三上豊「今昔画廊巡り」

第23回 岡崎球子画廊(原宿篇)


 古書情報誌『彷書月刊』が休刊になったのはいつだったか。同誌2008年10月号の特集は「画廊回遊」だった。12本の記事が収録されている。巻頭には岡崎球子さんのインタヴューが6ページにわたって掲載されている。インタヴューの場所は画廊で、住所は世田谷区奥沢5丁目27の5とある。しかし、私の記憶にある画廊の場所は奥沢へ移転前の原宿だ。今回はそのあたりを巡る。

 岡崎球子さんは、1938年、岡山県生まれ。開廊以前は知り合いの読売新聞社学芸部海藤日出男の紹介で、瀧口修造のもとで学んだそうだ。自ら「弟子」と称し、遊学期間と述べている。78年、渋谷区神宮前1丁目21の2の202に「岡崎球子画廊」を開廊する。原宿駅は竹下口から徒歩4分ほどの所だった。当初3回開催の「岡崎和郎展」は、以前から活動していた「サプリメント・ギャラリー」名になっている。82年の松澤宥展図録の発行所も同名で、この辺りの事情は不明だ。ともかく、81年12月、鈴木昭男展から岡崎球子画廊が本格化する。作家名をたどると、高崎正治、高間夏樹、米谷栄一、小杉武久、藤原和通、村岡三郎、池田満寿夫ら当時の新人から大御所まで幅広い。作品傾向としては、ジャンルを刷新していくような、ビデオ、オブジェ、パフォーマンス、写真といった表現がめだつ。画廊があった建物の1階には、霧の彫刻家中谷芙二子が主催するビデオギャラリーSCANがあり、刺激を受けたこともあっただろう。85年からは池田満寿夫の企画をバックアップし、陶芸作品の展示などが行われた。

 作家で言えば、松澤宥をあげておく。近年評価が進む松澤については、千葉成夫のキュレーションによる82年の「プサイの部屋から27個の函」展から、毎年のように10回近くの個展を開催している。88年には重要な文献『量子芸術宣言』を刊行した。松澤没後『あいだ』誌上の連続追悼号の記事について、岡崎さんは上記インタビューで「みんな違う。真実というのはぜんぜん違った面がある」と語る。自身の企画で展覧会をしてきた岡崎さんの画廊主としての様々な「真実」を知りたいところだ。

 画廊の空間で特徴的だったのは、1面がブラインド・カーテンになっていたことだ。磯崎新さんの発案らしいが、外光が入るホワイトキューブの空間の眩しさがあった。これは、画廊が閉じられた場でなく、外へ広がりを持たせたい思いがあり、84年から9回開催された岡山県瀬戸内市での「牛窓国際芸術祭」につながっていく。岡崎さんには業界で「オカタマさん」と呼ばれ、プロデューサーとして走り回る姿があった。そのあたりは別の話となる。でももうひとつ、なんの展覧会だったか、情報誌『ぴあ』の美術担当村田真さんが画廊に入ってくると、岡崎さんはサッと彼の側に寄り、熱く語りかけるのだった。その様子をみていると、時代は評論の時代から情報の時代へと変わったのだと、二人が眩しく見えたことを思い出す。

 原宿の岡崎球子画廊は22年間で終了し、世田谷に移転した。

 なお、文頭の『彷書月刊』の特集には、ときの忘れものの綿貫不二夫さんの「画廊亭主のつぶやき」なる文章もあり、ご一読を。

(みかみ ゆたか)

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現在のビルの外観。手前の砂利道は当時のまま。

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岡崎さんのステートメント 年不詳

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松澤宥『量子芸術宣言』(再版 50部限定)と『方便 九』(99部限定)表紙 1990

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リーフレット各種

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『美術手帖』1987年3月号の記事より。左から斎藤義重さん、堀内正和さん、岡崎球子さん。

■三上 豊(みかみ ゆたか)
1951年東京都に生まれる。11年間の『美術手帖』編集部勤務をへて、スカイドア、小学館等の美術図書を手掛け、2020年まで和光大学教授。現在フリーの編集者、東京文化財研究所客員研究員。主に日本近現代美術のドキュメンテーションについて研究。『ときわ画廊 1964-1998』、『秋山画廊 1963-1970』、『紙片現代美術史』等を編集・発行。

・三上豊のエッセイ「今昔画廊巡り」は毎月28日の更新です。次回更新は4月28日です。どうぞお楽しみに。

●本日のお勧め作品は、池田満寿夫です。
ikeda_18 (1)《ブダペストからの自画像》
1968年
リトグラフ
イメージサイズ:56.3×44.8cm
Ed.25(アルシュ紙)、Ed.20(ジャーマン・エッチング紙)
サインあり
レゾネNo.456
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*画廊亭主敬白
三上豊先生のエッセイの最後で触れていただいた『彷書月刊』2008年10月号の亭主の駄文はコチラです。

さて、本日3月28日はマルク・シャガール(1887年7月7日 - 1985年3月28日)の命日です。
今年は没後40年にあたります。
ニースにあるフランス国立のシャガール美術館(Musee national Marc Chagall)を訪ねた日々のことが懐かしい。
現代版画センターの倒産の始末に明け暮れた日々、ようやく一段落して就職したのがフランス人ピエール・ボードリさん経営の会社でした(日本の会社はどこも拾ってくれなかった)。ちょうど講談社からシャガールの版画レゾネ全三巻を刊行する話があり、著作権の交渉やら、記念の展覧会の企画に英語すら話せない亭主のフランス通いが始まった。シャガールは少し前に亡くなっており会うことは叶わなかったが、バランティーナ夫人を日本にお招きすることができた。破産の身だったので出張のたびに管財人弁護士が「逃亡のおそれ無し」という上申書を裁判所に提出して渡仏するのだが、フランス語に堪能な有能なスタッフたちのおかげでパリやニース、リヨン、休日にはスイスと遊びまわった(もちろん仕事がらみですよ)。
ブログに素晴らしい原稿を寄せてくれている中原千里さんはその頃の同僚です。

シャガール展カタログ中山公男監修・シャガール生誕100年記念展図録
故・中山公男先生(群馬県立近代美術館館長)に監修をお願いして、東京会場は、当時岡田事件で揺れていた三越に復帰、社長に就任した坂倉芳明さんに直談判してペルシャの秘宝(偽物)展以来封印されてきた美術展再開の第一弾として開催していただきました。

1987年3月_三越シャガール展司会綿貫1987年3月3日
日本橋三越本店の「マルク・シャガール回顧展」オープニング。
初来日のヴァランティーナ・シャガール夫人、国立マルク・シャガール聖書のメッセージ美術館シルヴィー・フォレスティユ館長らを招いた三越としては数年ぶりのレセプションが盛大に開催され、亭主が司会を務めました。

ニースシャガール展カタログ編集をお手伝いしたニースの国立シャガール美術館の生誕100年記念展図録
1987年7月に開催されたニースでの記念展に招かれてオープニングに出席しました。

●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com 
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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