佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第89回

「言葉の連関の図」

レクチャーをすることがあればだいたい、自分がやっているプロジェクトをいくつか並べて紹介する。何か思考めいたものの一貫性を描こうといつも試みるが、それぞれが個別であるが故に話は拡散しがちで、言葉も方々に散らばってしまうことが多い。もちろんそんな散らばった言葉たちはそれぞれ連関していて、ある種の総体を成しているという直感はこちらにはあるのだが、必ずしもそのイメージが聞き手に伝わっているかというとそれはかなり心許ない。なので、レクチャーの冒頭でだいたい、その時に考えている物事の連関の図を表示して、抽象的だが概略をワッと話してしまう。それぞれの言葉がある順序と距離感を持って連関、ストラグルしているであろう自分自身の頭の中を包み隠さず露出させてみる。そして聞き手の頭にあらかじめそんな言葉の群を流し込んでおき、プロジェクトの話を聞いてもらってボンヤリとどうにか全体めいた輪郭を描いてもらおうと試みている。

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(5月の建築家フォーラムでのレクチャー冒頭に掲げた言葉の連関図)

自分がかなりの部分で日本語的な考え方をしているなと改めて思い入る。
今回は「共同」という言葉から始めてみた。ここでいう共同とは、相手と一緒に手を組んで何かをやるという「協働」あるいは「協同」の意味に限らない。仮に相手、他者には触れられず離れていたとしても、何らかの同じ一つの世界のなかにそれぞれが存在しているような、それくらいの関係性の中に居るということ。いわゆる吉本隆明の「共同幻想」で意図されていた「共同」に近いのかもしれない。そしてそんな関係性があるということは、当然ながら何かが複数あり、それらの間に「隙間」、つまり「遊び」があるということだろう。このあたりで一旦なんとなく、ものづくりや制作、あるいは空間についての手がかりが見えてくる。余白、余長、ゆとりというような、ある種の冗長性への興味があり、そしてそこで、九鬼隆三の『いきの構造』で論じられている江戸のお茶屋さんの男女の掛け合い、遊びの話がくる。(この指摘は劇作家の岸井大輔さんから数年前に教えてもらったことだ)
日本語といえば、万葉集の研究者である中西進さんの著作は言葉と言葉の間(特に同じ音を持つ別々の言葉の深い連関性)のかつての近接さを描くとてもスリリングな内容である。確かその中で知ったと記憶しているのだが、遊びと書いてどうやら「スサビ」と読み、風雅であること、風流の意を含むらしい。そしてスサビとは「荒び」とも書く。遊ぶことと、荒ぶ、すなわち荒れることは本来とても近しいニュアンスがどうやらあるらしいという気づきをえる。そんなところから途端に、「荒れ地」という粗野な状況、土地についてが、なんだかとてもポジティブで可能性を持った遊び場のように感じられてくるのだ。例えばT・S・エリオットの『荒地』という幻想的な詩集の「死者の埋葬」という詩では、さまざまな死者や何かの叫びめいた幻覚が強烈に湧き出てくる様子が描かれている。都市とは不在の人たち、さまざまな死者たちの歴史が積み重なって成り立っているというような、情景めいた風景論がここでは描かれているのだが、荒れ地という場の在り方をそのような見えないモノとのやり取り、「不在のコミュニケーション」とでも言うべき重層的なイメージを思い描くことができる。

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(筆者がしばしば訪れる、インド・シャンティニケタンの荒れ地)

荒れ地とは本来、人間の活動、支配が及んでいない自然の土地を指すだろう。租税制度や土地所有の在り方としては人が住む宅地でもなく、また何かを生産する田畑でもなく、また採集可能性のある山林でもない、無生産な土地を指す(荒蕪地とも呼ばれる)。城壁がなく山や川の自然環境の隙間を縫うようにして生まれている日本の都市や集落においては、むしろ荒れ地という自分たちの世界の外側を認識するところからその内側の輪郭を描きだしているらしい(石母田正『中世的世界の形成』の冒頭がそんな書き出しである)。人類学者の山口昌男の『文化と両義性』では、かつての集落共同体はそうした荒れ地のような自分たちの世界の外側にある自然世界を「荒神さま」として対象化したいたことを記している。恵みももたらすと同時に災いももたらすような畏怖すべき存在として外の世界を認識し、その存在を集落の人々が共感することで、逆に人々の共同体としての輪郭を逆照射するように描き出し、内部の関係性を構築してきたことを指摘している。
そこからさらに人々の領域内部についても眺めてみるならば、いわゆる空き地、近世都市においては明地(アケチ)や広小路、さらには橋のたもとと呼ばれたような、都市の所有制度からも例外的に扱われた隙間、余白のような場所にむしろ人々の活気ある活動や仕組みが溢れ出してくる構造があったようだ。複数のモノゴトの関係を調停し、おおまかな総体として事物が連なっていくためのノリのような場所として、空き地あるいは荒れ地は有り得たのではないかと思う。(このあたりまで話を連ねていき、改めて松山巌『建築はほほえむ』に確か「目地、隙間、遊び」というようなエッセーがあったことも思い出す)
そして重要であるのが、当の筆者自身がそんなモノゴトの関係性の中でどのような位置にいるのか、である。そこにもう一つ援用すべきものとして、「工作者」という言葉が浮かび上がってくる。工作者とは思想的実践者の谷川雁が掲げた谷川自らの存在を定義づけた言葉である。「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であるところの偽善の道をつらぬく工作者」の記述はとてもヒリヒリとする。そして、社会改革者としての存在であった工作者の役割をもう少し偏見を持って、平らに均してみれば、何か複数の異なるモノの間を行き来し、それぞれの内部を更新し、また両者の間の関係性を絶妙に調整する試みとして考えることができるのではないだろうか。
筆者自身はもっぱら建築創作、建築の設計を生業としているのだが、そこでは結局のところ、人と人の間の関係の在り方を探ったり、人と建築空間、あるいは人とモノとの関係を調整したり、モノ同時の併存の在り方を考えたりばかりしている。そんなヒト・ヒト、ヒト・モノ、モノ・モノの間の関係性を具(つぶさ)に思考し、試行していくことに、先ほどの工作者という可能性からの学びはとても有効なのではと考えている。

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(言葉の相関の図からフッと出てきたモデルスケッチの拡大)

関係性の思考(あるいは試行)とは、もちろんその場の隣人だけに限らない。昔に死んだ人、これから生まれてくる人、過去あるいは未来のモノゴトについて、さらには同じ世界のどこかでいる少し遠く離れたヒトやモノゴト(今であれば、まさにパレスチナという土地についても)といった、自分からは見えないものや分からないものについても可能な限り想像力を伸ばしていきたい。そこにはおそらく、どんなものであっても必ずや何かの関係性があるだろうという希望と学びの意欲が根底に据えるべきなはずだ。
ただ一方で、不可視のものについて、あるいは想像が簡単には及ばないような遠い存在について考えを巡らせようとすると、自分の思考の多寡が知れてしまい、自らの限界にヘキヘキとすることがある。それをなるべく外へ広げていこうとして頑張って学びを積み重ねて言っても、どこかでその限界を感じることがある。けれども、私はそれでもいいと思う。自分自身の限界、思考と展開の限定性を認めてあげ、むしろその思考の輪郭をつど描いてみることで(まさにこの投稿が自分にとってはその作業である)、限定性ゆえの内実への探求する可能性が見えて来そうなのだ。そして適度に休みつつも、また少しづつ学びを重ねて想像力を広げていくことを続けていこうとも考える。そんな自分自身の学びの場を継続的に作っていく試みとして、また人々のこれからの集まり方(=コミュニティというものの在り方)として可能性を見ているのが「学校」という仮設的な枠組なのではないか、というのがひとまずの今の地点である(その試みとして、数年前にやっていた「In-Field Studio/荒れ地のなか学校」があった。これからだんだんとまた始めたいと思っている)。
冒頭に載せた言葉の相関の図では、その「学校」から再び最初の「共同」に戻ってくる。
そんな事書の組み立てを毎回レクチャーでは試みている。この投稿でわざわざ講義録のように書き残しているのも、組み立ての試行錯誤の一つとしてある。また今後機会があれば(おそらく次回は7月の京都で)、更新しつつ組み立て直していきたい。

(さとう けんご)

佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。「一般社団法人コロガロウ」設立。2022年3月ときの忘れもので二回目となる個展「佐藤研吾展 群空洞と囲い」を開催。今秋11月には三回目の個展をときの忘れもので開催します。

・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

●本日のお勧め作品は佐藤研吾です。
日本からシャンティニケタンへ送る家具1佐藤研吾 Kengo SATO
《日本からシャンティニケタンへ送る家具1》  
2017年
木、柿渋、アクリル
H110cm
Photo by comuramai
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取り扱い作家たちの展覧会情報(5月ー6月)は5月1日ブログに掲載しました。
photo (1)ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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