千葉市美術館「『前衛』写真の精神:なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄」展レビュー 前編
土渕信彦
4月7日、千葉市美術館の内覧会で展示を拝見してきました。以下にレビューします。
展覧会の内容と開催の趣旨について、展覧会のチラシには以下のように記されています(図1)。
「本展覧会では、瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄の4人の作家の交流と創作を辿りながら、1930年代から80年代にわたる日本昭和写真史の一断片をご紹介します。(中略)4人の作家の思想や作品は、お互いに影響を与えあい、前衛写真として想起される技巧的なイメージを超えた「前衛」の在り方を示します。戦前から戦後へと脈々と引き継がれた、「前衛」写真の精神をご堪能ください。」

図1
引用にあるような「技巧的」なものであるかどうかは別として、いわゆる「前衛写真」というと一般的には、関西、名古屋、九州などの写真クラブに参加していた写真家たちの作品のことを指す場合が多いようです。昨年開催された東京都写真美術館「アヴァンガルド勃興 近代日本の前衛写真」展の展示も、主にかれらの写真だったと記憶しています。本展ではそうした「前衛写真」ではなく、上記4人の精神的な系譜による作品を改めて「『前衛』写真」と捉えて、辿ろうとするものと思われます。
この系譜は「なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄」というサブタイトが示すように、4人の間に受け継がれながら変化していったものとされています。その源は瀧口による戦前期の評論「写真と超現実主義」(「フォトタイムス」1938年2月号)冒頭部の、以下の引用あたりかもしれません。
「超現実主義とは必ずしも実在を破壊加工するものではない。日常のふかい襞のかげに秘んでいる美を見出すことであり、無意識のうちに飛び去る現象を現前にスナップすることである。一体、不思議な感動というものは、対象が、極度に非現実的であり、しかも同じほどに現実的であるという、一種の同時感ではないだろうか?」
全体は以下の3章で構成され、展示点数は570点以上(他に資料が150点ほど)に及びます。なお、前期(4月8日~30日)・後期(5月2日~21日)で展示替えがあります。
第1章 1930-40年代 瀧口修造と阿部展也 前衛写真の台頭と衰退(64点)
第2章 1950-70年代 大辻清司 前衛写真の復活と転調(156点)
第3章 1960~80年代 牛腸茂雄 前衛写真のゆくえ(357点)
以下、8階・7階の2フロアにわたる会場構成に沿ってご紹介し、印象に残った作品やコーナーについて触れます。
8階の第1会場に入ると(図2)、第1章「瀧口修造 写真との出会い」のコーナーから展示が始まります。冒頭を飾るのは、中学時代の瀧口が撮影した母たきの写真です(図3)。拝見するのは世田谷文学館の「瀧口修造と武満徹」展(1999年)以来と思います。瀧口の「自筆年譜」1916年の項には、以下のように記されています。
「その頃コダックのベスト判カメラが流行し、父の遺した高級カメラと秘かに交換しひどく叱られる。そのコダックで縫いものする母を電燈の下で撮した唯一の印画が奇蹟的に残る。戦中、妻がハンドバッグに蔵っていたのである」
図2

図3
その綾子夫人を瀧口自身が撮影した写真も、第2章の「瀧口修造―ヨーロッパへの眼差し」のコーナーで紹介されています(図4)。

図4
また展示資料(個人蔵)の加藤信一『写真術階梯』(小西本店、1904年)は、当時の瀧口が現像に挑戦し、「それまで禁制の暗室に入り(中略)未封切のイルフォード乾板を使い、散々失敗を重ねた末ついに影像をうつし出すに」至った際に、参考にしたと言及しているものです(「自筆年譜」1915年の項)。この本が出品されているのは、学芸員各位の熱意と周到な調査の賜物でしょう(図5)。

図5
続いて「はじまりのアジェ」として、ウジェーヌ・アジェの写真が展示されています(図6)。『超現実主義革命』誌などで見覚えのある有名なヴィンテージ写真も含まれており、うっとりするほどです(鶏卵紙の作品などは展示期間が限られています)。

図6
ただ、瀧口自身の写真とアジェの写真だけで「瀧口修造 写真との出会い」の章を構成するのは、やや偏りがあるようにも思われます。慶應義塾大学を卒業してPCLに就職する前に、瀧口はマン・レイに憧れて写真館を開業しようと考えていた時期があり、また、有名な『妖精の距離』(後出)も、マン・レイとポール・エリュアールの詩画集『ファシール』(1935年)をひとつの模範としていたのですから、『マン・レイ作品集 1920-1934』(1934年)だけでなく、マン・レイの写真や詩画集の展示も有った方が望ましかったでしょう。もっとも、マン・レイはレイヨグラムやソラリゼーションの技法などを開拓した、前述の「技巧的」な流れの方の源ともいえる存在なので、あえて簡単な紹介に止められているのかもしれません。
瀧口の写真との関わりについて考えるうえで、アンドレ・ブルトンの著作の掲載写真を視野に入れるのはたいへん重要と思われ、本展でも『ナジャ』(1928年。展示は1985年版)が紹介されています(図7)。ただ、『ナジャ』だけでなく『狂気の愛』(1937年)も展示された方が良かったでしょう。というのも、冒頭に引用した瀧口の論考の背景にはブルトンの「痙攣的な美」の命題があると思われ、この命題は『ナジャ』の末尾で提起された後に、『狂気の愛』で展開されているからです。以上のとおり、「瀧口修造 写真との出会い」のコーナーは、瀧口と写真との関わりについて、ある角度からスポットを当てたものと考えた方がよいかもしれません。

図7
アジェに続いて「瀧口修造と阿部展也の出会い 詩画集『妖精の距離』」のコーナーとなります(図8)。展示されている新潟市美術館蔵の『妖精の距離』(春鳥会、1937年)は、阿部展也旧蔵と思われ、英文扉に「展也」と毛筆の署名があります。刊行当時は「展也」ではなく「芳文」と名乗っていたのですから、後年の署名でしょう。壁面の手前には「『フォトタイムス』における阿部展也の写真表現」と題して和歌山県立美術館蔵の「フォトタイムス」が並べられています(図9)。所蔵の経緯は分かりませんが、壮観の一言です。

図8

図9
続いて「前衛写真協会と同時代の作家たち」のコーナーとなり、前衛写真協会に属していた写真家の中から永田一脩、濱谷浩、坂田稔、小石清の作品が紹介されています(図10)。いわゆる「前衛写真」として思い浮かべるのはこのコーナーの作品かもしれません。

図10
下郷羊雄編著の写真集『メセム属』(1940年。名古屋市美術館蔵)も展示されています(図11)。多肉類の一種「メセム属」を撮影したもので、小石清の『初夏神経』(1933年)などと同様、戦前期の稀覯写真集の代表的な一冊です。スパイラル綴じなのに痛みの無い、素晴しい状態で、さすがは下郷の地元の美術館だけのことはあります。下郷旧蔵かもしれません。各頁を画像で観ることができるのも、滅多にない機会でしょう。

図11
今から25年ほど前のことですが、『メセム属』が明治古典会の七夕古書入札会(通称「七夕の大市」)に出品されたことがありました。確か最低入札価格が10万円程度で、二の足を踏んだ挙句、見送りとしました。落札価格は15万円ほどだったと思いますが、その後、あれよあれよという間に相場が上昇し、10年ほど後に再び出品された際には、一桁上の、もはや手の出しようのない価格帯になっていました。「これはという売り物が出たときには、借金をしてでも買う」という鉄則を守らなかった報いでしょう。
続いて「瀧口修造―ヨーロッパへの眼差し」のコーナーとなります(図12)。大辻清司が撮影した最晩年の瀧口夫妻の写真や、瀧口の部屋(書斎)の写真も5~6点展示されています。後者は没後の撮影なので、綾子夫人が整理した後と思われますが、それでも全体の雰囲気、作品やオブジェなどを記録した、貴重なドキュメントであるのは間違いないでしょう。

図12
展示は第2章「大辻清司 前衛写真の復活と転調」に入ります(図13)。「大辻清司、阿部展也の演出を撮る」のコーナーには、阿部のアトリエで大辻撮影の、作家やオブジェの写真が展示されています(図14)。福島秀子をモデルにした作品などは見覚えがあります。阿部のアトリエは瀧口宅からほど近い下落合にあったので、作家たちの交流も活発だったのでしょう。手前のケースには再び「フォトタイムス」誌(武蔵野美術大学蔵)が並べられています(図15)。こちらは大辻旧蔵だそうですが、かなり読み込まれており、ところどころに赤鉛筆でサイドラインが引かれています。もっとも、大辻が入手したのも古書だったので、本人によるものかは断定できないそうです。

図13

図14

図15
左側の「オブジェを撮る」のコーナーの前をとおり(図16)、奥の展示室の正面の壁面には、1953~54年頃の「アサヒグラフ」誌の連載「アサヒ・ピクチャー・ニュース」(「APN」)掲載写真が展示されています(図17)。「APN」の構成と写真は、実験工房の共同作業の代表例とされ、近年、東京パブリッシングハウスから山口勝弘・大辻清司、北代省三・大辻清司の各10点入りポートフォリオ(齋藤さだむ氏によるモダン・プリント)も復刻されています。本展の展示は千葉市美術館蔵および富山県美術館蔵の別バージョンで、纏まって目にするのは稀と思われます。

図16

図17
左手は「『文房四宝』―モノとスナップのはざまで」のコーナー(図18)。牛腸茂雄によるプリントはシャープで「素晴らしい!」の一言です。手前側は「アサヒカメラ」誌に連載された「私わたくし)の解体―なんでもない写真」のコーナーです(図19)。本展のサブタイトルにも使われている「なんでもない」という言葉は、この連載に由来するようです。手前のケースには「アサヒカメラ」誌も展示されています(図20)。おそらく大辻が開拓した写真の地平のハイライトは、このふたつのコーナーかもしれません。

図18

図19

図20
さらに奥の展示室から階下の7階にかけてが、「1960~1980年代 牛腸茂雄 前衛写真のゆくえ」のコーナーとなります。牛腸の作品を中心に展示点数がたいへん多く、これだけでも展覧会ひとつとして通用するでしょう。冒頭のコーナーは「桑沢デザイン研究所にて」で、牛腸が同研究所で大辻に見出された頃の課題写真が並びます(図21)。解説パネルによると大辻は、「造形感覚と写真の旨味に対する勘は、誰が見ても際立って見えた」「もしこれを放って置くならば教師の犯罪である」とまで言ったそうです。

図21
(後編は明日掲載します)
(つちぶち のぶひこ)
「『前衛』写真の精神:なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄」
主催・会場:千葉市美術館
会期:2023年4月8日(土)~5月21日(日)
●軽井沢で「倉俣史朗展 カイエ」が始まりました。
会場:軽井沢現代美術館
長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉2052-2
会期:2023年4月27日(木)~11月23日(木・祝日)
休館日:火曜、水曜 (GW及び、夏期は無休開館
●倉俣史朗の限定本『倉俣史朗 カイエ Shiro Kuramata Cahier 1-2 』を刊行しました。
限定部数:365部(各冊番号入り)
監修:倉俣美恵子、植田実
執筆:倉俣史朗、植田実、堀江敏幸
アートディレクション&デザイン:岡本一宣デザイン事務所
体裁:25.7×25.7cm、64頁、和英併記、スケッチブック・ノートブックは日本語のみ
価格:7,700円(税込) 送料1,000円
詳細は3月24日ブログをご参照ください。
お申込みはこちらから
土渕信彦
4月7日、千葉市美術館の内覧会で展示を拝見してきました。以下にレビューします。
展覧会の内容と開催の趣旨について、展覧会のチラシには以下のように記されています(図1)。
「本展覧会では、瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄の4人の作家の交流と創作を辿りながら、1930年代から80年代にわたる日本昭和写真史の一断片をご紹介します。(中略)4人の作家の思想や作品は、お互いに影響を与えあい、前衛写真として想起される技巧的なイメージを超えた「前衛」の在り方を示します。戦前から戦後へと脈々と引き継がれた、「前衛」写真の精神をご堪能ください。」

図1
引用にあるような「技巧的」なものであるかどうかは別として、いわゆる「前衛写真」というと一般的には、関西、名古屋、九州などの写真クラブに参加していた写真家たちの作品のことを指す場合が多いようです。昨年開催された東京都写真美術館「アヴァンガルド勃興 近代日本の前衛写真」展の展示も、主にかれらの写真だったと記憶しています。本展ではそうした「前衛写真」ではなく、上記4人の精神的な系譜による作品を改めて「『前衛』写真」と捉えて、辿ろうとするものと思われます。
この系譜は「なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄」というサブタイトが示すように、4人の間に受け継がれながら変化していったものとされています。その源は瀧口による戦前期の評論「写真と超現実主義」(「フォトタイムス」1938年2月号)冒頭部の、以下の引用あたりかもしれません。
「超現実主義とは必ずしも実在を破壊加工するものではない。日常のふかい襞のかげに秘んでいる美を見出すことであり、無意識のうちに飛び去る現象を現前にスナップすることである。一体、不思議な感動というものは、対象が、極度に非現実的であり、しかも同じほどに現実的であるという、一種の同時感ではないだろうか?」
全体は以下の3章で構成され、展示点数は570点以上(他に資料が150点ほど)に及びます。なお、前期(4月8日~30日)・後期(5月2日~21日)で展示替えがあります。
第1章 1930-40年代 瀧口修造と阿部展也 前衛写真の台頭と衰退(64点)
第2章 1950-70年代 大辻清司 前衛写真の復活と転調(156点)
第3章 1960~80年代 牛腸茂雄 前衛写真のゆくえ(357点)
以下、8階・7階の2フロアにわたる会場構成に沿ってご紹介し、印象に残った作品やコーナーについて触れます。
8階の第1会場に入ると(図2)、第1章「瀧口修造 写真との出会い」のコーナーから展示が始まります。冒頭を飾るのは、中学時代の瀧口が撮影した母たきの写真です(図3)。拝見するのは世田谷文学館の「瀧口修造と武満徹」展(1999年)以来と思います。瀧口の「自筆年譜」1916年の項には、以下のように記されています。
「その頃コダックのベスト判カメラが流行し、父の遺した高級カメラと秘かに交換しひどく叱られる。そのコダックで縫いものする母を電燈の下で撮した唯一の印画が奇蹟的に残る。戦中、妻がハンドバッグに蔵っていたのである」
図2
図3
その綾子夫人を瀧口自身が撮影した写真も、第2章の「瀧口修造―ヨーロッパへの眼差し」のコーナーで紹介されています(図4)。

図4
また展示資料(個人蔵)の加藤信一『写真術階梯』(小西本店、1904年)は、当時の瀧口が現像に挑戦し、「それまで禁制の暗室に入り(中略)未封切のイルフォード乾板を使い、散々失敗を重ねた末ついに影像をうつし出すに」至った際に、参考にしたと言及しているものです(「自筆年譜」1915年の項)。この本が出品されているのは、学芸員各位の熱意と周到な調査の賜物でしょう(図5)。

図5
続いて「はじまりのアジェ」として、ウジェーヌ・アジェの写真が展示されています(図6)。『超現実主義革命』誌などで見覚えのある有名なヴィンテージ写真も含まれており、うっとりするほどです(鶏卵紙の作品などは展示期間が限られています)。

図6
ただ、瀧口自身の写真とアジェの写真だけで「瀧口修造 写真との出会い」の章を構成するのは、やや偏りがあるようにも思われます。慶應義塾大学を卒業してPCLに就職する前に、瀧口はマン・レイに憧れて写真館を開業しようと考えていた時期があり、また、有名な『妖精の距離』(後出)も、マン・レイとポール・エリュアールの詩画集『ファシール』(1935年)をひとつの模範としていたのですから、『マン・レイ作品集 1920-1934』(1934年)だけでなく、マン・レイの写真や詩画集の展示も有った方が望ましかったでしょう。もっとも、マン・レイはレイヨグラムやソラリゼーションの技法などを開拓した、前述の「技巧的」な流れの方の源ともいえる存在なので、あえて簡単な紹介に止められているのかもしれません。
瀧口の写真との関わりについて考えるうえで、アンドレ・ブルトンの著作の掲載写真を視野に入れるのはたいへん重要と思われ、本展でも『ナジャ』(1928年。展示は1985年版)が紹介されています(図7)。ただ、『ナジャ』だけでなく『狂気の愛』(1937年)も展示された方が良かったでしょう。というのも、冒頭に引用した瀧口の論考の背景にはブルトンの「痙攣的な美」の命題があると思われ、この命題は『ナジャ』の末尾で提起された後に、『狂気の愛』で展開されているからです。以上のとおり、「瀧口修造 写真との出会い」のコーナーは、瀧口と写真との関わりについて、ある角度からスポットを当てたものと考えた方がよいかもしれません。

図7
アジェに続いて「瀧口修造と阿部展也の出会い 詩画集『妖精の距離』」のコーナーとなります(図8)。展示されている新潟市美術館蔵の『妖精の距離』(春鳥会、1937年)は、阿部展也旧蔵と思われ、英文扉に「展也」と毛筆の署名があります。刊行当時は「展也」ではなく「芳文」と名乗っていたのですから、後年の署名でしょう。壁面の手前には「『フォトタイムス』における阿部展也の写真表現」と題して和歌山県立美術館蔵の「フォトタイムス」が並べられています(図9)。所蔵の経緯は分かりませんが、壮観の一言です。

図8

図9
続いて「前衛写真協会と同時代の作家たち」のコーナーとなり、前衛写真協会に属していた写真家の中から永田一脩、濱谷浩、坂田稔、小石清の作品が紹介されています(図10)。いわゆる「前衛写真」として思い浮かべるのはこのコーナーの作品かもしれません。

図10
下郷羊雄編著の写真集『メセム属』(1940年。名古屋市美術館蔵)も展示されています(図11)。多肉類の一種「メセム属」を撮影したもので、小石清の『初夏神経』(1933年)などと同様、戦前期の稀覯写真集の代表的な一冊です。スパイラル綴じなのに痛みの無い、素晴しい状態で、さすがは下郷の地元の美術館だけのことはあります。下郷旧蔵かもしれません。各頁を画像で観ることができるのも、滅多にない機会でしょう。

図11
今から25年ほど前のことですが、『メセム属』が明治古典会の七夕古書入札会(通称「七夕の大市」)に出品されたことがありました。確か最低入札価格が10万円程度で、二の足を踏んだ挙句、見送りとしました。落札価格は15万円ほどだったと思いますが、その後、あれよあれよという間に相場が上昇し、10年ほど後に再び出品された際には、一桁上の、もはや手の出しようのない価格帯になっていました。「これはという売り物が出たときには、借金をしてでも買う」という鉄則を守らなかった報いでしょう。
続いて「瀧口修造―ヨーロッパへの眼差し」のコーナーとなります(図12)。大辻清司が撮影した最晩年の瀧口夫妻の写真や、瀧口の部屋(書斎)の写真も5~6点展示されています。後者は没後の撮影なので、綾子夫人が整理した後と思われますが、それでも全体の雰囲気、作品やオブジェなどを記録した、貴重なドキュメントであるのは間違いないでしょう。

図12
展示は第2章「大辻清司 前衛写真の復活と転調」に入ります(図13)。「大辻清司、阿部展也の演出を撮る」のコーナーには、阿部のアトリエで大辻撮影の、作家やオブジェの写真が展示されています(図14)。福島秀子をモデルにした作品などは見覚えがあります。阿部のアトリエは瀧口宅からほど近い下落合にあったので、作家たちの交流も活発だったのでしょう。手前のケースには再び「フォトタイムス」誌(武蔵野美術大学蔵)が並べられています(図15)。こちらは大辻旧蔵だそうですが、かなり読み込まれており、ところどころに赤鉛筆でサイドラインが引かれています。もっとも、大辻が入手したのも古書だったので、本人によるものかは断定できないそうです。

図13

図14

図15
左側の「オブジェを撮る」のコーナーの前をとおり(図16)、奥の展示室の正面の壁面には、1953~54年頃の「アサヒグラフ」誌の連載「アサヒ・ピクチャー・ニュース」(「APN」)掲載写真が展示されています(図17)。「APN」の構成と写真は、実験工房の共同作業の代表例とされ、近年、東京パブリッシングハウスから山口勝弘・大辻清司、北代省三・大辻清司の各10点入りポートフォリオ(齋藤さだむ氏によるモダン・プリント)も復刻されています。本展の展示は千葉市美術館蔵および富山県美術館蔵の別バージョンで、纏まって目にするのは稀と思われます。

図16

図17
左手は「『文房四宝』―モノとスナップのはざまで」のコーナー(図18)。牛腸茂雄によるプリントはシャープで「素晴らしい!」の一言です。手前側は「アサヒカメラ」誌に連載された「私わたくし)の解体―なんでもない写真」のコーナーです(図19)。本展のサブタイトルにも使われている「なんでもない」という言葉は、この連載に由来するようです。手前のケースには「アサヒカメラ」誌も展示されています(図20)。おそらく大辻が開拓した写真の地平のハイライトは、このふたつのコーナーかもしれません。

図18

図19

図20
さらに奥の展示室から階下の7階にかけてが、「1960~1980年代 牛腸茂雄 前衛写真のゆくえ」のコーナーとなります。牛腸の作品を中心に展示点数がたいへん多く、これだけでも展覧会ひとつとして通用するでしょう。冒頭のコーナーは「桑沢デザイン研究所にて」で、牛腸が同研究所で大辻に見出された頃の課題写真が並びます(図21)。解説パネルによると大辻は、「造形感覚と写真の旨味に対する勘は、誰が見ても際立って見えた」「もしこれを放って置くならば教師の犯罪である」とまで言ったそうです。

図21
(後編は明日掲載します)
(つちぶち のぶひこ)
「『前衛』写真の精神:なんでもないものの変容 瀧口修造・阿部展也・大辻清司・牛腸茂雄」
主催・会場:千葉市美術館
会期:2023年4月8日(土)~5月21日(日)
●軽井沢で「倉俣史朗展 カイエ」が始まりました。
会場:軽井沢現代美術館長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉2052-2
会期:2023年4月27日(木)~11月23日(木・祝日)
休館日:火曜、水曜 (GW及び、夏期は無休開館
●倉俣史朗の限定本『倉俣史朗 カイエ Shiro Kuramata Cahier 1-2 』を刊行しました。
限定部数:365部(各冊番号入り)
監修:倉俣美恵子、植田実
執筆:倉俣史朗、植田実、堀江敏幸
アートディレクション&デザイン:岡本一宣デザイン事務所
体裁:25.7×25.7cm、64頁、和英併記、スケッチブック・ノートブックは日本語のみ
価格:7,700円(税込) 送料1,000円
詳細は3月24日ブログをご参照ください。
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