佐藤圭多のエッセイ「大西洋のファサード -ポルトガルで思うこと-」第11回

旅する感覚

IMG_2189

東京に住んでいた時に娘が通っていた水泳教室は厳しい指導で有名で、オリンピック選手も輩出したスクールだった。家から徒歩で行けたため軽い気持ちで事前見学に行き、生徒たちの一糸乱れぬ練習風景に親は怯んだのだけど、当の本人はここに通いたいと言う。通い始めると、そのメソッドのおかげか娘はどんどん泳げるようになっていき、ポルトガルに移住する前にクロール、背泳ぎ、平泳ぎをマスターした。

IMG_5016

ポルトガルでも引き続き水泳を続けられたらと近所を探してみると、運良く徒歩圏内に1つスクールがあった。打って変わってかなり小規模だが、プロを目指すわけでもないので気にせずそこに通い始める。先生はいかにもポルトガル人らしく、タトゥーを入れた明るく優しい先生で、娘はすぐに馴染んだ。教室の様子を見ていると、仰向けで平泳ぎとか、片手だけで背泳ぎとか、実に自由に泳がせる。基礎訓練の類いかなと思って見ていたのだけれど、毎回先生がその場でオリジナルの泳法を編み出しているようにも見える。

IMG_4664

IMG_2981

見慣れぬフォームで泳ぐ娘の様子を見ているうちに、全身を使って水の中をすすむ別種の生き物に見えてきた。つまり日本でそんな泳ぎ方で泳いでいる人は一度も見たことがないのだ。でも確かに前に進んでいるし、そこではたと、「泳法はクロール、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライの4種類」と思い込んで疑いもしていなかった自分に気がついた。様々な泳法があったものが淘汰されてその4つが残ったのだと思うけれど、だからといって自分の泳ぎ方を4つに限定する理由があるわけでもない。淘汰されたほうの泳ぎ方が合っている事だってあるかもしれない。

IMG_4981

自分も気がつかないレベルで、思考がある限定的なフレームから出られていない、ということが実は頻繁に起きているのだろう。僕には泳ぎ方を選んでいるという自覚すらなかったのだ。頭の固さを自省する一方、外側にはまだいくらでも未知の世界が広がっている、と考えるとワクワクする。地球上に前人未到の地はほとんどなくなってしまっても、自分の思考の外にはまだまだ未踏の大地が広がっている。

6243746032_IMG_6034

IMG_2161

日本に一時帰国すると毎回、帰国当日から1週間ほどの間に、自分が急激に変化していくのを目の当たりにする。日本に降り立った直後は、ポルトガルの空気を背負ったままなので、日本の風景がやたら新鮮に見える。湿気を含んだ柔らかい光。たくさんの看板、隅々まできっちり舗装された地面と、紅葉した木々。日本はこんな独特な風景にあふれていたのかと嬉しくなり、思わず写真をたくさん撮る。ラーメン屋のカウンターに座ると、隣の人との距離の近さにいちいちびっくりする。まるで旅行者である。

IMG_0923

IMG_4734

そんな感覚が、1週間の間に急速に溶けてなくなっていく。その時撮った写真を見返すと、何が面白くて撮ったのかもよくわからない。感覚がこれだけ短期間のうちに変化すると、自分がとても不確かな存在に思えてきて不安になる。でももう1週間もすればそんな不安も忘れ、見事に日本に住んでいた時の自分に戻るのだ。人間が環境から受けている影響はすさまじい。ポルトガル人の友人から久しぶりにメッセージが来たので、日本にいるよ、と目の前の雑多な街を撮って送る。「看板にあふれた路地が美しい!ポルトガルにはない色合いだよ」との返事。数週間前の自分が持っていたはずの感覚を、少しだけ思い出す。

(さとう けいた)

■佐藤 圭多 / Keita Sato
プロダクトデザイナー。1977年千葉県生まれ。キヤノン株式会社にて一眼レフカメラ等のデザインを手掛けた後、ヨーロッパを3ヶ月旅してポルトガルに魅せられる。帰国後、東京にデザインスタジオ「SATEREO」を立ち上げる。2022年に活動拠点をリスボンに移し、日本国内外のメーカーと協業して工業製品や家具のデザインを手掛ける。跡見学園女子大学兼任講師。SATEREO(佐藤立体設計室) を主宰。

・佐藤圭多さんの連載エッセイ「大西洋のファサード -ポルトガルで思うこと-」は隔月、偶数月の20日に更新します。次回は2024年2月20日の予定です。

●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com 
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
photo (2)