「色彩の海あるいは渦巻く言葉の川/詩画集Chromatopoiema展」

中村惠一


飯田展DM

 詩または言葉、つまり詩句においては、いくつかの性格の異なる側面がある。通常、我々は詩を意味という側面で読み、解釈をする。詩集を黙読しながら、その意味を読み取っているという状態である。通常、詩を読むといった場合には、こうした行動を想像するであろう。
 だが、詩は音でありリズムである。詩は音読できる。音読されることで具体的なリズムが生まれる。このように詩の音の側面に重きをおいた場合、ポエトリー・リーディングとかサウンド・ポエトリーとかよばれるパフォーマンスになる。
 一方、詩、言葉、文字は形をもっており、その形そのものにポエジーは内包されている。また、その形を組み合わせたり、集積したりすることで造形が創造される。このように詩の形の側面に重きをおいた場合、コンクリート・ポエトリー(具体詩)とかヴィジュアル・ポエトリー(視覚詩)とよばれる表現になる。音素であるアルファベットではなく、象形文字である漢字を母国語の一部として使っている日本人には、文字の形態的な側面に注目する造形は親しみやすいのではないだろうか。それは、たとえば人の顔の輪郭を描いた中に目、耳、鼻、口を配置することによって顔が描けてしまうというように。
 このように、言葉を素材としたアートである詩は言葉の音、形、意味のそれぞれの側面に特化してみることによって様々な表現を獲得したのだった。

 『Chromatopoiema(クロマトポイエマ)』展を見た。詩人・西脇順三郎の英語詩18篇に対するは彫刻家・飯田善國。1972年に刊行された二人の詩画集である。詩画集と名付けながら通常の詩画集のようなつくりではない。フリージャズのセッションのようにコラボレートしているのだ。これは、飯田が「絵と詩をまったく同格にして結合するにはどうしたらいいか」と悩み続けた結果獲得できた、過去にまったく類例のない対象化手法の発見であったのではないかと思うのだ。もちろん悪戦苦闘の末の発見だろうが、アルファベットを色彩に置換して絵画の中に構成することをみつけだした。
 詩句に色彩という新たな側面が与えられた瞬間である。26個のアルファベットが26色の色彩になる。詩は色から発生する新たなリズムを紙面上に生み出していく。画面にちりばめられた英語の詩句が割り当てられた色彩に置き換えられ、お互いに干渉をはじめる。その干渉や構成の様子は30年以上を経過した今でも新鮮に見える。詩が、文字が色彩の海をうみだしていく。色は波をうったり、渦をえがいたりしながらリズムをもった造形を形作り、そこに新たなポエジーを生み出すにいたっている。しかし、面白いのは、この造形は彫刻家である飯田善國が作りあげたのではなく、詩人である西脇順三郎の詩句によって作り上げられる点である。彫刻家はきわめて厳格にルールを守っている。メソッドを重視し、「方法」的に表現を尖らせている。それによって、「詩」そのものが彩られた平面に変化したのであった。
 このアルファベットを色彩に置き換える手法は、飯田に新たな展開を準備した。『Chromatopoiema(クロマトポイエマ)』の立体化である。ステンレスの造形と色のついたナイロンストリングによる彫刻の誕生である。これらの彫刻は飯田の代表作としてなじみのある作品ではないかと思うのだが、原点は平面、しかも実際の詩の言葉を色彩におきかえるというコラボレーションが出発点であった。飯田の色紐を使った彫刻は彼の詩であり、彼の世界認識の具体的な表現であり、言語的な主張でもある。色のついた紐は文字にあたり、文字の構成は詩句を生む。詩句には、冒頭に記述したように意味、音、形の側面があり、それがもともとの造形との関係で世界を構築する。その重層的な表現が飯田の彫刻による「詩」であったのだと私は読んだ。

2006年8月23日    
なかむらけいいち

クロマトポイエマ


飯田善國展


飯田展かげ


*画廊亭主敬白
前回の日和崎尊夫展に続き中村さんに寄稿していただいた。
怠惰な画廊亭主の感慨を記せば、8月18日~9月2日の会期で開催中の<西脇順三郎・飯田善國 詩画集Chromatopoiema展>で、私自身はじめてこの作品の全貌を知ることができた。
この詩画集が出たとき(つまり30年前)私の大切な顧客であった詩人F氏に頼まれ飯田先生からこの詩画集を直接わけていただき、F氏を飯田先生のアトリエにご案内したことがある。
詩の言葉を色に置き換えるアイデアにいたる経緯を作品を見せながら飯田先生が熱心に説明してくださったのだが、なにせ大きな詩画集で全部を広げられない。全体像がわからずこの詩画集のすばらしさを実感できなかった。
その後、別のコレクターから入手した「詩画集Chromatopoiema」はながくときの忘れものの在庫としてしまいこんだままだった。
今回はじめて全部を展示することができ、30数年前の作品とは思えぬ新鮮な迫力に圧倒された。
不明を恥じるばかりである。
ときの忘れものの大きな窓からはいる光がときどき思わぬ外の風景を映し出す。
自然の光に満ちたこの空間で、飯田先生の色彩が躍動する、既に故人となられた飯田先生、F氏のお二人を偲んで日々のうつろいを楽しんでいる。