杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」
第5回 制作の起源 前編

原因1 勾配

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【fig.1反りと反り,むくりと反り2020】

12才(1964)、小学教諭に引率されて代々木オリンピック室内競技場でバスケットボールを観戦したが、渋谷へ下る施設の道沿い、扇の勾配を模した規格御影石のモルタル積みが、児童の眼にも貧相だった。初めてみた二棟のモダンな巴つり屋根建築(設計、丹下健三1913~2005)が青空のもと、とても新鮮だったので、まあまあ腹に収めた。

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【fig.2代々木室内競技場1964】

14才(1966)から江戸城趾の石垣に魅せられて、いっとき毎日曜日には通い詰めたが、平川濠石垣高は20mちかくあろうか。この豪壮なスケール(慶長19/1614)はとてもじゃないが、代々木オリンピック施設の石積みの比ではなかった。

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【fig.3平川濠1600年代】

当時、平川濠まわりとモダンな「毎日新聞本社ビル」「東京国立近代美術館」の低層が景によくなじんでいた。中学(1967)で訪れた京都で、庶民宅の自然石積みを見て、関東の規格工事しか知らなかった眼にはいい風情だった。北の丸東京国立近代美術館の植栽まわりが、目の前の濠を意識してかモルタル接着の穴太(あのう)積みもどきで、これはいただけなかった。

この辺り、警視庁第一機動隊の右折道路(1926)で巨石を崩したまんまの不始末が、ちょうど右手に近代美術館が立ちあらわれる視角なので、ちぐはぐな景観になっていた。

北の丸から北詰橋門を入ればすぐに天守台に直行できた。それはそれは巨大な石組みには威
圧された。古代ローマ技術に比すれば、つたない部類なのだろうが、それでも急ごしらえの近代工法より江戸城址に見るテクネーのほうがはるかに魅力的だったのだ。   

当時、北の丸、赤レンガつくりの近衛師団庁舎(1910田村鎮)はなぜか出入り禁止の柵も無く荒廃していた。むくむくと冒険心が煽られ、勝手に入って建物の階段をのぼり降りして恰好の探索コースにしていた。ここは取り壊し危機の渦中だったようで『芸術新潮』で北の丸公園一角の再開発を危惧する記事を覚えている。後に国立近代美工芸館として鉄筋補強(設計、谷口吉郎)リニューアルした時期(1977)にふたたび訪れている。

こんなあんばいだったので、16才(1968)で里帰り、父と歩いた国上山(くがみやま314m)蛇崩(じゃくずれ)から日本海に臨む不自然に平らな山頂(246m)を遠望したとき、すぐに山城跡だと直観できた。上杉謙信(景虎16才1546)が黒田一族を攻め滅ぼした曰くつきの「黒滝城址」だと知る。
目黒八中から新潟巻高校に引き籠もり(1968~1970)環境が激変した。はじめは水道すら無く、井戸と山からの湧水を引く貧困なインフラだったので、渦中の大阪万博(1970) 情報と、身辺いにしえの遺構とが混沌としていた。そう!良寛(1758~1831)の奇妙な書体も。【fig.4】        

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【fig.4「いろは」128×44cm良寛(1758-1831)】

原因2 切る、16才

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【fig.5,6,7国上(くがみ)宅】

ほどなく国上(くがみ)の実家リノベーション工事(1968)が始まった。入り口中二階、煤だらけで作業していた大工が「日本刀が出たぞ!」と叫んだ。黒錆びた剥き身の直刀だった。棟上げ時に祓いで置いたのだろうか。そしてこの家の15畳大黒柱神棚の間、第2の囲炉を潰すと、灰の下からも赤錆びた日本刀大小が出て来た。なにしろ零落した涌井庄屋の前屋敷跡に建てたと伝わるから先祖が地鎮で置いたのだろう。

この土地の生命力というべきか、雪解けとともに、飛来した草木の種がいっせいに芽吹き、放っておけば藪と化す。枝下ろしには「長則」銘の二丁のナタを用いた。大小出刃包丁とともに刀鍛冶が打ったものだと祖母から聞いたが、砥ぎやすくおりの良い天然砥を当てると刃金と柔らかい地金の鍛造紋がきれいに浮かんだ。切れ味がとてもよく、庭の直径8~9cmの太い孟宗竹も斜めに下ろすとスパンと切れた。寺泊から荷を担いでくる女行商太蔵(たいぞう)さんも「長則」の小出刃でヒラメを刺身にしてくれた。素材にスッと食いこむ感触は抜群で「長則」作のなかで、この出刃包丁の硬度が一番高かったかな。

起伏ある1000坪に欠ける国上の敷地には、境界の杉、ケヤキをはじめ、年々、地下茎とともに少しずつ移動する孟宗竹の群生。ツツジ、さつき、柿、椿、シキミ、サカキ、果樹などなど3月雪解けから一斉に勢いづく。その枝下ろしに終始した。ノコギリで伐採しナタで叩き切る。3年間でナタの刃味が身に染みついた。伐採しながら、木々の粘り硬さもろさ知る。またたく間に伸びる桐は年輪がなくて柔らかいので美術部で平面作品コラージュに加工した。 

高校から帰宅すると大工の造作を見て回わった。道具箱の手入れされたカンナ、鋸をこっそり使って接手仕口加工の練習をしていた。

近所には与助大工がいた。小柄で農村ではめずらしく背筋が伸びた老人だった。ある日、祖父が転がっていた杉板のブロックをかかえて将棋ともだちの与助宅へ行ったが、数日後、木の香もすがすがしい羽釜の木蓋を持って帰ってきた。それは直径34cm厚さ7cm二本の摘み仕口加工がピッタリ見事だった。じつは囲炉裏間四方の曲がった梁に渡した天井貼りも与助の仕事で、そのきれいな仕事には感心していた。親父に頼んでもらって家の杉材で、F 50号の木枠を作って貰ったら、これまた美しい直角の合わせ面で、キャンバスを張るのももったいないくらいだった。国上村落には無名の大工たちがピンからキリまで居たのだ。

ところで今アトリエで使っているノコギリは、父が刃物製造の町、三条に出向いたおり、安来ハガネの両刃鋸1本 ! 胴突き鋸2本!! 細工用細身鋸(中屋貞二郎作/杣木銘入り)1本 !を買ってきてくれたものだ。なんで? 父の動機がさっぱり読めなかった。そういえば、小2(1961)のころも『学生版原色植物図鑑(園芸編、野外編)牧野富太郎(1862-1957)著』を会社帰りの土産にあてがわれた。たぶん春先に母がばら撒く庭の草花への朝夕水やりを出勤前に見ていたのだろう。

高校の学業もそこそこに大工のカンナ鋸を勝手に使って、余材にホゾ穴加工して椅子を制作する姿を父が見かねたのだろうか。ノミとカンナは高校の帰途、大工古道具店にたちよってはコツコツ買いそろえていた。

原因3 illusion
17才(1969)油絵予備校で再現的なillusionに初めて接し、知覚は訓練であり、それを表現することがいかに困難かに直面した。これはかなりの驚きであった。桐弘史郎(1936~)講師はもっぱら「これだよ、これで行こうよ!」という「眼技体感」の直観講話で、副読本は『芸術の意味』ハーバード・リード(1893-1968)『デッサンのすすめ』伊藤廉(1898-1983)、『油彩画の技術』グザヴィエ・ド・ラングレ。たいへん良書ではあった。

夏季上京した同じころ、近代美術館でフォンタナ《空間概念》も見ていて、キャンバス地への切り込み弧線のillusionは目に鮮やかだったが、夏季講習の油絵デッサンのillusionとはいまだおおきく隔たっていた。当時はコンラート・フィードラー(1841-1895)の色と形の自律する自然なんぞ知る由もなかったから、抽象への手がかりも無く曖昧模糊のまんま彷徨するはめに。

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【fig.8木炭デッサン(1970)】

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【fig.9木炭デッサン(1970)】

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【fig.10鉛筆デッサン(1974)】

原因4 成田克彦の忠告!気取られない存在の愉悦
24才にして、ながいミメーシスの呪縛からやっと解き放たれ、抽象へジャンプできたのが、成田のシェイプドキャンバス実習においてであった。

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【fig.11,無題、1977.lacquer,合板】

いささか迂回してしまった。だから成田克彦との出会いは肝要である。

そうして絵筆に代わって、16才(1968)のときに揃えておいた、鋸やノミ、カンナ一式が、成田克彦の課題制作(1977)において息を吹き返したのである。                         

※付記、2023年12月に成田夫人を介して観た小学時代の『せむしの仔馬』の紙芝居絵47点一式。成田10歳前後に遡ろうか?しかしこれはのちの成田克彦の強い知性と地続きなのだと思うと感慨深かった。ピカソ、デューラーの児童画を鑑みても。

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【fig.12『せむしの仔馬』ピョートル・P・エルショーフ(1815-1869)成田克彦(小学生)】

ところで、じつにふしぎなのだが、80年代成田克彦作品一連の「兎毛コラージュ」作品からは想像もつかないだろうが、杣木聴講の2年間(1979-1980)、いや、最初の成田との出会いに遡れば(1977~)足かけ4年ものあいだ、杣木に接するときの成田の姿勢、それは象徴titleを付した晩年の『一遍上人絵伝』(1985)や『生命の樹』(1989)までのデコラティブなミクストミディアム表現とはじつに真逆の世界観だったのだ。

成田の杣木への忠告!とは、わが身息を「吸う」「吐く」がごとく「気づきさえしない」「気取られない存在の愉悦」であり、アーティフィシャルジェスチャーをとことん削ぐ姿勢だったのだ。こういう成田の徹底したアドバイスには、目からウロコ、制作しながらたいへん感化されたものだ。

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【fig.13,14.175x25cmx4亜鉛箔粉、acrylic研ぎ出し、合板 ギャラリー山口(1980)】

「息づかい」のようなエロスは硬直がほぐれる古代ギリシャ彫像のように、だから水平面のパネル四隅を秘かにたわませ、あるいは切り込みわずかに反り曲げる仕掛けにはとてもこだわらざるを得なかった。幾何形体ながら、それはどこか人像的(アントロポモルフィズム)でさえあった。これが当時、杣木が成田克彦に見ていた感性だったのだ。そのころアクロバティックな合板曲げ技巧にいささか悦に入っていた杣木をつよく是正するものだった。     

この微妙な曲面にふさわしい反りとムクリの反転するカーブ(凸凹とも同じ曲率)の出し方を探していた。フラット面から徐々にカーブしてパネルコーナーで最大の曲率にいたる。それは双曲線に似たイメージだった。したがって合板に物差しで、放物ラインを引く方法を考案しなければならなかった。「反りライン」は江戸城石垣の切り立つ垂直線からだんだん裾野に向けて広がる「宮勾配」が、「ムクリライン」はガウディの「逆さ縄垂れ」の尖塔ラインが思いえがかれた。

(そまき こういち)

杣木浩一(そまき こういち)
1952年新潟県に生まれる。1979年東京造形大学絵画専攻卒業。1981年に東京造形大学聴講生として成田克彦に学び、1981~2014年に宮脇愛子アトリエ。2002~2005年東京造形大学非常勤講師。
1979年真和画廊(東京)での初個展から、1993年ギャラリーaM(東京)、2000年川崎IBM市民文化ギャラリー(神奈川)、2015年ベイスギャラリー(東京)など、現在までに20以上の個展を開催。
主なグループ展に2001年より現在まで定期開催中の「ABST」展、1980年「第13回日本国際美術展」(東京)、1985年「第3回釜山ビエンナーレ」(韓国)、1991年川崎市市民ミュージアム「色相の詩学」展(神奈川)、2003年カスヤの森現代美術館「宮脇愛子と若手アーチストたち」展(神奈川)、2018年池田記念美術館「八色の森の美術」展(新潟)、2024年「杣木浩一×宮脇愛子展」(ときの忘れもの)など。
制作依頼、収蔵は1984年 グラスアート赤坂、1986年 韓国々立現代美術館、2002 年グランボア千葉ウィングアリーナ、2013年B-tech Japan Bosendorfer他多数。

・杣木浩一のエッセイ「宮脇愛子さんとの出会い」次回は1月8日の更新を予定しています。どうぞお楽しみに。

●本日のお勧め作品は、磯崎新です。
isozaki_w051_kiri1「霧 1」
1999年
シルクスクリーン
イメージサイズ:58.3×77.0cm
シートサイズ:70.0×90.0cm
Ed.35
サインあり
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講師:関康子NPO法人建築思考プラットフォーム理事)、大澤勝彦(元ヤマギワ勤務、㈱唯アソシエイツ代表取締役)
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75_Kuramata Shiro_案内状 表面

 

●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
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E-mail:info@tokinowasuremono.com 
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営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
杣木浩一作品