佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第72回

青木淳さんの建築について2


さいきん、コロガロウのスタッフの五十川くんに図面のトレースによる作図の訓練をしてもらった。実施レベルの詳細図を描けるような戦力になってほしいからそんなトレーニングをお願いしたのだが、せっかくなので彼のトレーニングを介してこちらも何らかを得たい。そう思って、最近一番気になっていてけれどもよくわからない青木淳事務所の建築を対象とした。住宅程度の大きさのものが良かったので、選んだのは「B」という住宅(https://www.aokijun.com/works/b/ )。『青木淳 Atmospherics』(TOTO出版、2000年)に掲載されているいくつかの図面を用いた。

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「B」についてのテキスト、同書 17頁

地下階を持つL字型の平面をした建物に一回り小さなL字型あるいは「く」の字型のボリュームが異なる角度で貫入したかのような構成を持ち、内部空間は複雑に入り組んでいる。通り芯もX、Yの直交座標だけでなく、角度を持って貫入するL字ボリューム位置を特定するために、さらにQ、P、R、S、Tの頭文字を持った異なる角度の通り芯が図面にある。通り芯の引き方の特定だけでもなかなかに難しく、スタッフは作図にかなり苦労していた。その複雑な通り芯の設定は、裏を返せば、おそらく空間の秩序めいたものを巧妙に隠そうとする姿勢の現れなのだと読んだ。施工するにあたっては図学によって位置が特定される必要があるが、実際にできたこの住宅の中に居る人にとっては、限りなく無根拠でぶっきらぼうにL字型が置かれているように感じられるのだろうと思う。むしろぶっきらぼう過ぎてL字の型(かた)がこの住宅に存在することもおそらくは分からない。そうした貫入した異物によって半ば予期せぬ不定形な隙き間がいくつか生まれて、それらが特に上下階を跨いでズルズルと繋がっていっている。
青木さんはそんな質感を「動線体」といってみたり、「不均質なワンルーム」と表現したり、あるいは「はらっぱ」、「くうき」というような言葉で言い表すことを試みている。
もしかすると、「空き間」くらいにも表現できそうだ。空間の間に”き”を挿し込むくらいの感じ。(この言葉を青木さんが使ったことがあるのかは知らない。)それらの言葉は、ギリギリの規律めいた何かを漂わせている。形式性、とも言えるかもしれない。
建築と言葉=~形式とで、どちらが先んずるのかの思考の順序はなく、弁証法的に建築と言葉が編み込まれていっている。建築と言葉の編み込みの間に挟まれているのはおそらく「イメージ」だろう。取り止めのない、けれども、どうにもそこにしかないのだろうと信じてしまう実感のようなものだろうと思う。

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青森県立美術館。2022年11月筆者撮影

先月訪れた青森県立美術館のことを改めてよく思い出してみる。建築はかなり巨大で、そのスケール感にふさわしく、トレンチ(土)とボリューム(白)の噛み合わせという大振りな形のルールが設定されている。トレンチは三和土で、ボリュームはおおよそがレンガに白ペンキ塗りで仕上げがなされている。特にレンガの各所での細かな工夫(おそらく普通の人は全然気づかない程度のもの)をとても面白く感じはしたが、訪れてより気になったのは、それらの仕上げの表面の解れ方だった。竣工から20年弱が経過し、レンガに塗られた白ペンキは浮き上がり、所々が剥がれてもいた。特にレンガの目地に部分的に使われている弾性目地は浮かび上がり、ギザギザとした形状のグリッドを建築の壁面に描いている。三和土の土間は無数のクラックとその補修跡が床を駆け巡り、表面の色味の濃淡も出て来ている。けれどもそれがとても良く感じられた。建築は生き物と同じように歳をとる。経年によって表情は変化し、適宜補修メンテナンスが施されてその痕もやはり表情の一つとなる。その歳のとり方がとても潔く感じられたのだった。経年変化の価値の捉え方として、自然素材は何となく味わい深く、心地よく感じられる。一方でケミカルな素材は一般的には経年によって「劣化」していくと思われている。物性的には確かにそうなのかもしれない。けれども青森県美のレンガの上に塗られた白ペンキは、おそらくはいつの日かポロポロと剥がれることを待っていたかのように、然るべくして表情を変化させていた。レンガとペンキのミスマッチさを採用していることからしても、それは設計者が描いていた近未来だったのかもしれない。青森の、どことなくドンヨリとしつつも澄み切った空が、そんな明るい廃墟性、のような質感を照らし出していたのかもしれない。
“明るい廃墟”という言葉から想起できる風景は、もしかすると青木さんの「はらっぱ」や「くうき」に近いかもしれない。けれどもそんなイメージの質感と、青森県美の土と白の噛み合わせのような建築における大きな形式とがどのような関係にあるのか、まだよく分かっていない。直接に結びつくものでもないと思われるし、けれども無関係であっていいはずもない。どうするべきか。これは筆者、私自身の最近の関心事でもある。
部分の工夫の集積だけで建築が作れたら良いと考える。その時の全体性とは、おそらくは建築物単体ではなく、周囲の環境、あるいはその時の世界全体の流れのようなものまでも捉えていきたい。けれども一方で建築にはプランニング、計画(特に平面計画)というものが存在するし、コストや法律などの建築に強い輪郭を与える要因を抱えるものである。その輪郭(外観、という訳ではない)を形づくる、浮かび上がらせるのがおそらく形式、モデル、というものなのだろうと考える。つまり手段として、形式が欲しくなるのだ。
青木さんはかつての論考「決定ルール、あるいはそのオーバードライブ」で、そんな形式=~「決定ルール」を一旦、半ば無根拠に設定し、そこから思考を展開していくような、ワクワクする思考の筋道を示した。おそらくは先行して根拠なしに定めた「ルール」も、手を動かし続けていくうちにだんだんと浮かんでくるイメージの風景によって、むしろその意味を逆照射されてくるのかもしれない。そうしてルールは少しずつ解きほぐされ、ゲームに過ぎなかったものが良い意味で後戻りのできない作業の成果となっていく。建築と言葉の、螺旋階段を駆け巡っていくような、弁証法的な対応関係と同じように、イメージと形式もまたそんな壊し合いながら進んでいく関係にあるのかもしれない。

いくつか論理を飛び越えて、今自分が考えていることを書き記しておいた。また今度、もう少し丁寧に追っていきたいとも思う。

(さとう けんご)

佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。「一般社団法人コロガロウ」設立。2022年3月ときの忘れもので二回目となる個展「佐藤研吾展 群空洞と囲い」を開催。

・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

佐藤研吾作品のご紹介
佐藤研吾遠い場所を囲い込むための空洞4佐藤研吾 Kengo SATO
《囲い込むための空洞 3》
2022年
クリ、鉄媒染、鉄
40.0×40.0×90.0cm
サインあり
Photo by comuramai

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