福原義春さんが8月30日に亡くなられました。享年92。
資生堂名誉会長という肩書よりは、企業メセナの先駆けとして文化支援のリーダー、財界きっての読書人として稀有な存在でした。

駒井哲郎を追いかけて第79回

ときの忘れものが1995年6月に開廊した初日の客は「二人のFさん」でした。
女性のFさん・舟越道子さんのことは道子さんが亡くなられたときに書きましたが、もうひとりの男性のFさんが実は福原さんでした。
福原さんの知遇を得たのは1980年代の後半からですが、私たちが提案した『資生堂ギャラリー七十五年史』編纂事業は、当時企業文化部の課長だった柿崎孝夫さんと社長の福原さんの理解なくしては実現不可能でした。

1991年資生堂G駒井哲郎回顧展コレクターとしては、資生堂の新人時代に「版画友の会」に入会し、駒井哲郎オノサト・トシノブをこつこつと集める言わばサラリーマンコレクターの走りでした。
ご自身のコレクションについて、語りだしたのはかなり後で、ご紹介するのは第1回資生堂ギャラリーとそのアーティスト達 没後15年 銅版画の詩人 駒井哲郎回顧展」図録(1991年5月 資生堂企業文化部発行)所収のエッセイ「とくべつの感情」です(画面をクリックすると拡大します)。

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この頃はご自宅に駒井作品を飾って楽しんでおられましたが、その後、コレクションが膨大になるにつれ、優れた美術品は私蔵されるべきではないとの信念から駒井作品は世田谷美術館に、オノサト作品は東京都現代美術館に幾度かにわけて寄贈されました。

最初の寄贈先をどこにするか熟慮され駒井先生にも縁のある世田谷美術館に決め、第一回にまず80点あまりを寄託(のちに寄贈)されました。その後も次々と寄贈され、おそらく500点を超えているのではないでしょうか。
オノサト・トシノブ作品(1950年代から60年代のベタ丸時代の油彩、水彩が中心)は約120点を東京都現代美術館に寄贈されました(つい先日ブログで福原コレクションを紹介したばかりでした)。

2000年4月世田谷美術館福原コレクション展下に掲載したのは世田谷美術館で開催された「駒井哲郎展 福原コレクション寄託記念」図録(2000年4月 世田谷美術館発行)所収の拙文「福原コレクションをめぐって」です。
画商風情が美術館のカタログに寄稿するなどとんでもないと固辞したのですが、福原コレクションの全貌を知っているのはあなただからと担当学芸員に乞われ書いたものです。お恥ずかしい文章ですが、福原さんへの追悼の気持ちをこめて再録掲載させていただきます。

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正木ひろし『裁判官』(光文社・カッパブックス、1955年、表紙写真:福原義春)

植田実「福原コレクション 駒井哲郎1920-1976」展
吉岡知子「福原義春コレクション 花開く色彩―駒井哲郎のモノタイプ」の展示に寄せて
・画廊亭主「30年ぶりの快挙! 東京都現代美術館でオノサト・トシノブ特集展示~福原義春コレクション」

新聞等の訃報欄にはあまり書いてないようですが、2018年に史上初めて福原義春さんが「企業による社会貢献、とりわけ芸術文化支援(メセナ)の重要性に着目し、メセナ活動を牽引した」功績により、文化功労者に選出されたことは私たち美術界に生きるものにとってとても嬉しいことでした。

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2006年11月19日世田谷美術館にて。右から、福原義春さん、駒井美子さん(駒井哲郎夫人)、野村二郎先生(駒井先生のパリ留学時代の友人)、綿貫不二夫

福原義春さん、長い間たいへんお世話になり、ありがとうございました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
(綿貫不二夫、令子)