よりみち未来派(第31回):未来派に「破門」は存在したか
太田岳人
先月上旬、私は公開研究会「20世紀イタリアの芸術と文化」(於:青山学院大学)に、パネリストの一人としてお招きいただいた。私の稚拙な発表はさておき、主催の池野絢子氏、および長尾天氏による、それぞれの観点からのジョルジョ・デ=キリコについてのご発表、片桐悠自氏による、第二次世界大戦後の建築界のスターの一人アルド・ロッシについてのご発表は、いずれも刺激になった。その懇親会の席で、ある方から一つ質問を受けた――「そういえば、アンドレ・ブルトンのような「破門」を、マリネッティはしなかったんでしょうか?」。前回の記事では、未来派とシュルレアリスムの相違点について、「国旗」(の色彩)の取り扱いという観点から書いたが、芸術運動における指導のあり方という点の比較を通じても、未来派という芸術運動の性格が明らかになるかもしれない。
何かしらの芸術家集団において、集合離散は常なるものである。しかし、シュルレアリスム運動の歴史を書いた文章においてとりわけ印象に残るのは、メンバーが除名される時に発せられる、ブルトンその人の憤怒みなぎるフレーズの数々である。たとえば「シュルレアリスム第二宣言」(1930)で、ブルトンと袂を分かった作家たちが、「その完膚なきまでの破廉恥さ」「まぎれもない思想の汚染者」といった、猛烈な罵倒をかたっぱしから食わされていく様子はよく知られている【注1】。たびたび繰り返されるこうした詩人の振る舞いが、「法王」による「破門」であると呼ばれるようになったのは、門外漢の私も一応知っている所ではあるが、こうした揶揄的表現を誰が最初に使ったのか、また「破門」をどう分析すべきかといった話は、10年ほど前に日本にも紹介された『シュルレアリスム辞典』にも残念ながら出てこない【注2】。個人的には、「ブルトンの破門論」とでも言うべきエッセイなり研究なりがあれば、ぜひ読んでみたいと考えている(本当に存在していたらご教示いただきたい)。
さて、未来派からの離脱に対するマリネッティの姿勢はどのようなものであっただろうか。未来派に対抗する「過去派passatismo」に属する(とされた)物事をさんざん挑発した未来派だから、同志から背教者と転じた(とされた)人々には、彼もさぞ厳しかったのではないか――このような仮定がされてもおかしくはない。しかし興味深いことに、実際のマリネッティの振る舞いには、ブルトンの雷鳴が欠けている。
ここでは、1910年代の芸術運動初期の状況を例にとろう。たとえば、第一次世界大戦中よりカルロ・カッラやジーノ・セヴェリーニは、それぞれ徐々に運動からフェードアウトしていくが、マリネッティは彼らに対し公的には絶縁的言辞を示していない。外部の目からも両人の離脱が明らかとなった1920年代以降になると、ようやくマリネッティは、彼らに言及する際に「未来派画家の頃は偉大であったが」と、皮肉っぽい枕詞をしばしば盛り込むようになる。しかしこれは、1930年代末のブルトンがサルバドール・ダリを芸術運動から追放した際、ご丁寧にも相手の名をアナグラムにして「ドルの亡者Avida Dollars」と呼んだのみならず、第二次世界大戦後にも事あるごとに堕落分子であることを規定していることと考え合わせれば、まずは穏健であろう。
カッラとセヴェリーニ以前の、初期未来派メンバーの追放事件の中でも、1913年秋のアントン・ジュリオ・ブラガーリア(1890-1960)のそれは、未来派における写真ジャンルへの探求と、あれほど宣言文を乱発していた運動における「未来派写真宣言」の登場(1930年)を、遅らせることにつながったという意味でも重要である【注3】。このあたりについては、本連載の第18回においても多少言及したが、この事件を主導したのはマリネッティではなく、造形芸術面におけるリーダー的存在であったボッチョーニであった。

図1:アントン・ジュリオ・ブラガーリア《ボッチョーニの多人相的肖像Ritratto polifisiognomico di Boccioni》、1912-1913年(12.3×17cm、個人蔵)
※ Enrico Crispolti (a cura di), Futurismo 1909-1944, Milano: Mazzotta, 2001より。
実のところボッチョーニには、「フォトディナミズモ」の形式を採った肖像写真も残されているのだが【図1】、それにも関わらずブラガーリアの写真理論を、自身が目指していた未来派絵画の確立を妨げるものと認識したようである。彼はカッラやセヴェリーニら画家仲間を巻き込む形で、未来派と「フォトディナミズモ」は無縁であるという「通告Avviso」を『ラチェルバ』1913年10月1日号に掲載した【図2】。一方マリネッティは、1913年の初頭にはブラガーリアを運動に引き入れる方向で動いていたようだが、その反面ボッチョーニらによる彼の排斥にも反対した形跡はない。

図2:未来派画家6名の署名による「告知Avviso」、『ラチェルバ』1913年10月1日号
※ Matteo D‘Ambrogio (a cura di), Nuovi archive del Futurismo. Manifesti programmatici: teorici, tecnici, polemici, Roma: De Luca, 2019より。
「追放」とは若干異なるが、未来派との対立関係から一旦和解したものの、再び決裂するに至る、アルデンゴ・ソッフィチ(1879-1964)【図3】を中心としたフィレンツェのグループの事例も興味深い。ソッフィチは、1900年からパリに長期滞在した経験を持ち、アポリネールやピカソとも交わった経験から、1911年6月に文化週刊紙『ラ・ヴォーチェ』でミラノの未来派展を酷評したことで、フィレンツェへのマリネッティたちの殴り込み――比喩ではなく文字通りのもの――を受けた。しかし、最初期の未来派詩人かつフィレンツェ出身のアルド・パラッツェスキ(1885-1974)の仲裁などもあり、ミラノのグループへの仲間入りを受け入れる。彼が作家ジョヴァンニ・パピーニ(1881-1956)とともに、1913年1月に創刊した『ラチェルバ』は、未来派の詩作や宣言を多数掲載することで、運動全体の準機関紙的な役割を担った【注4】。

図3:ソッフィチ《静物(低速)Natura morta (Piccola velocità)》、1913年(紙に油彩、テンペラ、コラージュ、67×50cm、ミラノ20世紀美術館)
※ Enrico Crispolti (a cura di), Futurismo 1909-1944, Milano: Mazzotta, 2001より。
この同盟関係は、1914年の春には、パピーニがミラノのグループの進めている詩や絵画の実験を拒絶する論考を『ラチェルバ』に発表したことで、早くも動揺を迎える。ただし、それに対してミラノを代表して応戦したのはボッチョーニであり、マリネッティは『ラチェルバ』への詩や宣言の寄稿を続けている。1915年2月、ソッフィチがパラッツェスキとパピーニとの連名で、「未来派とマリネッティ主義」【図4】を同紙に公表したことによって、両者の関係が最終的に断絶した際には、やはりバリッラ・プラテッラやルイージ・ルッソロといったミラノの未来派が反論を展開したが、ここでもマリネッティ自身が「破門」に相当する宣告を下した形跡はない。ただしこの時には、すでに彼が第一次世界大戦への参戦運動という、さらなる大きなテーマに集中していたせいかもしれないが。

図4:パラッツェスキ、パピーニ、ソッフィチ「未来派とマリネッティ主義Futurismo e Marinettismo」より「傾向と理論/先駆者/所属者」、『ラチェルバ』1915年2月14日号
※ Matteo D‘Ambrogio (a cura di), Nuovi archive del Futurismo. Manifesti programmatici: teorici, tecnici, polemici, Roma: De Luca, 2019より。
「未来派」に厳格な会員資格を求めるのではなく、ある種の野放図な幅広主義を持って仲間を集めていく、また自分の専門ではない分野の同志には、一定の運営の判断をゆだねるといった方針が、マリネッティの中には存在したようである。もちろん私は、マリネッティが「自由主義的」であり「寛容」である一方、除名を連発したブルトン(またはボッチョーニ)が「教条主義的」であり「独裁」であるなどという、二分法的な単純化をしたいわけではない【注5】。ブルトンの「破門」には、カリスマ的指導者と被除名者の間に生じた、芸術観の対立の問題はもとより、ドイツ・ナチズムの台頭への評価やソヴィエト連邦に対する態度の決定といった、社会情勢に対する見解の差異や変化の問題も含めた、非常に劇的な緊張関係が介在していた。一方、マリネッティと未来派運動からの離脱者の間には、ブルトンと追放者たちのあいだで生じた種の衝突の要素が薄く、彼らが仮に分裂していったとしても、その精神的基盤という点ではより同質性が高かったように思われる。
これは政治の観点から見れば、両者がともに同時代のイタリアのナショナリズム、さらにはその後のファシズムの枠組みに吸収されていく要素が強かったこととも関係している。演劇に転じたブラガーリアが、自身の前衛性をファシズム政権と共存させつつ推進する立場を選んだことは、田之倉稔の一連の研究に詳しい。さらにソッフィチは、マリネッティに10年遅れる1939年に「イタリア・アカデミー」の会員となっただけでなく、ドイツ軍がイタリア半島北部に侵入した第二次世界大戦末期において、なおムッソリーニの「サロ共和国」の文化人として活動しようとした点でも、マリネッティと歩調をともにしていた。
――――――
【注】
注1:アンリ・べアール『アンドレ・ブルトン伝』(塚原史・谷昌親訳、思潮社、1997年)における抜粋より。『アンドレ・ブルトン集成』第5巻(人文書院、1970年)収録の、生田耕作訳による「シュルレアリスム第二宣言」はもう少しマイルドな言葉になっているが、元のフランス語の“maquereaux de plume”や“crétin”などには、塚原・谷氏の与えた切断的な表現がより適合している気がする。
注2:ディディエ・オッタンジェ(編)『シュルレアリスム辞典』(柏木博監修、遠藤ゆかり訳、創元社、2016年)。本書はポンピドゥー・センターでの展覧会カタログをもとにしているようだが、「破門(除名)」「集団活動」といった項目はない。ブルトンとの対立が有名な多くの人物(たとえばルイ・アラゴン)についても同様である。一応存在する政治に関する項目(たとえば「マルクス主義」)の説明も薄く、今回の私のような読者にとっては、辞典と言うより単なるお高いファンブックという感じがしてしまう。
注3:角田かるあ「未来派によるフォトディナミズモ追放の背景――20世紀初頭までのイタリア写真の状況――」(『イタリア学会誌』第71号、2021年)、同「ボッチョーニとブラガーリアにおける「精神状態」:初期未来派におけるフォトディナミズモ追放をめぐって」(『DNP文化振興財団学術研究助成紀要』第6号、2024年)などを参照。本稿の執筆にあたっては、角田さんの直接のコメントも参考にさせていただいた。この場を借りて感謝申し上げたい。
注4:『ラチェルバ』の活動と、ミラノとフィレンツェの未来派グループの関係性の変化については、キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ『未来派』(松田嘉子訳、PARCO出版、1992年)の第9章が、日本語で読める見取り図を提供してくれる。『ラ・ヴォーチェ』なども含めた、マリネッティとも知的に近い位置にあったイタリアの若手知識人の状況については、倉科岳志(編)『ファシズム前夜の市民意識と言論空間』(慶應義塾大学出版会、2008年)の各論文が詳しい。
注5:シュルレアリスム運動においても、メンバーの除名が常にブルトン個人の「独裁」で決定していたわけではないようである。上述のべアールによる伝記には、1954年にマックス・エルンストがヴェネツィア・ビエンナーレの大賞を受けたことに対してなされた「除名」の決定に際し、ブルトン個人は反対だったものの、彼の周囲にいた若手メンバーの賛成が多数を占めたため「民主的」に従ったというエピソードが記されている。
(おおた たけと)
・太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」は隔月・偶数月の12日に掲載します。次回は2025年6月12日の予定です。
■太田岳人
1979年、愛知県生まれ。2013年、千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員を経て、今年度は千葉大学・東京医科歯科大学・東京工業大学ほかで非常勤講師の予定。専門は未来派を中心とするイタリア近現代美術史。
E-mail: punchingcat@hotmail.com
●本日のお勧め作品は、小野隆生です。

《剽窃断片図 (フェルメール)》
1976年
油彩
イメージサイズ: 33.0x24.3cm
フレームサイズ:49.5x40.4cm
サインあり
作品の見積り請求、在庫確認はメール(info@tokinowasuremono.com)かお電話(03-6902-9530)でご連絡ください。
必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」の明記をお願い致します。
*画廊亭主敬白
4月は人事の季節、学芸員の皆さんから異動のお知らせをいただいています。
<3月31日をもちまして38年間勤めました町田市立国際版画美術館を退職し、4月1日から新潟市美術館に特任館長として勤務しております。(滝沢恭司先生からの挨拶状より)>
38年間も版画美術館一筋に勤められた滝沢恭司先生が日本の版画界に果たした貢献は多大なものがあります。新たな職場でのご活躍を祈念しています。
一方、<時下、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。さて私こと、このたび3月末日をもちまして5年間勤めました●●美術館を退職し、4月1日より▲▲美術館に着任いたしました。(F先生からのメール)>
同じような異動のご挨拶に見えますが実情は大違い。F先生は任期制採用で最長5年で首、次の職場を探さなければならない。かくして有能な学芸員の漂流が始まる。滝沢先生の世代は38年勤続して研究に勤しむことができたけれど、若いF先生の世代は5年が最長。5年の蓄積を生かす間もなく、次の職場に移らねばならない、新たな職場でのご活躍を期待しますが、こういう使い捨てのようなシステムでは日本の未来は暗いなあ。
◆「ポートレイト/松本竣介と現代作家たち」展
2025年4月16日(水)~4月26日(土)11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
出品作家:松本竣介、野田英夫、舟越保武、小野隆生、靉嘔、池田満寿夫、宮脇愛子+マン・レイ、北川民次、ジャン・コクトーほか
●松本莞さんが『父、松本竣介』(みすず書房刊)を刊行されました。ときの忘れものでは莞さんのサインカード付本書を頒布するとともに、年間を通して竣介関連の展示、ギャラリートークを開催してゆく予定です。
『父、松本竣介』の詳細は1月18日ブログをお読みください。
ときの忘れものが今まで開催してきた「松本竣介展」のカタログ5冊も併せてご購読ください。
画家の堀江栞さんが、かたばみ書房の連載エッセイ「不手際のエスキース」第3回で「下塗りの夢」と題して卓抜な竣介論を執筆されています。
著者・松本莞
『父、松本竣介』
発行:みすず書房
判型:A5変判(200×148mm)・上製
頁数:368頁+カラー口絵16頁
定価:4,400円(税込)+梱包送料650円
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

太田岳人
先月上旬、私は公開研究会「20世紀イタリアの芸術と文化」(於:青山学院大学)に、パネリストの一人としてお招きいただいた。私の稚拙な発表はさておき、主催の池野絢子氏、および長尾天氏による、それぞれの観点からのジョルジョ・デ=キリコについてのご発表、片桐悠自氏による、第二次世界大戦後の建築界のスターの一人アルド・ロッシについてのご発表は、いずれも刺激になった。その懇親会の席で、ある方から一つ質問を受けた――「そういえば、アンドレ・ブルトンのような「破門」を、マリネッティはしなかったんでしょうか?」。前回の記事では、未来派とシュルレアリスムの相違点について、「国旗」(の色彩)の取り扱いという観点から書いたが、芸術運動における指導のあり方という点の比較を通じても、未来派という芸術運動の性格が明らかになるかもしれない。
何かしらの芸術家集団において、集合離散は常なるものである。しかし、シュルレアリスム運動の歴史を書いた文章においてとりわけ印象に残るのは、メンバーが除名される時に発せられる、ブルトンその人の憤怒みなぎるフレーズの数々である。たとえば「シュルレアリスム第二宣言」(1930)で、ブルトンと袂を分かった作家たちが、「その完膚なきまでの破廉恥さ」「まぎれもない思想の汚染者」といった、猛烈な罵倒をかたっぱしから食わされていく様子はよく知られている【注1】。たびたび繰り返されるこうした詩人の振る舞いが、「法王」による「破門」であると呼ばれるようになったのは、門外漢の私も一応知っている所ではあるが、こうした揶揄的表現を誰が最初に使ったのか、また「破門」をどう分析すべきかといった話は、10年ほど前に日本にも紹介された『シュルレアリスム辞典』にも残念ながら出てこない【注2】。個人的には、「ブルトンの破門論」とでも言うべきエッセイなり研究なりがあれば、ぜひ読んでみたいと考えている(本当に存在していたらご教示いただきたい)。
さて、未来派からの離脱に対するマリネッティの姿勢はどのようなものであっただろうか。未来派に対抗する「過去派passatismo」に属する(とされた)物事をさんざん挑発した未来派だから、同志から背教者と転じた(とされた)人々には、彼もさぞ厳しかったのではないか――このような仮定がされてもおかしくはない。しかし興味深いことに、実際のマリネッティの振る舞いには、ブルトンの雷鳴が欠けている。
ここでは、1910年代の芸術運動初期の状況を例にとろう。たとえば、第一次世界大戦中よりカルロ・カッラやジーノ・セヴェリーニは、それぞれ徐々に運動からフェードアウトしていくが、マリネッティは彼らに対し公的には絶縁的言辞を示していない。外部の目からも両人の離脱が明らかとなった1920年代以降になると、ようやくマリネッティは、彼らに言及する際に「未来派画家の頃は偉大であったが」と、皮肉っぽい枕詞をしばしば盛り込むようになる。しかしこれは、1930年代末のブルトンがサルバドール・ダリを芸術運動から追放した際、ご丁寧にも相手の名をアナグラムにして「ドルの亡者Avida Dollars」と呼んだのみならず、第二次世界大戦後にも事あるごとに堕落分子であることを規定していることと考え合わせれば、まずは穏健であろう。
カッラとセヴェリーニ以前の、初期未来派メンバーの追放事件の中でも、1913年秋のアントン・ジュリオ・ブラガーリア(1890-1960)のそれは、未来派における写真ジャンルへの探求と、あれほど宣言文を乱発していた運動における「未来派写真宣言」の登場(1930年)を、遅らせることにつながったという意味でも重要である【注3】。このあたりについては、本連載の第18回においても多少言及したが、この事件を主導したのはマリネッティではなく、造形芸術面におけるリーダー的存在であったボッチョーニであった。

図1:アントン・ジュリオ・ブラガーリア《ボッチョーニの多人相的肖像Ritratto polifisiognomico di Boccioni》、1912-1913年(12.3×17cm、個人蔵)
※ Enrico Crispolti (a cura di), Futurismo 1909-1944, Milano: Mazzotta, 2001より。
実のところボッチョーニには、「フォトディナミズモ」の形式を採った肖像写真も残されているのだが【図1】、それにも関わらずブラガーリアの写真理論を、自身が目指していた未来派絵画の確立を妨げるものと認識したようである。彼はカッラやセヴェリーニら画家仲間を巻き込む形で、未来派と「フォトディナミズモ」は無縁であるという「通告Avviso」を『ラチェルバ』1913年10月1日号に掲載した【図2】。一方マリネッティは、1913年の初頭にはブラガーリアを運動に引き入れる方向で動いていたようだが、その反面ボッチョーニらによる彼の排斥にも反対した形跡はない。

図2:未来派画家6名の署名による「告知Avviso」、『ラチェルバ』1913年10月1日号
※ Matteo D‘Ambrogio (a cura di), Nuovi archive del Futurismo. Manifesti programmatici: teorici, tecnici, polemici, Roma: De Luca, 2019より。
「追放」とは若干異なるが、未来派との対立関係から一旦和解したものの、再び決裂するに至る、アルデンゴ・ソッフィチ(1879-1964)【図3】を中心としたフィレンツェのグループの事例も興味深い。ソッフィチは、1900年からパリに長期滞在した経験を持ち、アポリネールやピカソとも交わった経験から、1911年6月に文化週刊紙『ラ・ヴォーチェ』でミラノの未来派展を酷評したことで、フィレンツェへのマリネッティたちの殴り込み――比喩ではなく文字通りのもの――を受けた。しかし、最初期の未来派詩人かつフィレンツェ出身のアルド・パラッツェスキ(1885-1974)の仲裁などもあり、ミラノのグループへの仲間入りを受け入れる。彼が作家ジョヴァンニ・パピーニ(1881-1956)とともに、1913年1月に創刊した『ラチェルバ』は、未来派の詩作や宣言を多数掲載することで、運動全体の準機関紙的な役割を担った【注4】。

図3:ソッフィチ《静物(低速)Natura morta (Piccola velocità)》、1913年(紙に油彩、テンペラ、コラージュ、67×50cm、ミラノ20世紀美術館)
※ Enrico Crispolti (a cura di), Futurismo 1909-1944, Milano: Mazzotta, 2001より。
この同盟関係は、1914年の春には、パピーニがミラノのグループの進めている詩や絵画の実験を拒絶する論考を『ラチェルバ』に発表したことで、早くも動揺を迎える。ただし、それに対してミラノを代表して応戦したのはボッチョーニであり、マリネッティは『ラチェルバ』への詩や宣言の寄稿を続けている。1915年2月、ソッフィチがパラッツェスキとパピーニとの連名で、「未来派とマリネッティ主義」【図4】を同紙に公表したことによって、両者の関係が最終的に断絶した際には、やはりバリッラ・プラテッラやルイージ・ルッソロといったミラノの未来派が反論を展開したが、ここでもマリネッティ自身が「破門」に相当する宣告を下した形跡はない。ただしこの時には、すでに彼が第一次世界大戦への参戦運動という、さらなる大きなテーマに集中していたせいかもしれないが。

図4:パラッツェスキ、パピーニ、ソッフィチ「未来派とマリネッティ主義Futurismo e Marinettismo」より「傾向と理論/先駆者/所属者」、『ラチェルバ』1915年2月14日号
※ Matteo D‘Ambrogio (a cura di), Nuovi archive del Futurismo. Manifesti programmatici: teorici, tecnici, polemici, Roma: De Luca, 2019より。
「未来派」に厳格な会員資格を求めるのではなく、ある種の野放図な幅広主義を持って仲間を集めていく、また自分の専門ではない分野の同志には、一定の運営の判断をゆだねるといった方針が、マリネッティの中には存在したようである。もちろん私は、マリネッティが「自由主義的」であり「寛容」である一方、除名を連発したブルトン(またはボッチョーニ)が「教条主義的」であり「独裁」であるなどという、二分法的な単純化をしたいわけではない【注5】。ブルトンの「破門」には、カリスマ的指導者と被除名者の間に生じた、芸術観の対立の問題はもとより、ドイツ・ナチズムの台頭への評価やソヴィエト連邦に対する態度の決定といった、社会情勢に対する見解の差異や変化の問題も含めた、非常に劇的な緊張関係が介在していた。一方、マリネッティと未来派運動からの離脱者の間には、ブルトンと追放者たちのあいだで生じた種の衝突の要素が薄く、彼らが仮に分裂していったとしても、その精神的基盤という点ではより同質性が高かったように思われる。
これは政治の観点から見れば、両者がともに同時代のイタリアのナショナリズム、さらにはその後のファシズムの枠組みに吸収されていく要素が強かったこととも関係している。演劇に転じたブラガーリアが、自身の前衛性をファシズム政権と共存させつつ推進する立場を選んだことは、田之倉稔の一連の研究に詳しい。さらにソッフィチは、マリネッティに10年遅れる1939年に「イタリア・アカデミー」の会員となっただけでなく、ドイツ軍がイタリア半島北部に侵入した第二次世界大戦末期において、なおムッソリーニの「サロ共和国」の文化人として活動しようとした点でも、マリネッティと歩調をともにしていた。
――――――
【注】
注1:アンリ・べアール『アンドレ・ブルトン伝』(塚原史・谷昌親訳、思潮社、1997年)における抜粋より。『アンドレ・ブルトン集成』第5巻(人文書院、1970年)収録の、生田耕作訳による「シュルレアリスム第二宣言」はもう少しマイルドな言葉になっているが、元のフランス語の“maquereaux de plume”や“crétin”などには、塚原・谷氏の与えた切断的な表現がより適合している気がする。
注2:ディディエ・オッタンジェ(編)『シュルレアリスム辞典』(柏木博監修、遠藤ゆかり訳、創元社、2016年)。本書はポンピドゥー・センターでの展覧会カタログをもとにしているようだが、「破門(除名)」「集団活動」といった項目はない。ブルトンとの対立が有名な多くの人物(たとえばルイ・アラゴン)についても同様である。一応存在する政治に関する項目(たとえば「マルクス主義」)の説明も薄く、今回の私のような読者にとっては、辞典と言うより単なるお高いファンブックという感じがしてしまう。
注3:角田かるあ「未来派によるフォトディナミズモ追放の背景――20世紀初頭までのイタリア写真の状況――」(『イタリア学会誌』第71号、2021年)、同「ボッチョーニとブラガーリアにおける「精神状態」:初期未来派におけるフォトディナミズモ追放をめぐって」(『DNP文化振興財団学術研究助成紀要』第6号、2024年)などを参照。本稿の執筆にあたっては、角田さんの直接のコメントも参考にさせていただいた。この場を借りて感謝申し上げたい。
注4:『ラチェルバ』の活動と、ミラノとフィレンツェの未来派グループの関係性の変化については、キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ『未来派』(松田嘉子訳、PARCO出版、1992年)の第9章が、日本語で読める見取り図を提供してくれる。『ラ・ヴォーチェ』なども含めた、マリネッティとも知的に近い位置にあったイタリアの若手知識人の状況については、倉科岳志(編)『ファシズム前夜の市民意識と言論空間』(慶應義塾大学出版会、2008年)の各論文が詳しい。
注5:シュルレアリスム運動においても、メンバーの除名が常にブルトン個人の「独裁」で決定していたわけではないようである。上述のべアールによる伝記には、1954年にマックス・エルンストがヴェネツィア・ビエンナーレの大賞を受けたことに対してなされた「除名」の決定に際し、ブルトン個人は反対だったものの、彼の周囲にいた若手メンバーの賛成が多数を占めたため「民主的」に従ったというエピソードが記されている。
(おおた たけと)
・太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」は隔月・偶数月の12日に掲載します。次回は2025年6月12日の予定です。
■太田岳人
1979年、愛知県生まれ。2013年、千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員を経て、今年度は千葉大学・東京医科歯科大学・東京工業大学ほかで非常勤講師の予定。専門は未来派を中心とするイタリア近現代美術史。
E-mail: punchingcat@hotmail.com
●本日のお勧め作品は、小野隆生です。

《剽窃断片図 (フェルメール)》
1976年
油彩
イメージサイズ: 33.0x24.3cm
フレームサイズ:49.5x40.4cm
サインあり
作品の見積り請求、在庫確認はメール(info@tokinowasuremono.com)かお電話(03-6902-9530)でご連絡ください。
必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」の明記をお願い致します。
*画廊亭主敬白
4月は人事の季節、学芸員の皆さんから異動のお知らせをいただいています。
<3月31日をもちまして38年間勤めました町田市立国際版画美術館を退職し、4月1日から新潟市美術館に特任館長として勤務しております。(滝沢恭司先生からの挨拶状より)>
38年間も版画美術館一筋に勤められた滝沢恭司先生が日本の版画界に果たした貢献は多大なものがあります。新たな職場でのご活躍を祈念しています。
一方、<時下、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。さて私こと、このたび3月末日をもちまして5年間勤めました●●美術館を退職し、4月1日より▲▲美術館に着任いたしました。(F先生からのメール)>
同じような異動のご挨拶に見えますが実情は大違い。F先生は任期制採用で最長5年で首、次の職場を探さなければならない。かくして有能な学芸員の漂流が始まる。滝沢先生の世代は38年勤続して研究に勤しむことができたけれど、若いF先生の世代は5年が最長。5年の蓄積を生かす間もなく、次の職場に移らねばならない、新たな職場でのご活躍を期待しますが、こういう使い捨てのようなシステムでは日本の未来は暗いなあ。
◆「ポートレイト/松本竣介と現代作家たち」展
2025年4月16日(水)~4月26日(土)11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
出品作家:松本竣介、野田英夫、舟越保武、小野隆生、靉嘔、池田満寿夫、宮脇愛子+マン・レイ、北川民次、ジャン・コクトーほか●松本莞さんが『父、松本竣介』(みすず書房刊)を刊行されました。ときの忘れものでは莞さんのサインカード付本書を頒布するとともに、年間を通して竣介関連の展示、ギャラリートークを開催してゆく予定です。
『父、松本竣介』の詳細は1月18日ブログをお読みください。
ときの忘れものが今まで開催してきた「松本竣介展」のカタログ5冊も併せてご購読ください。
画家の堀江栞さんが、かたばみ書房の連載エッセイ「不手際のエスキース」第3回で「下塗りの夢」と題して卓抜な竣介論を執筆されています。
著者・松本莞『父、松本竣介』
発行:みすず書房
判型:A5変判(200×148mm)・上製
頁数:368頁+カラー口絵16頁
定価:4,400円(税込)+梱包送料650円
●ときの忘れものの建築は阿部勤先生の設計です。
建築空間についてはWEBマガジン<コラージ2017年12月号18~24頁>に特集されています。
〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 E-mail:info@tokinowasuremono.com
http://www.tokinowasuremono.com/
営業時間=火曜~土曜の平日11時~19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

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