石原輝雄のエッセイ「美術館でブラパチ」─18
『シュルレアリスムと日本。そして、京都』
展覧会-1 シュルレアリスムと日本
京都文化博物館4階展示室
2023年12月16日(土)~2024年2月4日(日)

図1 第3章最終杉全直≪跛行≫から、第4章導入部靉光≪眼のある風景≫を見る。
皆様、お久しぶりです。「いったん終了」させていただいた「美術館でブラパチ」ですが、京都をスタート会場とする「シュルレアリスム」を冠した展覧会が催されるので居ても立っても居られず、不義理したのを承知でご亭主に再開をお願いした。「シュルレアリスム」と聞くと、学生時代の興奮が蘇る。不思議ですね、どうしてでしょう。
今年はアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を著してから100周年となる記念すべき年。振り返れば、その半分以上を「シュルレアリスト」たらんと生きてきたのです──と、一人勝手に思っている(ハハ)。

図2 12月15日 16:52 三条通高倉角
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図3 会場入口看板 吉井忠≪二つの営力・死と生と≫
開催を待ちかね、初日の朝一番に会場へ入った。幸い京都文化博物館は拙宅からの徒歩圏内。前日に三条通りで不安げな人物を仮託する「独活」から影が伸びる北脇昇の油彩を使ったポスターを見ていたので、展示に期待が高まる。4階で降りたエレベーターホールの照明を落とした空間は影の中のようで、ポスターを拡大した看板は、1930年代の街角へわたしを誘う。会場入口のサインも「赤」、不吉な革命の色のようだ。吉井忠が描いたブランコに立ち乗りした婦人の危うさにシュルレアリスムが開花した時代の困難が予見される。ブルトンの思想や画家たちの受容を知らない者にも分かりやすい展覧会を象徴する見事な導入部である。
展示リストによると「シュルレアリスムと日本」展は、油彩を中心とした美術作品115点、文献資料91点からなる大規模展で、30年以上前に名古屋市美術館単館で企画された「日本のシュールレアリスム」展以降の調査と研究の成果が開陳される好企画となっている。詳しい内容についてはカタログを手にしていただきたいが、図版では油彩の額や書物の厚みが欠落するので現物主義のわたしには、物足りなさが残る。──というか、シュルレアリストたちの企画した展覧会は、会場での見せ方自体が重要な表現手段で、近年、アーカイブの見直しによるエフェメラ類の評価とともに、時代の問題意識と密接に結びつき展開した空間表現に強い関心が寄せられている。21世紀に「シュルレアリスム」を扱う場合は重要作品を揃えるだけでは片手落ち、会場構成を担う学芸員たちの能力に、展覧会の「成否」がかかってくるのです。この点で、こだわりの強い人、好きですね。愛が伝わってくるから嬉しく、感謝申し上げたい。本稿では展示の様子を「美術館でブラパチ」のスタイルでお伝えしたいと思う。カタログとの協調が成功すると良いのですが……。

図4 展覧会はブルトンの著作『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』と『シュルレアリスムと絵画』から始まり、雑誌『シュルレアリスム革命』『革命に奉仕するシュルレアリスム』に続く。雑誌『薔薇・魔術・学説』『衣裳の太陽』のオリジナルの魅力、復刻版では伝わりません。経年変化にリアリティがあるのか、ホチキスのサビ具合にしびれます。
会場の制約を逆手にとった過密度が、1938年にパリで開催された「国際シュルレアリスム展」(ギャルリー・ボザール)と繋がる。ともに天井が低く、彼の地では暗闇、京都では白光が支配する。デュシャンやダリの大仕掛けはないが、会場を進む視線にはデジャヴュが顔を出す。ここは書斎、いや、書物の開かれた頁の中だと錯覚させる。油彩の対向に置かれた貴重資料のオーラが「眼は未開の状態で存在する」と発話しているようだ。わたしには銀紙書房刊本で試みる書容設計の手法と同じものが会場で実施されていると感じられた。頁をめくる刹那の残像、指先に残る紙片のたわみ、余白への配慮。章毎に示されるバナーの軽やかさが圧迫を取り除く。閉所であるにもかかわらず広がりを感じるのは、先駆者の仕事に顕著な青空、ダリ的な地平線絵画のもたらす遠近法にあると思う。加えて絵肌の軽いタッチ、眼に心地よいのです。
展覧会は6章から構成されている。紹介する会場風景は街角での偶然の出会いに絞った視点なので、距離感はわたしに固有のもの。関心事のいくつかを章毎に書いておきたい。
第1章 先駆者たち
今展では原則、油彩は一作家一作品の紹介なので、個人の物語よりもシュルレアリスムの変遷が明確に示される結果となった。長く関心を持ってきた者には、「なにが選ばれたか」に興味が向かう。若者が参加する運動だったので、絵筆を奪われ戦地で命を落とした者、戦災で作品を失った者などさまざま。先行世代は「シュルレアリスム」と標榜しなかったようだが、時代の予兆を反映しているように思う。破壊的なダダ精神とは別系統の温厚な日本的表現であるだろう。飛行船シェッペリン号が飛来した折に人々が空を見上げた驚きが、画家の画面にも反映したのではないか……。それにしても、近頃の空は南仏のようにはっきりと碧い、湿度を多く含む日本の「青」はなくなったのだろう。選ばれた古賀の≪音楽≫は、ちょっとメルヘン。古賀は38歳で病没。都会風景のモダンなコラージュ≪海≫や≪窓外の化粧≫でないのが今展に適しているように思う。
そして、別格と位置づけるべき福沢一郎が、第1章を象徴するように通路正面に置かれている。マックス・エルンストの影響を指摘するのも可能で、巴里での制作も、画学生には憧れの対象であったのだろう。次章で作風の変化を示す≪人≫が展示されているのも企画者の問題意識の高さ故と感じさせる。福沢の場合は二作品を展示せねばならない。壁面で隔てられ、直接には比較させない展示の工夫があると思う。第1章と第2章の空間がデジャヴュなのです。分かるかしら。

図5 右から東郷青児、阿部金剛、古賀春江、前田藤四郎、中原實

図6 通路正面に福沢一郎のコラージュ絵画≪他人の恋≫

図7 北園克衛の雑誌『VOU』の大判ぶりに心ときめく、サイズを調整してしまうカタログ図版では魅力が伝わりません。
第2章 衝撃から展開へ
「ヨーロッパのシュルレアリスム絵画の実作が数多く展示された「巴里新興美術展覧会」の巡回(1932-33年)が与えた衝撃と影響が、画家を目指す若者や画学生にも広く及ぶ」。同展に刺激された三岸好太郎の≪海と射光≫が会場で存在を主張し、バナー超しに目に入るのがにくい。画家の夭折が悔やまれるのだが、それに導かれつつも背後のケースに名古屋と金沢での「巴里新興美術展覧会」目録が置かれているのに気付く。後者はやや小ぶりだが、開かれた頁にはマン・レイの油彩≪サン=ジャン=ドゥ=リューズの夜≫が掲載されており、戦前極東への旅に思いを馳せる。ポンピドゥーセンター蔵となった本作が再来日(1991年、2011年)した折に横浜と東京で観覧したのが懐かしい。

図8 中央に三岸好太郎≪海と射光≫、左端に北園克衛≪海の背景B≫

図9 名古屋、金沢巡回時の「巴里新興美術展覧会」目録

図10 展示ケースに吉原治良、十河巌、井上覚造らが実験に参加した妙屍体(優美な死骸)のデッサンが並び、壁面の油彩と共鳴する。

図11 山本敬輔の≪風景≫と並んで瑛九のデビュー作≪眠りの理由≫(前後期での分割展示)。旧京都市美術館で全数を初見したのは1974年だった。

図12 展示ケースに次章に関する福沢一郎の著作『エルンスト』と『シュールレアリズム』も並ぶ。外箱から取り出し展示するセンスは、書物愛があってのこと。手に取り頁を開く場面が膨らむ。
第3章 拡張するシュルレアリスム
1930年代半ば以降、シュルレアリスムに関心を持つ画学生たちによって結成された複数の絵画グループによる「絵画にとどまらない実験的な制作や執筆活動、他分野との交流」が、当時の熱気を孕むエフェメラたちから醸し出される。よだれを垂らすわたしはウルウル。所蔵先表記に眼が止まるのです。欲しいですね。行田市郷土博物館などの美術家旧蔵資料のラインナップにはかないません。手に取れる機会を得たいものだと、ガラスに顔を近付けるのは危ない。屏風や掛け軸などの展示を想定したケースの低い位置に並ぶ文献資料。誤ると間延びした空間となるのに、ここでは強く存在を主張させている。会場全体に流れる小さく愛しいものたちの連帯でないかと思う。
1937年は山中散生と瀧口修造が企画開催した「海外超現実主義作品展」が国内5箇所を巡回した年。「国際的な潮流にあることを意識した画家たちは、より実験的で個別性の際立った絵画を制作するようになった」と云う。用意した目録やリーフレットなども洒落た造りになっている。マン・レイの名が載るものなどは50年来熱中して探してきた。近年、巴里のオークションで山中散生関連のエフェメラが高額で取引されたと聞いた。教えてくれた知人は、入手を逃したそうだが(涙)。

図13 通路正面に小牧源太郎の≪民族系譜学≫、左に北脇昇≪独活≫

図14 左から京都在の今井憲一、北脇昇、小牧源太郎。正面に山路商、下郷羊雄。名古屋在の下郷≪伊豆の海≫は修復により初出時の魅力を獲得。メセンとの類似を指摘できるかもしれない。

図15 ケースに瀧口修造、阿部展也の詩画集『妖精の距離』。壁面左に大塚耕二の≪トリリート≫、本作は巴里での「国際シュルレアリスム展」(1938年)の折にブルトンとエリュアール編で刊行された『シュルレアリスム簡約辞典』の頁を飾った。下郷羊雄と鈴木綾子の作品図版も念頭に「写真」での旅を想起する。

図16 「海外超現実主義作品展」に関する貴重図書、カタログ、案内状など。右端下段の表紙を飾るマグリット作品は招来した写真での紹介、実作は彼の地で所在不明と聞く。

図17 行田市郷土博物館所蔵のエフェメラ各種。長谷川宏の写真は現代美術の先例と指摘できる。

図18 同じく行田市郷土博物館所蔵のエフェメラ各種。『動向』1号の表紙にみる漢字の扱い好きですね。いつか銀紙書房刊本で借用したい。図書館勤務で前衛写真協会にも参加した長谷川宏さん泉下で許可してくれるかしら。
第4章 シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで
1938年以降、日本ではダリの影響を受け強調された地平線やダブル・イメージ、歪曲したモチーフを用いた作品が次々に発表されるも、日中戦争勃発による戦時体制強化により、前衛画家たちの活動は厳しく制限された。指導的立場にあった瀧口修造と福沢一郎が1941年特高警察により拘束される事態となり、自由な表現の火は消えてしまったのである。
この章では赤外線調査分析等で研究が進み修復を経て、さらに注目されるようになった靉光の代表作≪眼のある風景≫が空間を支配する。油彩の絵肌とはなんだろう、蘇りによって時代の垢が洗い落とされ異様さだけが残る。そして、横に掛けられた小さな素描のアクセントが心憎い。
マン・レイの映画『ひとで』に関心を持つわたしは、浅原清隆の油彩≪多感な地上≫に注目する。手前のケースに映画のスチール写真を用いた『T映』3号が置かれているからである。浅原は帝国美術学校の学生で、学内で『ひとで』や『貝殻と僧侶』の上映を行った。瀧口修造の回想では後に映画館での上映も企てたというが中止されたらしい。同号の現物は初見、痛み具合が琴線に触れる、嬉しいですね。
わたしの手許に京極映画劇場(1937年9月)のパンフレットに寄せた浅原の解説文があるので引用する「夢を忠実に写し取るという事は、現実に於けるリンゴを写生するという事と大差ない。芸術は自然の写生のみで終わらないからである」。彼は「出征し、戦地ビルマで行方不明となる」とカタログの作家略歴に記されている(合掌)。

図19 壁面は手前から浅原清隆、吉加江京司(清)、寺田政明、靉光の素描。正面に≪眼のある風景≫

図20 学友会誌『T映』3号他

図21 第4章、第3章の展示、壁面の角から人が現れそう……

図22 左から浜松小源太、吉井忠、長末友喜、多賀谷伊徳

図23 デカルコマニーの造形手法も紹介。正面左に糸園和三郎、右に平岡潤。後者は「自らの主要な表現手法とした」

図24 1936年から翌年にかけて渡欧した吉田忠の日記には、「クラディーヴァでブルトンにもらった印刷物が貼付」されている。わたしは画廊名を借用した冊子を20代後半に発行したので本稿にとりかかってから探した。しかし、案内状の類に住所と連絡先に加えブルトンの名前が印刷されたものを見つけられなかった。一般的な告知シートでは、この部分、空白なのです。彼の地の印刷職人は細かい注文に対応したというから、エフェメラ調査は難しい。
第5章 写真のシュルレアリスム
バナーの解説には「写真家たちのシュルレアリスムにまつわる実験的な試みは1937年から39年頃にピークを迎えたとされる。軍国主義の時代、写真家たちも実用的な記録写真撮影などの戦争協力を求められるなか、前衛的な写真の展覧会や出版は困難になった」とある。会場の戦前最終コーナーで振り返り、山本悍右の≪ある人間の思想の発展‥‥靄と寝室と≫を手前に北脇昇の≪周易解理図(泰否)≫を写角に入れてパチリ。若い山本の憤りに親近感を持つのです。芳しいポエジーの中にユーモアをしのばせた師の仕事は、いつも心を打つ。お手本は生き方だとつねづね思うのだが。
写真は作品保護の兼ね合いから展示期間に制限を受ける。そのため平面を埋めるのは困難であるかもしれない、カタログで記されているように写真は「簡素な紹介」に留められている。前述した名古屋市美術館では美術領域との関連も含め重要な立ち位置が与えていた事を思うと、残念である。

図25 山本悍右のコラージュと北脇昇の図式絵画

図26 第5章から壁面が青く塗られた第6章に続く。左の岡本太郎≪憂愁≫にはドラ・マールの写真作品との関連があるかもしれない。

図27 ケースに並ぶ雑誌、写真集、画集。岡本太郎の画集(G.L.M.刊)は、1980年代まで新刊書扱いだったと聞く、恐るべし巴里。

図28 下郷羊雄の写真集『メセム属』と山本悍右が編集発行した詩誌『夜の噴水』1号、2号。名古屋のディレッタント亀山巌は、晩年の下郷が「ぼくの絵の評価はひどいものだが、ちゃんと認めるところでは認めているのだと」立ち話の折に熱く語ったと伝えている(状況は大きく変わりましたね、実感です)。
第6章 戦後のシュルレアリスム
戦争の爪痕が生活のところどころで顔を出していた時代に生まれた一人として、「戦前にシュルレアリスムに接触した画家たちは目まぐるしく変化する日本の社会に向き合い、戦前に学んだ手法や発想を用いて描いた」と解説されるも、団体展に収斂されて生きながらえる前衛的表現には不満が残る。

図29 進路を塞ぐようなバナーの扱い、上手いですね。

図30 右から浜田知明、高山良策、小山田二郎。白地のバナーに誘導され出口へ。

図31 「手」のモチーフは、小山田の内的要請によるもので、わたしに親しい。ブランコは掴まれ婦人は落下。左折を促されると入口に連なる。それで、なんども会場を巡ることになった。エンドレスです。
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疲れきって堺町通りを下りイノダコーヒのガーデン席に座った。300頁のカタログを取り出しパラパラ捲る。参考図にはマン・レイが表紙を飾ったハーパースバザー誌(1937年1月号)を掲げる永井東三郎のスナップやグラディーヴァ画廊のファサードを撮影した吉井忠の写真などが紹介されている。会場では覗けなかった雑誌頁の図版も貴重。アラビアの真珠で指先を温めながらブルトンが「シュルレアリスムは、青春の天才への限りない信頼の断言から生まれた」とエール大学で語った講演録を思い出している。
20歳のころ「『世界を変革すること』(マルクス)と『人生を変えること』(ランボー)を一つのスローガンとしてとらえる態度」に希望を持ち、私写真と銀紙書房刊本を続けてきた。50年を経過して叶わぬ夢と諦めながら、瀧口修造が稲田三吉訳の『シュールレアリスム宣言』(現代思潮社刊)に寄せた文章でブルトン自身の詩的論理の発展に触れながら「ブルトンは事実にたいして率直であり、ユーモアをさえ酷使しているではないか」と書いた真意を学び直す時ではないかと思う。「詩と自由と愛」に連なる美しい言葉たちに「シュルレアリスム絵画をどう語るか」と突きつけるのは、解答の無い問いであるのを知っているだけに難しい。

図32 帯に「シュルレアリスムは終わらないっ!」とある。カタログは青幻舎刊(定価本体2,700円+税)

図33 ガーデン席の落ち葉が揺れ、噴水が心地よい。クリスマス前の穏やかな午後だった。
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展覧会-2 シュルレアリスムと京都
京都文化博物館2階総合展示室
2023年12月23日(土)~2024年2月18日(日)
一週間後に再び京都文化博物館を訪ねた。もちろん展覧会初日の朝一番。「京都におけるシュルレアリスムの受容と展開の軌跡をたどる」と云う2階の総合展示室は暗闇の中を進む構造で、最奥は暗く淀んだ一千年の盆地にポカリと空いた井戸の如き趣。その暗がりでホトケノザが浮かびあがる北脇昇の代表作≪眠られぬ夜のために≫が眼に飛び込んできたから驚いた。右には小牧源太郎の≪民族病理学(祈り)≫、続いて今井憲一の≪原生林≫。京都のシュルレアリスム絵画を語る上での重要作が揃い踏みなのである。4階に掛けられてもおかしくない3点は、中央に対する京都の矜持であるかのように静寂を秘めながら佇んでいる。作品選定のプロセスこそ、展覧会解釈の重要な糸口。機会があれば経緯をお聞きしたい。
京都の画家たちとシュルレアリスムとの関係は、「巴里新興美術展覧会」(1933年、岡崎・勧業館)と「海外超現実主義作品展」(1937年、河原町三条・朝日画廊)が開催されたのを契機に表現の試みとして現れた。これは若い画家たちを受け入れる文化の土壌が町にあったからで、「好きなようにやりなはれ」かも知れないが、多様な「日本におけるシュルレアリスム」絵画の成果に結びつく結果となった。既にわたしは「さまよえる絵筆──戦時下の前衛画家たち」展のレヴューで画家たちについて詳しく書いたので、ここでは触れないが、前述後者の大阪巡回展会場、三角堂が京都を本社とする同画廊の大阪支店であった事は特記すべきかも知れない。

図34 「京のまつり」を展示するスペースが、シュルレアリストたちに開放されている。

図35 右から北脇昇、小牧源太郎、今井憲一、伊藤久三郎

図36 貴重な雑誌『美・批評』『世界文化』『美』などを紹介するケース上部の壁面には1933年頃の状況を「当時京都で刊行されていた雑誌では、フランスのシュルレアリスム運動がすでに『終わっている』ことが伝えられます。未知の存在である『シュルレアリスム』に対する戸惑いや嫌悪、そして無関心は、京都に限らず、東京を含む日本全体の雰囲気だったとも言えるでしょう」と解説されている。

図37 左から北脇昇≪朱と紫≫、小牧源太郎≪木の葉仏≫。

図38 今井憲一の表紙画を使った雑誌『京大俳句』や北脇昇が紹介する「浦島物語─集団制作」が載る雑誌『みづゑ』などが置かれている。

図39 松崎政雄≪はにわ≫、ケースに伊藤久三郎

図40 壁面左から伊藤久三郎、小牧源太郎。
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図41 展示作業に居合わせたので絵肌を観察することが出来た。ガラス越しでは反射で魅力が半減する、ありがたい偶然だった。エアブラシを使っているのかしら。

図42 「石原さん閉めますよ」
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二つの展覧会を拝見し、自室でカタログを開いている。冒頭に「最盛期を迎えようとする矢先に終息させられた短命な日本のシュルレアリスム運動は、戦火をのがれて作品が残った主要な美術家を除けば、戦後、ほぼ忘れられた」とあり頷く。紹介された画家の数は凡そ90、初見の方も多い。原則一作家一作品は偏りがなく、フェアなアプローチだと思う。
帯の文言を読みながら、この運動がどうして消えることなく続くかと問う。今の若者たちへの影響を知る立場ではないが、会場では熱心なファンや研究者と思われる人を見かけた。なによりも、会場構成とカタログの充実ぶりから企画者の熱い思いが伝わる。職業人としての学芸員ではない人がいるようだ。カタログの論考で人生の問題を俯瞰する弘中智子(板橋区立美術館)は「戦中をともに体験した画家であっても、いつ形成期を迎えたのかということが前衛画家たちの戦後を左右した」と指摘。また、清水智世(京都文化博物館)は小部数の文芸誌の重要性を踏まえつつ「瀧口と山中という二人の詩人、美術批評家の存在によって、日本のシュルレアリスムをめぐる状況は、受容から交流へと位相を変えていく」と解説。日本的なものとの「類似の指摘」をする速水豊(三重県立美術館)の論は、展覧会を通底する基本的な視点、より深く作品に迫ることが可能となった。シニア世代の残り火に新しい薪がくべられたのである。
カタログには、永井敦子、福田一穂、林田龍太、菊屋吉生、呉孟晋、大谷省吾らの専門的なテキストも収められており、もう、お腹いっぱい。明日は大晦日、正月明けには再訪したい。
尚、本稿執筆はカタログやバナーの解説を参考にさせていただいた。また、会場撮影にあたっては許可をいただいた。担当の方々に記してお礼申し上げる。ありがとうございました。
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前段の「シュルレアリスムと日本」展は京都会場の後、板橋区立美術館3月2日(土)~4月14日(日)、三重県立美術館4月27日(土)~6月30日(日)の予定で巡回される。どのような空間が用意されるのか、今から楽しみである。
(いしはら てるお)
*画廊亭主敬白
2011年5月の「アートフェア京都の観戦記」以来、既に60回以上の寄稿をいただいている西の石原さん(東の石原さんは故・石原悦郎さん)ですが、その後ずっと継続していた「美術館でブラパチ」連載が一昨年から中断しました。石原さんのライフワークであるマン・レイの受容史『マン・レイと日本 1926~2022』(限定25部)のために全精力を注ぎこんでいたからです。めでたく刊行となりましたが発表と同時に即完売となったようです。
そして待ちに待った「美術館でブラパチ」連載がこのたび再開となりました。
今年は、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表してからちょうど100年。ポンピドォーセンターはじめシュルレアリスム関連の展覧会が世界各地で開催されますが、石原さんには京都でスタートした「シュルレアリスムと日本」展(この後、板橋と三重を巡回)、そして「シュルレアリスムと京都」の二つの展覧会をレポートをしていただきました。
お読みの通り超重量級の展示ですが、石原さんのメールには「日参するのも可能ですね」とあったのでなんのこっちゃと思ったら、なんと、この二つの展覧会の入場料は併せて500円なのです。
HPには入場料:一般500円(400円)、大学生400円、高校生以下無料とあります。
昨今、美術館の高額入場料が問題になっていますが、まさに嬉しいお年玉、若い人にはぜひ行って欲しい。
カタログも実に見事な内容で、最新の研究成果を盛り込んだ充実の一冊です(後程ブログで詳しく紹介します)。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

『シュルレアリスムと日本。そして、京都』
展覧会-1 シュルレアリスムと日本
京都文化博物館4階展示室
2023年12月16日(土)~2024年2月4日(日)

図1 第3章最終杉全直≪跛行≫から、第4章導入部靉光≪眼のある風景≫を見る。
皆様、お久しぶりです。「いったん終了」させていただいた「美術館でブラパチ」ですが、京都をスタート会場とする「シュルレアリスム」を冠した展覧会が催されるので居ても立っても居られず、不義理したのを承知でご亭主に再開をお願いした。「シュルレアリスム」と聞くと、学生時代の興奮が蘇る。不思議ですね、どうしてでしょう。
今年はアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を著してから100周年となる記念すべき年。振り返れば、その半分以上を「シュルレアリスト」たらんと生きてきたのです──と、一人勝手に思っている(ハハ)。

図2 12月15日 16:52 三条通高倉角
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図3 会場入口看板 吉井忠≪二つの営力・死と生と≫
開催を待ちかね、初日の朝一番に会場へ入った。幸い京都文化博物館は拙宅からの徒歩圏内。前日に三条通りで不安げな人物を仮託する「独活」から影が伸びる北脇昇の油彩を使ったポスターを見ていたので、展示に期待が高まる。4階で降りたエレベーターホールの照明を落とした空間は影の中のようで、ポスターを拡大した看板は、1930年代の街角へわたしを誘う。会場入口のサインも「赤」、不吉な革命の色のようだ。吉井忠が描いたブランコに立ち乗りした婦人の危うさにシュルレアリスムが開花した時代の困難が予見される。ブルトンの思想や画家たちの受容を知らない者にも分かりやすい展覧会を象徴する見事な導入部である。
展示リストによると「シュルレアリスムと日本」展は、油彩を中心とした美術作品115点、文献資料91点からなる大規模展で、30年以上前に名古屋市美術館単館で企画された「日本のシュールレアリスム」展以降の調査と研究の成果が開陳される好企画となっている。詳しい内容についてはカタログを手にしていただきたいが、図版では油彩の額や書物の厚みが欠落するので現物主義のわたしには、物足りなさが残る。──というか、シュルレアリストたちの企画した展覧会は、会場での見せ方自体が重要な表現手段で、近年、アーカイブの見直しによるエフェメラ類の評価とともに、時代の問題意識と密接に結びつき展開した空間表現に強い関心が寄せられている。21世紀に「シュルレアリスム」を扱う場合は重要作品を揃えるだけでは片手落ち、会場構成を担う学芸員たちの能力に、展覧会の「成否」がかかってくるのです。この点で、こだわりの強い人、好きですね。愛が伝わってくるから嬉しく、感謝申し上げたい。本稿では展示の様子を「美術館でブラパチ」のスタイルでお伝えしたいと思う。カタログとの協調が成功すると良いのですが……。

図4 展覧会はブルトンの著作『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』と『シュルレアリスムと絵画』から始まり、雑誌『シュルレアリスム革命』『革命に奉仕するシュルレアリスム』に続く。雑誌『薔薇・魔術・学説』『衣裳の太陽』のオリジナルの魅力、復刻版では伝わりません。経年変化にリアリティがあるのか、ホチキスのサビ具合にしびれます。
会場の制約を逆手にとった過密度が、1938年にパリで開催された「国際シュルレアリスム展」(ギャルリー・ボザール)と繋がる。ともに天井が低く、彼の地では暗闇、京都では白光が支配する。デュシャンやダリの大仕掛けはないが、会場を進む視線にはデジャヴュが顔を出す。ここは書斎、いや、書物の開かれた頁の中だと錯覚させる。油彩の対向に置かれた貴重資料のオーラが「眼は未開の状態で存在する」と発話しているようだ。わたしには銀紙書房刊本で試みる書容設計の手法と同じものが会場で実施されていると感じられた。頁をめくる刹那の残像、指先に残る紙片のたわみ、余白への配慮。章毎に示されるバナーの軽やかさが圧迫を取り除く。閉所であるにもかかわらず広がりを感じるのは、先駆者の仕事に顕著な青空、ダリ的な地平線絵画のもたらす遠近法にあると思う。加えて絵肌の軽いタッチ、眼に心地よいのです。
展覧会は6章から構成されている。紹介する会場風景は街角での偶然の出会いに絞った視点なので、距離感はわたしに固有のもの。関心事のいくつかを章毎に書いておきたい。
第1章 先駆者たち
今展では原則、油彩は一作家一作品の紹介なので、個人の物語よりもシュルレアリスムの変遷が明確に示される結果となった。長く関心を持ってきた者には、「なにが選ばれたか」に興味が向かう。若者が参加する運動だったので、絵筆を奪われ戦地で命を落とした者、戦災で作品を失った者などさまざま。先行世代は「シュルレアリスム」と標榜しなかったようだが、時代の予兆を反映しているように思う。破壊的なダダ精神とは別系統の温厚な日本的表現であるだろう。飛行船シェッペリン号が飛来した折に人々が空を見上げた驚きが、画家の画面にも反映したのではないか……。それにしても、近頃の空は南仏のようにはっきりと碧い、湿度を多く含む日本の「青」はなくなったのだろう。選ばれた古賀の≪音楽≫は、ちょっとメルヘン。古賀は38歳で病没。都会風景のモダンなコラージュ≪海≫や≪窓外の化粧≫でないのが今展に適しているように思う。
そして、別格と位置づけるべき福沢一郎が、第1章を象徴するように通路正面に置かれている。マックス・エルンストの影響を指摘するのも可能で、巴里での制作も、画学生には憧れの対象であったのだろう。次章で作風の変化を示す≪人≫が展示されているのも企画者の問題意識の高さ故と感じさせる。福沢の場合は二作品を展示せねばならない。壁面で隔てられ、直接には比較させない展示の工夫があると思う。第1章と第2章の空間がデジャヴュなのです。分かるかしら。

図5 右から東郷青児、阿部金剛、古賀春江、前田藤四郎、中原實

図6 通路正面に福沢一郎のコラージュ絵画≪他人の恋≫

図7 北園克衛の雑誌『VOU』の大判ぶりに心ときめく、サイズを調整してしまうカタログ図版では魅力が伝わりません。
第2章 衝撃から展開へ
「ヨーロッパのシュルレアリスム絵画の実作が数多く展示された「巴里新興美術展覧会」の巡回(1932-33年)が与えた衝撃と影響が、画家を目指す若者や画学生にも広く及ぶ」。同展に刺激された三岸好太郎の≪海と射光≫が会場で存在を主張し、バナー超しに目に入るのがにくい。画家の夭折が悔やまれるのだが、それに導かれつつも背後のケースに名古屋と金沢での「巴里新興美術展覧会」目録が置かれているのに気付く。後者はやや小ぶりだが、開かれた頁にはマン・レイの油彩≪サン=ジャン=ドゥ=リューズの夜≫が掲載されており、戦前極東への旅に思いを馳せる。ポンピドゥーセンター蔵となった本作が再来日(1991年、2011年)した折に横浜と東京で観覧したのが懐かしい。

図8 中央に三岸好太郎≪海と射光≫、左端に北園克衛≪海の背景B≫

図9 名古屋、金沢巡回時の「巴里新興美術展覧会」目録

図10 展示ケースに吉原治良、十河巌、井上覚造らが実験に参加した妙屍体(優美な死骸)のデッサンが並び、壁面の油彩と共鳴する。

図11 山本敬輔の≪風景≫と並んで瑛九のデビュー作≪眠りの理由≫(前後期での分割展示)。旧京都市美術館で全数を初見したのは1974年だった。

図12 展示ケースに次章に関する福沢一郎の著作『エルンスト』と『シュールレアリズム』も並ぶ。外箱から取り出し展示するセンスは、書物愛があってのこと。手に取り頁を開く場面が膨らむ。
第3章 拡張するシュルレアリスム
1930年代半ば以降、シュルレアリスムに関心を持つ画学生たちによって結成された複数の絵画グループによる「絵画にとどまらない実験的な制作や執筆活動、他分野との交流」が、当時の熱気を孕むエフェメラたちから醸し出される。よだれを垂らすわたしはウルウル。所蔵先表記に眼が止まるのです。欲しいですね。行田市郷土博物館などの美術家旧蔵資料のラインナップにはかないません。手に取れる機会を得たいものだと、ガラスに顔を近付けるのは危ない。屏風や掛け軸などの展示を想定したケースの低い位置に並ぶ文献資料。誤ると間延びした空間となるのに、ここでは強く存在を主張させている。会場全体に流れる小さく愛しいものたちの連帯でないかと思う。
1937年は山中散生と瀧口修造が企画開催した「海外超現実主義作品展」が国内5箇所を巡回した年。「国際的な潮流にあることを意識した画家たちは、より実験的で個別性の際立った絵画を制作するようになった」と云う。用意した目録やリーフレットなども洒落た造りになっている。マン・レイの名が載るものなどは50年来熱中して探してきた。近年、巴里のオークションで山中散生関連のエフェメラが高額で取引されたと聞いた。教えてくれた知人は、入手を逃したそうだが(涙)。

図13 通路正面に小牧源太郎の≪民族系譜学≫、左に北脇昇≪独活≫

図14 左から京都在の今井憲一、北脇昇、小牧源太郎。正面に山路商、下郷羊雄。名古屋在の下郷≪伊豆の海≫は修復により初出時の魅力を獲得。メセンとの類似を指摘できるかもしれない。

図15 ケースに瀧口修造、阿部展也の詩画集『妖精の距離』。壁面左に大塚耕二の≪トリリート≫、本作は巴里での「国際シュルレアリスム展」(1938年)の折にブルトンとエリュアール編で刊行された『シュルレアリスム簡約辞典』の頁を飾った。下郷羊雄と鈴木綾子の作品図版も念頭に「写真」での旅を想起する。

図16 「海外超現実主義作品展」に関する貴重図書、カタログ、案内状など。右端下段の表紙を飾るマグリット作品は招来した写真での紹介、実作は彼の地で所在不明と聞く。

図17 行田市郷土博物館所蔵のエフェメラ各種。長谷川宏の写真は現代美術の先例と指摘できる。

図18 同じく行田市郷土博物館所蔵のエフェメラ各種。『動向』1号の表紙にみる漢字の扱い好きですね。いつか銀紙書房刊本で借用したい。図書館勤務で前衛写真協会にも参加した長谷川宏さん泉下で許可してくれるかしら。
第4章 シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで
1938年以降、日本ではダリの影響を受け強調された地平線やダブル・イメージ、歪曲したモチーフを用いた作品が次々に発表されるも、日中戦争勃発による戦時体制強化により、前衛画家たちの活動は厳しく制限された。指導的立場にあった瀧口修造と福沢一郎が1941年特高警察により拘束される事態となり、自由な表現の火は消えてしまったのである。
この章では赤外線調査分析等で研究が進み修復を経て、さらに注目されるようになった靉光の代表作≪眼のある風景≫が空間を支配する。油彩の絵肌とはなんだろう、蘇りによって時代の垢が洗い落とされ異様さだけが残る。そして、横に掛けられた小さな素描のアクセントが心憎い。
マン・レイの映画『ひとで』に関心を持つわたしは、浅原清隆の油彩≪多感な地上≫に注目する。手前のケースに映画のスチール写真を用いた『T映』3号が置かれているからである。浅原は帝国美術学校の学生で、学内で『ひとで』や『貝殻と僧侶』の上映を行った。瀧口修造の回想では後に映画館での上映も企てたというが中止されたらしい。同号の現物は初見、痛み具合が琴線に触れる、嬉しいですね。
わたしの手許に京極映画劇場(1937年9月)のパンフレットに寄せた浅原の解説文があるので引用する「夢を忠実に写し取るという事は、現実に於けるリンゴを写生するという事と大差ない。芸術は自然の写生のみで終わらないからである」。彼は「出征し、戦地ビルマで行方不明となる」とカタログの作家略歴に記されている(合掌)。

図19 壁面は手前から浅原清隆、吉加江京司(清)、寺田政明、靉光の素描。正面に≪眼のある風景≫

図20 学友会誌『T映』3号他

図21 第4章、第3章の展示、壁面の角から人が現れそう……

図22 左から浜松小源太、吉井忠、長末友喜、多賀谷伊徳

図23 デカルコマニーの造形手法も紹介。正面左に糸園和三郎、右に平岡潤。後者は「自らの主要な表現手法とした」

図24 1936年から翌年にかけて渡欧した吉田忠の日記には、「クラディーヴァでブルトンにもらった印刷物が貼付」されている。わたしは画廊名を借用した冊子を20代後半に発行したので本稿にとりかかってから探した。しかし、案内状の類に住所と連絡先に加えブルトンの名前が印刷されたものを見つけられなかった。一般的な告知シートでは、この部分、空白なのです。彼の地の印刷職人は細かい注文に対応したというから、エフェメラ調査は難しい。
第5章 写真のシュルレアリスム
バナーの解説には「写真家たちのシュルレアリスムにまつわる実験的な試みは1937年から39年頃にピークを迎えたとされる。軍国主義の時代、写真家たちも実用的な記録写真撮影などの戦争協力を求められるなか、前衛的な写真の展覧会や出版は困難になった」とある。会場の戦前最終コーナーで振り返り、山本悍右の≪ある人間の思想の発展‥‥靄と寝室と≫を手前に北脇昇の≪周易解理図(泰否)≫を写角に入れてパチリ。若い山本の憤りに親近感を持つのです。芳しいポエジーの中にユーモアをしのばせた師の仕事は、いつも心を打つ。お手本は生き方だとつねづね思うのだが。
写真は作品保護の兼ね合いから展示期間に制限を受ける。そのため平面を埋めるのは困難であるかもしれない、カタログで記されているように写真は「簡素な紹介」に留められている。前述した名古屋市美術館では美術領域との関連も含め重要な立ち位置が与えていた事を思うと、残念である。

図25 山本悍右のコラージュと北脇昇の図式絵画

図26 第5章から壁面が青く塗られた第6章に続く。左の岡本太郎≪憂愁≫にはドラ・マールの写真作品との関連があるかもしれない。

図27 ケースに並ぶ雑誌、写真集、画集。岡本太郎の画集(G.L.M.刊)は、1980年代まで新刊書扱いだったと聞く、恐るべし巴里。

図28 下郷羊雄の写真集『メセム属』と山本悍右が編集発行した詩誌『夜の噴水』1号、2号。名古屋のディレッタント亀山巌は、晩年の下郷が「ぼくの絵の評価はひどいものだが、ちゃんと認めるところでは認めているのだと」立ち話の折に熱く語ったと伝えている(状況は大きく変わりましたね、実感です)。
第6章 戦後のシュルレアリスム
戦争の爪痕が生活のところどころで顔を出していた時代に生まれた一人として、「戦前にシュルレアリスムに接触した画家たちは目まぐるしく変化する日本の社会に向き合い、戦前に学んだ手法や発想を用いて描いた」と解説されるも、団体展に収斂されて生きながらえる前衛的表現には不満が残る。

図29 進路を塞ぐようなバナーの扱い、上手いですね。

図30 右から浜田知明、高山良策、小山田二郎。白地のバナーに誘導され出口へ。

図31 「手」のモチーフは、小山田の内的要請によるもので、わたしに親しい。ブランコは掴まれ婦人は落下。左折を促されると入口に連なる。それで、なんども会場を巡ることになった。エンドレスです。
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疲れきって堺町通りを下りイノダコーヒのガーデン席に座った。300頁のカタログを取り出しパラパラ捲る。参考図にはマン・レイが表紙を飾ったハーパースバザー誌(1937年1月号)を掲げる永井東三郎のスナップやグラディーヴァ画廊のファサードを撮影した吉井忠の写真などが紹介されている。会場では覗けなかった雑誌頁の図版も貴重。アラビアの真珠で指先を温めながらブルトンが「シュルレアリスムは、青春の天才への限りない信頼の断言から生まれた」とエール大学で語った講演録を思い出している。
20歳のころ「『世界を変革すること』(マルクス)と『人生を変えること』(ランボー)を一つのスローガンとしてとらえる態度」に希望を持ち、私写真と銀紙書房刊本を続けてきた。50年を経過して叶わぬ夢と諦めながら、瀧口修造が稲田三吉訳の『シュールレアリスム宣言』(現代思潮社刊)に寄せた文章でブルトン自身の詩的論理の発展に触れながら「ブルトンは事実にたいして率直であり、ユーモアをさえ酷使しているではないか」と書いた真意を学び直す時ではないかと思う。「詩と自由と愛」に連なる美しい言葉たちに「シュルレアリスム絵画をどう語るか」と突きつけるのは、解答の無い問いであるのを知っているだけに難しい。

図32 帯に「シュルレアリスムは終わらないっ!」とある。カタログは青幻舎刊(定価本体2,700円+税)

図33 ガーデン席の落ち葉が揺れ、噴水が心地よい。クリスマス前の穏やかな午後だった。
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展覧会-2 シュルレアリスムと京都
京都文化博物館2階総合展示室
2023年12月23日(土)~2024年2月18日(日)
一週間後に再び京都文化博物館を訪ねた。もちろん展覧会初日の朝一番。「京都におけるシュルレアリスムの受容と展開の軌跡をたどる」と云う2階の総合展示室は暗闇の中を進む構造で、最奥は暗く淀んだ一千年の盆地にポカリと空いた井戸の如き趣。その暗がりでホトケノザが浮かびあがる北脇昇の代表作≪眠られぬ夜のために≫が眼に飛び込んできたから驚いた。右には小牧源太郎の≪民族病理学(祈り)≫、続いて今井憲一の≪原生林≫。京都のシュルレアリスム絵画を語る上での重要作が揃い踏みなのである。4階に掛けられてもおかしくない3点は、中央に対する京都の矜持であるかのように静寂を秘めながら佇んでいる。作品選定のプロセスこそ、展覧会解釈の重要な糸口。機会があれば経緯をお聞きしたい。
京都の画家たちとシュルレアリスムとの関係は、「巴里新興美術展覧会」(1933年、岡崎・勧業館)と「海外超現実主義作品展」(1937年、河原町三条・朝日画廊)が開催されたのを契機に表現の試みとして現れた。これは若い画家たちを受け入れる文化の土壌が町にあったからで、「好きなようにやりなはれ」かも知れないが、多様な「日本におけるシュルレアリスム」絵画の成果に結びつく結果となった。既にわたしは「さまよえる絵筆──戦時下の前衛画家たち」展のレヴューで画家たちについて詳しく書いたので、ここでは触れないが、前述後者の大阪巡回展会場、三角堂が京都を本社とする同画廊の大阪支店であった事は特記すべきかも知れない。

図34 「京のまつり」を展示するスペースが、シュルレアリストたちに開放されている。

図35 右から北脇昇、小牧源太郎、今井憲一、伊藤久三郎

図36 貴重な雑誌『美・批評』『世界文化』『美』などを紹介するケース上部の壁面には1933年頃の状況を「当時京都で刊行されていた雑誌では、フランスのシュルレアリスム運動がすでに『終わっている』ことが伝えられます。未知の存在である『シュルレアリスム』に対する戸惑いや嫌悪、そして無関心は、京都に限らず、東京を含む日本全体の雰囲気だったとも言えるでしょう」と解説されている。

図37 左から北脇昇≪朱と紫≫、小牧源太郎≪木の葉仏≫。

図38 今井憲一の表紙画を使った雑誌『京大俳句』や北脇昇が紹介する「浦島物語─集団制作」が載る雑誌『みづゑ』などが置かれている。

図39 松崎政雄≪はにわ≫、ケースに伊藤久三郎

図40 壁面左から伊藤久三郎、小牧源太郎。
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図41 展示作業に居合わせたので絵肌を観察することが出来た。ガラス越しでは反射で魅力が半減する、ありがたい偶然だった。エアブラシを使っているのかしら。

図42 「石原さん閉めますよ」
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二つの展覧会を拝見し、自室でカタログを開いている。冒頭に「最盛期を迎えようとする矢先に終息させられた短命な日本のシュルレアリスム運動は、戦火をのがれて作品が残った主要な美術家を除けば、戦後、ほぼ忘れられた」とあり頷く。紹介された画家の数は凡そ90、初見の方も多い。原則一作家一作品は偏りがなく、フェアなアプローチだと思う。
帯の文言を読みながら、この運動がどうして消えることなく続くかと問う。今の若者たちへの影響を知る立場ではないが、会場では熱心なファンや研究者と思われる人を見かけた。なによりも、会場構成とカタログの充実ぶりから企画者の熱い思いが伝わる。職業人としての学芸員ではない人がいるようだ。カタログの論考で人生の問題を俯瞰する弘中智子(板橋区立美術館)は「戦中をともに体験した画家であっても、いつ形成期を迎えたのかということが前衛画家たちの戦後を左右した」と指摘。また、清水智世(京都文化博物館)は小部数の文芸誌の重要性を踏まえつつ「瀧口と山中という二人の詩人、美術批評家の存在によって、日本のシュルレアリスムをめぐる状況は、受容から交流へと位相を変えていく」と解説。日本的なものとの「類似の指摘」をする速水豊(三重県立美術館)の論は、展覧会を通底する基本的な視点、より深く作品に迫ることが可能となった。シニア世代の残り火に新しい薪がくべられたのである。
カタログには、永井敦子、福田一穂、林田龍太、菊屋吉生、呉孟晋、大谷省吾らの専門的なテキストも収められており、もう、お腹いっぱい。明日は大晦日、正月明けには再訪したい。
尚、本稿執筆はカタログやバナーの解説を参考にさせていただいた。また、会場撮影にあたっては許可をいただいた。担当の方々に記してお礼申し上げる。ありがとうございました。
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前段の「シュルレアリスムと日本」展は京都会場の後、板橋区立美術館3月2日(土)~4月14日(日)、三重県立美術館4月27日(土)~6月30日(日)の予定で巡回される。どのような空間が用意されるのか、今から楽しみである。
(いしはら てるお)
*画廊亭主敬白
2011年5月の「アートフェア京都の観戦記」以来、既に60回以上の寄稿をいただいている西の石原さん(東の石原さんは故・石原悦郎さん)ですが、その後ずっと継続していた「美術館でブラパチ」連載が一昨年から中断しました。石原さんのライフワークであるマン・レイの受容史『マン・レイと日本 1926~2022』(限定25部)のために全精力を注ぎこんでいたからです。めでたく刊行となりましたが発表と同時に即完売となったようです。
そして待ちに待った「美術館でブラパチ」連載がこのたび再開となりました。
今年は、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表してからちょうど100年。ポンピドォーセンターはじめシュルレアリスム関連の展覧会が世界各地で開催されますが、石原さんには京都でスタートした「シュルレアリスムと日本」展(この後、板橋と三重を巡回)、そして「シュルレアリスムと京都」の二つの展覧会をレポートをしていただきました。
お読みの通り超重量級の展示ですが、石原さんのメールには「日参するのも可能ですね」とあったのでなんのこっちゃと思ったら、なんと、この二つの展覧会の入場料は併せて500円なのです。
HPには入場料:一般500円(400円)、大学生400円、高校生以下無料とあります。
昨今、美術館の高額入場料が問題になっていますが、まさに嬉しいお年玉、若い人にはぜひ行って欲しい。
カタログも実に見事な内容で、最新の研究成果を盛り込んだ充実の一冊です(後程ブログで詳しく紹介します)。
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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