梅津元「瑛九-フォト・デッサンの射程」
第12回「I tried, but I can’t find you -第33回瑛九展・湯浅コレクション(スピンオフその2)」
I tried, but I can’t find you - ニュー・オーダーの5枚目のアルバム『Technique』のB面2曲目、「Mr Disco」のフレーズが私をとらえる。第10回の最後を締めくくる「Run」の次に収録されているが、直後に名曲「Vanishing Point」が続くせいか、これまでそれほど意識していなかった。にも関わらず、このフレーズが私をとらえる理由はわかっている。このフレーズが、ついに第11回にやってきた「Sub-culture」の「I always try, I always miss」と無意識下で連鎖しており、さらに、今の私にとって、「I tried, but I can’t find you」の「you」は、瑛九、そして、杉田秀夫であるからだ。
この連載も回を重ねてきたが、書けば書くほど、瑛九は、そして、杉田秀夫は、どこかへ逃げていく。書く前からわかっていたとはいえ、本当に、瑛九を、杉田秀夫を、つかまえることは難しい、書けば書くほど、わからなくなる。「失速するために疾走する」、「I always miss のために I always try を繰り返す」、それと同じ、「わからなくなるために書いている」、だが、その倒錯こそが救いであり、だからこそ、書き続けることができる。そんな書き方で成果があがるのか、そう問われると、甚だ心許ないのだけれど。
エスペラント、再び
「勇気を。我々は日本語でさえ思つている事を親しくない人の前で話せない場合が多い。失敗や失礼といつた事ばかりに気をとられて直実に語ることを第二の問題としている場合が多いのです。直実に卆直に自己を表現しませう。そこからエスペラントの会話も一人でに生れる。しかし最初は勇気を。ちうちよするな。エローラは気にするな。文法はあとでよい。まちがいのない人は何もしない人だけです。」
杉田秀夫「会話について」より引用(出典:『Studanto En Nova Sento(新しい感覚の学生)』No.1、宮崎大宮高校エスペラント同好会、1950年/紙面の末尾には以下の記載がある:昭和25年11月5日発行 発行所・宮崎大宮高校エスペラント部 編集責任者・湯浅英夫。(この資料は小林美紀さんより提供いただきました。なお、引用にあたり執筆者名の「杉田英夫」を「杉田秀夫」に改めました。)
上記は、宮崎大宮高校エスペラント同好会の機関紙に瑛九(杉田秀夫)が寄稿した文章からの引用である。この同好会は、瑛九夫妻との交流を通じてエスペラントに興味を持った湯浅英夫と鈴木素直が立ち上げたものであり、機関紙の編集は湯浅が担当している。このあたりの経緯については、「第33回瑛九展・湯浅コレクション」の図録に掲載されている小林美紀さんの論考「10代で「瑛九」と出会った湯浅英夫」に詳しいので、ぜひ、お読みください。また、鈴木素直さんが「生誕100年記念 瑛九展」の図録に寄稿してくださった「エスペラントと瑛九」も、あわせて、お読みください。
第11回において、1935年の12月8日に、エスペラントの会合をきっかけに、久保貞次郎さんと杉田秀夫が宮崎で出会った事を紹介した。上記の文章は、その15年後、1950年に書かれたものである。すでに長く「瑛九」の名前で活動している時期であるが、この文章は、「杉田秀夫」の名前で寄稿されている。文章の末尾に「筆者は宮崎エスペラントグループの一員」と記載されているとおり、知名度のある画家・美術家の「瑛九」としてではなく、郷里の宮崎においてエスペラントの普及につとめるひとりの人間である「杉田秀夫」として寄稿したい、という気持ちの表れなのだろう。
上記の引用箇所の前でも、「会話は話さねば上手になりません、いくら読んでも、又いくら書いても会話しなければ会話は上手になれない」と、とにかく、会話を学ぶためには話をすることが大切であることが、エスペラント同好会の高校生が作る機関紙の中で、熱心に語られている。読んでいると、まるで、高校生の自分が、杉田秀夫に鼓舞されているように感じてしまう。それほどまでに、その言葉は、衒いがなく、率直だ。
「I always try, I always miss」、「I tried, but I can’t find you」、それで構わない、勇気を持て、そう励まされているように感じる。ならば、1950年の杉田秀夫の励ましを力に、勇気を持って、最初期のフォト・デッサンについて、さらに書いてみよう。エスペラントの会話も、作品を見ることも、基本は同じはずだ。
「見ることは見なければ上手になりません、いくら読んでも、又いくら書いても見なければ見ることは上手になれない」
1950年の杉田秀夫の言葉を、こんな風に言い換えてみる、すると、杉田秀夫が、瑛九が、時空を超えて、いま、私たちに、語りかけている、そんな風にさえ、感じられはしないだろうか。この連載は、湯浅英夫のもとにあった瑛九の作品によって構成された「第33回瑛九展・湯浅コレクション」を契機として開始されたのだから、そんな妄想、夢想、願望に、身を委ねても、許されるだろう。
「見なければ見ることは上手になれない」、杉田秀夫の言葉を変奏したフレーズが、私を直撃する。今回、まさにその通りだと実感することになったのも、必然なのだろう。ならば、今回は、スピンオフの続編として、「見ること」によって、私が何に気がつき、何が見えてきたのかを、示さなければならない。「まちがいのない人は何もしない人だけです」、そんな風に鼓舞されたら、もう、間違えることも、怖くないのだから。
「私はかつて、畫家であつた。」
今回、重要な論点として提示したいのは、最初期のフォト・デッサンにおける「人の形」ならびに「型紙の由来」についてである。本題に取り組む前に、スピンオフとなった第11回において紹介した、小田急グランドギャラリーの「現代美術の父 瑛九展」(1979年)に出品されたフォト・デッサン(fig.2)と、もう一点の別な作品(fig.1)を、見てみよう。

fig.1:《作品名不詳》 制作年不詳

fig.2:《題名不明》 1931
まず、このふたつの作品を、じっくりと見ていただきたい。《作品名不詳》(fig.1)は、画面を構成する要素がさほど多くないので、こちらをよく見てから、《題名不明》(fig.2)に向き合えば、何かが見つかるだろう。そう、《作品名不詳》の中央付近に見える瓶のようなイメージと、《題名不明》の中央やや左下に見える瓶のようなイメージが、同じモチーフによって得られたと思われるのだ。(ちなみに、このモチーフは「光の化石」に出品された《作品(25)》にも用いられていると思われる。第11回の記述を参照。)そのことに気がつくと、《作品名不詳》の制作年も、1930年代なのではないかと推測される。
では、本題に入る。最初期のフォト・デッサンにおける「人の形」ならびに「型紙の由来」について考えるために、『フォトタイムス』の1930年8月号に杉田秀夫の名前で発表された「フォトグラムの自由な制作のために」に掲載された試作5点を見てみよう。

fig.3:『フォトタイムス』1930年8月号、93頁

fig.4:『フォトタイムス』1930年8月号、94頁

fig.5:『フォトタイムス』1930年8月号、95頁

fig.6:『フォトタイムス』1930年8月号、96頁
94頁(fig.4)の上段右、「2」の冒頭に、「私はかつて、画家であつた。」という、よく知られている一文が記述されている。すでに何事かを成し遂げた人物の回想録にでも書かれていそうな名文であるが、「フォトグラムの自由な制作のために」が発表された時、杉田秀夫は19歳である。10代で執筆した美術評論が主要な美術雑誌に掲載されたという驚きの事実にも説得力が増し、その早熟ぶりに、改めて驚かされる。
もちろん、若いからこそ書けたのでは、という指摘にも一理あるが、「私はかつて、画家であつた。」という一文は、勢いで書ける文ではない。まだ若い時期に書かれた一文ではあっても、そこには確かに、人生の重みが凝縮されており、この一文を書くに至るまでの葛藤が色濃く反映している。第10回の最後に、本間正義さんによる「瑛九の「雲」」からの引用を紹介したが、その引用箇所の印象的な表現が、ここでも想起される。
その印象的な表現とは、「瑛九の中にひそんでいた絵画的な郷愁」という一節なのであるが、この表現は、「私はかつて、画家であつた。」という一文に込められた杉田秀夫の心情を、的確に言い当てているように感じられる。「私はかつて、画家であつた。」、その潔いよい宣言の背後に見え隠れしている、後ろ髪をひかれるような心情、そこには、確かに、「絵画的な郷愁」が込められている、そう感じるのだが、どうであろうか。
人の形
前回紹介した小田急グランドギャラリーの「現代美術の父 瑛九展」に出品された、1931年制作のフォト・デッサン《題名不明》(fig.2)と、上記の試作5点(fig.3~fig.6)を、じっくりと見ていただきたい。fig.3 から fig.6 に見られる、「第1図」から「第5図」までの5点の試作は、おそらく1930年に制作されている。fig.2 の《題名不明》は、前回詳しくみたように、1931年に制作された作品とみなすことは概ね妥当である。つまり、《題名不明》の方が、5点の試作よりも後に制作されているはずである。
そのことをふまえると、何か、不自然な感じがしてくるのである。その不自然な感じ、違和感は、それぞれの作品に見えている人の形や、人体のパーツのイメージに由来する。最もわかりやすい例をあげて、具体的にみてみよう。「第4図」(fig.5)の基調をなすのは、踊り子のイメージである。バランスの取れたフォルムであり、曲線を主とする人体の完成度が高く、バレエシューズを着用したバレリーナのようなつま先まで再現性が高い。
何かおかしくはないだろうか。均整が取れたフォルム、人体の完成度が高い、つま先まで再現性が高い、そう、出来過ぎなのである。いま、「出来過ぎ」と書いてしまったが、なぜ「出来過ぎ」という言葉が出てきてしまうのか。それは、この踊り子のイメージが、「杉田秀夫が作った型紙」を用いて得られたものだということを、無意識に、前提にしてしまっているからである。そのことは、この試作よりも後に制作されたと判断できる《題名不明》と比較すると、よりはっきりする。
第11回で詳しく見たように、《題名不明》には、8つの人の形が見える。踊り子のようなイメージが多いが、その形は、切り絵といってよい平面的な形であり、杉田秀夫が自ら作った型紙が用いられていると判断して差し支えないだろう。例えば、足の先を見れば、足首から足の裏に相当するあたりは省略されており、先に行くほど細くなるだけの単純な形となっている。つま先まで再現性が高い「第4図」とは、大きな違いである。
1931年に制作された作品に用いられた型紙が、このようなものであるにもかかわらず、その前年、1930年に制作された試作のひとつである「第4図」に見られる、極めて完成度の高い均整の取れた人体のフォルムを示す型紙を、杉田秀夫が作ったのだろうか。その答えは、おそらく、否、だろう。前述した、不自然な感じ、違和感は、ここに原因がある。この「第4図」には、確かに「人の形」が見られるが、それは、杉田秀夫が作った「型紙」には由来していない、そう考える方が妥当なのではないだろうか。
そうであるにも関わらず、その「人の形」を、後年のスタイルを前提として、瑛九(杉田秀夫)が描いたイメージを切り抜いて作られた型紙に由来すると見てしまっているために、不自然な感じや違和感が発生するのである。とはいえ、この「第4図」に型紙が用いられた可能性が、完全に排除されるわけではない。仮に、型紙が用いられていた場合でも、既存のイメージを切り抜いたものである可能性が高く、杉田秀夫が描いたイメージを切り抜いた型紙である可能性は低いと推測できる、そのことが重要なのである。
型紙の由来
続いて、この「第4図」のバレリーナのようなイメージが、既存のイメージを切り抜いた型紙によって得られたものではなかった場合について、さらに考えてみたい。型紙でなければ、当然、何らかの既存の物体を用いたことが推測される。だが、留意しなければならないのは、この「第4図」に見られるバレリーナのようなイメージは、その輪郭がほとんどぶれることなく定着されている点である。
つまり、人形など、立体的な厚みのある物体ではなく、このようなシルエットの平面的な物体が用いられた可能性が高い、ということになる。そのような物体として可能性があるのは、切り抜き影絵、写し絵、嵌め絵など玩具に類するもの、ブローチやアクセサリーのような装身具、それら以外の雑貨類などであろうか。
重要な論点であるため、この「第4図」についての記述が長くなってしまったが、「人の形」についての考察を続けるために、5点の試作のその他のイメージについても、見てみよう。「第1図」(fig.3)、「第2図」(fig.4・左上)、「第3図」(fig.4・右下)、「第5図」(fig.6)には、下半身だけのイメージや足など人体のパーツのようなイメージを確認することができる。例えば、「第1図」の右下と「第3図」の右上に見える下半身だけのイメージは、同じモチーフを用いているように見える。
だが、その下半身のイメージが、型紙に由来するのか、平面的な物体に由来するのか、立体的な物体に由来するのか、それを判断するのは難しい。ここでは、『フォトタイムス』1930年8月号に掲載された「フォトグラムの自由な制作のために」に、杉田秀夫による試作として掲載された「第1図」から「第5図」に見られる人の形や人体のパーツのイメージが、以下のいずれかを用いて得られたものではないかという仮説を提示したい。
1:物体(立体的、平面的)を用いる
2:写真(原板、印画紙、印刷物)を用いる
3:既存のイメージを切り抜いた型紙を用いる
この仮説が重要であるのは、この時点では、「杉田秀夫が描いたイメージを切り抜いた型紙」は、まだ制作に用いられていなかったのではないか、ということである。逆の言い方をすれば、上記の3種類の方法を用いた制作を進める過程において、上記の「3」を発展させ、既存のイメージを切り抜く方法に限定されず、自分で描いた形を切り抜いて型紙を作る方法を思いついたのではないか、と推測することができる。
ここで、「フォトグラムの自由な制作のために」の文章の中に、これらの3種類の方法と関連する重要な記述を見つけることができるので、その記述を紹介したい。まず、「3」についてであるが、95頁・下段(fig.5)に、以下のような記述がある。
「私は例へば一つのシュウル・レアリスティクなコンポジョン(ママ)を製作するためにはきりぬいた女の足でも、撮影した一個の原板をも自由に使用する。」
「きりぬいた女の足」という記述が見られることから、すでに、杉田秀夫が、既存のイメージを切り抜いた型紙を作り、制作に用いていたとみなすことができる。また、同じ箇所において「撮影した一個の原板」の使用についても記述されている点は、極めて重要である。「第3図」の中央から下方、斜めの向きの矩形のイメージは、この「撮影した原板」によるものだろう。この方法は、上記の「2」に該当する。さらに、この記述に続く段落の冒頭には、次のような記述もある(引用注:下線の箇所は原文では傍点)。
「だから私のフォトグラムには女の顔もガイコツの寫眞もオドリ子のカゲ繪も出現する」
この記述をふまえて、5点の試作をよく見てみると、「第5図」の左下に「女の顔」を、
右中央に「ガイコツの写真」らしきイメージ(右側が上になる向き)を、見つけることができる。つまり、「女の顔」や「ガイコツの写真」は、多様な素材が使われることを示すための例として挙げられたのではなく、5点の試作において、実際に、「女の顔」と「ガイコツの写真」を使っているからこそ、このように書かれていると判断できる。
そのように考えると、最後に記述されている「オドリ子のカゲ絵」も、この5点の試作において、実際に使われているからこそ、そのように記述されているとみなすべきだろう。では、「オドリ子のカゲ絵」は、どこに使われているのだろうか。そう、「第4図」の基調をなす、バレリーナのようなイメージ、それが、「オドリ子のカゲ絵」である。
少なくとも、「女の顔」、「ガイコツの写真」、「オドリ子のカゲ絵」と、3つの事例が併記されていることをふまえると、「第4図」のバレリーナのようなイメージ=「オドリ子のカゲ絵」は、杉田秀夫が描いたイメージを切り抜いたものではなく、平面的な物体を用いているか(上記「1」)、既存のイメージを切り抜いて用いているか(上記「3」)、そのどちらかであると判断するのが妥当なのではないだろうか。
その上で、留意すべきは、「女の顔」と「ガイコツの写真」が写真的イメージとして出現しているのに対して、「オドリ子のカゲ絵」は輪郭として平面的に出現している点である。この点をふまえると、「オドリ子のカゲ絵」は平面的な物体を用いて得られたイメージである可能性が高まるだろう(上記の「1」)。最初期のフォト・デッサンの5点の試作を、「見ること」によって、ここまで到達することができた。
フォト・デッサンに登場する「人の形」を目にした時、それが何に由来するのかを、ほとんど意識しないで、見てしまっているのではないだろうか。フォト・デッサンに登場する「人の形」は、瑛九(杉田秀夫)が描いたイメージを切り抜いた「型紙」に由来するものである、そう無意識に前提としてしまっていると、「見ること」が、おろそかになってしまうのだ。だが、今回、1931年のフォト・デッサンと、『フォトタイムス』1930年8月号に掲載された5点の試作を、「見ること」によって、この5点の試作に見られる「人の形」には、型紙以外の何らかの物体に由来するイメージが含まれている可能性が高いことに、気がつくことができた。
このことは、瑛九(杉田秀夫)のフォト・デッサンにおける「人の形」と「型紙の由来」について考える手がかりとなる。その点をふまえて、次回は、より広い視野から、フォト・デッサンにおける「人の形」と「型紙の由来」について論じてみたい。
Face Up
今回、「I tried, but I can’t find you」というフレーズによって私をとらえた曲のタイトルが「Mr Disco」であることに、なんともいえない不思議な気持ちになる。前回、今回と、論述の中心が、バレリナーナや踊り子のようなイメージだったからである。もちろん、杉田秀夫の時代と、瑛九の時代と、ニュー・オーダーの時代は、「Mr Disco」の時代は、遠く隔たっている。けれど、スピンオフの論述と「Mr Disco」は、誰も知らない、誰も気がつかない、何かの理由で、どこかでつながっているのだろう。
踊り子、バレリーナ、ダンス、「Mr Disco」、ならば、いつまでもうつむいてばかりもいられない。そろそろ、顔をあげて、目の前に屹立する難題の壁に、直面しないとならないのだろうか。シューゲイザーには厳しいけれど、杉田秀夫も、「勇気を」、そう鼓舞してくれている。そんな気持ちがふとよぎる、聴こえてくるのは、ニュー・オーダーの「Face Up」。『Low-Life』のB面ラストを飾る「Face Up」に、身を任せるのも、悪くない。
(うめづ げん)
図版出典
fig.1:本間正義監修『瑛九作品集』有限会社ワタヌキ編集・制作、日本経済新聞社、1997年
fig.2:『現代美術の父 瑛九展』編集:靉嘔・魚津章夫・木水育男、瑛九展開催委員会、1979年
fig.3~fig.6:『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館ほか、2011年
■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。
・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」は毎月24日更新、次回は2024年9月24日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、瑛九です。

《題不詳 水彩》
1958年 水彩
イメージサイズ25.0×18.0cm シートサイズ38.0×29.0cm
自筆サインあり
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〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
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E-mail:info@tokinowasuremono.com
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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
第12回「I tried, but I can’t find you -第33回瑛九展・湯浅コレクション(スピンオフその2)」
梅津 元
I tried, but I can’t find you - ニュー・オーダーの5枚目のアルバム『Technique』のB面2曲目、「Mr Disco」のフレーズが私をとらえる。第10回の最後を締めくくる「Run」の次に収録されているが、直後に名曲「Vanishing Point」が続くせいか、これまでそれほど意識していなかった。にも関わらず、このフレーズが私をとらえる理由はわかっている。このフレーズが、ついに第11回にやってきた「Sub-culture」の「I always try, I always miss」と無意識下で連鎖しており、さらに、今の私にとって、「I tried, but I can’t find you」の「you」は、瑛九、そして、杉田秀夫であるからだ。
この連載も回を重ねてきたが、書けば書くほど、瑛九は、そして、杉田秀夫は、どこかへ逃げていく。書く前からわかっていたとはいえ、本当に、瑛九を、杉田秀夫を、つかまえることは難しい、書けば書くほど、わからなくなる。「失速するために疾走する」、「I always miss のために I always try を繰り返す」、それと同じ、「わからなくなるために書いている」、だが、その倒錯こそが救いであり、だからこそ、書き続けることができる。そんな書き方で成果があがるのか、そう問われると、甚だ心許ないのだけれど。
エスペラント、再び
「勇気を。我々は日本語でさえ思つている事を親しくない人の前で話せない場合が多い。失敗や失礼といつた事ばかりに気をとられて直実に語ることを第二の問題としている場合が多いのです。直実に卆直に自己を表現しませう。そこからエスペラントの会話も一人でに生れる。しかし最初は勇気を。ちうちよするな。エローラは気にするな。文法はあとでよい。まちがいのない人は何もしない人だけです。」
杉田秀夫「会話について」より引用(出典:『Studanto En Nova Sento(新しい感覚の学生)』No.1、宮崎大宮高校エスペラント同好会、1950年/紙面の末尾には以下の記載がある:昭和25年11月5日発行 発行所・宮崎大宮高校エスペラント部 編集責任者・湯浅英夫。(この資料は小林美紀さんより提供いただきました。なお、引用にあたり執筆者名の「杉田英夫」を「杉田秀夫」に改めました。)
上記は、宮崎大宮高校エスペラント同好会の機関紙に瑛九(杉田秀夫)が寄稿した文章からの引用である。この同好会は、瑛九夫妻との交流を通じてエスペラントに興味を持った湯浅英夫と鈴木素直が立ち上げたものであり、機関紙の編集は湯浅が担当している。このあたりの経緯については、「第33回瑛九展・湯浅コレクション」の図録に掲載されている小林美紀さんの論考「10代で「瑛九」と出会った湯浅英夫」に詳しいので、ぜひ、お読みください。また、鈴木素直さんが「生誕100年記念 瑛九展」の図録に寄稿してくださった「エスペラントと瑛九」も、あわせて、お読みください。
第11回において、1935年の12月8日に、エスペラントの会合をきっかけに、久保貞次郎さんと杉田秀夫が宮崎で出会った事を紹介した。上記の文章は、その15年後、1950年に書かれたものである。すでに長く「瑛九」の名前で活動している時期であるが、この文章は、「杉田秀夫」の名前で寄稿されている。文章の末尾に「筆者は宮崎エスペラントグループの一員」と記載されているとおり、知名度のある画家・美術家の「瑛九」としてではなく、郷里の宮崎においてエスペラントの普及につとめるひとりの人間である「杉田秀夫」として寄稿したい、という気持ちの表れなのだろう。
上記の引用箇所の前でも、「会話は話さねば上手になりません、いくら読んでも、又いくら書いても会話しなければ会話は上手になれない」と、とにかく、会話を学ぶためには話をすることが大切であることが、エスペラント同好会の高校生が作る機関紙の中で、熱心に語られている。読んでいると、まるで、高校生の自分が、杉田秀夫に鼓舞されているように感じてしまう。それほどまでに、その言葉は、衒いがなく、率直だ。
「I always try, I always miss」、「I tried, but I can’t find you」、それで構わない、勇気を持て、そう励まされているように感じる。ならば、1950年の杉田秀夫の励ましを力に、勇気を持って、最初期のフォト・デッサンについて、さらに書いてみよう。エスペラントの会話も、作品を見ることも、基本は同じはずだ。
「見ることは見なければ上手になりません、いくら読んでも、又いくら書いても見なければ見ることは上手になれない」
1950年の杉田秀夫の言葉を、こんな風に言い換えてみる、すると、杉田秀夫が、瑛九が、時空を超えて、いま、私たちに、語りかけている、そんな風にさえ、感じられはしないだろうか。この連載は、湯浅英夫のもとにあった瑛九の作品によって構成された「第33回瑛九展・湯浅コレクション」を契機として開始されたのだから、そんな妄想、夢想、願望に、身を委ねても、許されるだろう。
「見なければ見ることは上手になれない」、杉田秀夫の言葉を変奏したフレーズが、私を直撃する。今回、まさにその通りだと実感することになったのも、必然なのだろう。ならば、今回は、スピンオフの続編として、「見ること」によって、私が何に気がつき、何が見えてきたのかを、示さなければならない。「まちがいのない人は何もしない人だけです」、そんな風に鼓舞されたら、もう、間違えることも、怖くないのだから。
「私はかつて、畫家であつた。」
今回、重要な論点として提示したいのは、最初期のフォト・デッサンにおける「人の形」ならびに「型紙の由来」についてである。本題に取り組む前に、スピンオフとなった第11回において紹介した、小田急グランドギャラリーの「現代美術の父 瑛九展」(1979年)に出品されたフォト・デッサン(fig.2)と、もう一点の別な作品(fig.1)を、見てみよう。

fig.1:《作品名不詳》 制作年不詳

fig.2:《題名不明》 1931
まず、このふたつの作品を、じっくりと見ていただきたい。《作品名不詳》(fig.1)は、画面を構成する要素がさほど多くないので、こちらをよく見てから、《題名不明》(fig.2)に向き合えば、何かが見つかるだろう。そう、《作品名不詳》の中央付近に見える瓶のようなイメージと、《題名不明》の中央やや左下に見える瓶のようなイメージが、同じモチーフによって得られたと思われるのだ。(ちなみに、このモチーフは「光の化石」に出品された《作品(25)》にも用いられていると思われる。第11回の記述を参照。)そのことに気がつくと、《作品名不詳》の制作年も、1930年代なのではないかと推測される。
では、本題に入る。最初期のフォト・デッサンにおける「人の形」ならびに「型紙の由来」について考えるために、『フォトタイムス』の1930年8月号に杉田秀夫の名前で発表された「フォトグラムの自由な制作のために」に掲載された試作5点を見てみよう。

fig.3:『フォトタイムス』1930年8月号、93頁

fig.4:『フォトタイムス』1930年8月号、94頁

fig.5:『フォトタイムス』1930年8月号、95頁

fig.6:『フォトタイムス』1930年8月号、96頁
94頁(fig.4)の上段右、「2」の冒頭に、「私はかつて、画家であつた。」という、よく知られている一文が記述されている。すでに何事かを成し遂げた人物の回想録にでも書かれていそうな名文であるが、「フォトグラムの自由な制作のために」が発表された時、杉田秀夫は19歳である。10代で執筆した美術評論が主要な美術雑誌に掲載されたという驚きの事実にも説得力が増し、その早熟ぶりに、改めて驚かされる。
もちろん、若いからこそ書けたのでは、という指摘にも一理あるが、「私はかつて、画家であつた。」という一文は、勢いで書ける文ではない。まだ若い時期に書かれた一文ではあっても、そこには確かに、人生の重みが凝縮されており、この一文を書くに至るまでの葛藤が色濃く反映している。第10回の最後に、本間正義さんによる「瑛九の「雲」」からの引用を紹介したが、その引用箇所の印象的な表現が、ここでも想起される。
その印象的な表現とは、「瑛九の中にひそんでいた絵画的な郷愁」という一節なのであるが、この表現は、「私はかつて、画家であつた。」という一文に込められた杉田秀夫の心情を、的確に言い当てているように感じられる。「私はかつて、画家であつた。」、その潔いよい宣言の背後に見え隠れしている、後ろ髪をひかれるような心情、そこには、確かに、「絵画的な郷愁」が込められている、そう感じるのだが、どうであろうか。
人の形
前回紹介した小田急グランドギャラリーの「現代美術の父 瑛九展」に出品された、1931年制作のフォト・デッサン《題名不明》(fig.2)と、上記の試作5点(fig.3~fig.6)を、じっくりと見ていただきたい。fig.3 から fig.6 に見られる、「第1図」から「第5図」までの5点の試作は、おそらく1930年に制作されている。fig.2 の《題名不明》は、前回詳しくみたように、1931年に制作された作品とみなすことは概ね妥当である。つまり、《題名不明》の方が、5点の試作よりも後に制作されているはずである。
そのことをふまえると、何か、不自然な感じがしてくるのである。その不自然な感じ、違和感は、それぞれの作品に見えている人の形や、人体のパーツのイメージに由来する。最もわかりやすい例をあげて、具体的にみてみよう。「第4図」(fig.5)の基調をなすのは、踊り子のイメージである。バランスの取れたフォルムであり、曲線を主とする人体の完成度が高く、バレエシューズを着用したバレリーナのようなつま先まで再現性が高い。
何かおかしくはないだろうか。均整が取れたフォルム、人体の完成度が高い、つま先まで再現性が高い、そう、出来過ぎなのである。いま、「出来過ぎ」と書いてしまったが、なぜ「出来過ぎ」という言葉が出てきてしまうのか。それは、この踊り子のイメージが、「杉田秀夫が作った型紙」を用いて得られたものだということを、無意識に、前提にしてしまっているからである。そのことは、この試作よりも後に制作されたと判断できる《題名不明》と比較すると、よりはっきりする。
第11回で詳しく見たように、《題名不明》には、8つの人の形が見える。踊り子のようなイメージが多いが、その形は、切り絵といってよい平面的な形であり、杉田秀夫が自ら作った型紙が用いられていると判断して差し支えないだろう。例えば、足の先を見れば、足首から足の裏に相当するあたりは省略されており、先に行くほど細くなるだけの単純な形となっている。つま先まで再現性が高い「第4図」とは、大きな違いである。
1931年に制作された作品に用いられた型紙が、このようなものであるにもかかわらず、その前年、1930年に制作された試作のひとつである「第4図」に見られる、極めて完成度の高い均整の取れた人体のフォルムを示す型紙を、杉田秀夫が作ったのだろうか。その答えは、おそらく、否、だろう。前述した、不自然な感じ、違和感は、ここに原因がある。この「第4図」には、確かに「人の形」が見られるが、それは、杉田秀夫が作った「型紙」には由来していない、そう考える方が妥当なのではないだろうか。
そうであるにも関わらず、その「人の形」を、後年のスタイルを前提として、瑛九(杉田秀夫)が描いたイメージを切り抜いて作られた型紙に由来すると見てしまっているために、不自然な感じや違和感が発生するのである。とはいえ、この「第4図」に型紙が用いられた可能性が、完全に排除されるわけではない。仮に、型紙が用いられていた場合でも、既存のイメージを切り抜いたものである可能性が高く、杉田秀夫が描いたイメージを切り抜いた型紙である可能性は低いと推測できる、そのことが重要なのである。
型紙の由来
続いて、この「第4図」のバレリーナのようなイメージが、既存のイメージを切り抜いた型紙によって得られたものではなかった場合について、さらに考えてみたい。型紙でなければ、当然、何らかの既存の物体を用いたことが推測される。だが、留意しなければならないのは、この「第4図」に見られるバレリーナのようなイメージは、その輪郭がほとんどぶれることなく定着されている点である。
つまり、人形など、立体的な厚みのある物体ではなく、このようなシルエットの平面的な物体が用いられた可能性が高い、ということになる。そのような物体として可能性があるのは、切り抜き影絵、写し絵、嵌め絵など玩具に類するもの、ブローチやアクセサリーのような装身具、それら以外の雑貨類などであろうか。
重要な論点であるため、この「第4図」についての記述が長くなってしまったが、「人の形」についての考察を続けるために、5点の試作のその他のイメージについても、見てみよう。「第1図」(fig.3)、「第2図」(fig.4・左上)、「第3図」(fig.4・右下)、「第5図」(fig.6)には、下半身だけのイメージや足など人体のパーツのようなイメージを確認することができる。例えば、「第1図」の右下と「第3図」の右上に見える下半身だけのイメージは、同じモチーフを用いているように見える。
だが、その下半身のイメージが、型紙に由来するのか、平面的な物体に由来するのか、立体的な物体に由来するのか、それを判断するのは難しい。ここでは、『フォトタイムス』1930年8月号に掲載された「フォトグラムの自由な制作のために」に、杉田秀夫による試作として掲載された「第1図」から「第5図」に見られる人の形や人体のパーツのイメージが、以下のいずれかを用いて得られたものではないかという仮説を提示したい。
1:物体(立体的、平面的)を用いる
2:写真(原板、印画紙、印刷物)を用いる
3:既存のイメージを切り抜いた型紙を用いる
この仮説が重要であるのは、この時点では、「杉田秀夫が描いたイメージを切り抜いた型紙」は、まだ制作に用いられていなかったのではないか、ということである。逆の言い方をすれば、上記の3種類の方法を用いた制作を進める過程において、上記の「3」を発展させ、既存のイメージを切り抜く方法に限定されず、自分で描いた形を切り抜いて型紙を作る方法を思いついたのではないか、と推測することができる。
ここで、「フォトグラムの自由な制作のために」の文章の中に、これらの3種類の方法と関連する重要な記述を見つけることができるので、その記述を紹介したい。まず、「3」についてであるが、95頁・下段(fig.5)に、以下のような記述がある。
「私は例へば一つのシュウル・レアリスティクなコンポジョン(ママ)を製作するためにはきりぬいた女の足でも、撮影した一個の原板をも自由に使用する。」
「きりぬいた女の足」という記述が見られることから、すでに、杉田秀夫が、既存のイメージを切り抜いた型紙を作り、制作に用いていたとみなすことができる。また、同じ箇所において「撮影した一個の原板」の使用についても記述されている点は、極めて重要である。「第3図」の中央から下方、斜めの向きの矩形のイメージは、この「撮影した原板」によるものだろう。この方法は、上記の「2」に該当する。さらに、この記述に続く段落の冒頭には、次のような記述もある(引用注:下線の箇所は原文では傍点)。
「だから私のフォトグラムには女の顔もガイコツの寫眞もオドリ子のカゲ繪も出現する」
この記述をふまえて、5点の試作をよく見てみると、「第5図」の左下に「女の顔」を、
右中央に「ガイコツの写真」らしきイメージ(右側が上になる向き)を、見つけることができる。つまり、「女の顔」や「ガイコツの写真」は、多様な素材が使われることを示すための例として挙げられたのではなく、5点の試作において、実際に、「女の顔」と「ガイコツの写真」を使っているからこそ、このように書かれていると判断できる。
そのように考えると、最後に記述されている「オドリ子のカゲ絵」も、この5点の試作において、実際に使われているからこそ、そのように記述されているとみなすべきだろう。では、「オドリ子のカゲ絵」は、どこに使われているのだろうか。そう、「第4図」の基調をなす、バレリーナのようなイメージ、それが、「オドリ子のカゲ絵」である。
少なくとも、「女の顔」、「ガイコツの写真」、「オドリ子のカゲ絵」と、3つの事例が併記されていることをふまえると、「第4図」のバレリーナのようなイメージ=「オドリ子のカゲ絵」は、杉田秀夫が描いたイメージを切り抜いたものではなく、平面的な物体を用いているか(上記「1」)、既存のイメージを切り抜いて用いているか(上記「3」)、そのどちらかであると判断するのが妥当なのではないだろうか。
その上で、留意すべきは、「女の顔」と「ガイコツの写真」が写真的イメージとして出現しているのに対して、「オドリ子のカゲ絵」は輪郭として平面的に出現している点である。この点をふまえると、「オドリ子のカゲ絵」は平面的な物体を用いて得られたイメージである可能性が高まるだろう(上記の「1」)。最初期のフォト・デッサンの5点の試作を、「見ること」によって、ここまで到達することができた。
フォト・デッサンに登場する「人の形」を目にした時、それが何に由来するのかを、ほとんど意識しないで、見てしまっているのではないだろうか。フォト・デッサンに登場する「人の形」は、瑛九(杉田秀夫)が描いたイメージを切り抜いた「型紙」に由来するものである、そう無意識に前提としてしまっていると、「見ること」が、おろそかになってしまうのだ。だが、今回、1931年のフォト・デッサンと、『フォトタイムス』1930年8月号に掲載された5点の試作を、「見ること」によって、この5点の試作に見られる「人の形」には、型紙以外の何らかの物体に由来するイメージが含まれている可能性が高いことに、気がつくことができた。
このことは、瑛九(杉田秀夫)のフォト・デッサンにおける「人の形」と「型紙の由来」について考える手がかりとなる。その点をふまえて、次回は、より広い視野から、フォト・デッサンにおける「人の形」と「型紙の由来」について論じてみたい。
Face Up
今回、「I tried, but I can’t find you」というフレーズによって私をとらえた曲のタイトルが「Mr Disco」であることに、なんともいえない不思議な気持ちになる。前回、今回と、論述の中心が、バレリナーナや踊り子のようなイメージだったからである。もちろん、杉田秀夫の時代と、瑛九の時代と、ニュー・オーダーの時代は、「Mr Disco」の時代は、遠く隔たっている。けれど、スピンオフの論述と「Mr Disco」は、誰も知らない、誰も気がつかない、何かの理由で、どこかでつながっているのだろう。
踊り子、バレリーナ、ダンス、「Mr Disco」、ならば、いつまでもうつむいてばかりもいられない。そろそろ、顔をあげて、目の前に屹立する難題の壁に、直面しないとならないのだろうか。シューゲイザーには厳しいけれど、杉田秀夫も、「勇気を」、そう鼓舞してくれている。そんな気持ちがふとよぎる、聴こえてくるのは、ニュー・オーダーの「Face Up」。『Low-Life』のB面ラストを飾る「Face Up」に、身を任せるのも、悪くない。
(うめづ げん)
図版出典
fig.1:本間正義監修『瑛九作品集』有限会社ワタヌキ編集・制作、日本経済新聞社、1997年
fig.2:『現代美術の父 瑛九展』編集:靉嘔・魚津章夫・木水育男、瑛九展開催委員会、1979年
fig.3~fig.6:『生誕100年記念 瑛九展』宮崎県立美術館ほか、2011年
■梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。
・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」は毎月24日更新、次回は2024年9月24日です。どうぞお楽しみに。
●本日のお勧め作品は、瑛九です。

《題不詳 水彩》
1958年 水彩
イメージサイズ25.0×18.0cm シートサイズ38.0×29.0cm
自筆サインあり
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●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。

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