ドアを開けると出迎えてくれたのが「Mの肖像」。
ブログ「画廊亭主の徒然なる日々」(7月21日)で紹介された、金子光晴『日本人の悲劇』の表紙を飾った一点である。「いらっしゃい」と作家に(そしてギャラリーに)挨拶されたような気になる。もっとも、その表情がなんとなく、「にこり」ではなく「にやり」であるように見えるのは気のせいか。「そうですか、来ましたか、足元は暗いですよ、奥は深いですよ、先は長いですよ、それでもよろしければ、どうぞ・・・」とのささやきはきっと幻聴に違いない。
そしてその隣が「しゃれこうべ」(正しくは「KALPA-羊歯」です)であるのに気がついて、おいおい、シャレになってないぞとツッコミを入れかけ、その次が「塔」ということではたと膝を打つ。そうだ、そうなのだ、これが日和崎尊夫なのだ、そして、ひとがいきるということ、死ぬということ、そしてなにものかをかを生み出すということはきっとこれ以外にはないのだ、と激しく一人合点をする。
この三点で早くもお腹一杯胸一杯。交通費のモトはとったと大満足である。
次のセクションは「鋼鉄の花」「殖」「花と…(無題)」「暗示」の小品4点が田形に並ぶ。
小さいのに、それでいてずっしりと持ち重りのしそうなのに驚く。密度が濃いというのか比重が大きいというのか、水に浮かべたらあっという間に沈んでしまうんじゃないか、そして二度と浮かび上がって来ないんじゃないかなどと、有りもしない空想に耽ってしまうのは、きっと日和崎の木口空間にすでに取り込まれてしまっているからだろう。
特に「現代版画センター」エディションの2点はその小さな印面の隅々にまでびっしりとしかしまたゆったりと、一つの世界が「満ちている」感じがたまらなく魅力的である。これには版元の力もあずかって大きいであろう。作家と版元とがしっかりとタッグを組んだ時のビッグ・バンとも言うべき巨大なエネルギーに降参である。エディションが2500であるとか、サインが刷り込みであるとかは、作品自体の素晴らしさの前にはまったく関係のないことが実に良く分かる。まぎれもない傑作である。
その次に版画集「薔薇刑」から10点が二段掛け。これまでの黒い印面とはうって変わった白い印面にほっと一息。驚くべきはその状態の良さ。シミもヤケもクスミもないその印面は艶めかしささえ感じさせ思わず頬擦りしたくなるほど(ってそれでは変態だ)である。これは絶対のお値打ち品。
その対面には蔵書票から始まって小サイズの作品が8点。それぞれに魅力的な世界(というよりは宇宙)を現出させている。どれもが紛れもなく日和崎尊夫の世界でありながら、どれをとっても「あれとおんなじ」という印象を抱かせない。一つ一つが確固とした独自性と唯一性を保っている。その意味で日和崎尊夫の一つ一つの作品は大きな日和崎世界の一部なのではなく、それぞれが一つの完全な日和崎世界なのである。日和崎は作品ごとに一つの宇宙を創造したのだ。
奥では初期の傑作「星と魚のシリーズ-No.3」「仮面-B」を含む、代表作「KALPA」シリーズが圧倒的な存在感を示している。テーブルに鎮座まします詩画集『FRESIMA』『緑の導火線』も畏れ多い。このあたりになると、もはや素人の「小コレクター」の手には負えないので、展評(というよりこちらのは単なる感想記)はどなたかにバトンタッチを切望することしきりである。
それではそろそろ、と扉に向かうとその脇に「海球」。ちょっと嬉しくまた誇らしい気持ちになる。以前、「ときの忘れもの」のヤフーオークションで落札した作品。その誇らしさのかなりの部分が「73,500円」という価格にあるのが情けないがまた偽らざる本音でもある。
たぶんあのときはこの3分の1ぐらいの価格で落札したはず。2003年の夏のことだから、それからわずか3年でということになる。きっと今回の展示も昨年の展示と同様、数年経たずして「あのころはね…」と語られことになるのであろう。
これは急がなければならない。帰りに池袋のホープセンターでサマージャンボを10枚連番で買うことを固く決意する私であった。
(はらしげる)
*「闇を刻む詩人 日和崎尊夫展」2006年7月21日~8月5日


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