よりみち未来派(第32回):「ナショナリストではない未来派」はありえたか
太田岳人
前回の記事で私は、未来派運動の内部では、シュルレアリスムにおける「破門」のような、指導者と運動仲間たちが大きく対立するドラマが発生していないことを記した上で、その原因をマリネッティ個人の鷹揚さに加え、指導者に反旗を翻した人々が、巨視的には彼らのうち多くもまたナショナリズム、ひいてはファシズムの精神の枠に吸収される領域にいたからではないかと述べた。このことは、マリネッティというカリスマ的指導者のパーソナリティに収斂されない、いわゆる「複数形の未来派(futurismi)」の「表現」の多様性を否定するものではない。しかし、彼とは大きく異なる政治・社会観を維持し、その意見を発信した人はいたのかという、別の疑問を提起するだろう。
未来派の歴史の中で、そうした人々は少数ながらも存在している。芸術運動の誕生前後においては、マリネッティが主催する『ポエジーア』誌の寄稿者としての評価を受けつつ、軍国主義への反対者であったことから、新しい芸術運動とは一線を画した詩人ジャン・ピエトロ・ルチーニ(1867-1914)が知られている。また、以前紹介したフィッリアと同世代のヴィニーチョ・パラディーニ(1902-1971)は、1920年代に「機械の芸術」を推進した芸術家の一人として日本でも紹介されているが【図1】、それと同時期の彼は「共産主義芸術」(1922年)のようなアピールを発表し、自身の「機械的」スタイルによる労働者像【図2】を描くなど、1917年のロシア革命に対する芸術の側からの「同伴者」的姿勢を示したことでも注目されている。

図1:パラディーニ《広告用フォトモンタージュFotomontaggio pubblicitario》、1928年(フォトモンタージュ、20.2×29.3cm、個人蔵)
※ セゾン美術館(ほか編)『未来派 1909-1944』(東京新聞、1992年)より。

図2:パラディーニ《九時課La ora nona》、1922年(現存しない)
※ Giovanni Lista, Arte e politica: il Futurismo di sinistra in Italia, 2nd ed., Milano: Fondazione Mudima, 2009より。
しかしさらに珍しいのは、イタリアの社会主義・共産主義運動の実践的活動家でありつつ、芸術運動としての未来派にも積極的にコミットしようとした人物である。トリノを州都とするピエモンテ州アスティ出身で、同州アレッサンドリアで活動した、ドゥイリオ・レモンディーノ(Duilio Remondino/1881-1971)がそれにあたる。同時代の左派の政治運動からの未来派に対するコメントとしては、20世紀のイタリアを代表する共産主義者であるアントニオ・グラムシのそれが日本でも知られているものの【注1】、レモンディーノを知る人は皆無であろう。しかし彼は、長らく未来派研究者として活躍してきたジョヴァンニ・リスタと、同時期にグラムシ研究に従事していたアンジェロ・ドルシという、観点の大きく異なる二人の有力研究者によって、「未来派の左翼sinistra futurista」の代表格として論じられている、稀有なケースである【注2】。
1892年に成立したイタリア社会党は、労働・農民運動の拡大を背景に、選挙を通じて王国議会へ進出し始めるかたわら、一部の地方自治体では与党の座も獲得するに至っていた。アレッサンドリアはそうした「革新自治体」の一つであったが、同地の社会党員であったレモンディーノは、図書館員としての生業のかたわら文芸や絵画を手がけ、1913年には「未来派」を名乗るようになる。これは、同年1月にはフィレンツェで『ラチェルバ』が創刊され、ミラノ以外への芸術運動の拡大が顕著になるのと軌を一にしている。しかしレモンディーノは、未来派の革新的要素にひかれる反面、イタリア社会党の唱えていた国際主義・平和主義の路線にも忠実であった。
『ラチェルバ』を担ったアルデンゴ・ソッフィチは、後に「未来派」と「マリネッティ主義」を異なるものであると分離し、その上でマリネッティを批判していくが、レモンディーノはソッフィチとは異なる「マリネッティ主義」批判の基準を、「ナショナリズム」や「戦争」に据えた。そのことは、彼が1914年5月に自費出版した『未来派はナショナリストたりえるか』と題する16頁ほどのパンフレットでも明らかである【図3】。『未来派はナショナリストたりえるか』は、1913年10月末から11月にかけて行われた国政選挙に際し、マリネッティらミラノの「未来派グループ指導部」が連名で発した、「未来派の政治的プログラムProgramma politico futurista」と題するリーフレットの内容に反論するものであった。

図3:レモンディーノ『未来派はナショナリストたりえるかIl futurismo non può essere nazionalista』表紙、1914年5月。
※ Matteo D‘Ambrogio (a cura di), Nuovi archive del Futurismo. Manifesti programmatici: teorici, tecnici, polemici, Roma: De Luca, 2019より。
この中でレモンディーノは、ミラノの未来派が一定の社会政策を要求しながら「反社会主義」を唱え、さらには「より巨大な艦隊とより巨大な陸軍」「世界の唯一の衛生法である戦争」を要求することに異議を唱える。「“戦争は世界の衛生法”と言う者たちがいる。しかし私は、マリネッティ派の未来派たちが、どの世界について語っているのか知りたい」とする彼は、未来派のナショナリストとしての考え方を問題とする。世界は排泄(カタルシス)を望んでいるというが、「戦争の道具とは、いつもそれぞれの時代の人民であった」し、それは「それを歴史の宿命と呼ぶ社会の鉄拳によって押しつけられているもの」に過ぎない。「今、この世界の衛生法が戦争であるならば、富者と貧乏人、真っ白な手とマメだらけの手、香り高いベッドと犬にふさわしい敷き藁で成り立っている、この世界の衛生法が戦争であるならば、なぜどの時代においてもこの高価な下剤は、人民の腹の中にだけ注がれなければならなかったのか?」といった言い回しには、ロマン主義的と言ってもよい伝道者のような情熱が感じられるが、そうした彼にとって「未来」は「膨張主義の形式としての戦争を保持しない」ものであった。
『未来派はナショナリストたりえるか』に対する、マリネッティらの明白な返答は残っていない。同時代的には黙殺されたか、存在自体が知られなかったようである。しかし、芸術運動としての未来派への親近感が、レモンディーノの側から失われなかったことは、第1次世界大戦直後の未来派の展覧会カタログに、彼の名前が登場する事実からも明らかである【注3】、1919年3月からミラノ・ジェノヴァ・フィレンツェを巡回した「全国大未来派展」のカタログには、レモンディーノの名前は《めまい》《天才-無限》と題する2点の作品とともに登場している。さらに、1922年3月から4月にかけてトリノの中心街で開催された「国際未来派展」【図4】のカタログにも、彼の名前で別の5点の作品が記載されている。

図4:オスカル・フセッティ(1900-1947)の撮影による、トリノで開催された「国際未来派展」会場、1922年。
飯沢耕太郎(他編)『フォト・アヴァンギャルド:イタリアと日本』(西武百貨店、1986年)より。
この二つの展覧会の間には、社会党からロシア革命への明快な支持を訴えた一派が脱党し、イタリア共産党が新たに結成されるが、後者に合流したレモンディーノは1921年5月の国政選挙で、共産党から王国議会に進出した15人の下院議員の一人となっている。トリノの未来派展にレモンディーノのような政治活動家が参加したことは、共産党内外の政治的左派に論争を生み出した【注4】。彼は、パラディーニら未来派にも門戸を開いた共産党系雑誌『アヴァングァルディア』で、前衛芸術に対する好意的な評価と、自身の政治陣営の古典的に過ぎる芸術観の打破について言及したが、この論争にはイタリア内外の政治情勢における、二つの津波によって不完全な決着が到来する。
一つはもちろん、1922年10月の「ローマ進軍」でファシストが国政を掌握したことである。一時期懸隔のあったマリネッティとムッソリーニの関係は修復に向かい、前者は自身の「芸術の革命」を後者の「政治の革命」に対応するものとして位置づける方針を固めていく。もう一つは、レモンディーノの側が「政治の革命」として依拠していたソヴィエト連邦内における、レーニン没後の政治抗争の深刻化である。ロシア内部の政治路線の選択が、イタリア共産党の政治路線の選択、さらには前衛芸術の是非の選択とも同一視される中で、未来派を支持していた彼の立場は急速に微妙なものとなっていったことは想像に難くない。1924年2月の国政選挙――ファシストによる新選挙法に基づく――の際、レモンディーノの名前は共産党の立候補リストに入らず、同年10月には党機関紙『ウニタ』に、彼の除名処分の「通告」が掲載されることになる。
こうした経緯については、なおはっきりしない部分が多いものの、ともあれ彼は未来派では顧みられない一方、イタリア共産党から「破門」されてしまったことになる。この奇禍によって、彼個人は政治上の(旧)同志たちのように、ファシズム期の「20年」に投獄などの憂き目には遭わなかったが、議員から図書館員に復帰した後も早期退職を強制されるなど、ファシズム政権からの不利益は免れなかった。第二次世界大戦の終結前後より、共産党への参加――それまでの除名者や脱党者の再入党を含む――など、アレッサンドリアの政治・社会活動は再び活性化するが、そうした舞台にレモンディーノは戻っていない。現在のウェブ上で読める情報としては、大戦後にアレッサンドリア周辺で活動した何人かの地方画家の略歴の中に、晩年の彼から絵画の指導を受けた、あるいは審査員であった彼から賞賛を受けたといった記述を、わずかに見いだすことができる。
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【注】
注1:グラムシによる未来派への言及としては、彼がトリノで編集していた『オルディネ・ヌォーヴォ』紙の1921年1月5日号に掲載された「革命家マリネッティ?」(上村忠男〔編訳〕『アントニオ・グラムシ 革命論集』、講談社学術文庫、2017年)、また1922年のソヴィエト連邦滞在時に、レフ・トロツキーあての書簡として提出された「イタリア未来主義にかんする同志グラムシの手紙」(トロツキイ〔ママ〕『文学と革命』(上)、桑野隆訳、岩波文庫、1993年)の二点が、日本でも翻訳されている。ただし、彼の未来派についての考察は1920年代初頭に限られるものではなく、トリノ大学に在学していた青春期、あるいはファシズム政権に投獄された晩年にも、部分的記述が残されている。
注2:Giovanni Lista, Arte e politica: il Futurismo di sinistra in Italia, 2nd ed., Milano: Fondazione Mudima, 2009; Angelo D’Orsi, Il Futurismo tra cultura e politica: reazione o rivoluzione?, Roma: Salerno, 2009. 今世紀初頭に出版された全2巻の『未来派事典』では、ドルシが「未来派の左翼」「レモンディーノ」と題する項目を執筆している。Ezio Godoli (a cura di), Il dizionario del futurismo, 2 vol., Firenze: Vallecchi, 2001. また、レモンディーノについては、郷土の労働史運動史家による研究(自費出版)もウェブ上で公開されており、本稿ではこちらも参考にした。Giovanni Artero, Duilio Remondino tra avanguardia artistica e socialismo alessandrino, 2010.
注3:レモンディーノの「未来派絵画」はほとんど現存していないものの、彼の作品そのものは、未来派風かつ具象的な造形言語を含んではいたとしても、全体として19世紀的様式の枠にとどまっていたと推測されている。しかし先行研究は、それにも関わらず彼の側が芸術運動に希望を持ち、また未来派の展覧会の側もその作品を受け入れたことを、どう考えるかがより重要であると正しく指摘している。
注4:この時期のグラムシは、イタリア共産党の代表団の一員としてモスクワに滞在しており、トリノ展やそれに続いた論争については介入していない。
(おおた たけと)
・太田岳人のエッセイ「よりみち未来派」は隔月・偶数月の12日に掲載します。次回は2025年10月12日の予定です。
■太田岳人
1979年、愛知県生まれ。2013年、千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。日本学術振興会特別研究員を経て、今年度は千葉大学・東京医科歯科大学・東京工業大学ほかで非常勤講師の予定。専門は未来派を中心とするイタリア近現代美術史。
E-mail: punchingcat@hotmail.com
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《バランス・ポエム 1》
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Part 2 2025年6月18日(水)~6月28日(土)
※6月17日(火)に展示替え、日・月・祝日休廊
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