連載「瑛九 - フォト・デッサンの射程」
第4回「You get these words wrong-第23回瑛九展」(その3)
ギャラリー・トーク「装置としての瑛九」(後編)
2013年5月31日 ときの忘れもの(青山)にて開催
(本連載の第2回・第3回からの続き)

当日配布したレジュメ(全4ページ)の3ページ目
(1ページ目と2ページ目は本連載の第2回に掲載)

fig.1:「瑛九のマトリクスB:写真」(左)
fig.2:「瑛九のマトリクスA:絵画」(右)
(マトリクスの説明については本連載の第3回を参照)
今日の話は、図を描いたりできません。アナログな方法でやってみるしかないので、このような形を考えましたが、ふたつのマトリクスを重ねることで、全貌は見えてくるかなと思います。

fig.3:「瑛九のマトリクスB:写真」と「瑛九のマトリクスA:絵画」を重ねる
マトリクスを重ねてみる
大体重なってくれているかと思います。まず、右側に「再現的空間」と「パースペクティヴ」が位置し、上段に「透過/転写」と「対象指示性」が位置しています。このふたつで形成される右上では、「リアリズム(写実性)」の絵画と、「ストレート・フォト」が、同じグループに入っています。

fig.4:《作品(42)》 1936年 埼玉県立近代美術館蔵

fig.5:《鳴海風景B》 1939年 東京国立近代美術館蔵
次に、右上と左上を接続する位置には、ガラスに対して描画を施す「ガラス絵」と、カメラで撮影された像が定着されたガラスの乾板に介入する「原板加工」がきます。左上では、「原板によるフォト・デッサン」と「レイヤー(多層性)」が、同じグループに入っています。

fig.6:《無題》 1958年 うらわ美術館蔵

fig.7:《緑の窓による鳥の人物の横顔》 うらわ美術館蔵
右上と右下を接続する位置にきている「多重露光」と「型押し・痕跡」は、あまり関連は感じられないですが、右下では、「形象性・記号性」と「フォトグラム」が同じグループに位置しています。

fig.8:《題名不詳》 1936年 東京都写真美術館蔵

fig.9:《作品-F》 1936年 宮崎県立美術館蔵
下段では、物体が記号化していくような局面があり、右下と左下を接続する位置には、「型紙」と「吹き付け」がきています。さらに、「自己指示性」と「インデックス」が重なり、左下では、「感光材料によるフォト・デッサン」と「オールオーヴァー(均質性)」が、同じグループに位置しています。

fig.10:《街》 1954年 宮崎県立美術館蔵

fig.11:《みづうみ》 1957年 宮崎県立美術館蔵
注目すべき重要なこととして、例えば、左側では、瑛九のフォト・デッサンのひとつの特徴といえる「手の運動」と、瑛九の絵画の中で最も重要な「点描」が同じ位置に重なる、という点などが見られます。

fig.12:《作品(31)》 埼玉県立近代美術館蔵

fig.13:《雲》 1959年 埼玉県立近代美術館蔵
このように、便宜的に写真のマトリクスと絵画のマトリクスを分けて考えて、そのふたつのマトリクスを重ねてみると、瑛九が色々な技法を開拓して、マトリクスのマッピングが示す領域や様式を越境しながら行き来している様子が見て取れます。さらに、それだけではなく、このふたつのマトリクスを横から見ていただきたいのですが、写真の層と絵画の層を、縦方向で貫通させながら、行ったり来たりしていることが注目されます。
具体的に言うと、写真的なプロセスには、通常は、身体性はあまり介在しないのですが、瑛九の場合は、懐中電灯の光を細くして印画紙を感光させて、文字通り「光で描く」ことで、かなり絵画的な表現ができるわけです。こちらの絵画はスプレーを使っていますが、光で描いたフォト・デッサンと非常に近いです。

fig.14:《人々》 1951年 宮崎県立美術館蔵

fig.15:《ビルの窓》 1957年 宮崎県立美術館蔵
ガラス原板への加工や描画、懐中電灯の光などを駆使して、手の運動や身体的な描画性を取り込んでいく手法は、瑛九のフォト・デッサンの重要な特徴です。逆に、絵筆を持ってカンヴァスに向かい、生身の人間が描く絵画に対して、写真的な間接性を反映するかのような、痕跡の刻印や吹き付けによる色彩の定着という手法を取り入れています。手の運動によって自ら絵画を描くにも関わらず、装置的な作画システムとして生み出されたのが、瑛九の点描なのではないかと考えた次第です。

fig.16:《田園B》 1959年 宮崎県立美術館蔵
装置としての瑛九
もうひとつ、中央に貼りたいものがあります。カメラモデルから「光学的」、焼き付けから「科学的」、感光材料や印画紙から「化学的」という言葉を導き出しています。そして、「機械的」というのは、写真的なプロセスやシステムを、絵画における手の運動に導入することによって、身体を用いて描く行為を機械化することを示しています。この4つのキーワードを、ふたつ重ねたマトリクスの中央に配置してみます。

fig.17:マトリクスを重ね中央にキーワードを配置
中央に配置してみた4つのキーワードは、すべて、写真装置や写真的なプロセスと関わるシステムに特徴的なものといえます。ですから、このマトリクスの全体を、ひとつの「装置」としてとらえることも可能だろうと思うのです。それに対して、生身の「瑛九」という人間が、この4つのキーワードの真ん中に、このように位置付けられます。
いくら「装置」ととらえてみると言ってみても、生身の人間としての瑛九が失われるわけではないので、絵画としては、「人間としての杉田秀夫/瑛九」が、絵画のマトリクスの中心に来ることになります。ですから、このように、真ん中には「装置・瑛九」が位置するのです。それは生身の人間でありつつ、自分の視覚や身体を写真的な装置になぞらえた作画システムとして稼働させて動かしていく。そこには、 マトリクスで見てきたように多層性があり、そこに「装置としての瑛九」を見いだすことができるのではないか、と考えたのです。というところで、一応、無事に完成しました。

fig.18:マトリクスとキーワードを重ね中央に「装置・瑛九」を配置
質疑応答
綿貫(不二夫)氏
今日はすごい日で、ぼくは瑛九のレクチャーというのはいくつか聞いているのですけれども、今日は歴史に残る日です。まず、カタログのテキストを書いてくれた大谷先生をご紹介します。先生、ちょっと一言。(東京国立)近代美術館の大谷先生です。
大谷(省吾)氏
とても勉強になりました。今回のカタログ買った方は、私のテキストのところは破き捨てて下さい。ぶっちゃけた話をしますと、あの文章って実は2006年に書いた文章なのです。その頃まとめてあそこに書いてある作品がどっと出てきてですね、それで一度書かせていただいて、色々な事情で日の目を見なかったので、今回しっかりしたものを作られるというので、もったいないからちゃんと発表したらと綿貫さんからおっしゃっていただいて。
その間に研究も進んでいて、梅津さんも生誕100年の展覧会を企画なさって、その時に東京国立近代美術館へいらしていただいて、さっき一番初めにお話ありましたけど、これ(東京国立近代美術館で所蔵する『眠りの理由』のサイズ違いの2点)、やっぱりオリジナルと言ってはまずいかねとかという話は色々させていただいて。それで本当は私は2006年に書いた時、サイズ違いが出てきてすごくうれしかったので、いやこれオリジナルでしょ、とか書いていたのですけれど、その後、今回日の目を見るということで、梅津さんと色々お話ししたのを思い出しながら、いや、ここはもうちょっと慎重に書き直しておかなければいけないなとか思いながら少し、そういうことをしましたけれど。
今日、色々お話しいただいて、本当に技法的なこともすごくクリアになって、私自身勉強になりましたし、何より最後のマトリクスの操作というのが、やはり今まで瑛九の研究をするとどうしても絵画なら絵画の問題で点描のお話になってしまうし、フォト・デッサンならフォト・デッサンの話だけになりつつあるところも、ものの見事にその両方を重ね合せて、その行ったり来たりの関係というのをこれだけ鮮やかに示してくれたというのは本当に勉強になりました。ありがとうございました。
梅津 とんでもないです。
大谷氏 ぜひこれ、次のこちらのカタログに。
綿貫氏
非常に刺激的な、たぶんこんなレクチャーは歴史に残る。ここにいた人は後で、「ああ、こういうこと」って。つまり瑛九は亡くなってもうその年にすぐ竹橋の、当時は京橋にあったのですが、近代美術館で展示が行われて、それからもう毎年必ず美術館で展覧会が行われています。じゃあ瑛九やったからって人が入るかって、全然入らない。入らないけどね、学芸員が繰り返し、繰り返しやる。なぜかということが誰も分からない。誰も説明してくれない。今言った通り点描は、みんな点描、点描って言うのですけど、この具象を書いた時からこの点描で死ぬまで10数年しか経っていない。ここから10数年でここへ行っちゃったって人は何なのだろうということが僕たちにも分からないですね。僕たちは画商だから高く売れればいいのですけれど、でも最近そうもいかなくなってきたというのがあります。海外から大変いろいろな問い合わせが来るわけですね。海外のコレクターというのは必ず論理立てて来ますから、なんで瑛九のこれがすごいのだと、なんでお前はこれにこういう値段を付けるのかということを聞いてくるわけですよね。それに対して我々がちゃんと論理的に答えないとダメなので、そういう作品探究、つまり梅津さんが、実はこういうレクチャーを頼んだとき、美術史的な話はしないよって言われていたので、僕は、ああ結構です、何でもいいですって言いましたけれど、こういう話になるのであったらもう少し我々も準備しておけばよかったと反省していますが。
作品研究ということであれば、実は筑波大学の五十殿(利治)先生たちが、もう既に何年も前からそういうことを始めています。1点の作品を目の前に色々な角度から。僕は数年前にそのシンポジウムに参加させていただいて、非常にショックを受けたのですけれども、僕は画商だから、乱暴だから、それまでは瑛九は油絵もやる、水彩もやる、リトもやる、銅版もやる、フォト・デッサンもやる、でも全部違う技法だけどみんな違うことをやったと。同じことはやらなかったと、こういう言い方をしていました。例えばムンクだと、同じイメージを、油絵も描く、版画もやるけれど、瑛九はしていなかったじゃないかという、乱暴な意見を言っていましたら、そこにいる城山さんという人が、彼女はリトを、瑛九のリトをそっくりその……何て言ったらいいですか。はい、じゃあ彼女、筑波大学の城山さんです。ご紹介します。ちょっと喋って。
城山(萌々)氏
すいません、お恥ずかしいですけれど……。私はリトグラフで作品を作っている者なので、研究の方は本当に門外漢だったのですけれども、五十殿先生から機会を頂いて、筑波大学が所蔵していた瑛九の《街》というリトグラフを実際に見せていただきました。作品を見て、その版の重ね方の仕組みというのを、こういう風に重ねたのだなと分析して、自分で感じたことをそのまま再現をして作りました。
綿貫氏
ぶっちゃけた話、偽物を作ったわけですよ。彼女が。瑛九の。それで?
城山氏
その《街》という作品は、最初にアラビアゴムで描く、白抜きという状態でイメージを作って、そこから色の版を展開させていったのではないかという結論に達しまして、それはかなりフォト・デッサンの制作プロセスと似通った部分があるのではないか、という発表をいたしました。
綿貫氏
それを僕は現場で聞いていて、白抜きという、つまりリトグラフを僕たちは単純に色を重ねていると思っていたのだけれど、彼女は実際に偽物を作っていく過程でフォト・デッサンと似たような、というか同じような思考を、作り方をしていたって。ということを聞いて、非常にショックを受けましてですね。やっぱり僕たちは勉強不足だなってつくづく思いました。まあ僕がこんなこと話してもあんまり仕方ないので、梅津さんにすべては帰着するのですが、もう一人、実は、僕の所にも海外から沢山色々な問い合わせが来るのですけれども、瑛九は別にフォト・デッサンということで来るのではないですね。いわゆる印画紙の表現ということで、例えば新興写真の括りで括られることや、今、1930年代の写真作品は非常に注目されているわけです。近美で、何年か前に画期的な展覧会(「モダニズムの光跡:恩地孝四郎 椎原治 瑛九」)があって、椎原治と、恩地孝四郎と、瑛九の写真作品の展覧会がありましたけれど、実は恩地さんっていうのは、次に我々も展覧会をしますけれども、ここに、専門家が今日いらしています。桑原規子さんで、去年、大著を出しまして、瑛九の写真に関しても、ちょっと一言。
桑原(規子)氏
今日の発表は、本当に、実に感動的でした。次回の講演の時に、参考にさせて頂こうかなと思いました。恩地のフォトグラムに関しては近美で「モダニズムの光跡」展を開催したときに、戦前という風な制作年代になっているのですが、私はどうも戦後ではないかと思っています。おそらく瑛九の影響を受けて恩地も相当色々なメディアを使うようになったのですけれども、ただ、恩地孝四郎の場合には、写真とやはり版、版画というものが、かなり同時代的に変容して行く。だから、画面の上に版をのせるように、やはりフォトグラムものせていくという感覚、浮遊するような感覚ですよね。ですから今日、瑛九の話を伺っていて、同時代的な部分での恩地との違いというのは非常に参考になりました。ありがとうございます。
綿貫氏
すみません。こちらばかり。せっかく梅津先生いらっしゃるので、何かご質問があったらどうぞ。
質問者1
最初ラインをすごくこだわって、型紙などで試みていて、その後フォトにしても線はあっても色を見せる、クリアな色を見せて、新鮮なイメージとか鮮明なイメージとか、そういったことで最終的には点描まで行く。その間に具象があったとして、冒頭の天と地に戻るのですけれど、天と地を考えた中で、色とか線とか、瑛九が色濃く思ったファクターというか要素というのはなんだとお思いになりますか?
梅津
今回も少し出ていますが、初期の1935~36年頃のペンデッサンはとても面白いです。杉田秀夫の名前でサインしているものもあります。上手いデッサンではないですが、瑛九にしか描けない独特の、ちょっと気の抜けたような線が魅力的です。また、赤いインクを使ったものなど、シュルレアリスム的な不定形な傾向も出ていて、その辺りを見ていると、瑛九の出発点において、線はとても大事だと思います。
ただ絵画に関して私が思うのは、瑛九は油絵具とうまく折り合いが付けられなかったのではないか、ということです。瑛九の場合、ドローイング、デッサン、水彩などの方が良かったりもします。線がドローイングとして絵画に出てくることは少なくなりますが、では、線はどこへ行ったかというと、私は、型紙に向かったのではないかと考えています。型紙は、ドローイングの線に沿って切っていくので、瑛九の中に線という要素は、根深く残っていると思います。
点描に関しては、最後に話したように、完全な純粋抽象の均質なオールオーヴァーに瑛九は行っていないはずです。《雲》(fig.13)や《つばさ》(fig.19)などでは、線による輪郭は描かれていませんが、完全な均質空間を達成しようとした作品なのではなく、何らかの形象性というものが、点描の中にもおそらく残っているのだろうと思います。

fig.19:《つばさ》 1959年 宮崎県立美術館蔵
質問者1
ラインというものが出発点であり、最終的に瑛九がこだわったライン……。
梅津
点描というのは手段ではあるけれども目的ではなく、点描が瑛九の結論だったわけではありません。自分が求めるイメージを生むための技術、「方法としての点描」という風に考えた方がよく、点描が帰着点という風には思えないのです。
質問者1
今日は感動しました。ありがとうございました。
梅津 ありがとうございます。
質問者2
いいですかちょっと。今日、聞いていてすごく面白かったのですけれども、私も実作をしている者として、次から次へとアイデアが出てくるところが面白かったです。写真にしろ、ドローイングにしろ、油彩にしろ、瑛九の中ではひとつだったような気がします。光というものに対してものすごく興味があって、写真も光の芸術ですよね。
梅津 そうですね。
質問者2
点描も然り、今日のお話に戻りますけれども、彼の中では、全然バラバラではなかった、ひとつのものであった、という感じがすごくしました。
梅津
今、いい言葉を出していただきました。今日はうまく言葉にできていませんが、光の問題はすごくあると思います。上手く扱えなかった絵の具に対して、何故、点描で突破出来たのかを考える必要があります。点を打って光を呼び込む、そこには、フォト・デッサンや吹き付けなど、様々な技法に取り組んだ経験が反映されていると思います。
描かないで絵を作るという間接性を取り込むことによって、画面の中から光が出てくるような絵画に到達したのだと考えられます。色彩の選択など、試行錯誤を繰り返すことで、光というすごく大事な要素をとらえたのだと思います。
質問者2
あと1点、先ほど、今日ギャラリートークデビューの友人からご質問があって、答えられなかったのですけれど、瑛九は、紙の質など、素材へのこだわりというものはありますか?
梅津
あまり考えたことがないので、綿貫さんの方が詳しいと思うのですが、あまりなさそうですよね。そういう気質は、あまりないタイプではないかなという気はします。
質問者2
画材屋さんにあって、あ、これっていう感じでチョイスして……。
梅津
例えば、印画紙にしても、しっとりとした質感のもの、光沢のあるもの、その中間領域のものなど、当時、4種類くらいあるはずで、瑛九は色々と試しています。ですが、具象的なものはこの印画紙、抽象的なものはこの印画紙、というような選択は感じられません。都夫人から、私が印画紙を買いに行っていましたという話をお聞きしたことがありますし、この印画紙でなければならないという必然性を見極めることはできません。あまり注文もつけずに、買ってきてあるものを使うとか、切って型紙にしてしまうとか、その辺はおおらかだったのではないかと思います。
質問者3 こだわる必要がなかったと思います。
梅津 あまりこだわりはないと思います。
質問者3
例えば、古い紙で描いたら描いた面白さ、それからモダンな、新しい紙に描いたら紙の面白さとか、色々出てくるので、あんまり逆にこだわってしまうと、面白くない感じがしますね。
梅津 そうですね。
質問者3
そこにセロファンもありますけれど、こういうのでやってみようとか、これで光の感じも出るとか、こだわらないで、なんでもやってみた方が面白いものが……。
梅津
そうですね。戦争をはさんでいる時期は、カンヴァスが手に入らなければボール紙や板に描くとか、ガラスがなければセロファンを使うとか、その辺は現実的に手近にあるものを使っていたのかなという気がします。
綿貫氏
そろそろお腹がすきましたので、軽い物が用意してあるので、とりあえずここで一回しめて、先生まだいますから、個々にぜひお話しを聞いて下さい。
参考資料
梅津
最後に一言いいでしょうか。今日は皆さんに興味を持っていただけたようなのでほっとしていますが、今回のマトリクスを発想するヒントは、外山卯三郎です。瑛九は、長谷川三郎を訪ね、外山卯三郎のところに行き、『眠りの理由』が作られることになりますが、一連の経緯は運命的なものに感じられます。その『眠りの理由』には、外山卯三郎が書いた「瑛九のフォート・デッサンについて」という文章が収録されています。
また、レジュメの参考資料に記載していますが、外山卯三郎は、1936年に刊行された『PHOTO 芸術としての写真』で、海外の前衛的な写真の動向を紹介していますが、そこで瑛九のこともしっかり書いています。さらに、1950年に刊行された『芸術家 瑛九』に寄稿した「瑛九の芸術について」という文章の中で、瑛九は「写真芸術家」なのではないかと述べています。私はそこに「的」を入れて、「写真的芸術家」という風に瑛九を捉え、「写真的芸術家」としての瑛九が、どのようにして絵を描いているのかを解析しようと試み、今日のような話になりました。『眠りの理由』のリーフレットに戻って、外山卯三郎からやり直して、今日のような話に至った次第です。
大谷さんは「一九三〇年協会のメディア戦略と外山卯三郎」という文章を書かれていますし、谷口英理さんは「前衛絵画と機械的視覚メディア-古賀春江から瑛九へ」という文章を書かれています。どちらも、私が瑛九に対して持っている関心と近いのではと感じていますので、レジュメの参考資料に記載しました。

当日配布したレジュメ(全4ページ)の4ページ目
それとこれは言うつもりはなかったのですけれども、最初にコレクターの方の紹介で綿貫さんがおっしゃっていたので、私も言わざるを得ないところがあるのですが、実は、私も瑛九と誕生日が同じで、4月28日生まれなのです。ということで今日は終わります。ご清聴ありがとうございました。
Avalanche
Avalanche……、第2回から第4回まで、2013年のギャラリー・トークの記録公開が続いた。ならば、第4回の締めくくりは第2回の冒頭、ニュー・オーダーの「Leave Me Alone」と呼応する。第1回は、『Power, Corruption & Lies』(1983)の最初の曲「Age of Consent」で幕を開け、『Republic』(1993)の最初の曲「Regret」で幕を閉じる。第2回は、『Power, Corruption & Lies』の最後の曲「Leave Me Alone」で幕を開ける、ならば、第4回の幕を閉じるのは、『Republic』の最後の曲、そう、「Avalanche」。
10年前のギャラリー・トークの記録公開をようやく果たした今の私の心境を代弁するかのように、「Avalanche」が心に沁みわたる。責任を果たした達成感も安堵感も微塵もなく、果たせていないあらゆる事柄が、雪崩のように押し寄せる……。『Power, Corruption & Lies』と『Republic』の間に横たわる10年と、責任を果たせなかった10年が重なり、「Leave Me Alone」から「Avalanche」へと流れる静かな諦念に身を委ねる。そして、「Avalanche」の長いエンディングに導かれ、静かに、ゆっくりと、目を閉じる。
図版出典
fig.4~fig.16, fig.19:『生誕100 年記念 瑛九展』宮崎県立美術館ほか、2011 年
【本連載の第2回~第4回において公開したギャラリー・トークの記録】
2013年5月31日 ときの忘れもの(青山)
第23回瑛九展ギャラリー・トーク「装置としての瑛九」梅津元
テープ起こし:城山萌々 編集協力:ときの忘れもの
注:挿図キャプション記載の作品データは原則として2013年当時のもの。
ただし、一部、2023年現在の情報に修正している場合がある。
(うめづ げん)
■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。
・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」。次回更新は2024年1月24日を予定しています。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、瑛九です。

《題不詳》
フォト・デッサン
25.4×20.2cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。

建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
第4回「You get these words wrong-第23回瑛九展」(その3)
梅津 元
ギャラリー・トーク「装置としての瑛九」(後編)
2013年5月31日 ときの忘れもの(青山)にて開催
(本連載の第2回・第3回からの続き)

当日配布したレジュメ(全4ページ)の3ページ目
(1ページ目と2ページ目は本連載の第2回に掲載)

fig.1:「瑛九のマトリクスB:写真」(左)
fig.2:「瑛九のマトリクスA:絵画」(右)
(マトリクスの説明については本連載の第3回を参照)
今日の話は、図を描いたりできません。アナログな方法でやってみるしかないので、このような形を考えましたが、ふたつのマトリクスを重ねることで、全貌は見えてくるかなと思います。

fig.3:「瑛九のマトリクスB:写真」と「瑛九のマトリクスA:絵画」を重ねる
マトリクスを重ねてみる
大体重なってくれているかと思います。まず、右側に「再現的空間」と「パースペクティヴ」が位置し、上段に「透過/転写」と「対象指示性」が位置しています。このふたつで形成される右上では、「リアリズム(写実性)」の絵画と、「ストレート・フォト」が、同じグループに入っています。

fig.4:《作品(42)》 1936年 埼玉県立近代美術館蔵

fig.5:《鳴海風景B》 1939年 東京国立近代美術館蔵
次に、右上と左上を接続する位置には、ガラスに対して描画を施す「ガラス絵」と、カメラで撮影された像が定着されたガラスの乾板に介入する「原板加工」がきます。左上では、「原板によるフォト・デッサン」と「レイヤー(多層性)」が、同じグループに入っています。

fig.6:《無題》 1958年 うらわ美術館蔵

fig.7:《緑の窓による鳥の人物の横顔》 うらわ美術館蔵
右上と右下を接続する位置にきている「多重露光」と「型押し・痕跡」は、あまり関連は感じられないですが、右下では、「形象性・記号性」と「フォトグラム」が同じグループに位置しています。

fig.8:《題名不詳》 1936年 東京都写真美術館蔵

fig.9:《作品-F》 1936年 宮崎県立美術館蔵
下段では、物体が記号化していくような局面があり、右下と左下を接続する位置には、「型紙」と「吹き付け」がきています。さらに、「自己指示性」と「インデックス」が重なり、左下では、「感光材料によるフォト・デッサン」と「オールオーヴァー(均質性)」が、同じグループに位置しています。

fig.10:《街》 1954年 宮崎県立美術館蔵

fig.11:《みづうみ》 1957年 宮崎県立美術館蔵
注目すべき重要なこととして、例えば、左側では、瑛九のフォト・デッサンのひとつの特徴といえる「手の運動」と、瑛九の絵画の中で最も重要な「点描」が同じ位置に重なる、という点などが見られます。

fig.12:《作品(31)》 埼玉県立近代美術館蔵

fig.13:《雲》 1959年 埼玉県立近代美術館蔵
このように、便宜的に写真のマトリクスと絵画のマトリクスを分けて考えて、そのふたつのマトリクスを重ねてみると、瑛九が色々な技法を開拓して、マトリクスのマッピングが示す領域や様式を越境しながら行き来している様子が見て取れます。さらに、それだけではなく、このふたつのマトリクスを横から見ていただきたいのですが、写真の層と絵画の層を、縦方向で貫通させながら、行ったり来たりしていることが注目されます。
具体的に言うと、写真的なプロセスには、通常は、身体性はあまり介在しないのですが、瑛九の場合は、懐中電灯の光を細くして印画紙を感光させて、文字通り「光で描く」ことで、かなり絵画的な表現ができるわけです。こちらの絵画はスプレーを使っていますが、光で描いたフォト・デッサンと非常に近いです。

fig.14:《人々》 1951年 宮崎県立美術館蔵

fig.15:《ビルの窓》 1957年 宮崎県立美術館蔵
ガラス原板への加工や描画、懐中電灯の光などを駆使して、手の運動や身体的な描画性を取り込んでいく手法は、瑛九のフォト・デッサンの重要な特徴です。逆に、絵筆を持ってカンヴァスに向かい、生身の人間が描く絵画に対して、写真的な間接性を反映するかのような、痕跡の刻印や吹き付けによる色彩の定着という手法を取り入れています。手の運動によって自ら絵画を描くにも関わらず、装置的な作画システムとして生み出されたのが、瑛九の点描なのではないかと考えた次第です。

fig.16:《田園B》 1959年 宮崎県立美術館蔵
装置としての瑛九
もうひとつ、中央に貼りたいものがあります。カメラモデルから「光学的」、焼き付けから「科学的」、感光材料や印画紙から「化学的」という言葉を導き出しています。そして、「機械的」というのは、写真的なプロセスやシステムを、絵画における手の運動に導入することによって、身体を用いて描く行為を機械化することを示しています。この4つのキーワードを、ふたつ重ねたマトリクスの中央に配置してみます。

fig.17:マトリクスを重ね中央にキーワードを配置
中央に配置してみた4つのキーワードは、すべて、写真装置や写真的なプロセスと関わるシステムに特徴的なものといえます。ですから、このマトリクスの全体を、ひとつの「装置」としてとらえることも可能だろうと思うのです。それに対して、生身の「瑛九」という人間が、この4つのキーワードの真ん中に、このように位置付けられます。
いくら「装置」ととらえてみると言ってみても、生身の人間としての瑛九が失われるわけではないので、絵画としては、「人間としての杉田秀夫/瑛九」が、絵画のマトリクスの中心に来ることになります。ですから、このように、真ん中には「装置・瑛九」が位置するのです。それは生身の人間でありつつ、自分の視覚や身体を写真的な装置になぞらえた作画システムとして稼働させて動かしていく。そこには、 マトリクスで見てきたように多層性があり、そこに「装置としての瑛九」を見いだすことができるのではないか、と考えたのです。というところで、一応、無事に完成しました。

fig.18:マトリクスとキーワードを重ね中央に「装置・瑛九」を配置
質疑応答
綿貫(不二夫)氏
今日はすごい日で、ぼくは瑛九のレクチャーというのはいくつか聞いているのですけれども、今日は歴史に残る日です。まず、カタログのテキストを書いてくれた大谷先生をご紹介します。先生、ちょっと一言。(東京国立)近代美術館の大谷先生です。
大谷(省吾)氏
とても勉強になりました。今回のカタログ買った方は、私のテキストのところは破き捨てて下さい。ぶっちゃけた話をしますと、あの文章って実は2006年に書いた文章なのです。その頃まとめてあそこに書いてある作品がどっと出てきてですね、それで一度書かせていただいて、色々な事情で日の目を見なかったので、今回しっかりしたものを作られるというので、もったいないからちゃんと発表したらと綿貫さんからおっしゃっていただいて。
その間に研究も進んでいて、梅津さんも生誕100年の展覧会を企画なさって、その時に東京国立近代美術館へいらしていただいて、さっき一番初めにお話ありましたけど、これ(東京国立近代美術館で所蔵する『眠りの理由』のサイズ違いの2点)、やっぱりオリジナルと言ってはまずいかねとかという話は色々させていただいて。それで本当は私は2006年に書いた時、サイズ違いが出てきてすごくうれしかったので、いやこれオリジナルでしょ、とか書いていたのですけれど、その後、今回日の目を見るということで、梅津さんと色々お話ししたのを思い出しながら、いや、ここはもうちょっと慎重に書き直しておかなければいけないなとか思いながら少し、そういうことをしましたけれど。
今日、色々お話しいただいて、本当に技法的なこともすごくクリアになって、私自身勉強になりましたし、何より最後のマトリクスの操作というのが、やはり今まで瑛九の研究をするとどうしても絵画なら絵画の問題で点描のお話になってしまうし、フォト・デッサンならフォト・デッサンの話だけになりつつあるところも、ものの見事にその両方を重ね合せて、その行ったり来たりの関係というのをこれだけ鮮やかに示してくれたというのは本当に勉強になりました。ありがとうございました。
梅津 とんでもないです。
大谷氏 ぜひこれ、次のこちらのカタログに。
綿貫氏
非常に刺激的な、たぶんこんなレクチャーは歴史に残る。ここにいた人は後で、「ああ、こういうこと」って。つまり瑛九は亡くなってもうその年にすぐ竹橋の、当時は京橋にあったのですが、近代美術館で展示が行われて、それからもう毎年必ず美術館で展覧会が行われています。じゃあ瑛九やったからって人が入るかって、全然入らない。入らないけどね、学芸員が繰り返し、繰り返しやる。なぜかということが誰も分からない。誰も説明してくれない。今言った通り点描は、みんな点描、点描って言うのですけど、この具象を書いた時からこの点描で死ぬまで10数年しか経っていない。ここから10数年でここへ行っちゃったって人は何なのだろうということが僕たちにも分からないですね。僕たちは画商だから高く売れればいいのですけれど、でも最近そうもいかなくなってきたというのがあります。海外から大変いろいろな問い合わせが来るわけですね。海外のコレクターというのは必ず論理立てて来ますから、なんで瑛九のこれがすごいのだと、なんでお前はこれにこういう値段を付けるのかということを聞いてくるわけですよね。それに対して我々がちゃんと論理的に答えないとダメなので、そういう作品探究、つまり梅津さんが、実はこういうレクチャーを頼んだとき、美術史的な話はしないよって言われていたので、僕は、ああ結構です、何でもいいですって言いましたけれど、こういう話になるのであったらもう少し我々も準備しておけばよかったと反省していますが。
作品研究ということであれば、実は筑波大学の五十殿(利治)先生たちが、もう既に何年も前からそういうことを始めています。1点の作品を目の前に色々な角度から。僕は数年前にそのシンポジウムに参加させていただいて、非常にショックを受けたのですけれども、僕は画商だから、乱暴だから、それまでは瑛九は油絵もやる、水彩もやる、リトもやる、銅版もやる、フォト・デッサンもやる、でも全部違う技法だけどみんな違うことをやったと。同じことはやらなかったと、こういう言い方をしていました。例えばムンクだと、同じイメージを、油絵も描く、版画もやるけれど、瑛九はしていなかったじゃないかという、乱暴な意見を言っていましたら、そこにいる城山さんという人が、彼女はリトを、瑛九のリトをそっくりその……何て言ったらいいですか。はい、じゃあ彼女、筑波大学の城山さんです。ご紹介します。ちょっと喋って。
城山(萌々)氏
すいません、お恥ずかしいですけれど……。私はリトグラフで作品を作っている者なので、研究の方は本当に門外漢だったのですけれども、五十殿先生から機会を頂いて、筑波大学が所蔵していた瑛九の《街》というリトグラフを実際に見せていただきました。作品を見て、その版の重ね方の仕組みというのを、こういう風に重ねたのだなと分析して、自分で感じたことをそのまま再現をして作りました。
綿貫氏
ぶっちゃけた話、偽物を作ったわけですよ。彼女が。瑛九の。それで?
城山氏
その《街》という作品は、最初にアラビアゴムで描く、白抜きという状態でイメージを作って、そこから色の版を展開させていったのではないかという結論に達しまして、それはかなりフォト・デッサンの制作プロセスと似通った部分があるのではないか、という発表をいたしました。
綿貫氏
それを僕は現場で聞いていて、白抜きという、つまりリトグラフを僕たちは単純に色を重ねていると思っていたのだけれど、彼女は実際に偽物を作っていく過程でフォト・デッサンと似たような、というか同じような思考を、作り方をしていたって。ということを聞いて、非常にショックを受けましてですね。やっぱり僕たちは勉強不足だなってつくづく思いました。まあ僕がこんなこと話してもあんまり仕方ないので、梅津さんにすべては帰着するのですが、もう一人、実は、僕の所にも海外から沢山色々な問い合わせが来るのですけれども、瑛九は別にフォト・デッサンということで来るのではないですね。いわゆる印画紙の表現ということで、例えば新興写真の括りで括られることや、今、1930年代の写真作品は非常に注目されているわけです。近美で、何年か前に画期的な展覧会(「モダニズムの光跡:恩地孝四郎 椎原治 瑛九」)があって、椎原治と、恩地孝四郎と、瑛九の写真作品の展覧会がありましたけれど、実は恩地さんっていうのは、次に我々も展覧会をしますけれども、ここに、専門家が今日いらしています。桑原規子さんで、去年、大著を出しまして、瑛九の写真に関しても、ちょっと一言。
桑原(規子)氏
今日の発表は、本当に、実に感動的でした。次回の講演の時に、参考にさせて頂こうかなと思いました。恩地のフォトグラムに関しては近美で「モダニズムの光跡」展を開催したときに、戦前という風な制作年代になっているのですが、私はどうも戦後ではないかと思っています。おそらく瑛九の影響を受けて恩地も相当色々なメディアを使うようになったのですけれども、ただ、恩地孝四郎の場合には、写真とやはり版、版画というものが、かなり同時代的に変容して行く。だから、画面の上に版をのせるように、やはりフォトグラムものせていくという感覚、浮遊するような感覚ですよね。ですから今日、瑛九の話を伺っていて、同時代的な部分での恩地との違いというのは非常に参考になりました。ありがとうございます。
綿貫氏
すみません。こちらばかり。せっかく梅津先生いらっしゃるので、何かご質問があったらどうぞ。
質問者1
最初ラインをすごくこだわって、型紙などで試みていて、その後フォトにしても線はあっても色を見せる、クリアな色を見せて、新鮮なイメージとか鮮明なイメージとか、そういったことで最終的には点描まで行く。その間に具象があったとして、冒頭の天と地に戻るのですけれど、天と地を考えた中で、色とか線とか、瑛九が色濃く思ったファクターというか要素というのはなんだとお思いになりますか?
梅津
今回も少し出ていますが、初期の1935~36年頃のペンデッサンはとても面白いです。杉田秀夫の名前でサインしているものもあります。上手いデッサンではないですが、瑛九にしか描けない独特の、ちょっと気の抜けたような線が魅力的です。また、赤いインクを使ったものなど、シュルレアリスム的な不定形な傾向も出ていて、その辺りを見ていると、瑛九の出発点において、線はとても大事だと思います。
ただ絵画に関して私が思うのは、瑛九は油絵具とうまく折り合いが付けられなかったのではないか、ということです。瑛九の場合、ドローイング、デッサン、水彩などの方が良かったりもします。線がドローイングとして絵画に出てくることは少なくなりますが、では、線はどこへ行ったかというと、私は、型紙に向かったのではないかと考えています。型紙は、ドローイングの線に沿って切っていくので、瑛九の中に線という要素は、根深く残っていると思います。
点描に関しては、最後に話したように、完全な純粋抽象の均質なオールオーヴァーに瑛九は行っていないはずです。《雲》(fig.13)や《つばさ》(fig.19)などでは、線による輪郭は描かれていませんが、完全な均質空間を達成しようとした作品なのではなく、何らかの形象性というものが、点描の中にもおそらく残っているのだろうと思います。

fig.19:《つばさ》 1959年 宮崎県立美術館蔵
質問者1
ラインというものが出発点であり、最終的に瑛九がこだわったライン……。
梅津
点描というのは手段ではあるけれども目的ではなく、点描が瑛九の結論だったわけではありません。自分が求めるイメージを生むための技術、「方法としての点描」という風に考えた方がよく、点描が帰着点という風には思えないのです。
質問者1
今日は感動しました。ありがとうございました。
梅津 ありがとうございます。
質問者2
いいですかちょっと。今日、聞いていてすごく面白かったのですけれども、私も実作をしている者として、次から次へとアイデアが出てくるところが面白かったです。写真にしろ、ドローイングにしろ、油彩にしろ、瑛九の中ではひとつだったような気がします。光というものに対してものすごく興味があって、写真も光の芸術ですよね。
梅津 そうですね。
質問者2
点描も然り、今日のお話に戻りますけれども、彼の中では、全然バラバラではなかった、ひとつのものであった、という感じがすごくしました。
梅津
今、いい言葉を出していただきました。今日はうまく言葉にできていませんが、光の問題はすごくあると思います。上手く扱えなかった絵の具に対して、何故、点描で突破出来たのかを考える必要があります。点を打って光を呼び込む、そこには、フォト・デッサンや吹き付けなど、様々な技法に取り組んだ経験が反映されていると思います。
描かないで絵を作るという間接性を取り込むことによって、画面の中から光が出てくるような絵画に到達したのだと考えられます。色彩の選択など、試行錯誤を繰り返すことで、光というすごく大事な要素をとらえたのだと思います。
質問者2
あと1点、先ほど、今日ギャラリートークデビューの友人からご質問があって、答えられなかったのですけれど、瑛九は、紙の質など、素材へのこだわりというものはありますか?
梅津
あまり考えたことがないので、綿貫さんの方が詳しいと思うのですが、あまりなさそうですよね。そういう気質は、あまりないタイプではないかなという気はします。
質問者2
画材屋さんにあって、あ、これっていう感じでチョイスして……。
梅津
例えば、印画紙にしても、しっとりとした質感のもの、光沢のあるもの、その中間領域のものなど、当時、4種類くらいあるはずで、瑛九は色々と試しています。ですが、具象的なものはこの印画紙、抽象的なものはこの印画紙、というような選択は感じられません。都夫人から、私が印画紙を買いに行っていましたという話をお聞きしたことがありますし、この印画紙でなければならないという必然性を見極めることはできません。あまり注文もつけずに、買ってきてあるものを使うとか、切って型紙にしてしまうとか、その辺はおおらかだったのではないかと思います。
質問者3 こだわる必要がなかったと思います。
梅津 あまりこだわりはないと思います。
質問者3
例えば、古い紙で描いたら描いた面白さ、それからモダンな、新しい紙に描いたら紙の面白さとか、色々出てくるので、あんまり逆にこだわってしまうと、面白くない感じがしますね。
梅津 そうですね。
質問者3
そこにセロファンもありますけれど、こういうのでやってみようとか、これで光の感じも出るとか、こだわらないで、なんでもやってみた方が面白いものが……。
梅津
そうですね。戦争をはさんでいる時期は、カンヴァスが手に入らなければボール紙や板に描くとか、ガラスがなければセロファンを使うとか、その辺は現実的に手近にあるものを使っていたのかなという気がします。
綿貫氏
そろそろお腹がすきましたので、軽い物が用意してあるので、とりあえずここで一回しめて、先生まだいますから、個々にぜひお話しを聞いて下さい。
参考資料
梅津
最後に一言いいでしょうか。今日は皆さんに興味を持っていただけたようなのでほっとしていますが、今回のマトリクスを発想するヒントは、外山卯三郎です。瑛九は、長谷川三郎を訪ね、外山卯三郎のところに行き、『眠りの理由』が作られることになりますが、一連の経緯は運命的なものに感じられます。その『眠りの理由』には、外山卯三郎が書いた「瑛九のフォート・デッサンについて」という文章が収録されています。
また、レジュメの参考資料に記載していますが、外山卯三郎は、1936年に刊行された『PHOTO 芸術としての写真』で、海外の前衛的な写真の動向を紹介していますが、そこで瑛九のこともしっかり書いています。さらに、1950年に刊行された『芸術家 瑛九』に寄稿した「瑛九の芸術について」という文章の中で、瑛九は「写真芸術家」なのではないかと述べています。私はそこに「的」を入れて、「写真的芸術家」という風に瑛九を捉え、「写真的芸術家」としての瑛九が、どのようにして絵を描いているのかを解析しようと試み、今日のような話になりました。『眠りの理由』のリーフレットに戻って、外山卯三郎からやり直して、今日のような話に至った次第です。
大谷さんは「一九三〇年協会のメディア戦略と外山卯三郎」という文章を書かれていますし、谷口英理さんは「前衛絵画と機械的視覚メディア-古賀春江から瑛九へ」という文章を書かれています。どちらも、私が瑛九に対して持っている関心と近いのではと感じていますので、レジュメの参考資料に記載しました。

当日配布したレジュメ(全4ページ)の4ページ目
それとこれは言うつもりはなかったのですけれども、最初にコレクターの方の紹介で綿貫さんがおっしゃっていたので、私も言わざるを得ないところがあるのですが、実は、私も瑛九と誕生日が同じで、4月28日生まれなのです。ということで今日は終わります。ご清聴ありがとうございました。
Avalanche
Avalanche……、第2回から第4回まで、2013年のギャラリー・トークの記録公開が続いた。ならば、第4回の締めくくりは第2回の冒頭、ニュー・オーダーの「Leave Me Alone」と呼応する。第1回は、『Power, Corruption & Lies』(1983)の最初の曲「Age of Consent」で幕を開け、『Republic』(1993)の最初の曲「Regret」で幕を閉じる。第2回は、『Power, Corruption & Lies』の最後の曲「Leave Me Alone」で幕を開ける、ならば、第4回の幕を閉じるのは、『Republic』の最後の曲、そう、「Avalanche」。
10年前のギャラリー・トークの記録公開をようやく果たした今の私の心境を代弁するかのように、「Avalanche」が心に沁みわたる。責任を果たした達成感も安堵感も微塵もなく、果たせていないあらゆる事柄が、雪崩のように押し寄せる……。『Power, Corruption & Lies』と『Republic』の間に横たわる10年と、責任を果たせなかった10年が重なり、「Leave Me Alone」から「Avalanche」へと流れる静かな諦念に身を委ねる。そして、「Avalanche」の長いエンディングに導かれ、静かに、ゆっくりと、目を閉じる。
図版出典
fig.4~fig.16, fig.19:『生誕100 年記念 瑛九展』宮崎県立美術館ほか、2011 年
【本連載の第2回~第4回において公開したギャラリー・トークの記録】
2013年5月31日 ときの忘れもの(青山)
第23回瑛九展ギャラリー・トーク「装置としての瑛九」梅津元
テープ起こし:城山萌々 編集協力:ときの忘れもの
注:挿図キャプション記載の作品データは原則として2013年当時のもの。
ただし、一部、2023年現在の情報に修正している場合がある。
(うめづ げん)
■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。
・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」。次回更新は2024年1月24日を予定しています。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、瑛九です。

《題不詳》
フォト・デッサン
25.4×20.2cm
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●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。

建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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