梅津元「瑛九-フォト・デッサンの射程」

第17回「Vanishing Point-第33回瑛九展・湯浅コレクション(その10)」

梅津 元


 Vanishing Point-前回、8年振りのニュー・オーダーの来日というニュースに接した勢いで、ついに、「Bizarre Love Triangle」が登場したのだが、その流れなのだろうか、この連載ではまだ登場していなかった名曲、「Vanishing Point」が聴こえてくる。この曲のリズムトラックには中毒性があり、聴き始めると、繰り返し聴いてしまう、この曲に限らず、この曲が収録されているアルバム『Technique』全体に言えることだけれど。
 それにしても、「Vanishing Point=消失点」、こんなタイトルをつけられたら、どうすればいいだろう、別に何をしろと言われている訳でもないのだけれど。音楽を聴くだけなのに、そんな気分になりはしないだろうか、私だけだろうか、そんな気分になるのは。もしかしたら、その気分を持て余してしまい、その気分が自然にフェード・アウトしてゆくのを待ちながら、この曲を繰り返し聴き続けているのかもしれない。

再び、フォト・デッサンを「見る」ことについて

 前回、第16回では、3回にわたるスピンオフの余波で、取り上げる作品とその作品についての記述がずれてしまっている状態を、なんとか解消することができた。その成果をふまえて、まずは、今回取り上げる作品を見てみよう。

fig.1
fig.1:《(夜の散歩)》 1951年

 どうだろうか、3回に渡ったスピンオフの前後を含め、このところ取り上げてきたフォト・デッサンと、大きく印象が異なるのではないだろうか。その理由は、一見すると、この作品の制作には、型紙が用いられていないように見えることに由来するだろう。感覚的には、「型紙を使っていない」と書いてしまいそうになるのだが、「一見すると」と書いているのは、フォト・デッサンの技法の見極めには慎重さが求められるからである。この連載で、繰り返し書いているように、結果として出現する作品を見ることから、素材や技法を辿ることには、どうしても限界がある。
 この作品についても、時間をかけてよく見ていると、画面の奥の方から、うっすらと、おぼろげなイメージが浮かび上がってくる点が重要である。画面にはっきりと見えるイメージや、うっすらと見えてくるおぼろげなイメージが、型紙を使ったように見えないとしても、そのことは、この作品に型紙が使われていないことの理由にはならない。なぜなら、仮に型紙が用いられたとしても、その一部だけしか画面に痕跡を残していない場合もあれば、曖昧な輪郭として定着されているため、型紙とわかりにくい場合もあるからである。逆説的な言い方になるが、「見ること」にそのような限界があるということも、「見ること」によって、把握されるのである。

 では、作品に向き合ってみよう。まず、このフォト・デッサンを特徴づけているのは、フリーハンドで描画されたイメージである。黒の地に白く抜けた形 - 実際には黄色味を帯びた印画紙の色を反映するため黄色味を帯びた白の形 - は、筆触を感じさせる絵筆によるものに見える。画面の各所に人の形が見え、画面の左側には、家屋や窓のようなイメージも見え、その手前には乗り物(車)のようなイメージも見えている。そして、画面の左上から右中央あたりにかけてと、左下の方には、ある程度の大きさの点が多数見えている。この点も、筆触=タッチを感じさせるような描画といえる。
 このような効果がどのようにして得られたかを考えてみると、おそらく、透明なガラスや透明なシートの上に描画材料を用いて描画し、これを版画の版のように用いて印画紙に密着させ、光によって印画紙に転写していると思われる。そして、その際、画面に見られるメッシュ状の効果をもたらす材料を組み合わせることで、細かい網目状のイメージが出現しているのではないかと思われる。

フォト・デッサンの絵画性

 ここで、フリーハンドによる描画という絵画性の強い特徴をふまえて、参考となる作品を見てみよう。

fig.2
fig.2:食堂 1950年 宮崎県立美術館蔵

 《食堂》(fig.2)は、まさに、フリーハンドによる描画というスタイルのフォト・デッサンの典型的な作風を示している。この連載で繰り返し述べているように、瑛九のフォト・デッサンは、引き算をするように見ていくと、その複雑な制作工程が見えやすくなる。《食堂》は、まさにその事例に適合する作品であり、《(夜の散歩)》から、全体に見え隠れする網目状のイメージや、後述する黄色味を帯びた白のエリアといった、描画に由来するイメージ以外の要素を取り除いたような画面となっている。
 《食堂》というタイトルが示すように、テーブル、椅子、客と思われる人物、店員と思われる人物の姿が確認できる。また、上の方に見える波打つ線と三角形は、水面と帆を思わせ、この食堂の外に水辺の景色が広がっていることを想像させる。このように、《(夜の散歩)》と比較すると、《食堂》は具象的なイメージとしてより把握しやすい作品といえるだろう。その具象的なイメージは、フォト・デッサンという技法において、絵画性を強く示している。そこで、《(夜の散歩)》へ戻る前に、《食堂》を見る上で参考となる絵画作品を示し、フォト・デッサンにおける絵画性について考えてみたい。

fig.3
fig.3:テラス 1946年 宮崎県立美術館蔵

fig.4
fig.4:海 1950年 岐阜県美術館蔵

 《テラス》(fig.3)には、テーブル、椅子、人物という具象的イメージが描かれており、それらのモチーフは《食堂》と共通している。また、画面の上の方は海のようであり、ヨットやボートらしきイメージも見える。《海》(fig.4)では、ヨットの帆が重なりあう色面として描かれ、具象的なイメージから抽象的なイメージへと展開されている。また、波打つ水面は、様々な色彩の筆触=タッチの集合によって示されている。
 この2点のうち、《海》は、フォト・デッサンの《食堂》と同じ1950年の制作であるため、《海》を参照すると、《食堂》の上の方に見える三角形は、ヨットの帆を示しているととらえることができる。そうであるならば、その下の波線は、波打つ水面を表現していることになる。フォト・デッサンである《食堂》には色彩がないが、油彩である《テラス》には色彩があり、より具体的に情景が描写されている。このように、絵画性の強いフォト・デッサンを見る上では、絵画を参照することが有効である。

 ここで、今回取り上げているフォト・デッサン《(夜の散歩)》(fig.1)に戻り、上述の比較にならい、参考となる絵画作品と版画作品を見てみよう。

fig.5
fig.5:小さき生活 1950年 下関市立美術館蔵

fig.6
fig.6:花園 1952年 宮崎県立美術館蔵

 《小さき生活》(fig.5)は、水平と垂直に基づく明快な構図と色面、そして直線の使用に特徴があり、瑛九の油彩画としては珍しいタイプといえる。その点においては、輪郭が滲むような描画と複雑な要素が噛み合わさったフォト・デッサンである《(夜の散歩)》とは大きく異なるのであるが、ここでは、部分的な描写に注目してみたい。具体的には、《小さき生活》に描かれている家屋のイメージの左側に見える窓である。この窓は、「2列×3段」で描かれ、窓の向こう側には、抽象化された人の顔が見えている。
 このような描き方を参照するならば、《(夜の散歩)》の左側に見える「2列×3段」の枠は、窓を表現しており、その周囲の線は、家屋や建物の輪郭を示すものとして把握される。《(夜の散歩)》は、《小さき生活》が描かれた1950年の翌年、1951年に制作されているため、この2点の作品において、窓の描き方が共通していると見なすことも可能だろう。

 《花園》(fig.6)は、エッチングであるが、道路、家屋、樹木や植物、そして人物まで、かなり細かく描かれている。描写の具体性という点では、《(夜の散歩)》と大きく異なるが、ここでは、画面全体の構図に注目してみたい。《花園》においては、画面の右下から中央にかけて、道路と思われる描写がなされている。この道路が画面の基軸となり、左側の家屋や右側の樹木とその奥に広がる空間をとらえることができる。つまり、この画面の全体を、現実世界における空間を参照し、具体的に把握することができる。
 このような空間把握を参照すると、《(夜の散歩)》の見え方が、より深くなる。《小さき生活》との比較において指摘したように、画面の左側に窓と家屋が見えているととらえてみよう。そうすると、窓の下に描かれているのは、乗り物(車)と見なすことができる。最初、目に入る要素を眺めている段階では、二つの円と横方向の線は、眼鏡のように見えていた。しかし、窓と家というとらえ方をふまえると、この二つの円は、乗り物(車)の車輪に見えてくる。そして、その車の左側、斜め上の方向に見え隠れする線が、その車が走っている道路を示しているように見えてくる。このように見えてくると、《(夜の散歩)》には、《花園》に近い構図が潜んでいることがわかってくる。

 ここで、今回の記述を可能にしてくれた、ある方の発言を、謝意を込めて、紹介しておきたい。その方は、うらわ美術館学芸員の山田志麻子さんであり、その発言は、山田さんが、2023年11月12日に開催されたシンポジウム「瑛九再考」に登壇した際になされたものである。(このシンポジウムについては第5回において書いている。)山田さんは、具象的なモチーフが確認できるフォト・デッサンを紹介し、その作品について、丁寧なディスクリプションを行いながら、作品の特徴と魅力を見事に説明していた。正直に告白するならば、私は、この時の山田さんの説明に、衝撃を受けた。
 なぜなら、私のフォト・デッサンへの興味は、原理と形式に偏っており、フォト・デッサンによる作品を、まるで絵画作品を論じるように語ることができるなどとは、考えたことがなかったからである。この時の山田さんの発表を聞いて、私は、自らのフォト・デッサンに対する取り組みが片手落ちであることを思い知らされた。その体験は、この連載に対して遠心力のような形で作用し、そのことが、型紙についての再考をもたらし、3回にわたるスピンオフを導いたのだろう。そして、型紙を介して、ようやく、フォト・デッサンにおける絵画性の、その内実へと、私の目が開かれたのである。

地球の外へ

 ここまでの記述では、絵画作品や版画作品も含めて、数点の作品を参照しながら、《(夜の散歩)》を、フォト・デッサンにおける絵画性という側面からとらえてみた。しかし、その記述の意図は、《(夜の散歩)》を、具象的な描写として把握しやすい絵画作品や版画作品と同じようにとらえることにあるのではない。私自身のフォト・デッサンへの関心が、原理や形式に偏っていることへの反省をふまえて、まずは、できる限り丁寧に、具象的な表現として、《(夜の散歩)》をとらえてみたかったのである。そのことが、この作品の魅力を総合的に把握する上で、広がりと奥深さをもたらしてくれるという予感があった。
 果たして、その予感は当たっていたようである。今、再び、《(夜の散歩)》に向き合うならば、その画面は、現実の世界を想起させる具象的な描写であると同時に、フォト・デッサンの魅力である、浮遊感を湛えた夢幻的な世界として、私の視覚と知覚を満たしてくれている。そのような浮遊感を湛えた夢幻的な世界をもたらすのは、描画の筆触=タッチであり、画面に散見される点であり、画面全体の複雑な空間である。

 ここまで書き進めてみると、冒頭で、《(夜の散歩)》について、「型紙を使っていない」と安易に書くことはできないと記したことが、説得力を持って響いてくる。なぜなら、画面の下方に広く見える、黄色味を帯びた白の形が、もしかしたら、型紙に由来するのではないかと感じられるからである。最初にそのことを感じないのは、おそらく、フリーハンドによる描画の印象が強く、ドローイングのような絵画性を、この画面全体から感じ取るからだろう。そして、そのような絵画的な印象をもたらすフリーハンドの描画によるイメージと、細かな網目状のモチーフに由来すると推測されるイメージを確認することにより、画面の把握が次の段階に進むことになる。
 黄色味を帯びた白のエリアへと視線が注がれると、その形や特徴が意識されるようになる。そのエリアは、輪郭が滲むような印象であるが、その形状に注意を向けると、確かに、瑛九がよく用いている型紙に近いようにも見えてくる。また、印画紙の上の辺の右端と、右の辺の中央より少し上にも、黄色味を帯びた白の形が見えている。この2カ所は、印画紙の縁に接しているため、形としての認識には至らないが、どちらも、型紙の一部である可能性は否定できない。この感覚が得られると、この作品が、フリーハンドによる描画によって特徴づけられるフォト・デッサンにとどまらないことがわかってくる。

 最後に、《(夜の散歩)》において、浮遊感を湛えた夢幻的な世界をもたらしている、描画の筆触=タッチ、画面に散見される点、画面全体の複雑な空間に注目し、その特徴と魅力について考えるために、3点の作品を参照してみよう。

fig.7
fig.7:作品(31) 制作年不詳 埼玉県立近代美術館蔵

fig.8
fig.8:点描デッサン 制作年不詳 宮崎県立美術館蔵

fig.9
fig.9:地球の外へ 1957年 下関市立美術館蔵

 ここで参照する3点の作品は、見てわかる通り、具象的なイメージではなく、抽象的なイメージである。まず、フォト・デッサンである《作品(31)》(fig.7)を見てみよう。この作品も、《(夜の散歩)》や《食堂》と同じく、透明なガラスや透明なシートに描画材料を用いて描画し、これを印画紙に密着させて光によって転写する技法を用いていると推測される。瑛九の絵画や版画とも共通する風船のような特徴的な形が見えているが、そのような構図と同程度か、あるいはそれ以上に、この作品の印象を決定づけるのは、画面を覆う独特の筆触=タッチである。その筆触=タッチの感覚は、《(夜の散歩)》に見られる具象的なモチーフの描写にも、画面に散見される点の表現にも、共通している。
 上述したような浮遊感を湛えた夢幻的な世界は、無重力的な表現に適性があるフォト・デッサンの魅力のひとつである。瑛九の作品全体を見渡してみると、晩年の点描による抽象という作風の油彩画のみならず、水彩による素描や版画作品にも、そのような感覚が表出していることに気づかされる。ここで紹介する《点描デッサン》(fig.8)と《地球の外へ》(fig.9)は、そのような事例に該当する作品であり、なおかつ、《(夜の散歩)》とも共鳴する感覚を湛えている。

 まず、《点描デッサン》であるが、青色系と黄色系の点が、空間的な余白を残した状態で、画面に散りばめられている。この画面で注目して欲しいのは、点という記述に頼るしかないが、決して単なる「点」ではない、その斑点の「形」である。「形」というのは大げさかも知れないが、筆触=タッチによってもたらされる、画面に定着される色の、その置かれ方を、見てほしいのである。説明が難しいが、そのような斑点の形、輪郭は、《(夜の散歩)》に見られる点の筆触=タッチと、近いように感じられはしないだろうか。
 そして、その感覚は、おそらく、版画作品である《地球の外へ》とも、響き合っているだろう。《地球の外へ》は、《点描デッサン》と比較すると、明快な構図の意識があり、色彩の分布を含め、よく練られた作品といえる。何より強く興味を惹かれるのは、《地球の外へ》という宇宙的な感覚のタイトルである。このタイトルは、抽象による点描へと到達した瑛九の芸術の、その全貌を象徴する言葉としても、無重力的な浮遊感というフォト・デッサンの特徴を示す言葉としても、響いてくる。

 《(夜の散歩)》を、その具象的なイメージにおいてとらえることは、「地球の内で」行われる解析作業である。そこに、地上的な再現的空間を見るならば、その画面のどこかに、「Vanishing Point=消失点」が、たとえ無意識的であれ、潜在していることになる。だが、《(夜の散歩)》を、その筆触=タッチにおいて、網目状のイメージにおいて、散りばめられた点において、つまり、視覚と知覚に与えられるトリガーとして把握するならば、その画面は、地上的な「Vanishing Point=消失点」の彼方を志向していることがわかってくる。その志向は、まさしく、《地球の外へ》と、向けられているのである。

Dream Attack

 Dream Attack-冒頭で紹介した「Vanishing Point」が収録されているアルバム『Technique』の最後を飾る曲である。「Vanishing Point」に代表される中毒性のあるサウンドが『Technique』の特徴である。その中にあって、「Dream Attack」は、より軽快な、アコースティックな感覚に満ち溢れたフレッシュな楽曲であり、シンプルなギターサウンドも魅力的である。
 そして、これまで意識したことがなかった、「I put the sun into my life, it cut my heartbeat with a knife」や「To steal the light out of the sky」という歌詞が、なぜか、私の耳をとらえている。「Vanishing Point」を内包し、「Dream Attack」で終わる『Technique』は、きっと、終わらない、なぜなら、この曲は、地上的な「Vanishing Point」の彼方、つまり、《地球の外へ》と、向けられているのだから。

(うめづ げん)

図版出典
fig.1:「第33回瑛九展・湯浅コレクション」より
fig.2, fig.3, fig.4, fig.5, fig.6, fig.8, fig.9:『魂の叙事詩 瑛九展』宮崎県立美術館、1996年
fig.7:『光の化石』埼玉県立近代美術館、1997年

梅津 元
1966年神奈川県生まれ。1991年多摩美術大学大学院美術研究科修了。専門は芸術学。美術、写真、映像、音楽に関わる批評やキュレーションを中心に領域横断的な活動を展開。主なキュレーション:「DE/construct: Updating Modernism」NADiff modern & SuperDeluxe(2014)、「トランス/リアル-非実体的美術の可能性」ギャラリーαM(2016-17)など。1991年から2021年まで埼玉県立近代美術館学芸員 。同館における主な企画(共同企画を含む):「1970年-物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「ドナルド・ジャッド 1960-1991」(1999)、「プラスチックの時代|美術とデザイン」(2000)、「アーティスト・プロジェクト:関根伸夫《位相-大地》が生まれるまで」(2005)、「生誕100年記念 瑛九展」(2011)、「版画の景色-現代版画センターの軌跡」(2018)、「DECODE/出来事と記録-ポスト工業化社会の美術」(2019)など。

・梅津元のエッセイ「瑛九-フォト・デッサンの射程」は毎月24日更新、次回は2月24日です。どうぞお楽しみに。

●本日のお勧め作品は瑛九です。
qei-250 (1)《南風》
1954年
キャンバスに油彩
46.0×38.0cm(F8)
サイン・年記あり
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●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
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