ガウディの街バルセロナより

その5 モデルニスモのバックグランド

丹下敏明


19世紀のバルセロナは急激な産業、経済発展によって、他地方からの移民者が爆増した結果、市街区が手狭となり、新市街の誕生という”場”が生まれ、膨大な数のモデルニスモの建築物が生まれた。この建設に即対応できたのは実は良質の石材があったからだ。この時使われた主な建築資材は市の南側に位置し、177.72mの標高があるモンジュイックから切り出せる石だった。モンジュイックの山は’92年オリンピックの主幹施設が建設されたことで日本でも知られるようになったが、古代ローマ時代からここで石は切り出されていた、中新世珪岩質砂岩である。しかも石切り場は露天掘りで、しかも山を下れば市内へ搬入できるというこの上もない条件が揃っていた。石工が苦労するのは重い石を積み上げる事だがこれも無い。しかもこの砂岩は2種類の色がある。一つはグレー、もう一つはピンクからベージュ。砂岩なのでほとんど模様が無いから癖が無い。しかも構造材に使えるだけの強度もあるため盛んに利用された。ガウディは外から運んだ石を使った作品もあるが、バルセロナそしてその近郊も街全体がこのモンジュイックの石が使われている。拡張でできた新市街、エイシャンプレはこうして良質・廉価の石で決定的なテクスチャーを与えることになった。

1. モンジュイック
1. 市内に隣接するモンジュイックの山(左手が地中海、手前がかつての王立造船場、現在の海洋博物館)

2. モンジュイックの旧石切り場
2. モンジュイックの旧石切り場。山には千以上の採掘場跡があると言われているが、ここはスペイン戦争の時に銃殺した死体を投げ込むところとして現在は保存されている。

3. モンジュイックの墓石_R

3. 古代ローマ時代にモンジュイックの石で作られた墓石(現在市の歴史博物館蔵)

4. ローマ人が切り出した石を後世の人が再利用
4. 古代ローマ時代のモンジュイックの切り石はその後も再利用、壁面を今に遺す。

5. ロマネスク教会サン・リャッツエール
5. 市内に残るロマネスク教会サン・リャッツエールもモンジュイックの石で建設

前回触れたように、今のバルセロナの街並みは、’92年オリンピックの時に開催された文化オリンピックと称した、大規模なモデルニスモの展覧会の開催に、市民のモデルニスモへの興味が沸き、そして、ファサードを奇麗にしようという市役所支援のキャンペーンが功を奏して、現在見られるような100年前のカタルーニャ最盛期の面影を取り戻すことになった。’71年に私が初めてバルセロナに着いた時にはとにかく街は暗かった。ガウディの作品も含めてモデルニスモの素晴らしいファサードは竣工後、ろくなメンテナンスも無く、スモッグでファサードは真っ黒に覆われ、建付けの悪くなった建具は安っぽいアルミ・サッシュに置き換えられていたり、やたらと商業看板がべたべたとファサードに張り付いていた。当時は新市街のはずであるエイシャンプレは旧市街と同じように、あるいはそれ以上にすすけていた。その中には1970年代に不動産対象になって、あっさり解体されて姿を消してしまった建物も多い。あるいは、床面積を増やすために無神経に増築にあっている建物もそこここに見られた。その頃の市民は自分たちの持っている文化遺産にまるで興味を示していないかのようだった。これがオリンピック前後の市の政策が成功して一変した。
つい最近東京でもあったことだが、オリンピック開催するとなるとどこの国でも必ずと言っていいほど開催反対の意見が出る。しかし、バルセロナ・オリンピックではそれが皆無だった。マドリッドでやるなら反対するけれども、バルセロナでやるのなら賛成だという事だ。世界中から集まる人たちのおもてなしを持ち家の顔を洗って迎えたい、自分たちの誇らしい過去を見せたいという事だろうか。
『セルダ案』が単なるエンジニアが夢見たユートピアではなく、実際にバルセロナの市域拡張計画として実現されていくなかで、実はもう一つの大きな理由がある。それはカタルーニャの民族主義がこの時期に大きな動きを見せたことだ。勿論その背景には産業革命で得た膨大な経済力、政治力をバックに生まれた回顧主義であった。実はこれが近年再熱したカタルーニャ独立運動へと繋がっている。
つまり、モデルニスモの建築運動は当然の事、カタルーニャが地中海を制覇していた中世回帰を根底にしている。カタルーニャ出身でバルセロナ候、マルティ1世(Marti l’Huma, 1356‐1410年)はアラゴン王国、バレンシア王国、マジョルカ王国、サルデーニャ王国、そしてシシリア王国の王でもあり、まさしく地中海を一手に握っていた。この時代の栄光・繁栄をカタルーニャに取り戻そうとしていた。19世紀後半からの経済的繁栄はアイデンティティーを取り戻すためにカタルーニャ人が目覚めた時期でもあった。
ベルギーやフランスで展開されたアールヌーヴォーのコンテンツは概ね形骸だけの、建築史の流れから言ってみればデカデンスであり、ましてやイデオロギーの介在も無い。カタルーニャのモデルニスモのバックグランドは別なところにあった。もちろん派手好きで、何より成金趣味であったのには違いないが、産業革命のなかヨーロッパ諸国との横の繋がりに敏感に反応しながらも、独自の道を歩んでいた。伝統工芸の復興を目指していく中で、これを規格化し、工業製品化する努力を惜しまなかったし、スタイルではカタルーニャの建国に深くかかわるロマネスク(エリアス・ロージェントの大学校舎, Elies Rogent i Amat, 1821-1897, Universitat, 1863-1892/93)を引用し、カタルーニャ最盛期のスタイルであったゴシックはリュイス・ドメネク・イ・モンタネール(Lluís Domenech i Montaner, 1849-1923)などの世代の建築家たちはこぞってこれを取り入れている。

6. ロージェント肖像
6. エリアス・ロージェントの肖像

7. バルセロナ大学ファサード
7. ロージェント作の大学正面ファサード

8. バルセロナ大学回廊
8. ロージェント作の大学回廊

9. ドメネク肖像
9. ドメネクの肖像

10. パラウ・モンタネール
10. ドメネク作パラウ・モンタネールロビー柱部分

11. カサ・トマス
11. ドメネク作のカサ・トマス扉部分

12. ジャウマ1世の墓碑
12. ドメネク作ジャウマ1世の墓碑

ヘンリー・ラッセル・ヒッチコック(Henry-Russell Hitchcock, 1903-1987)は『建築:19世紀から20世紀』を1958年に出版しているが、彼はその後版を重ねるたびに修正・加筆している。その加筆の中で顕著なのはモデルニスモ、とりわけガウディについてであった。第17章のアールヌーヴォーの拡散ではマッキントッシュとガウディを取り上げ、両者の背景にある民族主義に触れている。そして、ヒッチコックは1957年MoMaでガウディの企画展まで実現させている。

*図版は全て筆者撮影
(たんげ としあき)

■丹下敏明(たんげとしあき)
1971年 名城大学建築学部卒業、6月スペインに渡る
1974年 コロニア・グエルの地下聖堂実測図面製作(カタルーニャ建築家協会・歴史アーカイヴ局の依頼)
1974~82年 Salvador Tarragó建築事務所勤務
1984年以降 磯崎新のパラウ・サン・ジョルディの設計チームに参加。以降パラフォイスの体育館, ラ・コルーニャ人体博物館, ビルバオのIsozaki Atea , バルセロナのCaixaForum, ブラーネスのIlla de Blanes計画, バルセロナのビジネス・パークD38、マドリッドのHotel Puerta America, カイロのエジプト国立文明博物館計画(現在進行中)などに参加
1989年 名古屋デザイン博「ガウディの城」コミッショナー
1990年 大丸「ガウディ展」企画(全国4店で開催)
1994年~2002年 ガウディ・研究センター理事
2002年 「ガウディとセラミック」展(バルセロナ・アパレハドール協会展示会場)
2014年以降 World Gaudí Congress常任委員
2018年 モデルニスモの生理学展(サン・ジョアン・デスピ)
2019年 ジョセップ・マリア・ジュジョール生誕140周年国際会議参加

主な著書
『スペインの旅』実業之日本社(1976年)、『ガウディの生涯』彰国社(1978年)、『スペイン建築史』相模書房(1979年)、『ポルトガル』実業之日本社(1982年)、『モダニズム幻想の建築』講談社(1983年、共著)、『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会(1984年、共著)、『我が街バルセローナ』TOTO出版(1991年)、『世界の建築家581人』TOTO出版(1995年、共著)、『建築家人名事典』三交社(1997年)、『美術館の再生』鹿島出版会(2001年、共著)、『ガウディとはだれか』王国社(2004年、共著)、『ガウディ建築案内』平凡社(2014年)、『新版 建築家人名辞典 西欧歴史建築編』三交社(2022年)など

・丹下敏明のエッセイ「ガウディの街バルセロナより」は隔月・奇数月16日の更新です。次回は2023年1月16日です。どうぞお楽しみに。

【お知らせ】
誠に勝手ながら、11月29日(火)は17時閉廊とさせていただきます。
ご迷惑をお掛けしますが、ご理解とご協力の程宜しくお願い申し上げます。