本版 1974年12月号 宮澤壮佳「繰り返せば有名になる ウォ―ホルのお伽噺」 ウォーホル、カポーティ対談〕。
だが興味深いのは本来ジャーナリスティックなゴシップ記事的なGOROでは、その後のウォ―ホル芸術全体をまとめてしまうようなしっかりとした紹介がなされているのに対し(*GOROの著者は米国の図録でも読んでいたのか、きわめて正確にウォ―ホル芸術をとらえている)。対して美術専門の宮澤壮佳はといえば、ルー・リードからボウイに至る欧米ロックシーンに主眼が置かれ、ウォ―ホルイズムはロックに引き継がれているという大上段なしかもサブカル主体の解説になっている。ここではハイアートとサブカル(ローレベル)が逆転している。宮澤といえば「美術手帖」編集長をつとめ彼の歴任中は美術専門誌をアングラ、サブカル色で埋め尽くした過去があった。このときには、美術はアカデミックで保守的ジャンルであり、ロックこそがアヴァンギャルドの精神性をつなぐものであったのだ。

〔ビックリハウス 1975年1月号 中谷芙二子に薔薇の花100本をプレゼントしたとか、 何にもやらかさずにお行儀よく去った〕、〔草月 1975年2月号 中谷芙二子 「ウォ―ホル 東京の夜と朝」〕、これはウォ―ホルに密着したアドバイザー、霧の芸術家、中谷芙二子の原稿で来日時のウォ―ホルをもっとも詳細に語っている最重要のもの。京都・龍安寺から8時間映画「エンパイア」のヒントを得たとアンディ。

13
13. 草月 1975年2月号 中谷芙二子 「ウォ―ホル 東京の夜と朝」見開き頁コラージュ(作者不詳)。日本滞在中のスナップがウォーホルの代表作をまじえ構成された。勅使河原蒼風、霞像を制作するウォ―ホル、クラブでの談笑風景や料亭で和食を食すウォーホルなどの写真もうまく入れている。

〔夕刊フジ 1976年2月1日 安斎慶子〕。
1977年に「スタジオ・ボイス」誌がウォ―ホルのインタヴュー誌と契約をし、ニューヨーク社交界のウォ―ホル像を本邦に増幅させた。〔DRESSSAGE 1978年春号 森顕がインタヴュー誌とスタジオ・ボイス誌の提携の話をしている〕。
82年「キングコング主催のウォ―ホルナイトのチラシ ウォ―ホルのヴィデオ上映」、
83年「ギャラリー360°ウォ―ホル・ウォ―ル 10.6-23チラシ」なども見える。
〔BRUTUS 1983年3月15日号 ウォ―ホルのロボット製作の話 AVG社現在製作中。本人を工場に呼び髪の毛一本まで正確に再現〕、〔FOCUS 1983年3月18日号 ダイアナ・ロスとウォ―ホル〕。
続いて来日は果たせなかったが、ときの忘れもの前身現代版画センターが《KIKU》、《LOVE》計6種のウォ―ホルのジャパンエディションとパルコを皮切りに一年間各所を巡回した「ウォ―ホル365日展」のときに報道は増大する。展覧会には栗山豊本人も濃密に関わった。
〔季刊アート 1983年春3月号 「アンディ・ウォ―ホル あるいは、時代の鏡」 東野芳明と宮井陸郎対談〕、74年来日時に続いて365日展でも宮井陸郎は奔走した。ここで東野は初めて30代前半のウォーホルにあったのは1962年のレオ・キャステリ画廊で、「ムービースターを絵にしている」といわれ理解できなかった、と語る。66年にはドムに入りびたり、ニコとヴェルヴェッツのA.W.‘s E.P.I.のマルチメディアショーを何度も見たとも。宮井撮影のウォーホル・スタジオ写真も掲載。
〔アンディ・ウォ―ホル展1983~1984 オリジナルKIKU入り図録(栗山も編集委員)〕、このときウォ―ホルに関して述べた横尾忠則、黒柳徹子、赤塚不二夫、三宅一生、赤瀬川原平、草間彌生ら152名(筆者も含まれる)の生原稿もときの忘れものに保管されている。同時代の先鋭的文化人の貴重な証言だ。
〔季刊アート 1983年夏6月号 KIKU、LOVEのジャパンエディションの内幕〕、〔日刊ゲンダイ 1983年6月10日 筆者・森下泰輔による展覧会告知〕、〔朝日新聞 1983年6月11日夕刊 KIKU、LOVE日本エディション〕、〔版画藝術 1983年7月号「アンディ・ウォ―ホル最新作特集」 横尾忠則・日向あき子・白石かずこ対談 KIKU、LOVEができるまで 刷り師・石田了一が刷りに至った経緯をつぶさに解説している 一色与志子が新エディションの制作進行記〕、〔ホットドッグ・プレス 1983年7月10日号 谷川晃一と宮井陸郎の対談〕、〔公明新聞 1983年7月19日 「今に持続する”60年代”」日向あき子〕、ロックとウォ―ホルに関して書いている。〔コマーシャル・フォト 1983年8月号 「ウォ―ホル今昔」 谷川晃一〕、〔FOCUS 1983年8月5日号 大谷石採掘場跡 ここは廃坑ではない〕。そのほかBRUTUS、シティ・ロード各誌が大谷石採掘場跡のウォーホル展に触れている。〔朝日新聞 1983年8月19日 宇都宮大谷石採掘場跡の記事〕、〔平凡パンチ1983年8月22日号 大谷石採掘場跡での展覧会〕、〔美術手帖 1983年9月号 365日展カタログの紹介〕、〔POPEYE 1983年9月10日号 宇都宮に出現した 超現実アート空間 「1点18万円のウォーホル最新作」KIKUや365日展カタログ紹介〕、BRUTUS 1983年9月15日号 大谷石採掘場の展示を〕。

14
14. 《KIKU》を紹介するPOPEYE 1983年9月10日号

このあたりからまた芸能人との絡みの記事が続く。
〔ホットドッグ・プレス 1983年11月○日号 ウォ―ホルがラッツ&スターのジャケットを〕、〔TIME 1984年3月19日 ウォ―ホルのマイケル・ジャクソンの表紙 マイケル私生活特集号〕、〔スタジオ・ボイス 1985年9月号 ウォ―ホル ナウ&ゼン 近況〕、〔スタジオ・ボイス 1985年11月号 高橋源一郎が「16年前のウォ―ホル」正体を〕、〔朝日新聞 1985年12月18日「アンディがネパールの山村に3000ドル60万円を寄付 長野の林さんが受け取る」〕、〔FOCUS 1986年9月26日号 NYでウォ―ホルがヨーコ・オノ、へリングらと夜の散歩〕、〔POPEYE 1986年11月○日号 メンローヴ・アヴェニュー ウォ―ホルがレノンのレコードジャケットを〕、〔BRUTUS 1987年1月1日号 中沢新一「イーディのチャオ・マンハッタン」について〕。

15
15. 「アンディ・ウォーホル365日展」大谷石採掘場跡での展示を紹介する平凡パンチとPOPEYE

16
16. 版画藝術 1983年7月号「アンディ・ウォ―ホル最新作特集」 一色与志子が新エディションの制作進行記

そしてこの後、突如衝撃的なウォ―ホルの訃報が入ってくる。1987年2月22日、術後の合併症によりニューヨーク病院で息を引き取る。享年58歳。
1987年2月23日新聞各紙 筆者もかかわった日刊ゲンダイ、朝日、読売、日経、ザ・テレビジョンなど10紙誌以上に訃報がみられる。

17.死亡告知のファイル

17.死亡告知関連記事のファイル

〔朝日新聞 1987年3月10日夕刊 ヒマラヤのアンナブルナ山麓のチョモロン村に発電機を寄贈 この発電機に60万円寄付したウォ―ホルの名を現地に刻む〕、〔芸術新潮 1987年4月号 「ウォ―ホル死して画商を走らす」高騰中 マリリン10点セットが1500万円〕、それでも現在の10分の1以下である。
死の2か月後〔朝日新聞 1987年4月12日 NY病院を告発〕。アンディ死亡は医療ミス、このスクラップの真下に、〔朝日新聞 1991年12月25日 医療事故病院側が10億円支払うことで決着〕。

〔BRUTUS 1987年4月15日号 「眼の楽園」伴田良輔 ウォ―ホル訃報に関して〕、棺の上に5本ほどの薔薇 白髪のカツラの行方も気になる、と結ぶ。
〔TOUCH 1988年5月24日号 これが「ウォ―ホル・コレクション」〕、〔芸術新潮 1988年6月号 ウォ―ホル・コレクションのオークション 篠原有司男「ウォ―ホル遺産VS.ハイエナの群」〕、サザビーズでウォ―ホル・コレクションが10日間にわたりオークションにかけられ31億5700万円売り上げた。

18
18. 芸術新潮 1988年6月号 ウォ―ホル・コレクションのオークション 篠原有司男「ウォ―ホル遺産VS.ハイエナの群」、サザビーズでウォ―ホル・コレクションが10日間にわたりオークションにかけられ31億5700万円売り上げた。写真はカットに使用された「マンガを読む篠原有司男とウォーホル」(映画「ラスト・オブ・アーティスト」ロッド・マッコール監督 撮影:遠藤正 1971)。篠原は60年代初頭からウォーホルやポップアートに覚醒してきた邦人芸術家である(*イミテーションアート)。

〔朝日新聞 1987年6月20日夕刊 「彼の寝室 古い十字架宗教の本」 敬虔なクリスチャン然とした寝室には自身の作品はなかった〕、〔公明新聞 1987年8月27日 金坂健二がキャンプなドラッグ文化を軸に据えた文化論「受容されるウォ―ホー(*ママ)ルの世界」〕、〔版画藝術 1987年10月号 No58 Goodーbye Andy Warhol 秋田由利のウォ―ホル論 岡部徳三「ウォ―ホルのシルクスクリーン技術」 ウォ―ホル年譜:中島理壽編ほか〕。
〔朝日新聞 1988年7月24日 18日に死去したニコの訃報記事〕、〔朝日新聞 1988年8月17日 12日に死亡したバスキアの訃報記事〕同ファイルに1988年4月26日、ヴァレリー・ソラナス死去との栗山メモも(*実際は25日に死去)。
〔朝日ジャーナル 1989年7月21日号 MoMAの回顧展はデュシャン以後最大といってよいこのアーティストの重要性をあらためて印象付けた 同時にフールズメイトから出版されたヴェルヴェット・アンダーグラウンドの特集本を紹介〕、〔朝日新聞 1990年4月3日 晴海の「東京アートエキスポ」でウォ―ホル「パラマウント」「ザ・ニュースピリッツ」が盗難にあう サンフランシスコの画廊経営者が被害〕。
このころ「ギャラリーOZ アンディ・ウォ―ホル美術館設立準備委員会(告知文)」。〔エスクァイア 日本版 1991年4月増刊号 表紙がA.W.「60年代の予言、近未来の原像」 「アンディ・ウォ―ホルが撃たれた日」石崎浩一郎ほか〕、〔スポ-ツ・ニッポン 1991年6月26日 ポップ・アートの神様 影武者いた‼〕、60年代ウォ―ホルの代わりに大学で講義をしたそっくりさん、アレン・ミジェット来日。〔読売新聞 1991年7月5日に掲載されたFOCUSの広告〕、〔FOCUS 1991年7月12日号 「君のほうが世間の知っているウォ―ホル像に近い」(ウォーホル) アレン・ミジェットの写真〕、〔週刊朝日 1991年7月12日号 アレン・ミジェット来日〕。

19
19. エスクァイア 日本版 1991年4月増刊号 表紙がA.W.「60‘srevolution 60年代の予言、近未来の原像」 内容「アンディ・ウォ―ホルが撃たれた日」石崎浩一郎ほか

〔AERA 1994年9月26日号 ピッツバーグにウォ―ホル美術館オープン〕。
東京都現代美術館でのウォ―ホル「時代の鏡」展に合わせて記事が増える。
〔朝日新聞 1996年4月16日夕刊 「時代の鏡」展 磯崎新「既成美術に毒仕込む」〕、〔芸術新潮 1996年6月号 ウォ―ホル特集号 セザンヌやゴッホ、ポロックすら蹴とばした”ポップの神様”〕。「MOTウォ-ホル展 栗山豊の入場チケット 1996年5月22日の刻印」。〔BT 1996年7月号 ビリー・ネームと今野雄二対談〕、美術手帖はBTと名前を変えてこの記事はきわめてジャーナリスティックに作られている。〔アサヒカメラ 1996年7月号 ビリー・ネームの写真展アンディ・ウォ―ホル:シルバー・イヤーズ」紹介 MOT「時代の鏡」展紹介〕。

20
20. 朝日新聞 1996年4月16日夕刊 「時代の鏡」展 磯崎新「既成美術に毒仕込む」

ほかに栗山が録画したヴィデオテープとしては、TDKCMに出演するウォーホル(83年12月)、ウォーホル死亡のテレビニュース(87年2月22日)、日曜美術館ウォーホル特集(91年1月20日)、ニュース「ウォーホルに影武者が」(91年7月4日)、アンディ・ウォーホルの世界(91年7月22日)などが収録されている。

96年以後も、新聞・雑誌掲載記事や展覧会チラシなどを収集しつつ、栗山豊は2001年2月22日、(*繰り返すがアンディ・ウォ―ホルの命日である)路上で倒れてそのまま息を引き取った。54歳か55歳だったと思う。

さて、日本でのウォ―ホル受容のトーンを振り返れば、60年代にはウォ―ホルは得体のしれぬ怪人としておもに実験映画旗手として紹介された。1965年にウォ―ホルがいったん絵画制作をほとんどやめその後5年ほど映画製作やイベントプロデュースに没頭したせいもある。
美術家ウォ―ホルがようやく日本で認知されたのは〔美術手帖 1969年2月号 東野芳明 ウォ―ホル論〕(*一般にアンディ絵画論は米国では、1962から1965までに媒体に紹介されている。「ウォーホルはデュシャンのような文化現象だ」ではじまるコプランズの批評のように、まずは美術論があった。その点60年代日本では8年遅延したといえる)で、美術家としてひろく認識されるのは、一部先鋭を除き70年代に入ってからである。そして1974の来日個展、1983の「365日展」開催、ときの忘れもの(旧・現代版画センター)が主導した日本エディション版画発刊のころに2度目のウォ―ホル報道の盛り上がりがあった。(*その後も96年東京都現代美術館、2014年森美術館における大規模回顧展のたびに報道は増加する)。
アンディが描いた協和発酵のポスター広告展開の坂本龍一やTDKのテレビCM登場も83年に集中しているところから、展示会開催年にメディア報道が急速に増加しているという特徴が栗山資料を総覧してみてとれる。
大イベントとマスコミ報道が連関しながら日本におけるウォ―ホルの認知度が高まり有名性を増しているのがわかる。理路整然と単純な情報統計学であるがそれこそが彼アンディのなしたことだ。
現在、筆者も実行委員としてかかわった「表現の不自由展」やChim↑Pomのようなケースでもどのような意味においてもスキャンダル報道の総量が芸術の存在価値を高めていくような情報化時代のアートの一端をアンディ・ウォ―ホルは覚醒的に持ち込んだパイオニアでもあった。(*Chim↑Pomはしばしばネットを炎上させてきている)。それにしても日本のメディアはよくこの芸術家の報道を続けてきた。あらゆる点でウォーホル像を捉えてきている。少なくともアジアでは一番多いのではないか。
しかし「Life is like an onion」といった米国のエッセイストJames Gibbons Huneker (1860-1921)が語った言葉のように、人生はたまねぎに似ている。《タイムカプセル》や「栗山ファイル」でも一枚一枚情報の皮をむいていくと、中には何もないことに気付く、といったまさにウォ―ホル的空虚の現前に遭遇するのだ。それはもちろん私たちが絶えず問い続ける「人生」に意味があるのか、という命題同様に。
また、これらのデータそのものがウォ―ホルと日本のかかわりを示すものだが、抜け落ちているものが2つある。1968年の《アンディ・ウォ―ホル・ズ・インデックス(ブック)》と70年万博出品の《レイン・マシン》に関してだ。森美展示でカフェに番外作として再現作が設置されたが70年万博時、岡本太郎や日本前衛グループの紹介に余念がなく、アンディ・ウォ―ホルが無視されたのだろう。インデックス(ブック)は図書印刷社で特殊印刷・製本されたアートブックだったが、当時ウォ―ホルはわが国ではまだ無名だったためほとんど報道がなかった。(*筆者はこのアートブックを相当重要視しているが分析は今後を待つのだろう)。

次回はアンディ・ウォ―ホルと栗山豊が生きた20世紀後半という時代を軸に分析を続けたい。

(もりした たいすけ)

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983~1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディアアート美術館ZKMに収蔵。90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。本年のホイットニービエンナーレに作品が掲載された資料が展示された。Art Lab Group 運営委員。表現の不自由展・東京実行委員。

●「アンディ・ウォーホル展 
史上最強!ウォーホルの元祖オタク栗山豊が蒐めたもの
」を開催します。
会期:2022年11月4日(金)~19日(土)※日・月・祝日休廊
アンディ・ウォーホル展_案内状_表面1280
2001年2月22日奇しくもウォーホルの命日に路上で倒れ55歳の生涯を終えた栗山豊(1946-2001)は、新宿などで夜の街角に立つ似顔絵かきでした。
栗山は1960年代からアンディ・ウォーホルに関するカタログはもちろん、新聞、雑誌、広告、展覧会の半券、テレビコマーシャル、中には珍しいジャズ喫茶のマッチ箱まで幅広いメディアを網羅してウォーホルに関する情報を蒐集していました。遺された膨大なウォーホル資料は日本におけるウォーホル受容史の貴重な記録であり、1983年に現代版画センターが企画した「アンディ・ウォーホル全国展」はじめ、その後のウォーホル回顧展の重要な基礎資料としても使われています。
本展では、膨大なウォーホルの栗山資料のすべてを初公開します。