新連載:杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」第4回

グラスアート赤坂(1985)

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【図17】

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【図18】(作品写真2点)

 みすじ通り沿いの商業ビル。27店舗オール・バーのビルディング、しかも全店舗のインテリアデザインを10人の若手アーチストが手掛けるという、ディスコ「パラディアム」設計につづく磯崎さんのユニークな試みだった。

 オーナーが輸入ガラスを扱う会社だったので、ファサードは料亭の赤坂みすじ通りにふさわしい黒板塀ならぬ黒色ガラスで全面覆い、夜に内部点灯すると、保科豊巳の枝と和紙のオブジェが浮かび上がる。入り口くぐって非常階段の空間を見上げると川俣正の矩形材がらせん階段にまとわりついて、飛翔していた。10人のアーチスト選定を任された愛子さんが苦慮していたら、磯崎さんから「杣木もいれてやれよ」と一声かかり、急遽、503室に参加することとなった。

 画廊展示ならぬバーの内装とはいかなるものか?愛子さんと外苑前キラー通りへ若林奮(1936-2003)が手掛けたという、話題の『バー・ラジオ』を実地検分がてら訪れた。クールなバーテンダーにカクテルを注文し、心地よい雰囲気にひたった。赤さび色鉄板のバー室内の天井は星のような照明がキラメキ、狭いながらもエレガントな空間だった。

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【図19】

 翌年、もう一つ磯崎さんから制作依頼がきた。磯崎アトリエのノヴァビルからワンブロックはさんで篠山紀信邸が竣工した。むろん設計は磯崎さんで、ここに磯崎アトリエが引っ越すことになった。B2篠山紀信(1940-2024)の撮影スタジオ、B1磯崎アトリエ倉庫、1F磯崎アトリエ設計室、2F磯崎アトリエオフィス、3F篠山紀信夫妻住居である。

 磯崎アトリエは、まだコンクリを打ち抜いたままの床、壁、天井で、なんともひんやりとした景観であったが、磯崎さんは、2Fのモルタルスタッコ壁を着彩しろとのことだった。とうの昔にパレットからは遠ざかっていたし、杣木の技量も知らないであろうに突然話をふってくる磯崎さんの裁量にはビックリした。ボヤっとしていた頭のなかが真っ白になり、いきなり全力回転を強いられた。

 指定は、⑴水回り目隠し壁140x368cm、⑵秘書経理受付壁99x583cm、パソコンデスク上壁110x615cm、磯崎応接室153x285cm、の4面である。磯崎さんは、マチス画集「ダンス」からオレンジ、ブルー、グリーン、ヴァイオレットの4色を杣木に指示した。

 この時の現場担当も青木淳さんだった。色サンプル用に三x六モルタルボードを10数枚、刷毛、塗料シンナー、ビルテック原色の白+5色を準備してくれた。現場のペンキ屋はこの原色からあらゆる色をつくると講釈したが、職人の均質な塗りではなく、マチス風のペインタリーな筆致が欲しかったから、アトリエ53 ( ※杣木の所属した高尾の共同アトリエ ) から4人のメンバーを連れてきてモルタルボードに100色ほどの近似色+筆触のサンプルを作成して磯崎さんが一覧選定できるように立て掛けた。

 高尾の「アトリエ53」に立ち寄ったら、たまたま夏季課題だろうか臨時制作している女子学生がいた。80年代になってから、熱に浮かれたニュー・ペインティング流行りでほとほと嫌気がしていたが、彼女の作風は当時珍しくカラーフィールド系だった。そのころは芸大出身の画家、松本陽子も「アトリエ53」のメンバーの一員になったばかりで、造形大でも教えていたころだから、作風から見て、彼女はたぶん松本陽子の教え子だったのかもしれない。思い描いていたペインタリーなイメージにピンときて女子に塗り手の依頼をしたら、芸大の男子も1人つれてきた。

 彼女にはオレンジの水回り目隠し壁140x368cmとヴァイオレットの磯崎応接室153x285cm壁を左上から筆を返しながら縦に降りてくるモーションで、男子にはブルーの秘書経理受付壁99x583cmを左上から右横へ激しい縦振幅で進んでもらい、グリーンのパソコンデスク上壁110x615cmを左上から幅広刷毛でたっぷりのシンナーを含ませ縦方向に静かなスティン着色してもらう。これで、ぴったりうまく収まったと思って目を離したらときすでに遅し。言われもしないのに二層目に手がかかっていた。グリーンはどぎつく発色してダメ出し。ただちに塗り手を女子に変え、白を加えてにごしグリーンの縦返し塗りで彩度を抑え、なんとか収まった。磯崎さんからもこれでOKがでて、壁の彩色は成功し、ホッと一息つくことができた。当初、天井と床ともコンクリート打ちっぱなしの空間だったので、横長矩形壁の4色面は、ロシア構成風に映えた。

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【図20】

 だが、その後チョッと印象に残る出来事が・・・。われわれの壁塗り作業を監督していた青木淳さんが興に乗ったか広いフロアーを自らローラーで白く塗り始めたのだ。方向がなぜかあっちこっちで、ペインタリーな刷毛塗りの彩壁とは不調和だったが、いきなりペンキ塗りに化すアトリエ所員には驚いた。このときの青木淳さんにはたぶん、とても強い「白」への衝動が湧いたのであろう。けっきょく反響音や歩行感触を鑑みての磯崎さんの判断だろうか、青木淳さんの手になるローラー塗りの白いフロアーには重いブラウンの絨毯が敷かれた。

ジョセフ・ラヴさん(1929-1992)

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【図21結婚披露宴】

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【図22作品】

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【図23個展会場】

 上智大学のイエズス会神父にして、現代美術批評家、画家でもある名物教授だったらしい。造形大の同期生もモグリでアメリカ美術の授業を聴講していた。知り合ったきっかけは画廊を介して個展のためのシェイプト・キャンバスの制作を依頼されたからである。

 長さ4.5mにいたる屈折大型から10cmほどの極小四辺型まで、ラヴさんのイメージ原画からの作図、そして変形キャンバス制作から会場展示までを、ラヴさんの晩期までの展覧会3回ほど、お手伝いすることになった。

 まず1985年、川崎IBM市民文化ギャラリー個展のための5点の同型シェイプト・キャンバス制作が最初だったが、画廊主から「5点の変形キャンバスのフィルム画像を重ねたらピッタリ寸分のズレもなかったよ。」と言われ、ラヴさんのための変形木枠制作の精度にはお墨付きを頂戴した。たしか、愛子さんと同じ1929年生まれで、成田克彦(1944~1992)や篠山紀信(1940-2024)もラヴ神父のもとで結婚式を挙げている。

 カトリックの厳粛な式終了後に、新婚の成田さんの耳元でささやいたラヴ神父のユーモラスな一言に思わず腰砕けになった逸話とかを聞いたことがある。杣木が出会ったころは、ラヴさんは進行性の病を患っていた。上智大の半地下のアトリエでキャンバス制作を終え、杣木が日本酒が好きだと聞くと、ラヴ神父は四ツ谷駅から中央線に乗って阿佐ヶ谷のとある飲み屋に連れて行ってくれた。偶然!そこは、オーナーはすでに変わっていたが、杣木が18歳から大学入学まで入り浸った呑み屋だったのだ。ラヴさんはこのころからすでに、どことなくギクシャクしたのろい歩行だった。後日、成田さんにラヴ神父の病を知らせると、ひとり四谷の宿舎に見舞われたらしいが「満足にコミュニケーションとれなかったよ」と残念そうだった。

 やがて歩行も困難になり、発声も衰えて車椅子の生活になったが、イエズス会を去られて、ずっとラヴさんの身辺世話に付き添ってこられたダンサーの嵩康子さんとむすばれた。ラヴさんと親しかった郭仁植さん(1919-1988)のアトリエと縁のある稲城市に転居されたが、ドローイング額装の設置などでなんども伺うことになる。

 ラヴさんの美術批評は寡聞にして知らなかったが、古い『美術手帖』の李禹煥とラヴさんチハーコヴァーの鼎談で、ジョン・マクラッケンの滑らかなカラーの壁に立てかけた「板」に言及し、李が「知的な側面もわかるけど・・ああ、イイ線いってるな」・・ラヴさんが「・・言語の分析という感じもするんですね、あるいは言語的にものを認識すること」と語った興味ぶかいくだりを覚えている(註1)。介護するお手伝いさんも居たのだが、たまたま夫人が仕事で留守中に1992年4月15日、誤嚥性肺炎で亡くなられた。そして同年、4月25日、杣木にしてみればまるで後を追うかのように成田克彦も亡くなる。なんとも残念の極みであった。

 愛子さんの〈うつろひ〉海外設置がつづいた。1997年5月24日(土)に愛子さんが病に倒れたという知らせを受けた。熱川の病院付帯の温泉施設でリハビリに励まれたあと、たまプラーザの施設に移動され、ここでの隣室に山口勝弘さんが居て黙々と絵を描いていた。そして、2000年代になっても、海外からの〈うつろひ〉設置依頼は依然続いたのである。

 このころ杣木は2か所ほど教える業務にかかわったので、宮脇さんの日常からすこし足が遠のいていた。アシスタントの松田昭一は設置依頼現場と〈うつろひ〉で引き立てるみごとな画像を編集し、プレゼンテーションを纏めあげた。そして〈うつろひ〉設置スケジュールを組み、海外からの〈うつろひ〉設置依頼をつぎつぎと実現させていったのだった。

 愛子さんの体が不自由になったこともあり、海外の〈うつろひ〉取り付けプロジェクトには杣木にもつねに声がかかり同行させてもらうことになった。

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【図26】

マイン・フォーラム鉄鋼労連前庭(2004)、矩形水面、(ゲーテ誕生の地フランクフルト、ドイツ)

 マイン川を背に、通りにコの字型に面した重厚な建物の中庭である。細長いタイトな矩形水面に、かなりの数のワイヤーを展開しなければならず、ぐるりと一周できるサイトに対応するのはとても難しい。夜景をチェックがてら愛子さんも車で何度も周囲を巡りワイヤーの姿形確認に怠りなかった。
フランクフルト空港はアジアの空港の喧噪と違い、整然としていた。

 われわれの記録撮影していた現地カメラマンが車で近くのパブへ連れて行ってくれたが、時間が早かったせいか、老人男女がリンゴ酒のジョッキで宴たけなわであった。東洋からの珍客に気さくに声をかけてきたが、5時を回ったころだろうか、決められていたかのように整然と引き揚げたのだ。このあとは若者たちがくるというから、ドイツの老若の合理的な住み分けには少しおどろいた。

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(2005)アル・ワブラ・ファーム内、矩形水面、(ドーハ、カタール)
 施主は日本でいう文科省大臣だったが、リべラルな人物で、ただ1人の妻帯と聞いた。建設現場にコーランの読経が響き渡ると、作業員たちはいっせいに祈りの場へ向かう。トイレには水道ホースしかないので、ホテルからロールペーパーを持参した。

 中途から〈うつろひ〉設置工事を観に、「カスヤの森現代美術館」主宰の若江漢字夫妻がみえた。広大すぎる庭?は車で巡回できる世界の希少種を集めた野生動物園だった。若江夫妻と半日かけて車で回った。また夫妻に誘われて、砂漠をサウジアラビア国境まで高速ジープでアクロバット走破するラリーに参加した。

 滝田、松田、杣木、磯崎アトリエの阿川尚史さんと砂漠走行のために空気圧を抜いた日産車に同乗したが、運転手はリーダー格で、転倒してもおかしくない巨大な蟻地獄からの螺旋走行では遠心力で砂塵を巻き上げ、一番の運転技術を披露してくれた。這い上がったときは驚異的なジャンプで着地した。

 夕暮れも迫り、帰途、ペルシャ湾岸で一行休憩したが、このとき生まれて初めての「無音」体験をした。いや、ペルシャ湾に打ち寄せる静かな波音以外は砂漠がすべての音を吸収しているのである。当時ペルシャ湾の北方、イラクでは湾岸戦争たけなわだったのが信じられなかった。

 さて、〈うつろひ〉設置がほぼ完了かというときに、事件が起きた。数億円はくだらない「隕石」の展示をめぐって、所有が国か個人かを兄弟から告発された。シェイクサウド王子はロンドンへ逃れ、私邸の工事現場に出入りする我々も、帰りに不正な持ち出しが無いかどうか、厳重な手荷物検査をうけることになってしまった。しかし〈うつろひ〉工事自体は安寧に終えることができた。

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【図32】花蓮空港(2007-2008)、〈うつろひ〉の柱上設置、(台湾)

 台湾の太平洋側、花蓮へは台北からプロペラ機に乗り継いで高い山脈を越えなければならない。小ぶりなプロペラ機入り口へは梯子のような階段を上るのだ。なんと愛子さんも車いすを降りて、不自由な左半身ながらも、ほぼ四つ這いで搭乗された。われわれは愛子さんに満足なサポートをしようもなかったが、仕事に旅慣れている人だから状況の見極めも素早く、不平など一言も漏らさないのには頭が下がる思いだった。

 花蓮での食事はとても美味だった。たまに出会う創作物はいただけなかったが。お茶も標高によって玉露から多種ありじつにおいしい。花蓮のマンボウ料理は有名で、愛子さんとレストランで昼食した。

 花蓮空港は、民間機と空軍が共用していたのだ。離陸して気づいたのだが、上空から見下ろすと、戦闘機を芝生でカモフラージュした1機分の格納庫が空港のあちこちに点在していた。

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【図33】2009年9月20日に磯崎さん主催で愛子さんの傘寿を祝った。

 レストラン「アクアパッツァ」で、磯崎さんが持参したワインを開けて祝杯した。あらかじめシェフから好み伺いがあり、坂田栄一郎さんから魚料理の注文があった。酒井忠康さんと高橋悠治さんもみえた。沢木耕太郎さんの、淀川長治が映画に造詣の深い当時美智子皇后にご進講した際のおもしろいエピソードなどなど。たのしいひと時を過ごす。沢木さんから愛子さんにイスラーム学者、井筒俊彦著『意識と本質』のおすすめあり、さっそく六本木の書店に買い求めた。

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【図34】

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【図35】南港駅エントランスの左右に〈うつろひ〉設置(2011)。(台北、台湾)

 早朝、ホテルからほど近い、「二二八和平公園」を散歩した。かつて1947年2月28日、たばこ専売をきっかけに官憲による老女殴打事件から発生し台湾全土に広がったという蒋介石一党による本省人(台湾人)虐殺のメモリアル。広い公園はのどかで、老人たちが太極拳をしていたが、カセットテープを流しながら年配二人組の女子が手を取り回りながらハイテンポで踊っていた。よく聞くと日本の春日八郎の唄だったのには驚いた。

 当時、磯崎アトリエの楊さんには、花蓮空港でのプレゼンテーション(2007)のときから、愛子さんとスタッフは、ホテル内から移動までずっとお世話になっていた。南港駅〈うつろひ〉設置のときも、愛子さんの現場のために実家から駆けつけてくれた。このとき楊さんは出産してまもない身にもかかわらず、われわれの滞在中はずっとホテルに同宿してくれた。

南港駅建設たけなわの現場においては、入り乱れる職人たちに、母国語でつねに適正迅速な指示対処していただいた。

(そまき こういち)

註1:「東と西そのこころと美術」ヴラスタ・チハーコヴァー/ジョセフ・ラヴ/李禹煥『美術手帖』1974.1月号.pp.216

杣木浩一
1952年新潟県に生まれる。1979年東京造形大学絵画専攻卒業。1981年に東京造形大学聴講生として成田克彦に学び、1981~2014年に宮脇愛子アトリエ。2002~2005年東京造形大学非常勤講師。
1979年真和画廊(東京)での初個展から、1993年ギャラリーaM(東京)、2000年川崎IBM市民文化ギャラリー(神奈川)、2015年ベイスギャラリー(東京)など、現在までに20以上の個展を開催。
主なグループ展に2001年より現在まで定期開催中の「ABST」展、1980年「第13回日本国際美術展」(東京)、1985年「第3回釜山ビエンナーレ」(韓国)、1991年川崎市市民ミュージアム「色相の詩学」展(神奈川)、2003年カスヤの森現代美術館「宮脇愛子と若手アーチストたち」展(神奈川)、2018年池田記念美術館「八色の森の美術」展(新潟)など。制作依頼、収蔵は1984年 グラスアート赤坂、1986年 韓国々立現代美術館、2002 年グランボア千葉ウィングアリーナ、2013年B-tech Japan Bosendorfer他多数。

・杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」次回は10月8日の更新を予定しています。どうぞお楽しみに。

●本日のお勧め作品は、磯崎新です。
06_club-house“CLUB HOUSE”
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:55.0×55.0cm
シートサイズ:90.0×63.0cm
Ed.75
サインあり
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創作版画から戦後版画へ
会期:2024年9月26日(木)~9月28日(土)
9月28日(土)15時より、桑原規子先生のレクチャーとサイン会(予約不要)。
魔法陣出品予定:恩地孝四郎、関野準一郎、吉田千鶴子、川西英、畦地梅太郎、長谷川潔、山林文子、前川千帆、駒井哲郎、内間安瑆、内間俊子、他

 

●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
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杣木浩一作品