新連載・今村創平のエッセイ「建築家の版画」

第2回 建築家ル・コルビュジエの版画作品

 手のなかの道具
 手の愛撫
 手でこねて
 味わう生命
 手でさぐるなかに
 在る生命
  ル・コルビュジエ「直角の詩、F.3 贈物(開いた手)」より *1

 建築家ル・コルビュジエは、設計と執筆と同時に、多くの絵画、彫刻を手掛けていた。しかも、作品製作としては建築よりも絵画の方が早く(建築の方が実現は難しかったとは言え)、また建築家としての評価が高まっても、絵画を描くことを習慣とし続けていた。*2  なぜル・コルビュジエが、これほどのエネルギーを絵画に注いだのかは、繰り返し問われてきた。巨匠の成したことであるから、膨大なル・コルビュジエ研究の一部として、絵画も対象とされてきたのは当然と言える。そしていくつもの分析と解説がなされてきたが、それでも今なお、ル・コルビュジエと絵画の関係には疑問が残る。そして絵画への理解の低さは続いている。

 絵画や彫刻は、建築に比べて余技ではないか。
 何が書かれているかわからない。
 技法的に稚拙ではないか。

 ル・コルビュジエは、絵画を描き続けていることを積極的に公表せず、アトリエにはほとんど人を入れなかった、という証言もある。建築家にとって本業である建築作品とその思想のように、外に向けて発信するものでなく、内面の深化のためのパーソナルな営為だったのであろうか。そうだとすると、秘された絵画の方にこそ、建築家のエッセンスが埋め込まれている可能性がある。
 初期のピュリズムの時代の絵画は、同時代の芸術家の試みと並行した重ね合わせの効果などが採用され、それでも描かれている対象は静物など判断がしやすい。ところが後期のものとなると、自由に曲線がうねり、色彩は彩られ、画面構成も複雑となる。(この変化はしばし、初期建築作品のスクエアな形態から、ロンシャンの教会などに見られる後期の彫塑的な形態への移行と、パラレルなものとして理解される。)

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〈ユニテ〉より#4

 こうした絵画に見られる闊達さは、制約が多く合理性を求められる建築を補完するものとも解釈できる。建築における不自由さを、絵画では制約なく表現できる。また、ル・コルビュジエの建築では、例えば「スイス学生会館」の一階ロビーの壁面、「ロンシャンの教会」の扉をはじめ、ル・コルビュジエの絵画がよく使われている。その際も、よくある建築の壁に絵を飾ったり部屋に彫刻を置き、空間のアクセントとする効果を狙ってのものではなく、建築と絵画とが同等のものとして統合されることが意図されている。さらには、サボワ邸のスロープのある空間やロンシャンの聖堂内の空間は、あたかもコルビュジエが絵画で構想した空間の中にいるような効果が感じられる。
 ル・コルビュジエの絵画が何を描いているのかわからないのは、合理的にわかる建築物に対し、不可解なものを、絵画で探求していたのではないか。理解できるものではなく、感情とか、生命力とか、精神性などを扱っていた。*3

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《小さな告白 No.3「横たわって…」》

 ではなぜ、ル・コルビュジエの絵画は、技法的に稚拙に見えるのか。ル・コルビュジエは絵画の教育を受け、精緻なデッサンを描く能力を持っていた。また初期の絵画では、丁寧に画面を仕上げている。後期の絵画においては、そうした専門技能には重きを置かず、身体の自由な動きがそのまま定着されている(日本の書が、書家の身体性を記録することに似ている)。実際に即興の線である必要はなく、そのような効果がある描写を修練により習得する、そのために日々繰り返し書き続けた(そのあたりも書道の稽古に似ている)。建築家の肉体が生みだした、生々しいものをとどめることが肝要だったのであろう。

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《ヌード》

 では、最後の問い。建築家の手を離れ建設される建築に対して、絵画や彫刻は作者の身体性がそのまま映し出されている。とはいえ、版画は複製であって、オリジナルの質感を有していない。身体性の生々しい表現という意図と反するのではないか。しかし、ル・コルビュジエは、数千枚といわれるリトグラフを自らの意思で制作している。
 ル・コルビュジエは、建築の工業化にも関心を寄せ、「ドミノ計画」というプロトタイプを提示している。考えを広めるために自ら雑誌を編集し、建築作品集全8巻を作った。写真という複製メディアへの意識も高かった。そうしたことからすると、版画という複製芸術は、この建築家の活動の中で違和感ないものとして位置づけられる。自らの絵画を、より多くの人に届けようと希望したのだろう。実際、ル・コルビュジエのリトグラフからは、建築家の身体的表現が生き生きと伝わってくる。

*1:『ユリイカ 総特集ル・コルビュジエ』(青土社、1988年)、p101
*2:絵画の最初の展覧会は1918年で、パリで最初の建築「エスプリヌーボー館」が実現したのが1924年。ただし母国スイスでは、1907年からいくつかの住宅を手掛けている。
*3:ここでは、わかりやすい対比として、建築と絵画=理性と感情としているが、ル・コルビュジエを語る際に、合理性と不合理性が共存していたことは、繰り返し指摘されて来た構図である。例としては、すでに半世紀前に、チャールズ・ジェンクス著『ル・コルビュジエ』(1973年)の最後にて、本人が描いた半分アポロ、半分メデューサのドローイングが、二重肖像として紹介されている。

(いまむら そうへい)

今村創平
千葉工業大学 建築学科教授、建築家。

・今村創平の新連載エッセイ「建築家の版画」は毎月22日の更新です。

●本日のお勧め作品は、ル・コルビュジエです。
corbusier_01_modulor (4)《モデュロール》
1956年
リトグラフ
イメージサイズ:70.5×53.0cm
シートサイズ:73.2×54.0cm
版上サインあり
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。


*画廊亭主敬白
いつもスタッフたちに「流行というのは恐ろしい、市場の動きが激変しても決して右往左往しないこと」と言っています。
都内某所で某オークションがあり、駒井哲郎の銅版画代表作とル・コルビュジエのリトグラフ(普通のレベルで特段名作でもない)が出品されました。
駒井も建築家の版画も買うのはうちくらいなので楽勝かと思ったのですが、ル・コルビュジエがなんとエスティメートを大幅に上回り、落札できませんでした(ショック)。
まさかうちが買えなくなるなんて・・・
一時は500万円を超えていた駒井の代表作が、ル・コルビュジエの半分にも届かない日が来るとは。
流行というのは恐ろしい・・・

本日2月22日はアンディ・ウォーホルと史上最強のウォーホルオタク・栗山豊の命日です。
ちょうど画廊では「常設展示/靉嘔、アンディ・ウォーホル、恩地孝四郎、草間彌生、倉俣史朗、嶋田しづ、ジャン・ティンゲリー、難波田龍起、松本竣介、マン・レイ、南桂子、宮脇愛子、横尾忠則、若林奮」展を開催しており、ウォーホルも数点展示しています(日曜・月曜・祝日は休廊)。二人の冥福を祈るともに、そろそろ亭主もあちらが近いなあと感じるこのごろです。

●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com 
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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