磯崎新の住宅建築と勝山の二作品
稲川 直樹
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福井県勝山には磯崎新による二つの住宅がある。ひとつは中上邸で、筆者が磯崎新アトリエ在籍中に故藤江秀一とともに担当し、1983年に竣工した。コンクリートの二連ヴォールト屋根と半円窓は、地元でカエルの顔や双眼鏡に凝されている。美術愛好家の建て主夫妻は、完成した住宅の広間を「イソザキホール」と呼んで、地元愛好家グループとともにたびたび芸術家を招いてここで展覧会を開いた。10年ほど前、建て主が亡くなったあとも、ご子息たちから委託されたグループの荒井由泰氏らが管理し、活用している。もうひとつは、故伊東孝の設計で1985年に竣工した斉藤邸である。やはりコンクリート打ち放しの壁に弓型の高窓をくりくり抜いた、謎めいた外観を見せる。先ごろ斉藤邸が店舗として再生されたと聞き、勝山に春の訪れを告げる奇祭・左義長まつりの日取りにあわせ、綿貫不二夫・令子夫妻らとともに出掛けた。
昨年末、磯崎新は91年半の生涯を閉じた。棺を蓋いて事定まる。建築家磯崎新とその建築の評価については、すでに生前から言挙げされはじめている。磯崎の主要な住宅設計は、1960年代半ばから約20年間に及んだ。本稿では勝山の二つの住宅の位置付けのために、磯崎の住宅建築を概観しよう。

中上邸イソザキホール(福井県勝山市 撮影:稲川直樹)

斉藤邸(福井県勝山市 撮影:稲川直樹)
磯崎の最初の住宅、中山邸の設計と工事が行われたのは1964年である(現存せず、1998年に秋吉台国際芸術村にレプリカ再建)。デビュー作の大分県医師会館(1960)のあと、県立図書館の計画を進めながら、前年11月に磯崎新アトリエを設立し、岩田学園の工事に着工した直後だった。建て主の中山宏男は大分県医師会の副会長として、岩田学園理事長から紹介された磯崎を医師会館の設計者に推薦した人物である。大分市街中心部にあった敷地は、やがて周囲をビル群で囲まれることが予想された。実現された住宅はそのため、コンクリート造のきわめて閉鎖的で幾何学的な形式性を強調した、特異な形態をまとっていた。住居のある2階は一辺12メートルの正方形平面の格子梁のうえにあり、立方体を暗示する3.6メートル角のL字壁を四隅に置く以外はガラスブロック壁とし、屋上の中央部には1.8メートル角の立方体のトップライトを戴いていた。格子梁は四隅の柱だけで支えられ、1階には診療所が別構造で据えられた。内部は一転して、天井に届く壁のない単一空間で、「平安時代の寝殿造りのような」可動壁や家具で間仕切ることで、要求される部屋や設備が中央の居間の周りに機能的に組織されていた。

中山邸 外観(『a+u』1972年1月)

中山邸 外観アクソメと2階平面図
中山邸は歴史的にみてふたつの意味をもつ。第一は近代日本の住宅建築史にかかわり、もうひとつは磯崎建築の様式に関連する。
近代的な日本住宅の確立への試みは、1920年代に藤井厚二や堀口捨己によって開始された。大きくは数寄屋と書院造りを簡素化・抽象化した木造を基本に展開し、のちにはコンクリートとの混構造住宅も発達した。吉田五十八から清家清、吉村順三らが主導した方向性である。しかし高度成長期には政府の持ち家政策と宅地の細分化によって、都市周辺の住宅地環境は急激に劣化していった。とりわけ密集地の住宅には、伝統的な木造住宅に特徴的な、部屋を自由に連ねた平面形や外部への開放性は困難となる。磯崎は、都市や庭に対して住宅を開くことは無意味だとして、「あくまで独立して外界と絶縁したミクロコスモスを内部に成立させること」に設計の主眼をおいたのだった。中山邸は、都市に対し自らを閉じ、内向性を表明した戦後日本住宅の嚆矢となった。1960年代後半の原広司や伊東豊雄、安藤忠雄のデビュー作はどれも、壁で囲まれ窓は小さいか空に向かう、内向的な無国籍住居だった。民家の空間にインスピレーションを得た住宅建築を展開していた篠原一男も、自ら「第二の様式」と呼ぶ「未完の家」(1970)以降、その関心は完全に内向きになっていった。
だが70年代以降、おおくの建築家は都市に背を向け内向きになるなかで、住宅の外観にほとんど配慮しなかった。中山邸の外観は、なぜこれほど超越的で形式的でなければならなかったのか。これにたいし磯崎は、現代日本では安定した生活様式が失われ、独立住宅の形式も存在しない、と指摘したうえで、無秩序で予測不能な都市に対抗し、住み手が生活の場の独自性を認識するため、強いシンボル性が必要だとする。シンボル性とは独特な表現であり、建築作品のアイデンティティと言い替えてもよかろう。ただし、これは建て主の欲求に仮託した表現者の論理であり、1980年代後半の磯崎の用語によるならば、それは住宅が「大文字の建築」となるための必要条件だった。
第二の磯崎様式に関していうなら、一般に磯崎建築は様式上の振れが大きいとされるが、本質は変わらなかった。中山邸の平面や外観に用いられた正方形や立方体は円筒とともに、のちに磯崎自ら「第一原質」と呼ぶ基本要素となる。この住宅への菊竹清訓のスカイハウス(1958)の影響は明らかだろう。コンクリート、ピロティ、HPシェルという近代建築の言語に、正方形平面と四周の縁側、木縦格子、可変平面と設え、宝形屋根といった日本テイストを統合した住居を、磯崎は戦後復興期の傑作と評価し、デビュー作となったかもしれない高崎山万寿寺別院計画でも参照していた。中山邸の原型となっただろうもうひとつの先例が、ワイマール時代のバウハウスがゲオルク・ムッヘを中心として建設した実験住宅(1923)だった。この地下室付き平屋住宅は、材料や工法の実験に加えて、一辺12.7メートルの正方形平面内に適正な規模の部屋を機能的に配列することで、部屋間の移動効率や建設費の徹底的な合理化を目的としていた。平面の四隅に長さ3.6メートルの壁が張り出し、中央の6メートル四方の居間を諸室が廊下なしで取り囲み、居間の採光は高天井の窓から採光した。固定壁が屋根を支えるのは中山邸と異なるが、正方形に基づく平面計画や窓開口、外壁両端部の突出はよく類似し、この合理主義住宅が磯崎の記憶に刻まれていたことを推察させる。ただし、垂直方向にも正方形を展開し、立方体の集積として純粋幾何学的に表現したことは中山邸の新機軸である。

バウハウスの実験住宅 外観(M. Droste, The Bauhaus 1919-1933. Reform and Avant-Garde, Taschen 2006)

バウハウスの実験住宅 立面図、断面図、平面図(アドルフ・マイヤー(編)、『バウハウスの実験住宅』、中央公論美術出版 1991)
中山邸2階外観の四つの立方体はじっさいには、内部空間に現れない擬似的な表現、いわば虚構の形式だった。これに対し、次作の荒井邸計画案(1969)は外観も内部空間も、立方体と球体そのままの住居だった。設計は、荒井と名乗る素性の不確かな依頼主の、「どんな形でもいいから君の望むような住宅を設計してくれたまえ。ぼくがそれに住んでみせるから」(『SD』1976年4月、p.158)という言葉から始まった。一年半におよぶ打ち合わせで方向性が固まったあと依頼人からの音信が途絶えたため、その後まとめられた計画案は、当時磯崎の関心の中心にあった「応答場としての環境」を、実用化されていなかった技術や材料さえ用いて組み立てた概念的な実験住宅となった。じっさい、1968年ミラノ・トリエンナーレの「電気的迷宮」展示の技術や、1970年大阪万博お祭り広場の環境装置の計画を、ミクロなサイズで小住宅の中に凝縮したと言ってよい。この「応答場としての環境」を磯崎は「レスポンシヴ・ハウス」と呼んだ。

荒井邸 1階、2階平面図、断面図
鉄骨で組まれた一辺7.2メートルの立方体の屋根に半分めり込む形で、直径4.2メートルの球体が固定される。閉じた球体は寝室であり、立方体がその他多様な用途の受容器となる。中山邸の間仕切り壁と家具は、移動可能な設計がされていたにもかかわらず、竣工後いちどもレイアウトを変更されたことがなかった。そこで荒井邸の1階は、キャスターと蝶番で回転する三つの「家具ロボット」によって、生活行為に応答する1から 4つの領域に分割可能なように設計された。立方体を包む皮膜は伸縮自在で断熱性があり、半透明で、耐候性もある近未来の素材で覆われ、内部要素の自由な張り出しを可能とするはずだった。
磯崎の住宅の系譜の中で荒井邸は、環境制御技術の徹底的な展開という大阪万博にむかう探求の中で生まれた、アンビルトを定められた仮説的な計画だった。建て主が消息を絶った後も続けられた設計の依頼主は磯崎自身であり、その意味でアライはAra(ta) i(sozaki)の分身であり、一種のアナグラムと読むことが可能だろう。磯崎の次の住宅では、環境制御的コンセプトは失われ――それは例えばパレイディアムのような別のプロジェクトで蘇るのだが――立方体と球体という幾何学だけが生き残る。
(いながわ なおき)
■稲川直樹
中部大学教授。1980年から2003年まで磯崎新アトリエ勤務。
*「磯崎新の住宅建築と勝山の二作品」第2回は5月15日に掲載します。
●本日のお勧め作品は磯崎新です。

磯崎新
「ヴィッラ Vol.3 NAKAGAMI HOUSE」
1983年
シルクスクリーン
62.0x47.0cm
Ed.100 Signed
◆ただいま画廊はささやかにコレクション展を開催中。

●倉俣史朗の限定本『倉俣史朗 カイエ Shiro Kuramata Cahier 1-2 』を刊行しました。
限定部数:365部(各冊番号入り)
監修:倉俣美恵子、植田実
執筆:倉俣史朗、植田実、堀江敏幸
アートディレクション&デザイン:岡本一宣デザイン事務所
体裁:25.7×25.7cm、64頁、和英併記、スケッチブック・ノートブックは日本語のみ
価格:7,700円(税込) 送料1,000円
詳細は3月24日ブログをご参照ください。
お申込みはこちらから
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
JR及び南北線の駒込駅南口から徒歩約8分です。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。*日・月・祝日は休廊
稲川 直樹
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福井県勝山には磯崎新による二つの住宅がある。ひとつは中上邸で、筆者が磯崎新アトリエ在籍中に故藤江秀一とともに担当し、1983年に竣工した。コンクリートの二連ヴォールト屋根と半円窓は、地元でカエルの顔や双眼鏡に凝されている。美術愛好家の建て主夫妻は、完成した住宅の広間を「イソザキホール」と呼んで、地元愛好家グループとともにたびたび芸術家を招いてここで展覧会を開いた。10年ほど前、建て主が亡くなったあとも、ご子息たちから委託されたグループの荒井由泰氏らが管理し、活用している。もうひとつは、故伊東孝の設計で1985年に竣工した斉藤邸である。やはりコンクリート打ち放しの壁に弓型の高窓をくりくり抜いた、謎めいた外観を見せる。先ごろ斉藤邸が店舗として再生されたと聞き、勝山に春の訪れを告げる奇祭・左義長まつりの日取りにあわせ、綿貫不二夫・令子夫妻らとともに出掛けた。
昨年末、磯崎新は91年半の生涯を閉じた。棺を蓋いて事定まる。建築家磯崎新とその建築の評価については、すでに生前から言挙げされはじめている。磯崎の主要な住宅設計は、1960年代半ばから約20年間に及んだ。本稿では勝山の二つの住宅の位置付けのために、磯崎の住宅建築を概観しよう。

中上邸イソザキホール(福井県勝山市 撮影:稲川直樹)

斉藤邸(福井県勝山市 撮影:稲川直樹)
磯崎の最初の住宅、中山邸の設計と工事が行われたのは1964年である(現存せず、1998年に秋吉台国際芸術村にレプリカ再建)。デビュー作の大分県医師会館(1960)のあと、県立図書館の計画を進めながら、前年11月に磯崎新アトリエを設立し、岩田学園の工事に着工した直後だった。建て主の中山宏男は大分県医師会の副会長として、岩田学園理事長から紹介された磯崎を医師会館の設計者に推薦した人物である。大分市街中心部にあった敷地は、やがて周囲をビル群で囲まれることが予想された。実現された住宅はそのため、コンクリート造のきわめて閉鎖的で幾何学的な形式性を強調した、特異な形態をまとっていた。住居のある2階は一辺12メートルの正方形平面の格子梁のうえにあり、立方体を暗示する3.6メートル角のL字壁を四隅に置く以外はガラスブロック壁とし、屋上の中央部には1.8メートル角の立方体のトップライトを戴いていた。格子梁は四隅の柱だけで支えられ、1階には診療所が別構造で据えられた。内部は一転して、天井に届く壁のない単一空間で、「平安時代の寝殿造りのような」可動壁や家具で間仕切ることで、要求される部屋や設備が中央の居間の周りに機能的に組織されていた。

中山邸 外観(『a+u』1972年1月)

中山邸 外観アクソメと2階平面図
中山邸は歴史的にみてふたつの意味をもつ。第一は近代日本の住宅建築史にかかわり、もうひとつは磯崎建築の様式に関連する。
近代的な日本住宅の確立への試みは、1920年代に藤井厚二や堀口捨己によって開始された。大きくは数寄屋と書院造りを簡素化・抽象化した木造を基本に展開し、のちにはコンクリートとの混構造住宅も発達した。吉田五十八から清家清、吉村順三らが主導した方向性である。しかし高度成長期には政府の持ち家政策と宅地の細分化によって、都市周辺の住宅地環境は急激に劣化していった。とりわけ密集地の住宅には、伝統的な木造住宅に特徴的な、部屋を自由に連ねた平面形や外部への開放性は困難となる。磯崎は、都市や庭に対して住宅を開くことは無意味だとして、「あくまで独立して外界と絶縁したミクロコスモスを内部に成立させること」に設計の主眼をおいたのだった。中山邸は、都市に対し自らを閉じ、内向性を表明した戦後日本住宅の嚆矢となった。1960年代後半の原広司や伊東豊雄、安藤忠雄のデビュー作はどれも、壁で囲まれ窓は小さいか空に向かう、内向的な無国籍住居だった。民家の空間にインスピレーションを得た住宅建築を展開していた篠原一男も、自ら「第二の様式」と呼ぶ「未完の家」(1970)以降、その関心は完全に内向きになっていった。
だが70年代以降、おおくの建築家は都市に背を向け内向きになるなかで、住宅の外観にほとんど配慮しなかった。中山邸の外観は、なぜこれほど超越的で形式的でなければならなかったのか。これにたいし磯崎は、現代日本では安定した生活様式が失われ、独立住宅の形式も存在しない、と指摘したうえで、無秩序で予測不能な都市に対抗し、住み手が生活の場の独自性を認識するため、強いシンボル性が必要だとする。シンボル性とは独特な表現であり、建築作品のアイデンティティと言い替えてもよかろう。ただし、これは建て主の欲求に仮託した表現者の論理であり、1980年代後半の磯崎の用語によるならば、それは住宅が「大文字の建築」となるための必要条件だった。
第二の磯崎様式に関していうなら、一般に磯崎建築は様式上の振れが大きいとされるが、本質は変わらなかった。中山邸の平面や外観に用いられた正方形や立方体は円筒とともに、のちに磯崎自ら「第一原質」と呼ぶ基本要素となる。この住宅への菊竹清訓のスカイハウス(1958)の影響は明らかだろう。コンクリート、ピロティ、HPシェルという近代建築の言語に、正方形平面と四周の縁側、木縦格子、可変平面と設え、宝形屋根といった日本テイストを統合した住居を、磯崎は戦後復興期の傑作と評価し、デビュー作となったかもしれない高崎山万寿寺別院計画でも参照していた。中山邸の原型となっただろうもうひとつの先例が、ワイマール時代のバウハウスがゲオルク・ムッヘを中心として建設した実験住宅(1923)だった。この地下室付き平屋住宅は、材料や工法の実験に加えて、一辺12.7メートルの正方形平面内に適正な規模の部屋を機能的に配列することで、部屋間の移動効率や建設費の徹底的な合理化を目的としていた。平面の四隅に長さ3.6メートルの壁が張り出し、中央の6メートル四方の居間を諸室が廊下なしで取り囲み、居間の採光は高天井の窓から採光した。固定壁が屋根を支えるのは中山邸と異なるが、正方形に基づく平面計画や窓開口、外壁両端部の突出はよく類似し、この合理主義住宅が磯崎の記憶に刻まれていたことを推察させる。ただし、垂直方向にも正方形を展開し、立方体の集積として純粋幾何学的に表現したことは中山邸の新機軸である。

バウハウスの実験住宅 外観(M. Droste, The Bauhaus 1919-1933. Reform and Avant-Garde, Taschen 2006)

バウハウスの実験住宅 立面図、断面図、平面図(アドルフ・マイヤー(編)、『バウハウスの実験住宅』、中央公論美術出版 1991)
中山邸2階外観の四つの立方体はじっさいには、内部空間に現れない擬似的な表現、いわば虚構の形式だった。これに対し、次作の荒井邸計画案(1969)は外観も内部空間も、立方体と球体そのままの住居だった。設計は、荒井と名乗る素性の不確かな依頼主の、「どんな形でもいいから君の望むような住宅を設計してくれたまえ。ぼくがそれに住んでみせるから」(『SD』1976年4月、p.158)という言葉から始まった。一年半におよぶ打ち合わせで方向性が固まったあと依頼人からの音信が途絶えたため、その後まとめられた計画案は、当時磯崎の関心の中心にあった「応答場としての環境」を、実用化されていなかった技術や材料さえ用いて組み立てた概念的な実験住宅となった。じっさい、1968年ミラノ・トリエンナーレの「電気的迷宮」展示の技術や、1970年大阪万博お祭り広場の環境装置の計画を、ミクロなサイズで小住宅の中に凝縮したと言ってよい。この「応答場としての環境」を磯崎は「レスポンシヴ・ハウス」と呼んだ。

荒井邸 1階、2階平面図、断面図
鉄骨で組まれた一辺7.2メートルの立方体の屋根に半分めり込む形で、直径4.2メートルの球体が固定される。閉じた球体は寝室であり、立方体がその他多様な用途の受容器となる。中山邸の間仕切り壁と家具は、移動可能な設計がされていたにもかかわらず、竣工後いちどもレイアウトを変更されたことがなかった。そこで荒井邸の1階は、キャスターと蝶番で回転する三つの「家具ロボット」によって、生活行為に応答する1から 4つの領域に分割可能なように設計された。立方体を包む皮膜は伸縮自在で断熱性があり、半透明で、耐候性もある近未来の素材で覆われ、内部要素の自由な張り出しを可能とするはずだった。
磯崎の住宅の系譜の中で荒井邸は、環境制御技術の徹底的な展開という大阪万博にむかう探求の中で生まれた、アンビルトを定められた仮説的な計画だった。建て主が消息を絶った後も続けられた設計の依頼主は磯崎自身であり、その意味でアライはAra(ta) i(sozaki)の分身であり、一種のアナグラムと読むことが可能だろう。磯崎の次の住宅では、環境制御的コンセプトは失われ――それは例えばパレイディアムのような別のプロジェクトで蘇るのだが――立方体と球体という幾何学だけが生き残る。
(いながわ なおき)
■稲川直樹
中部大学教授。1980年から2003年まで磯崎新アトリエ勤務。
*「磯崎新の住宅建築と勝山の二作品」第2回は5月15日に掲載します。
●本日のお勧め作品は磯崎新です。

磯崎新
「ヴィッラ Vol.3 NAKAGAMI HOUSE」
1983年
シルクスクリーン
62.0x47.0cm
Ed.100 Signed
◆ただいま画廊はささやかにコレクション展を開催中。

●倉俣史朗の限定本『倉俣史朗 カイエ Shiro Kuramata Cahier 1-2 』を刊行しました。
限定部数:365部(各冊番号入り)
監修:倉俣美恵子、植田実
執筆:倉俣史朗、植田実、堀江敏幸
アートディレクション&デザイン:岡本一宣デザイン事務所
体裁:25.7×25.7cm、64頁、和英併記、スケッチブック・ノートブックは日本語のみ
価格:7,700円(税込) 送料1,000円
詳細は3月24日ブログをご参照ください。
お申込みはこちらから
●ときの忘れものは2017年に青山から〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤が設計した個人住宅だった空間で企画展の開催、版画のエディション、美術書の編集等を行なっています(WEBマガジン コラージ2017年12月号18~24頁の特集参照)。
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TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
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