平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき
その35 銀座—関東大震災から百年の建築マップ
文・写真 平嶋彰彦
昨年の10月にいつもの仲間と銀座の街歩きをした。集合場所は三越のライオン像の前(ph11)。通りの向う側に目をやると、いつのまにか三愛ビル(三愛ドリームセンター)がなくなっていて、工事用のフェンスで囲われていた(註1)。
三愛ビルは東京に出てくる前から知っていた。というのも、60年以上も前のことだが、テレビのプロレス中継は、銀座の街並みの映像からはじまった。画面手前は三菱のマークの三愛ビル、その奥に森永の広告塔。晴海通りを俯瞰したアングルで、たしか夜景だった。三愛ビルが最近まであったビルに建替えられたのは1963年。前回の東京オリンピックの1年前である。この年に力道山が暴力団に刺され、その傷がもとで死亡する事件があった(註2)。
テレビのプロレス中継を、山ひとつ向こうにある村まで見にいったことがある。雑貨屋をかねた自転車店があり、客寄せにテレビを置いていた。テレビ・洗濯機・冷蔵庫は、三種の神器とも呼ばれ、大半の日本人にとって憧れの的だった。
三愛ビルは地上9階・地下3階の円筒形ビルで、地上部分は総ガラス張りだった。一目見ただけで脳裏に焼きつく。設計は林昌二(日建設計)。私が勤めた毎日新聞の東京本社はパレスサイドビルのなかにあった。この地上9階・地下6階建てビルも林昌二の設計である。長方形の箱を喰い違いにならべた構造で、接合部分の両端に白亜の円筒が屹立する。三愛ビルを思わず連想させる奇抜で秀逸なデザインなのである(註3)。

ph1 バー・ルパン。1928年、カフェーとして創業。1936年、カウンターバーに改装。菊池寛、川端康成、太宰治など文壇の名士が常連だったことで知られる。中央区銀座5-5-11。2006.12.14

ph2 銀座通り、銀座4丁目交差点。和光ビル。現在の時計塔は2代目で、竣工は1932年。関東大震災復興の象徴として建設され、銀座のランドマークとなった。左端は2023年に取り壊された三愛ビル。銀座4-5-11。2009.8.19

ph3 晴海通り。歌舞伎座の旧館。竣工は1924年。1945年の大空襲で被害をうけるが、1951年に修復した。“歌舞伎座さよなら公演”を興行中の撮影。老朽化のため、2010年に解体工事がはじまり、2013年に歌舞伎座と歌舞伎座タワーを合せた複合施設として再建された。銀座4-12-15。2009.8.19

ph4 銀座通り。ビヤホールライオン銀座七丁目店。大日本麦酒の本社ビルとして1934年に竣工した。1階のビヤホールは現存する日本最古のもの。アールデコ風の装飾や正面奥のモザイクスタイルの壁画など、店内はほぼ開店当時のままだという。銀座7-9-20。2009.8.19
三愛ビルがそこにないことが分かったとき、はっとした。きちんと撮った記憶がないからである。しかし、はす向かいの和光ビルは撮ったことがある(註4)。ハードディスクの画像を探してみると、三愛ビルがかろうじて写っている画像があった。ph2がそれである。撮影日は2009年8月19日。私はこの月の末日に毎日新聞社を退職した。
ph3の歌舞伎座とph4の銀座ライオン7丁目店の写真もこの日の撮影である。撮影メモには「日本橋・銀座界隈/築地まるかじり」とある。定番になっていたムックの仕事を手伝ったのである。10時に日本橋で撮影を始め、中央通り沿って京橋・銀座界隈をあちこち歩いてまわり、ライオン7丁目店・歌舞伎座・和光ビルを撮ったあと、引き返して日本橋の夜景を撮っている。
画像を改めてみると、和光ビルは現在のようにライトアップされていない。物足りない気もするが、おとなしく眠るさまも悪くない。画面左端が三愛ビルである。こちらはこのときとばかりに厚化粧している。歌舞伎座は建て替え前の旧館で、「さようなら公演」の垂れ幕が下がっている。ライオン7丁目店は、1934年に開店したころの面影をそのまま残している。2022年には国の登録有形文化財(建造物)になった(註5)。
退職時に私が所属していたのは、写真職場ではなく編集職場だった。最後に編集したのが『宮本常一が撮った昭和の情景』(上下巻)である。『宮本常一 写真・日記集成』(上下巻別巻1)の普及版だが、時系列のページ構成を地域別に組み直し、日記を省いた代わりに、写真キャプションは大幅に書き直しをしている(註6)。発売は退職2カ月前の2009年6月10日。企画段階では不評だったが、予想に反して、売れ行きは好調で、8月半ばには4刷となり、その度ごとに音羽のフクインまで印刷立ち合いに出向いた。すっかり忘れていたが、それと前後して、銀座の写真も撮っていたのである。

ph5 交詢社通りと銀座鈴らん通りとの交差点。交詢ビルディング。交詢社は1880年、福沢諭吉が設立した日本最初の社交クラブ。旧ビルは、1929年の竣工。チューダー朝ゴシック様式の歴史主義を基調に、アールデコの意匠を取り入れたもので、昭和初期を代表する建築。2004年、一部を残し、建て替えられた。銀座6-8-7。2016.1.27

ph6 外堀通り、銀座西6丁目交差点。電通銀座ビル。1933年の竣工。1階のガラスブロックや2階より上のシカゴ窓などが特徴の昭和初期のモダニズム建築。1967年に築地新社屋へ移転するまで、本社ビルとして機能した。銀座7-4-17。2012.10.31

ph7 銀座柳通り。ヨネイビル。機械・資材等の輸出入を営む米井商店の本社ビルとして1930年に竣工。中世ロマネスク風のデザインで、玄関や窓のアーチに特徴がある。1階は現在、芦屋(兵庫県)の老舗洋菓子店が入居している。銀座2-8-20。2010.11.17
銀座といえば、松屋デパートの向かいに、松島眼鏡店があり、その3階が写真ギャラリー・ニコンサロンになっていた。連載33でも書いているが、1968年の9月、慶応大学カメラクラブと合同で「早慶写真展」を開催した(註7)。慶応の作品は覚えていないが、早稲田の作品は『異邦』と題した共同制作だった。私が大学4年のときである。毎日新聞社の入試は7月で、この共同制作の撮影と重なっていた。
開催中に森山大道がギャラリーを訪れることがあった。私たちは森山大道の名前すら知らなかった。撮影した人たちから話を聞きたいというので行ってみると、写真の撮影地についてあれこれと質問を受けた。コート姿の身なりはきちんとして、ていねいな言葉づかいだったから、銀行かどこかの会社に勤めるアマチュア写真家ではないかと思い込んでいた。
ところが、その男性が帰ったあと、会場にいた明治大学の学生から、あれはいま話題になっている写真作家の森山大道で、『にっぽん劇場写真帖』という写真集を出したばかりだと教えられた。その日の夕方のことになる。早慶展の中心メンバーだった宇野敏雄君や鴨田十郎君たちとJR有楽町駅まで歩いて帰る途中、晴海通りにあった近藤書店に立ち寄ると、店先に『にっぽん劇場写真帖』が平積みになっていた(註8)。
ページをめくっていくうちに、激しい衝撃を受けた。これを報道写真と見る人はいないかもしれない。しかし、1960年代後半という自分たちの生きた同時代が写真に脈打っているのは紛れもない。写真の時代が変わる予感がした。価格も980円で、写真集としては破格の値段だった。すぐに写真集を買い求めた。
近藤書店の3階には洋書専門のイエナ書店があり、美術本のなかに写真集も置いていた(註9)。ウィリアム・クラインの『ニューヨーク』と『ローマ』、ロバート・フランクの『アメリカ人』はイエナで注文して手に入れた。というよりも、妻が買ってくれた。結婚する前のことである。彼女の勤め先が虎ノ門にあり、待ち合わせ場所のひとつがイエナだった。いまごろになって、妻はあれが自分の不幸のはじまりだというが、あとのまつりである。
毎日新聞社に入ると西部本社写真部(北九州市小倉北区)に配属された。銀座のイエナ書店と近藤書店で購入した4冊を持って赴任した。いずれも1950年代から60年代の「ビートニク」の思想や生きざまをむき出しにした異端の写真である。新聞社での仕事に役立つどころか、障害になりかねない気もしたが、いい加減な仕事をしないための座右の書になると考えたのである。

ph8 昭和通りが晴海通りと交わる三原橋交差点。改造社ビル。改造社は円本や雑誌『改造』でしられる出版社で、1919年の設立。ビルの竣工年は不明だが、震災後の建築と思われる。塔屋のついた三階建ビルの中央から右側は大幅な改修をしているが、左側は建築当時の面影を残す。銀座5-13-18。2024.10.24

ph9 花椿通りと銀座すずらん通りとの交差点。第一菅原ビル。1934年の竣工。菅原電気は日本における電気洗濯機やミキサーの開発に先駆的な役割を果たしたという。現在は2階と3階には椿屋珈琲本店が入っている。銀座7-7-11。2024.10.24

ph10 みゆき通り。泰明小学校。1878年の創立。もとは赤煉瓦の校舎だったが、関東大震災で全焼、現在の校舎は、震災復興事業の一つとして鉄筋コンクリート造りで再建され、1929年4月に落成式が行われた。銀座5-1-13。2021.4.15
この原稿を書きながら、『銀座建築マップ101/大正12(1923)年-昭和14(1939)年』を思い出した。1923年とは、いうまでもないが、関東大震災が発生した年である。「101」の数字は大震災の後につくられた銀座の代表的建築のこと。その在処と地割を地図(1930・昭和5年の『復興大銀座地図』)に落とし込み、さらに取り上げたすべての建築の写真を掲載している。
この地図は資生堂『銀座モダンと都市意匠』展のカタログ(1993)の付録として制作された。銀座の黄金時代が居ながらにして分かる格好の資料で、なんどみても見飽きることがない。このカタログの企画・編集は資生堂企業文化部とアルス・マーレ企画室。アルス・マーレはときの忘れものの前身で、綿貫不二夫の主宰である。企画・編集ばかりではない。綿貫は「資生堂ギャリーと建築家たち」も執筆している(註10)。
銀座が全国各地の繁華街の代名詞となるのは、大正から昭和にかけての時期だとされる。大正から昭和にかけての最大の事件のひとつが関東大震災だった。1972(明治5)年に大火があり、そのあと銀座通りに沿って銀座煉瓦街がつくられた。しかし、文明開化のシンボルともなったこの西欧風の街並みは、建物が倒壊するに加え、火災を引き起こし、ほぼ全域が焼野原になった。未曽有の災厄を目のまえに、銀座の商店街は結束して復興に立ちあがった。被災直後にそれまであった場所にバラック建築の仮店舗を再建すると、11月上旬までに開店にこぎつけ、いっせいに年末売り出しを行なった。商店街の規模や集客力もさることながら、そのときの銀座商店街の復興への取り組み方が語り草となり、理想的な商店街の代名詞になったのではないだろうか(註11)。
大震災直後のバラック建築については連載33でも触れた。今和次郎は東京美術学校の後輩たちと大震災直後の9月中に、「バラック装飾社」を起ち上げた。彼らが「野蛮人の装飾をダダイズム」の方法で手がけたひとつが、銀座のカフェ・キリンだった。その場所も『銀座建築マップ101』で確認できる。銀座通りの東側、銀座2丁目の3丁目側から数えて3軒目の一画である。カタログ『銀座モダンと都市意匠』に目を転じると、藤森照信が「銀座の都市意匠と建築家たち」の論考を寄せている。カフェ・キリンについても詳しい解説があり、場所は伊東屋が現在あるところ(銀座2丁目7)だと書いている(註12)。

ph11 中央通り、銀座4丁目交差点。銀座三越畫店正面入口のライオン像。銀座三越の開業は1930年。このライオン像は1972年に三越創業300年の記念事業として鋳造された。銀座4-6-16。2024.10.24

ph12 外堀通り、銀座西6丁目交差点。電通銀座ビル玄関左上の吉祥天像。吉祥天は福徳の女神とされる。玄関右上には広目天像。銀座7-4-17。2016.1.27。

ph13 銀座マロニエ通り。中華そば萬福の招き猫と福助。大正時代に屋台からはじめ、1929年に現在地に店を構えたという。銀座2-13-13。2024.10.24

ph14 あづま通り。あづま稲荷大明神。戦後のある時期、あづま通りと三原小路に火災が続いた。それをきっかけに、町内一同で相談し、京都伏見稲荷を勧請したとのこと。銀座5-9-19。2024.10.24
永井荷風の『断腸亭日乗』の1931(昭和6)年11月3日の記事に、「夜銀座に行き眼鏡屋松島にて老眼鏡を修繕せしむ」とある。これを知ったのは、湯川節子の「永井荷風と銀座」という論考だが、「眼鏡屋松島」というのは、2014年まで銀座3丁目で本店を構えていた松島眼鏡店のことだ」とも書いている(註13)。学生時代に早慶写真展を開いたニコンサロンが3階にあったあの松島眼鏡店である。荷風は老眼鏡の修繕ばかりでなく、それを購入したのもこの店に違いない。松島眼鏡店の馴染み客だったのである。
荷風はこの年の5月に小説『つゆのあとさき』を脱稿している(註14)。主人公の君江は銀座にあるカフェの女給である。彼女の勤めるカフェ・ドンファンは「松屋呉服店から二、三軒京橋の方へ寄ったところ」にあった。周りを見渡すと、同じようなカフェが立ちならび、どこが自分の勤める店か紛らわしい。そのため、「君江はざっと一年ばかり通う身でありながら、今だに手前隣の眼鏡屋と金物屋とを目標にして、その間の路地を入る」ことにしていた。「路地を入る」とあるのは、女給たちの出入口が表側の銀座通りではなく、眼鏡屋と金物屋の間の路地または裏通りにあったことを意味する。
『銀座今昔』というWebサイトがある(註15)。それによれば、松島眼鏡店は1874(明治7)年の創業で、銀座煉瓦街と共に歩んだ老舗である。松屋呉服店(松屋デパート)が、神田今川橋から銀座に進出したのは1925(大正14)年。煉瓦街が関東大震災で壊滅した2年後になる。そのころ、松島眼鏡店は松屋から京橋に向かって4軒目に店舗を構えていた。これは『つゆのあとさき』に書かれる眼鏡屋の場所におおむね合致する。
松屋デパートは現在、銀座3丁目6番地の全域を占めている。しかし、『銀座建築マップ101』を改めて見てみると、1930(昭和5)年当時は、銀座4丁目側の角にあり、敷地は現在の4分の1ほどである。隣(京橋側)は文房具の伊東屋。伊東屋はその後移転して、いまは銀座2丁目にある。伊東屋の2軒先が、明治製菓銀座売店。松島眼鏡店は、『銀座建築マップ101』には記載されていないが、『銀座今昔』の記述と照合すると、この明治製菓銀座販売店の隣にあったことになる。
したがって、カフェ・ドンフアンは荷風の創作した架空のカフェなのである。周りにも類似のカフェが立ちならぶとする状況描写も虚構である。しかしながら、主人公の君江が目標にしたという「眼鏡屋と金物屋」のうち、金物屋もやはり虚構だが、眼鏡屋の方はそこに実在した。「松屋呉服店から二、三軒京橋の方へ寄ったところ」にあった眼鏡屋とは、正確には4軒目になるが、松島眼鏡店にほかならない。ちなみに、私が大学生だった1968年当時、松島眼鏡店は銀座通りの東側ではなく、松屋の銀座通りを隔てた西側にあった。

ph15 あづま通り。化粧品の広告塔。あづま通りの銀座3丁目方向を見下ろす。左右のビルは銀座三越店。銀座4-7-12(左)。銀座4-6-10(右)。2009.12.21

ph16 あづま通り。渡り廊下の左右は松屋デパート。永井荷風の小説『つゆのあとさき』の舞台。この付近に主人公の勤めるカフェ・ドンファンがあったことになっている。銀座3-6-1。2024.10.24

ph17 あづま通り。松屋デパート(京橋寄り)の向かい。野の花 司。野花と茶花の専門店。全国の山野に自生する枝ものや花が揃えられている。銀座3-7-21。2024.10.24

ph18 あづま通りと銀座マロニエ通りの交差点。正面はアディダス銀座店。奥に伊東屋のクリップが見える。大震災のあと、今和次郎たちのバラック装飾社が装飾を手がけたカフェ・キリンはこの付近にあった。銀座2-7。2024.10.24

ph19 松屋通り。パリのワイン食堂。「パリにいる雰囲気を楽しめる」をキャッチフレーズにしている。銀座3-13-11。2024.10.24

ph20 看板建築のビル。1階は左から喫茶グローリー・夢や・閑々堂の店舗。2階と3階は集合住宅と思われる。銀座1-22。2009.10.5
『つゆのあとさき』ではカフェ・ドンファンの女給たちが出入りする路地の景色は、次のように描かれている(註16)。
路地は人やっと通れるほど狭いのに、大きな芥箱(ごみばこ)が並んでいて、寒中でも青蠅が翼(はね)を鳴ならし、昼中でも鼬(いたち)のような老鼠(ろうねずみ)が出没して、人が来ると長い尾の先で水溜(みずたまり)の水をはね飛とばす。
荷風は路地の空間を「公然市政によって経営されたものではない。都市の面目体裁品格とは全然関係なき別天地である」(『日和下駄』)と考えていた(註17)。大震災のあと、大通りはきらびやかに復興した。それでは裏側はどうなったのか。「大きな芥箱が並んでい」るというのは、荒廃した路地の象徴的な光景であり、「青蠅」と「鼬のような老鼠」はカフェに勤める女給たちの隠喩なのである。
『断腸亭日乗』の1926(大正15)年11月20日の記事にある銀座のカフェについての記述が見逃せない(註18)。
そもそも現今市中に流行する酒肆(カツフエー)なるものの状況を見るに、巴里のカッフェーに似てその実は決して然らざる処、(中略)酒肆の婢は日々通勤すれども、給料を受けず。客の纏頭(てんとう)にて衣食の道を立つ。されば窃(ひそか)に売色を以て業となすは言ふを俟(ま)たず。(中略)大訝は震災の翌年春頃より開店し、尾張町の獅子閤と相対してその繁栄遥にこれに優るといふ。銀座通にはこの他に松月、銀武羅(ぎんぶら)などよべる酒肆あり。皆婢をして客の酔いを侑(たす)けしむ。
「市中」の市は東京市。「酒肆(しゅし)」の「肆」は店のこと。荷風は若いときにフランスとアメリカに外遊している。カフェはパリではコーヒーを飲ませる店だが、日本のカフェは名ばかりで、その実は酒を飲ませる居酒屋である。それもただの居酒屋ではない。「婢」は女性の召使。接客にあたる女性は女給と呼ばれた。纏頭は心づけで、チップのこと。カフェは従業員の女給に給料を出さないのが決まりだった。しかし、チップだけでは暮らしていけない。そのため、隠れて売春行為におよぶことが常態化していた、というのである。

ph21 首都高都心環状線三吉橋近くの路地。橋本印刷。銅板葺きの2階建て建物。工場と住居になっている。銀座2-15。2009.10.5

ph22 首都高都心環状線の三吉橋近くの路地。玄関に「violin lesson」の看板を吊るす。奥はph19の橋本印刷。銀座2-15。2009.10.5

ph23 木挽町仲通り。酒蔵 渡邊。瓦葺き二階建ての重厚な店舗は1927年に建築された。銀座2-13-14。2024.10.24

ph24 泰明通り。正面は泰明ビル。バー・居酒屋などが軒を連ねる。左方向に歩いていくと、突き当りに泰明小学校がある。銀座6-3-16。2012.10.31

ph25 銀座三原通り。三原橋交差点の近くの横丁。昭和の面影をのこす飲食店街。銀座5-9-5。2024.10.24

ph26 金春通り。ビルが取り壊されたあとの空き地。右隣の提灯は銭湯金春湯。1863年の開業。屋号は金春流能役者の屋敷が近くにあったことに由来する。1957年に建て替えて、ビル内に銭湯を構えるようになった。そのころはこのあたりで一番高い建物だったという。銀座8-7-5。2024.10.24
『つゆのあとさき』は、この日記から6年後に書かれた。小説のなかに、カフェ・ドンファンに出没する松崎という初老の男が出てくる。主人公の馴染み客の一人である。荷風自身の投影ともみられるこの男は、「大震災後も日に日に変わっていく」銀座について、こんなふうに述懐している(註19)。
西洋文明を模倣した都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。この悲哀は街衢(がいく)のさまよりもむしろここに生活する女給の境遇について、更に一層痛切に感じられる。(中略)君江は同じ売笑婦でも従来の芸娼妓(げいしょうぎ)とは全く性質を異にしたもので、西洋の都会に蔓延している私娼と同型のものである。
銀座通りからひとつ東側にあづま通りがある。今回掲載したph14からph18は、このあづま通りのスナップである。ph15の化粧品の広告塔は以前に撮ったものだが、ほかの4カットは、今回の街歩きの撮影である。狙って撮ったというよりも、それとなく目に止まり、なんとなく撮らされた、というのが実感である。帰宅して画像を整理しながら、撮影場所を地図で確認するとか、撮影対象の背景について資料にあたってみる。すると、このときもそうなのだが、自分の思いもしなかった街並みの歴史や見知らぬ人たちの暮らしぶりが埋もれていることに気づく。そこが街歩きのおもしろさなのである。
『つゆのあとさき』の舞台になった架空のカフェ・ドンファンがあったのは、先にも書いたように、現在の銀座3丁目6番地で、ph16(日比谷花壇銀座松屋店)かph17(野の花 司)の画面左側の付近ではないかと比定される。ph18は銀座2丁目。通りの奥に伊東屋のローマ字とトレードマークのクリップがみえる。先にも書いたように、そこに今和次郎の「バラック装飾社」が外観を装飾したカフェ・キリンがあった。
『つゆのあとさき』の最終章では、主人公の君江が「青蠅」や「鼬のような老鼠」という存在から転位することが、それとなく示唆されている。しかし、小説に書かれた彼女や同僚の彼女たちはどこへ行ってしまったのだろうか。
冒頭で取り上げた三愛ビルばかりではない。私にとって忘れがたい近藤書店やイエナ書店、そしてニコンサロンのあった松島眼鏡店も、いつのまにかなくなっている。栄枯盛衰の激しい繁華街、それも東京の銀座である。あたりまえといえばそれまでだが、時の流れの過酷さにただ呆然とするばかりである。
【註】
註1 三愛ビル。銀座四丁目の「三愛ビル」、老朽化で建て替えへ 60年の歴史に幕:朝日新聞デジタル
註2 力道山。力道山(リキドウザン)とは? 意味や使い方 - コトバンク
註3 パレスサイドビル。『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、毎日新聞社、2006)
註4 和光ビル和光と時計塔の歴史|WAKO 公式オンラインブティック|銀座・和光。
註5 銀座から消える写真の聖地「ニコンサロン」の過去と写真界のこれから | AERA dot. (アエラドット)
註5 歌舞伎座。歌舞伎座(カブキザ)とは? 意味や使い方 - コトバンク。ライオン銀座7丁目店。【ビヤホールライオン 銀座七丁目店 創建90周年記念】|サステナビリティ活動トピックス|サッポロホールディングス
註6 『宮本常一 写真・日記集成』(上下巻・別巻1、毎日新聞社、2005)。『宮本常一が撮った昭和の情景』(上下巻、毎日新聞社、2009)
註7 連載その33。平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その33 : ギャラリー ときの忘れもの
註8 『にっぽん劇場写真帖』(写真 森山大道・文 寺山修司、室町書房、1968)
註9 イエナ書店。003 イエナ書店のこと - ホントセレクション - cafe impala|作家・池澤夏樹の公式サイト。 『ニユーヨーク』(ウィリアム・クライン、Seuil、1956)。『ローマ』(ウィリアム・クライン、Seuil、1960)。『アメリカ人』(ロバート・フランク、Grossman、1969)
註10 『第3回資生堂ギャラリーとそのアーティスト達 銀座モダンと都市意匠』(監修 藤森照信・植田実、企画・編集 資生堂企業文化部・アルス・マーレ企画室、1993)。「ときの忘れものが編集した本」。ときの忘れもの
註11 『改定新版 世界大百科事典』「銀座」。銀座(ギンザ)とは? 意味や使い方 - コトバンク。『銀座の今昔』「銀座三丁目 明治期」。014_銀座三丁目 2 明2治期 - satohitomi0157 ページ!。「同 大正期」。015_銀座三丁目 3 大正期 - satohitomi0157 ページ!。など
註12 連載その33。 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その33 : ギャラリー ときの忘れもの。『銀座モダンと都市意匠』「銀座の都市意匠と建築家たち」および付録「銀座建築マップ」
註13 「永井荷風と銀座」「3 荷風日記と銀座 (1)『断腸亭日乗の日々」。(『江戸東京博物館紀要 第13号』所収、1923)。『断腸亭日乗3 昭和6~10』(永井荷風、『荷風全集21所収、岩波書店、1972』
註14 『つゆのあとさき』(永井荷風、岩波文庫、1987)。小説の末尾に「昭和六年辛未三月九日病中起筆至五月念二夜半纔脱初稿荷風散人」
註15 『銀座の今昔』「銀座三丁目 明治期」。014_銀座三丁目 2 明2治期 - satohitomi0157 ページ!。「同 大正期」。015_銀座三丁目 3 大正期 - satohitomi0157 ページ!
註16 『つゆのあとさき』「二」(永井荷風、岩波文庫、1987)
註17 『日和下駄』「路地」(永井荷風、『荷風随筆集(上)』所収、岩波文庫、1986)
註18 『摘録 断腸亭日乗(上)』「大正十五[昭和元](一九二五)年」、永井荷風、岩波文庫、1991)
註19 『つゆのあとさき』「七」(永井荷風、岩波文庫、1987)
(ひらしま あきひこ)
・ 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2025年3月14日です。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』
オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月~1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れもの
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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その35 銀座—関東大震災から百年の建築マップ
文・写真 平嶋彰彦
昨年の10月にいつもの仲間と銀座の街歩きをした。集合場所は三越のライオン像の前(ph11)。通りの向う側に目をやると、いつのまにか三愛ビル(三愛ドリームセンター)がなくなっていて、工事用のフェンスで囲われていた(註1)。
三愛ビルは東京に出てくる前から知っていた。というのも、60年以上も前のことだが、テレビのプロレス中継は、銀座の街並みの映像からはじまった。画面手前は三菱のマークの三愛ビル、その奥に森永の広告塔。晴海通りを俯瞰したアングルで、たしか夜景だった。三愛ビルが最近まであったビルに建替えられたのは1963年。前回の東京オリンピックの1年前である。この年に力道山が暴力団に刺され、その傷がもとで死亡する事件があった(註2)。
テレビのプロレス中継を、山ひとつ向こうにある村まで見にいったことがある。雑貨屋をかねた自転車店があり、客寄せにテレビを置いていた。テレビ・洗濯機・冷蔵庫は、三種の神器とも呼ばれ、大半の日本人にとって憧れの的だった。
三愛ビルは地上9階・地下3階の円筒形ビルで、地上部分は総ガラス張りだった。一目見ただけで脳裏に焼きつく。設計は林昌二(日建設計)。私が勤めた毎日新聞の東京本社はパレスサイドビルのなかにあった。この地上9階・地下6階建てビルも林昌二の設計である。長方形の箱を喰い違いにならべた構造で、接合部分の両端に白亜の円筒が屹立する。三愛ビルを思わず連想させる奇抜で秀逸なデザインなのである(註3)。

ph1 バー・ルパン。1928年、カフェーとして創業。1936年、カウンターバーに改装。菊池寛、川端康成、太宰治など文壇の名士が常連だったことで知られる。中央区銀座5-5-11。2006.12.14

ph2 銀座通り、銀座4丁目交差点。和光ビル。現在の時計塔は2代目で、竣工は1932年。関東大震災復興の象徴として建設され、銀座のランドマークとなった。左端は2023年に取り壊された三愛ビル。銀座4-5-11。2009.8.19

ph3 晴海通り。歌舞伎座の旧館。竣工は1924年。1945年の大空襲で被害をうけるが、1951年に修復した。“歌舞伎座さよなら公演”を興行中の撮影。老朽化のため、2010年に解体工事がはじまり、2013年に歌舞伎座と歌舞伎座タワーを合せた複合施設として再建された。銀座4-12-15。2009.8.19

ph4 銀座通り。ビヤホールライオン銀座七丁目店。大日本麦酒の本社ビルとして1934年に竣工した。1階のビヤホールは現存する日本最古のもの。アールデコ風の装飾や正面奥のモザイクスタイルの壁画など、店内はほぼ開店当時のままだという。銀座7-9-20。2009.8.19
三愛ビルがそこにないことが分かったとき、はっとした。きちんと撮った記憶がないからである。しかし、はす向かいの和光ビルは撮ったことがある(註4)。ハードディスクの画像を探してみると、三愛ビルがかろうじて写っている画像があった。ph2がそれである。撮影日は2009年8月19日。私はこの月の末日に毎日新聞社を退職した。
ph3の歌舞伎座とph4の銀座ライオン7丁目店の写真もこの日の撮影である。撮影メモには「日本橋・銀座界隈/築地まるかじり」とある。定番になっていたムックの仕事を手伝ったのである。10時に日本橋で撮影を始め、中央通り沿って京橋・銀座界隈をあちこち歩いてまわり、ライオン7丁目店・歌舞伎座・和光ビルを撮ったあと、引き返して日本橋の夜景を撮っている。
画像を改めてみると、和光ビルは現在のようにライトアップされていない。物足りない気もするが、おとなしく眠るさまも悪くない。画面左端が三愛ビルである。こちらはこのときとばかりに厚化粧している。歌舞伎座は建て替え前の旧館で、「さようなら公演」の垂れ幕が下がっている。ライオン7丁目店は、1934年に開店したころの面影をそのまま残している。2022年には国の登録有形文化財(建造物)になった(註5)。
退職時に私が所属していたのは、写真職場ではなく編集職場だった。最後に編集したのが『宮本常一が撮った昭和の情景』(上下巻)である。『宮本常一 写真・日記集成』(上下巻別巻1)の普及版だが、時系列のページ構成を地域別に組み直し、日記を省いた代わりに、写真キャプションは大幅に書き直しをしている(註6)。発売は退職2カ月前の2009年6月10日。企画段階では不評だったが、予想に反して、売れ行きは好調で、8月半ばには4刷となり、その度ごとに音羽のフクインまで印刷立ち合いに出向いた。すっかり忘れていたが、それと前後して、銀座の写真も撮っていたのである。

ph5 交詢社通りと銀座鈴らん通りとの交差点。交詢ビルディング。交詢社は1880年、福沢諭吉が設立した日本最初の社交クラブ。旧ビルは、1929年の竣工。チューダー朝ゴシック様式の歴史主義を基調に、アールデコの意匠を取り入れたもので、昭和初期を代表する建築。2004年、一部を残し、建て替えられた。銀座6-8-7。2016.1.27

ph6 外堀通り、銀座西6丁目交差点。電通銀座ビル。1933年の竣工。1階のガラスブロックや2階より上のシカゴ窓などが特徴の昭和初期のモダニズム建築。1967年に築地新社屋へ移転するまで、本社ビルとして機能した。銀座7-4-17。2012.10.31

ph7 銀座柳通り。ヨネイビル。機械・資材等の輸出入を営む米井商店の本社ビルとして1930年に竣工。中世ロマネスク風のデザインで、玄関や窓のアーチに特徴がある。1階は現在、芦屋(兵庫県)の老舗洋菓子店が入居している。銀座2-8-20。2010.11.17
銀座といえば、松屋デパートの向かいに、松島眼鏡店があり、その3階が写真ギャラリー・ニコンサロンになっていた。連載33でも書いているが、1968年の9月、慶応大学カメラクラブと合同で「早慶写真展」を開催した(註7)。慶応の作品は覚えていないが、早稲田の作品は『異邦』と題した共同制作だった。私が大学4年のときである。毎日新聞社の入試は7月で、この共同制作の撮影と重なっていた。
開催中に森山大道がギャラリーを訪れることがあった。私たちは森山大道の名前すら知らなかった。撮影した人たちから話を聞きたいというので行ってみると、写真の撮影地についてあれこれと質問を受けた。コート姿の身なりはきちんとして、ていねいな言葉づかいだったから、銀行かどこかの会社に勤めるアマチュア写真家ではないかと思い込んでいた。
ところが、その男性が帰ったあと、会場にいた明治大学の学生から、あれはいま話題になっている写真作家の森山大道で、『にっぽん劇場写真帖』という写真集を出したばかりだと教えられた。その日の夕方のことになる。早慶展の中心メンバーだった宇野敏雄君や鴨田十郎君たちとJR有楽町駅まで歩いて帰る途中、晴海通りにあった近藤書店に立ち寄ると、店先に『にっぽん劇場写真帖』が平積みになっていた(註8)。
ページをめくっていくうちに、激しい衝撃を受けた。これを報道写真と見る人はいないかもしれない。しかし、1960年代後半という自分たちの生きた同時代が写真に脈打っているのは紛れもない。写真の時代が変わる予感がした。価格も980円で、写真集としては破格の値段だった。すぐに写真集を買い求めた。
近藤書店の3階には洋書専門のイエナ書店があり、美術本のなかに写真集も置いていた(註9)。ウィリアム・クラインの『ニューヨーク』と『ローマ』、ロバート・フランクの『アメリカ人』はイエナで注文して手に入れた。というよりも、妻が買ってくれた。結婚する前のことである。彼女の勤め先が虎ノ門にあり、待ち合わせ場所のひとつがイエナだった。いまごろになって、妻はあれが自分の不幸のはじまりだというが、あとのまつりである。
毎日新聞社に入ると西部本社写真部(北九州市小倉北区)に配属された。銀座のイエナ書店と近藤書店で購入した4冊を持って赴任した。いずれも1950年代から60年代の「ビートニク」の思想や生きざまをむき出しにした異端の写真である。新聞社での仕事に役立つどころか、障害になりかねない気もしたが、いい加減な仕事をしないための座右の書になると考えたのである。

ph8 昭和通りが晴海通りと交わる三原橋交差点。改造社ビル。改造社は円本や雑誌『改造』でしられる出版社で、1919年の設立。ビルの竣工年は不明だが、震災後の建築と思われる。塔屋のついた三階建ビルの中央から右側は大幅な改修をしているが、左側は建築当時の面影を残す。銀座5-13-18。2024.10.24

ph9 花椿通りと銀座すずらん通りとの交差点。第一菅原ビル。1934年の竣工。菅原電気は日本における電気洗濯機やミキサーの開発に先駆的な役割を果たしたという。現在は2階と3階には椿屋珈琲本店が入っている。銀座7-7-11。2024.10.24

ph10 みゆき通り。泰明小学校。1878年の創立。もとは赤煉瓦の校舎だったが、関東大震災で全焼、現在の校舎は、震災復興事業の一つとして鉄筋コンクリート造りで再建され、1929年4月に落成式が行われた。銀座5-1-13。2021.4.15
この原稿を書きながら、『銀座建築マップ101/大正12(1923)年-昭和14(1939)年』を思い出した。1923年とは、いうまでもないが、関東大震災が発生した年である。「101」の数字は大震災の後につくられた銀座の代表的建築のこと。その在処と地割を地図(1930・昭和5年の『復興大銀座地図』)に落とし込み、さらに取り上げたすべての建築の写真を掲載している。
この地図は資生堂『銀座モダンと都市意匠』展のカタログ(1993)の付録として制作された。銀座の黄金時代が居ながらにして分かる格好の資料で、なんどみても見飽きることがない。このカタログの企画・編集は資生堂企業文化部とアルス・マーレ企画室。アルス・マーレはときの忘れものの前身で、綿貫不二夫の主宰である。企画・編集ばかりではない。綿貫は「資生堂ギャリーと建築家たち」も執筆している(註10)。
銀座が全国各地の繁華街の代名詞となるのは、大正から昭和にかけての時期だとされる。大正から昭和にかけての最大の事件のひとつが関東大震災だった。1972(明治5)年に大火があり、そのあと銀座通りに沿って銀座煉瓦街がつくられた。しかし、文明開化のシンボルともなったこの西欧風の街並みは、建物が倒壊するに加え、火災を引き起こし、ほぼ全域が焼野原になった。未曽有の災厄を目のまえに、銀座の商店街は結束して復興に立ちあがった。被災直後にそれまであった場所にバラック建築の仮店舗を再建すると、11月上旬までに開店にこぎつけ、いっせいに年末売り出しを行なった。商店街の規模や集客力もさることながら、そのときの銀座商店街の復興への取り組み方が語り草となり、理想的な商店街の代名詞になったのではないだろうか(註11)。
大震災直後のバラック建築については連載33でも触れた。今和次郎は東京美術学校の後輩たちと大震災直後の9月中に、「バラック装飾社」を起ち上げた。彼らが「野蛮人の装飾をダダイズム」の方法で手がけたひとつが、銀座のカフェ・キリンだった。その場所も『銀座建築マップ101』で確認できる。銀座通りの東側、銀座2丁目の3丁目側から数えて3軒目の一画である。カタログ『銀座モダンと都市意匠』に目を転じると、藤森照信が「銀座の都市意匠と建築家たち」の論考を寄せている。カフェ・キリンについても詳しい解説があり、場所は伊東屋が現在あるところ(銀座2丁目7)だと書いている(註12)。

ph11 中央通り、銀座4丁目交差点。銀座三越畫店正面入口のライオン像。銀座三越の開業は1930年。このライオン像は1972年に三越創業300年の記念事業として鋳造された。銀座4-6-16。2024.10.24

ph12 外堀通り、銀座西6丁目交差点。電通銀座ビル玄関左上の吉祥天像。吉祥天は福徳の女神とされる。玄関右上には広目天像。銀座7-4-17。2016.1.27。

ph13 銀座マロニエ通り。中華そば萬福の招き猫と福助。大正時代に屋台からはじめ、1929年に現在地に店を構えたという。銀座2-13-13。2024.10.24

ph14 あづま通り。あづま稲荷大明神。戦後のある時期、あづま通りと三原小路に火災が続いた。それをきっかけに、町内一同で相談し、京都伏見稲荷を勧請したとのこと。銀座5-9-19。2024.10.24
永井荷風の『断腸亭日乗』の1931(昭和6)年11月3日の記事に、「夜銀座に行き眼鏡屋松島にて老眼鏡を修繕せしむ」とある。これを知ったのは、湯川節子の「永井荷風と銀座」という論考だが、「眼鏡屋松島」というのは、2014年まで銀座3丁目で本店を構えていた松島眼鏡店のことだ」とも書いている(註13)。学生時代に早慶写真展を開いたニコンサロンが3階にあったあの松島眼鏡店である。荷風は老眼鏡の修繕ばかりでなく、それを購入したのもこの店に違いない。松島眼鏡店の馴染み客だったのである。
荷風はこの年の5月に小説『つゆのあとさき』を脱稿している(註14)。主人公の君江は銀座にあるカフェの女給である。彼女の勤めるカフェ・ドンファンは「松屋呉服店から二、三軒京橋の方へ寄ったところ」にあった。周りを見渡すと、同じようなカフェが立ちならび、どこが自分の勤める店か紛らわしい。そのため、「君江はざっと一年ばかり通う身でありながら、今だに手前隣の眼鏡屋と金物屋とを目標にして、その間の路地を入る」ことにしていた。「路地を入る」とあるのは、女給たちの出入口が表側の銀座通りではなく、眼鏡屋と金物屋の間の路地または裏通りにあったことを意味する。
『銀座今昔』というWebサイトがある(註15)。それによれば、松島眼鏡店は1874(明治7)年の創業で、銀座煉瓦街と共に歩んだ老舗である。松屋呉服店(松屋デパート)が、神田今川橋から銀座に進出したのは1925(大正14)年。煉瓦街が関東大震災で壊滅した2年後になる。そのころ、松島眼鏡店は松屋から京橋に向かって4軒目に店舗を構えていた。これは『つゆのあとさき』に書かれる眼鏡屋の場所におおむね合致する。
松屋デパートは現在、銀座3丁目6番地の全域を占めている。しかし、『銀座建築マップ101』を改めて見てみると、1930(昭和5)年当時は、銀座4丁目側の角にあり、敷地は現在の4分の1ほどである。隣(京橋側)は文房具の伊東屋。伊東屋はその後移転して、いまは銀座2丁目にある。伊東屋の2軒先が、明治製菓銀座売店。松島眼鏡店は、『銀座建築マップ101』には記載されていないが、『銀座今昔』の記述と照合すると、この明治製菓銀座販売店の隣にあったことになる。
したがって、カフェ・ドンフアンは荷風の創作した架空のカフェなのである。周りにも類似のカフェが立ちならぶとする状況描写も虚構である。しかしながら、主人公の君江が目標にしたという「眼鏡屋と金物屋」のうち、金物屋もやはり虚構だが、眼鏡屋の方はそこに実在した。「松屋呉服店から二、三軒京橋の方へ寄ったところ」にあった眼鏡屋とは、正確には4軒目になるが、松島眼鏡店にほかならない。ちなみに、私が大学生だった1968年当時、松島眼鏡店は銀座通りの東側ではなく、松屋の銀座通りを隔てた西側にあった。

ph15 あづま通り。化粧品の広告塔。あづま通りの銀座3丁目方向を見下ろす。左右のビルは銀座三越店。銀座4-7-12(左)。銀座4-6-10(右)。2009.12.21

ph16 あづま通り。渡り廊下の左右は松屋デパート。永井荷風の小説『つゆのあとさき』の舞台。この付近に主人公の勤めるカフェ・ドンファンがあったことになっている。銀座3-6-1。2024.10.24

ph17 あづま通り。松屋デパート(京橋寄り)の向かい。野の花 司。野花と茶花の専門店。全国の山野に自生する枝ものや花が揃えられている。銀座3-7-21。2024.10.24

ph18 あづま通りと銀座マロニエ通りの交差点。正面はアディダス銀座店。奥に伊東屋のクリップが見える。大震災のあと、今和次郎たちのバラック装飾社が装飾を手がけたカフェ・キリンはこの付近にあった。銀座2-7。2024.10.24

ph19 松屋通り。パリのワイン食堂。「パリにいる雰囲気を楽しめる」をキャッチフレーズにしている。銀座3-13-11。2024.10.24

ph20 看板建築のビル。1階は左から喫茶グローリー・夢や・閑々堂の店舗。2階と3階は集合住宅と思われる。銀座1-22。2009.10.5
『つゆのあとさき』ではカフェ・ドンファンの女給たちが出入りする路地の景色は、次のように描かれている(註16)。
路地は人やっと通れるほど狭いのに、大きな芥箱(ごみばこ)が並んでいて、寒中でも青蠅が翼(はね)を鳴ならし、昼中でも鼬(いたち)のような老鼠(ろうねずみ)が出没して、人が来ると長い尾の先で水溜(みずたまり)の水をはね飛とばす。
荷風は路地の空間を「公然市政によって経営されたものではない。都市の面目体裁品格とは全然関係なき別天地である」(『日和下駄』)と考えていた(註17)。大震災のあと、大通りはきらびやかに復興した。それでは裏側はどうなったのか。「大きな芥箱が並んでい」るというのは、荒廃した路地の象徴的な光景であり、「青蠅」と「鼬のような老鼠」はカフェに勤める女給たちの隠喩なのである。
『断腸亭日乗』の1926(大正15)年11月20日の記事にある銀座のカフェについての記述が見逃せない(註18)。
そもそも現今市中に流行する酒肆(カツフエー)なるものの状況を見るに、巴里のカッフェーに似てその実は決して然らざる処、(中略)酒肆の婢は日々通勤すれども、給料を受けず。客の纏頭(てんとう)にて衣食の道を立つ。されば窃(ひそか)に売色を以て業となすは言ふを俟(ま)たず。(中略)大訝は震災の翌年春頃より開店し、尾張町の獅子閤と相対してその繁栄遥にこれに優るといふ。銀座通にはこの他に松月、銀武羅(ぎんぶら)などよべる酒肆あり。皆婢をして客の酔いを侑(たす)けしむ。
「市中」の市は東京市。「酒肆(しゅし)」の「肆」は店のこと。荷風は若いときにフランスとアメリカに外遊している。カフェはパリではコーヒーを飲ませる店だが、日本のカフェは名ばかりで、その実は酒を飲ませる居酒屋である。それもただの居酒屋ではない。「婢」は女性の召使。接客にあたる女性は女給と呼ばれた。纏頭は心づけで、チップのこと。カフェは従業員の女給に給料を出さないのが決まりだった。しかし、チップだけでは暮らしていけない。そのため、隠れて売春行為におよぶことが常態化していた、というのである。

ph21 首都高都心環状線三吉橋近くの路地。橋本印刷。銅板葺きの2階建て建物。工場と住居になっている。銀座2-15。2009.10.5

ph22 首都高都心環状線の三吉橋近くの路地。玄関に「violin lesson」の看板を吊るす。奥はph19の橋本印刷。銀座2-15。2009.10.5

ph23 木挽町仲通り。酒蔵 渡邊。瓦葺き二階建ての重厚な店舗は1927年に建築された。銀座2-13-14。2024.10.24

ph24 泰明通り。正面は泰明ビル。バー・居酒屋などが軒を連ねる。左方向に歩いていくと、突き当りに泰明小学校がある。銀座6-3-16。2012.10.31

ph25 銀座三原通り。三原橋交差点の近くの横丁。昭和の面影をのこす飲食店街。銀座5-9-5。2024.10.24

ph26 金春通り。ビルが取り壊されたあとの空き地。右隣の提灯は銭湯金春湯。1863年の開業。屋号は金春流能役者の屋敷が近くにあったことに由来する。1957年に建て替えて、ビル内に銭湯を構えるようになった。そのころはこのあたりで一番高い建物だったという。銀座8-7-5。2024.10.24
『つゆのあとさき』は、この日記から6年後に書かれた。小説のなかに、カフェ・ドンファンに出没する松崎という初老の男が出てくる。主人公の馴染み客の一人である。荷風自身の投影ともみられるこの男は、「大震災後も日に日に変わっていく」銀座について、こんなふうに述懐している(註19)。
西洋文明を模倣した都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。この悲哀は街衢(がいく)のさまよりもむしろここに生活する女給の境遇について、更に一層痛切に感じられる。(中略)君江は同じ売笑婦でも従来の芸娼妓(げいしょうぎ)とは全く性質を異にしたもので、西洋の都会に蔓延している私娼と同型のものである。
銀座通りからひとつ東側にあづま通りがある。今回掲載したph14からph18は、このあづま通りのスナップである。ph15の化粧品の広告塔は以前に撮ったものだが、ほかの4カットは、今回の街歩きの撮影である。狙って撮ったというよりも、それとなく目に止まり、なんとなく撮らされた、というのが実感である。帰宅して画像を整理しながら、撮影場所を地図で確認するとか、撮影対象の背景について資料にあたってみる。すると、このときもそうなのだが、自分の思いもしなかった街並みの歴史や見知らぬ人たちの暮らしぶりが埋もれていることに気づく。そこが街歩きのおもしろさなのである。
『つゆのあとさき』の舞台になった架空のカフェ・ドンファンがあったのは、先にも書いたように、現在の銀座3丁目6番地で、ph16(日比谷花壇銀座松屋店)かph17(野の花 司)の画面左側の付近ではないかと比定される。ph18は銀座2丁目。通りの奥に伊東屋のローマ字とトレードマークのクリップがみえる。先にも書いたように、そこに今和次郎の「バラック装飾社」が外観を装飾したカフェ・キリンがあった。
『つゆのあとさき』の最終章では、主人公の君江が「青蠅」や「鼬のような老鼠」という存在から転位することが、それとなく示唆されている。しかし、小説に書かれた彼女や同僚の彼女たちはどこへ行ってしまったのだろうか。
冒頭で取り上げた三愛ビルばかりではない。私にとって忘れがたい近藤書店やイエナ書店、そしてニコンサロンのあった松島眼鏡店も、いつのまにかなくなっている。栄枯盛衰の激しい繁華街、それも東京の銀座である。あたりまえといえばそれまでだが、時の流れの過酷さにただ呆然とするばかりである。
【註】
註1 三愛ビル。銀座四丁目の「三愛ビル」、老朽化で建て替えへ 60年の歴史に幕:朝日新聞デジタル
註2 力道山。力道山(リキドウザン)とは? 意味や使い方 - コトバンク
註3 パレスサイドビル。『ビルに歴史あり パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、毎日新聞社、2006)
註4 和光ビル和光と時計塔の歴史|WAKO 公式オンラインブティック|銀座・和光。
註5 銀座から消える写真の聖地「ニコンサロン」の過去と写真界のこれから | AERA dot. (アエラドット)
註5 歌舞伎座。歌舞伎座(カブキザ)とは? 意味や使い方 - コトバンク。ライオン銀座7丁目店。【ビヤホールライオン 銀座七丁目店 創建90周年記念】|サステナビリティ活動トピックス|サッポロホールディングス
註6 『宮本常一 写真・日記集成』(上下巻・別巻1、毎日新聞社、2005)。『宮本常一が撮った昭和の情景』(上下巻、毎日新聞社、2009)
註7 連載その33。平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その33 : ギャラリー ときの忘れもの
註8 『にっぽん劇場写真帖』(写真 森山大道・文 寺山修司、室町書房、1968)
註9 イエナ書店。003 イエナ書店のこと - ホントセレクション - cafe impala|作家・池澤夏樹の公式サイト。 『ニユーヨーク』(ウィリアム・クライン、Seuil、1956)。『ローマ』(ウィリアム・クライン、Seuil、1960)。『アメリカ人』(ロバート・フランク、Grossman、1969)
註10 『第3回資生堂ギャラリーとそのアーティスト達 銀座モダンと都市意匠』(監修 藤森照信・植田実、企画・編集 資生堂企業文化部・アルス・マーレ企画室、1993)。「ときの忘れものが編集した本」。ときの忘れもの
註11 『改定新版 世界大百科事典』「銀座」。銀座(ギンザ)とは? 意味や使い方 - コトバンク。『銀座の今昔』「銀座三丁目 明治期」。014_銀座三丁目 2 明2治期 - satohitomi0157 ページ!。「同 大正期」。015_銀座三丁目 3 大正期 - satohitomi0157 ページ!。など
註12 連載その33。 平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その33 : ギャラリー ときの忘れもの。『銀座モダンと都市意匠』「銀座の都市意匠と建築家たち」および付録「銀座建築マップ」
註13 「永井荷風と銀座」「3 荷風日記と銀座 (1)『断腸亭日乗の日々」。(『江戸東京博物館紀要 第13号』所収、1923)。『断腸亭日乗3 昭和6~10』(永井荷風、『荷風全集21所収、岩波書店、1972』
註14 『つゆのあとさき』(永井荷風、岩波文庫、1987)。小説の末尾に「昭和六年辛未三月九日病中起筆至五月念二夜半纔脱初稿荷風散人」
註15 『銀座の今昔』「銀座三丁目 明治期」。014_銀座三丁目 2 明2治期 - satohitomi0157 ページ!。「同 大正期」。015_銀座三丁目 3 大正期 - satohitomi0157 ページ!
註16 『つゆのあとさき』「二」(永井荷風、岩波文庫、1987)
註17 『日和下駄』「路地」(永井荷風、『荷風随筆集(上)』所収、岩波文庫、1986)
註18 『摘録 断腸亭日乗(上)』「大正十五[昭和元](一九二五)年」、永井荷風、岩波文庫、1991)
註19 『つゆのあとさき』「七」(永井荷風、岩波文庫、1987)
(ひらしま あきひこ)
・ 平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき は隔月・奇数月14日に更新します。
次回は2025年3月14日です。
■平嶋彰彦 HIRASHIMA Akihiko
1946年、千葉県館山市に生まれる。1965年、早稲田大学政治経済学部入学、写真部に所属。1969年、毎日新聞社入社、西部本社写真課に配属となる。1974年、東京本社出版写真部に転属し、主に『毎日グラフ』『サンデー毎日』『エコノミスト』など週刊誌の写真取材を担当。1986年、『昭和二十年東京地図』(文・西井一夫、写真・平嶋彰彦、筑摩書房)、翌1987年、『続・昭和二十年東京地図』刊行。1988年、右2書の掲載写真により世田谷美術館にて「平嶋彰彦写真展たたずむ町」。(作品は同美術館の所蔵となり、その後「ウナセラ・ディ・トーキョー」展(2005)および「東京スケイプinto the City」展(2018)に作者の一人として出品される)。1996年、出版制作部に転属。1999年、ビジュアル編集室に転属。2003年、『町の履歴書 神田を歩く』(文・森まゆみ、写真・平嶋彰彦、毎日新聞社)刊行。編集を担当した著書に『宮本常一 写真・日記集成』(宮本常一、上下巻別巻1、2005)。同書の制作行為に対して「第17回写真の会賞」(2005)。そのほかに、『パレスサイドビル物語』(毎日ビルディング編、2006)、『グレートジャーニー全記録』(上下巻、関野吉晴、2006)、『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』(池田信、2008)、『宮本常一が撮った昭和の情景』(宮本常一、上下巻、2009)がある。2009年、毎日新聞社を退社。それ以降に編集した著書として『宮本常一日記 青春篇』(田村善次郎編、2012)、『桑原甲子雄写真集 私的昭和史』(上下巻、2013)。2011年、早稲田大学写真部時代の知人たちと「街歩きの会」をつくり、月一回のペースで都内各地をめぐり写真を撮り続ける。2020年6月で100回を数える。
2020年11月ときの忘れもので「平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス」を開催。
●本日のお勧め作品は平嶋彰彦です。
平嶋彰彦ポートフォリオ『東京ラビリンス』オリジナルプリント15点組
各作品に限定番号と作者自筆サイン入り
作者: 平嶋彰彦
監修: 大竹昭子
撮影: 1985年9月~1986年2月
制作: 2020年
プリント: 銀遊堂・比田井一良
技法: ゼラチンシルバープリント
用紙: バライタ紙
シートサイズ: 25.4×30.2cm
限定: 10部
発行日: 2020年10月30日
発行: ときの忘れもの
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
●ときの忘れものの建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS ときの忘れものTEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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