「青木宏追悼展Hommage a Hiroshi建築家・青木宏の居た/見た世界」とカタログ『Hommage a Hiroshi 1952-2020』を見て
「なんて名前なの、この遊び?」
「サムライと呼ぶことにしよう。別の名前もあるけど、「サムライ」の方が真剣な感じがするからね。そうじゃないかい、オルガ? 剣や扇や、あるいは小枝でもって、棒や手や、あるいはペンでもって、つまり好みのままに、戦うことのできる人間たちなんだよ」
ジュリア・クリステヴァ『サムライたち』(西川直子訳)
1
磯崎新アトリエのチーフアーキテクトだった青木宏さんの、昨年秋(2023年9月18日-10月9日)に開催されたギャラリー・てんでの追悼展と、そのカタログについて、個人的なレヴューを記しておきたい。
はじめに述べておくと、青木宏さんに直接お会いしたのは二度、社交辞令的なものだった。
一度目は約四半世紀前、当時磯崎アトリエ所員だったTさんたちの新作オープンハウスにお招きいただいた時である。30分ほど遅れてお邪魔するとすでに全員揃っており、青木宏さんはもう帰り支度を始めていた。私はクリステヴァの『サムライたち』をこのときたまたま読んでいて、到着するなり「クリステヴァの『サムライたち』は「オルリー空港に降り立ったとき、ポケットには5ドルしかなかった」という場面から始まるのです」と、唐突に語った記憶がある。その場にいた磯崎アトリエOBの福山博之さんに「そういうの、青木さん、好きそうじゃないですか」と返していただいたが、青木宏さんからは特に何も語られなかった。「無口な人だな」というのが第一印象である。
二度目にお会いしたのは、あるエレヴェータの中である。今度は青木宏さんが語った。「9.11のとき、マンハッタンでエレヴェータに乗ってたんだ。するとワイヤーが切れたのか、突然エレヴェータのカゴが落下し始めた。こうなったらシャフト底面に衝突する瞬間にジャンプして生き残ろうと身構えていたら、じつはインディケータの故障だったと分かった。これがホントのシミュレーション(笑)」。閉鎖的なエレヴェータ内の空気を和まそうと語ってくれたのかなと思い、私はくすっと笑った。少ない持ちネタの一つだったようで、やはり寡黙な人なのだなと少し親近感を抱いた。
2
展示は、ギャラリーの中央に青木宏さんの仕事机を再現し、その背面壁にプロジェクト類を展示し、反対の前面壁には氏が世界のあちこちで撮影した写真のスライドを投影することで、「青木宏の居た/見た世界」を文字通り再現する構成となっていた。さらに前面壁の腰壁部分には蔵書の一部が持ち込まれ、そこでケネス・フランプトンとピーター・アイゼンマンらによる伝説の建築雑誌『オポジションズ』の褐色の背表紙が塊を形成していたのが、個人的には印象的だった。
パンフレットはアトリエ関係者4人による追悼文、6人へのインタヴュー、52人によるメッセージ、11の担当プロジェクトの解説のほか、大学での卒業制作なども丁寧に収録している。
青木宏さんは1975年3月に東京大学工学部建築学科を辰野賞付で卒業し、そのまま磯崎新アトリエに就職している。このことについて見る前に、この前後の磯崎新について少し整理しておきたい。
3
磯崎新は1974年から1975年にかけて群馬県立近代美術館、北九州市立美術館、北九州市立中央図書館、富士見カントリークラブハウスという、おそらく自身のキャリアでも転回点となるだろう四作品を竣工させ、1975年に雑誌発表している。
これらの作品で磯崎は設計においても発表においても、要素や主題を分解し、新たに組み上げていくという手法をとっていた。これは単なる解体ではなく、脱構築的な手つきと言っていい。さらにたとえば群馬県立美術館の発表では〈立方体について〉というタイトルを冠し、その下に「純粋形態」、「輻輳」、「補助構造」といった主題が並置的に並んでいくが、このあり方は建築の意味論をいったん消去し、統辞論だけで脱構築する手つきでもあろう。統辞論だけで建築を組み上げるとは、建築をコンセプチュアルなものとして、あるいは「純粋建築」として組み上げるという志向をそこに持っているということであり、のちの「大文字の建築」や「デミウルゴモルフィズム」という主題へと向かうことが、ここにすでに胚胎していると見てとれる。
さらにこの年、つまり1975年の『新建築住宅設計競技』の審査員を磯崎は務め、建築表象的なものではなく、コンセプチュアルなものとしてトム・ヘネガンの案を選出している。この衝撃的結果は、相田武文をして「私はこれで新建築コンペは終わったように思う。つまり、磯崎新がとどめをさしたように思う」とさえ言わせたものだった。
いっぽうで石井和紘が『新建築』1975年12月号の「-一九七五年を回顧して-積分の諸様相=磯崎新の噴火=」というレヴューで記したように、この年は磯崎節が炸裂した磯崎イヤーだったのである。それも石井が「このベースの在り方には大分県立図書館に見られるような、メガストラクチュアによる構成主義、重々しいマッスの交錯する印象は影を潜め、より単純明快な図像の提示がそれに代わった」と述べたように、初期の磯崎の「メガストラクチュアによる構成主義、重々しいマッスの交錯する」作風から、先述した脱構築的手法による中期あるいは盛期・磯崎の作風への転回を明示した年でもあったのである。
4
青木宏さんはそんな磯崎イヤーの3月に大学を卒業し、磯崎アトリエに就職した。
これから何か新しいことが始まるという予感があったのではないかと推測する。そして入所早々、神岡町役場プロポーザルの担当となる。

fig.1

fig.2
神岡町役場プロポーザルは案を選ぶコンペではなく、指名された5人から設計者を選び、そのご住民との対話を経て基本設計をまとめるというもので、そのためのたたき台が要求されるものだった。まずはプロポーザル案(fig.1、2、GA Architect 6より)を見てみよう。この頃の磯崎が多用していたバレル・ヴォールトが、三本並行しながら高さを変えて配置され、これらをまたいで寒冷地ゆえのガラスの大屋根が架けられている。ヴォールトの一本は端部で湾曲し、駐車場側には半円形のプラザが設けられている。
このプロポーザル案と青木宏さんの卒業制作を比較してみる。青木宏さんの卒業制作は〔J.C. or Hommage a Corb. 建築都市のためのジョイントセンター〕(fig.3,fig.4, 本展カタログ所収)と名付けられたものである。

fig.3

fig.4
都市郊外の鉄道廃線に囲まれた敷地に、まず並行する二本の連続体がギャラリーと研究ゾーンとして置かれる。これら連続体のあいだの空間はサーキュレーションとして計画され、連続体は端部において湾曲する。次に連続体の一部が切取られ、ここに半円形の公園が外部による内部への侵入として配されるとともに、孤立した側のヴォリュームからは廃線に沿って新たな要素が伸びていく。湾曲部分の一部も欠き取られてマルチスペースのヴォリュームが新たに挿入され、欠き取られたヴォリュームを反転させるかのように道路側には新たなヴォリュームが配される。いっぽう二本の連続体は、研究室側はフレームとして、ギャラリー側は壁によるものとして、対比的に再構成される。「対」、「ふれ」、「不協和音」、「切り取り」、「寸断」、「対位法」、「語中音消失」、「差異」、「対立」などの言葉で解説されるこれら統辞論的な形態操作は、時間を孕んだ操作でもあり、屈曲し、脱中心化しながら伸びやかな拡がりを持った構成を与えていると言えるだろう。
磯崎新アトリエの仕事の進め方は、まず磯崎本人がコンセプトと形態のオリジネータとしてあり、所員がそれを展開していくものだったとされるが、神岡町役場プロポーザル案ではどちらにせよ、磯崎と青木宏さんの対話の痕跡を見ることができるのではないだろうか。
最終的にプロポーザル案は「かまぼこ倉庫」のようだと住民に拒否され、まったく別の案へと収斂していく。最終案(fig.5, GA Architect 6より)について磯崎自身は「施主の意見に素直に従った自然のなりゆきの結果にすぎない」と述べたとされるが、住民や関係者、所員とのやり取りで形態を変更していきながら、自身は概念的なことに考えを巡らしていただろうことは想像がつく。

fig.5
当初案の半円形のプラザは規模を縮小して実現され、建物の反対側にはこれを反転させた同一半径の低層部が中心を共有して置かれ、さらに北側立方体が駐車場と平行となるように振られる。この回転の振れを吸収するかのようにアルミパネル外壁の一部がモンローカーヴを描いて皮膜のように扱われるが、かつて鈴木博之がこのことについて意地悪く酷評したほどに、こうした構成は巧みとしか言いようがないものである。プロポーザルから3年後、1978年に竣工したこの建物は、1975年に磯崎が提示した方法論をさらに発展させ、それまでまったく無かった建築のあり方を提示したと言っても過言ではあるまい。個人的なことを語れば、この建物の図面を大学院一回生の春にトレースしたことがある。敷地の割り方、車寄せの取り方、進入動線と溜りの空間の取り方、シンメトリーを踏襲した縦シャフトなど、外部内部とも巧みに構成されていたと記憶する。
5
ジュリア・クリステヴァの『サムライたち』は、留学生としてパリにやってきたオルガことクリステヴァが最終的に母親になっていくまでの過程を、構造主義からポスト構造主義へ変容しつつあったいわゆるフランス現代思想の人物たち、クロード・レヴィ=ストロース、エミール・バンヴェニスト、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジャック・ラカンらを、日本の「サムライ」に準えながら折り込んで描くビルドゥングスロマンである。
たとえば構造主義からポスト構造主義への変容などといった時代の動きとも、磯崎の建築はどこかで通底していたように思う。とともに展覧会のチラシに使用された、砂漠を背景に撮影された青木宏さんの後ろ姿(fig.6)は、氏に初見したときの印象を個人的に想起させ、早世した寡黙な一人の「サムライ」の後ろ姿を思わせるものでもあった。

fig.6
(まつはた つよし)
■松畑強(まつはた つよし)
建築家。1961年生まれ。85年京都大学工学部卒業。87年同大学院終了。87-92株式会社日建設計勤務。93年コロンビア大学GSAPP修了。現在、松畑強建築事務所主宰。主な作品に〔物|遠近法〕〔The MAZE〕〔K邸〕など。主な著訳書にB.コロミーナ『マスメディアとしての近代建築』K。M.へイズ『ポストヒューマニズムの建築』、K.フランプトン『テクトニック・カルチャー』(共訳)、『建築とリアル』など。
●『Hommage a Hiroshi 1952-2020』
「青木宏さんお別れの会 (2023/9/30)に合わせ、友人・知人へのインタビュー、年譜、写真などで編んだ、青木宏さんの生前の記録」
製本サイズ:A5
ページ数:124
表紙加工:カラー
本文カラー:カラー
綴じ方:無線綴じ
1,500円(税込)

『Hommage a Hiroshi』目次

『Hommage a Hiroshi』奥付
●本日のお勧めは磯崎新です。
"OFFICE-I(BANK)"
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:55.0x55.0cm
シートサイズ:90.0x63.0cm
Ed.75
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。

ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
松畑強
「なんて名前なの、この遊び?」
「サムライと呼ぶことにしよう。別の名前もあるけど、「サムライ」の方が真剣な感じがするからね。そうじゃないかい、オルガ? 剣や扇や、あるいは小枝でもって、棒や手や、あるいはペンでもって、つまり好みのままに、戦うことのできる人間たちなんだよ」
ジュリア・クリステヴァ『サムライたち』(西川直子訳)
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磯崎新アトリエのチーフアーキテクトだった青木宏さんの、昨年秋(2023年9月18日-10月9日)に開催されたギャラリー・てんでの追悼展と、そのカタログについて、個人的なレヴューを記しておきたい。
はじめに述べておくと、青木宏さんに直接お会いしたのは二度、社交辞令的なものだった。
一度目は約四半世紀前、当時磯崎アトリエ所員だったTさんたちの新作オープンハウスにお招きいただいた時である。30分ほど遅れてお邪魔するとすでに全員揃っており、青木宏さんはもう帰り支度を始めていた。私はクリステヴァの『サムライたち』をこのときたまたま読んでいて、到着するなり「クリステヴァの『サムライたち』は「オルリー空港に降り立ったとき、ポケットには5ドルしかなかった」という場面から始まるのです」と、唐突に語った記憶がある。その場にいた磯崎アトリエOBの福山博之さんに「そういうの、青木さん、好きそうじゃないですか」と返していただいたが、青木宏さんからは特に何も語られなかった。「無口な人だな」というのが第一印象である。
二度目にお会いしたのは、あるエレヴェータの中である。今度は青木宏さんが語った。「9.11のとき、マンハッタンでエレヴェータに乗ってたんだ。するとワイヤーが切れたのか、突然エレヴェータのカゴが落下し始めた。こうなったらシャフト底面に衝突する瞬間にジャンプして生き残ろうと身構えていたら、じつはインディケータの故障だったと分かった。これがホントのシミュレーション(笑)」。閉鎖的なエレヴェータ内の空気を和まそうと語ってくれたのかなと思い、私はくすっと笑った。少ない持ちネタの一つだったようで、やはり寡黙な人なのだなと少し親近感を抱いた。
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展示は、ギャラリーの中央に青木宏さんの仕事机を再現し、その背面壁にプロジェクト類を展示し、反対の前面壁には氏が世界のあちこちで撮影した写真のスライドを投影することで、「青木宏の居た/見た世界」を文字通り再現する構成となっていた。さらに前面壁の腰壁部分には蔵書の一部が持ち込まれ、そこでケネス・フランプトンとピーター・アイゼンマンらによる伝説の建築雑誌『オポジションズ』の褐色の背表紙が塊を形成していたのが、個人的には印象的だった。
パンフレットはアトリエ関係者4人による追悼文、6人へのインタヴュー、52人によるメッセージ、11の担当プロジェクトの解説のほか、大学での卒業制作なども丁寧に収録している。
青木宏さんは1975年3月に東京大学工学部建築学科を辰野賞付で卒業し、そのまま磯崎新アトリエに就職している。このことについて見る前に、この前後の磯崎新について少し整理しておきたい。
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磯崎新は1974年から1975年にかけて群馬県立近代美術館、北九州市立美術館、北九州市立中央図書館、富士見カントリークラブハウスという、おそらく自身のキャリアでも転回点となるだろう四作品を竣工させ、1975年に雑誌発表している。
これらの作品で磯崎は設計においても発表においても、要素や主題を分解し、新たに組み上げていくという手法をとっていた。これは単なる解体ではなく、脱構築的な手つきと言っていい。さらにたとえば群馬県立美術館の発表では〈立方体について〉というタイトルを冠し、その下に「純粋形態」、「輻輳」、「補助構造」といった主題が並置的に並んでいくが、このあり方は建築の意味論をいったん消去し、統辞論だけで脱構築する手つきでもあろう。統辞論だけで建築を組み上げるとは、建築をコンセプチュアルなものとして、あるいは「純粋建築」として組み上げるという志向をそこに持っているということであり、のちの「大文字の建築」や「デミウルゴモルフィズム」という主題へと向かうことが、ここにすでに胚胎していると見てとれる。
さらにこの年、つまり1975年の『新建築住宅設計競技』の審査員を磯崎は務め、建築表象的なものではなく、コンセプチュアルなものとしてトム・ヘネガンの案を選出している。この衝撃的結果は、相田武文をして「私はこれで新建築コンペは終わったように思う。つまり、磯崎新がとどめをさしたように思う」とさえ言わせたものだった。
いっぽうで石井和紘が『新建築』1975年12月号の「-一九七五年を回顧して-積分の諸様相=磯崎新の噴火=」というレヴューで記したように、この年は磯崎節が炸裂した磯崎イヤーだったのである。それも石井が「このベースの在り方には大分県立図書館に見られるような、メガストラクチュアによる構成主義、重々しいマッスの交錯する印象は影を潜め、より単純明快な図像の提示がそれに代わった」と述べたように、初期の磯崎の「メガストラクチュアによる構成主義、重々しいマッスの交錯する」作風から、先述した脱構築的手法による中期あるいは盛期・磯崎の作風への転回を明示した年でもあったのである。
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青木宏さんはそんな磯崎イヤーの3月に大学を卒業し、磯崎アトリエに就職した。
これから何か新しいことが始まるという予感があったのではないかと推測する。そして入所早々、神岡町役場プロポーザルの担当となる。

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fig.2
神岡町役場プロポーザルは案を選ぶコンペではなく、指名された5人から設計者を選び、そのご住民との対話を経て基本設計をまとめるというもので、そのためのたたき台が要求されるものだった。まずはプロポーザル案(fig.1、2、GA Architect 6より)を見てみよう。この頃の磯崎が多用していたバレル・ヴォールトが、三本並行しながら高さを変えて配置され、これらをまたいで寒冷地ゆえのガラスの大屋根が架けられている。ヴォールトの一本は端部で湾曲し、駐車場側には半円形のプラザが設けられている。
このプロポーザル案と青木宏さんの卒業制作を比較してみる。青木宏さんの卒業制作は〔J.C. or Hommage a Corb. 建築都市のためのジョイントセンター〕(fig.3,fig.4, 本展カタログ所収)と名付けられたものである。

fig.3

fig.4
都市郊外の鉄道廃線に囲まれた敷地に、まず並行する二本の連続体がギャラリーと研究ゾーンとして置かれる。これら連続体のあいだの空間はサーキュレーションとして計画され、連続体は端部において湾曲する。次に連続体の一部が切取られ、ここに半円形の公園が外部による内部への侵入として配されるとともに、孤立した側のヴォリュームからは廃線に沿って新たな要素が伸びていく。湾曲部分の一部も欠き取られてマルチスペースのヴォリュームが新たに挿入され、欠き取られたヴォリュームを反転させるかのように道路側には新たなヴォリュームが配される。いっぽう二本の連続体は、研究室側はフレームとして、ギャラリー側は壁によるものとして、対比的に再構成される。「対」、「ふれ」、「不協和音」、「切り取り」、「寸断」、「対位法」、「語中音消失」、「差異」、「対立」などの言葉で解説されるこれら統辞論的な形態操作は、時間を孕んだ操作でもあり、屈曲し、脱中心化しながら伸びやかな拡がりを持った構成を与えていると言えるだろう。
磯崎新アトリエの仕事の進め方は、まず磯崎本人がコンセプトと形態のオリジネータとしてあり、所員がそれを展開していくものだったとされるが、神岡町役場プロポーザル案ではどちらにせよ、磯崎と青木宏さんの対話の痕跡を見ることができるのではないだろうか。
最終的にプロポーザル案は「かまぼこ倉庫」のようだと住民に拒否され、まったく別の案へと収斂していく。最終案(fig.5, GA Architect 6より)について磯崎自身は「施主の意見に素直に従った自然のなりゆきの結果にすぎない」と述べたとされるが、住民や関係者、所員とのやり取りで形態を変更していきながら、自身は概念的なことに考えを巡らしていただろうことは想像がつく。

fig.5
当初案の半円形のプラザは規模を縮小して実現され、建物の反対側にはこれを反転させた同一半径の低層部が中心を共有して置かれ、さらに北側立方体が駐車場と平行となるように振られる。この回転の振れを吸収するかのようにアルミパネル外壁の一部がモンローカーヴを描いて皮膜のように扱われるが、かつて鈴木博之がこのことについて意地悪く酷評したほどに、こうした構成は巧みとしか言いようがないものである。プロポーザルから3年後、1978年に竣工したこの建物は、1975年に磯崎が提示した方法論をさらに発展させ、それまでまったく無かった建築のあり方を提示したと言っても過言ではあるまい。個人的なことを語れば、この建物の図面を大学院一回生の春にトレースしたことがある。敷地の割り方、車寄せの取り方、進入動線と溜りの空間の取り方、シンメトリーを踏襲した縦シャフトなど、外部内部とも巧みに構成されていたと記憶する。
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ジュリア・クリステヴァの『サムライたち』は、留学生としてパリにやってきたオルガことクリステヴァが最終的に母親になっていくまでの過程を、構造主義からポスト構造主義へ変容しつつあったいわゆるフランス現代思想の人物たち、クロード・レヴィ=ストロース、エミール・バンヴェニスト、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジャック・ラカンらを、日本の「サムライ」に準えながら折り込んで描くビルドゥングスロマンである。
たとえば構造主義からポスト構造主義への変容などといった時代の動きとも、磯崎の建築はどこかで通底していたように思う。とともに展覧会のチラシに使用された、砂漠を背景に撮影された青木宏さんの後ろ姿(fig.6)は、氏に初見したときの印象を個人的に想起させ、早世した寡黙な一人の「サムライ」の後ろ姿を思わせるものでもあった。

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(まつはた つよし)
■松畑強(まつはた つよし)
建築家。1961年生まれ。85年京都大学工学部卒業。87年同大学院終了。87-92株式会社日建設計勤務。93年コロンビア大学GSAPP修了。現在、松畑強建築事務所主宰。主な作品に〔物|遠近法〕〔The MAZE〕〔K邸〕など。主な著訳書にB.コロミーナ『マスメディアとしての近代建築』K。M.へイズ『ポストヒューマニズムの建築』、K.フランプトン『テクトニック・カルチャー』(共訳)、『建築とリアル』など。
●『Hommage a Hiroshi 1952-2020』
「青木宏さんお別れの会 (2023/9/30)に合わせ、友人・知人へのインタビュー、年譜、写真などで編んだ、青木宏さんの生前の記録」製本サイズ:A5
ページ数:124
表紙加工:カラー
本文カラー:カラー
綴じ方:無線綴じ
1,500円(税込)

『Hommage a Hiroshi』目次

『Hommage a Hiroshi』奥付
●本日のお勧めは磯崎新です。
"OFFICE-I(BANK)"1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:55.0x55.0cm
シートサイズ:90.0x63.0cm
Ed.75
サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。

ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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