ただいま開催中の「第19回瑛九展~時を超えて」から、長谷川三郎の作品をご紹介いたします。
長谷川三郎は、瑛九との関係で言えば、1936年杉田秀夫が百数十枚の印画紙による作品をトランクに詰めて宮崎から上京し、久保貞次郎に会い、久保は直ちに長谷川三郎、外山卯三郎らに紹介します。無名の青年が持参した印画紙作品の革新性に驚嘆した彼らとの幸福な出会いの中で、その作品が「フォト・デッサン」と命名され、杉田秀夫が「瑛九」と名乗ることになった経緯はあまりに有名です。1936年は、長谷川にとっても初めての抽象作品による個展を開催した、ひとつの転機となった年です。翌年、長谷川の主導で自由美術家協会が創立され、瑛九も参加します。長谷川は抽象表現を推し進めて行きますが、太平洋戦争により規制を受け、絵を描かない時期を過ごします。
戦後1950年、イサム・ノグチとの出会いによって、東洋的なもの、老子や荘子の教えに強く影響を受けた作品を制作するようになります。それが今回出品されているような墨による作品で、どちらかというと、書による抽象といえる作品を制作しました。
仲間からは「第二の岡倉天心」と期待された長谷川は、1954年日米抽象美術展の代表として渡米し翌年一時帰国。サンフランシスコ美術大学客員教授として再渡米し、同地の東洋文化研究所内に住み、東洋の精神を広めつつ、全米各地で個展等を開催します。制作活動も意欲的に行ない、自分の進むべき道を見つけ、これからというときにガンを発病し、瑛九に先立つこと3年、1957年3月11日(瑛九の命日は3月10日)にサンフランシスで亡くなります。僅か50歳の惜しまれる死でした。
この出品作は、長谷川三郎の研究家の学芸員にご覧いただいたところ、1950年、または1954-55年のもので、表具も作家本人か奥様(長谷川喜代子さん)がされたろうけつ染めであろうということでした。
長谷川三郎の作品を入手できる貴重な機会です。どうぞ、お見逃しなく。
長谷川三郎「作品」
制作年 1950年代
技法 墨・和紙
作品サイズ 69.5×69.5cm
軸装サイズ 103.0x76.0cm
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長谷川三郎は、瑛九との関係で言えば、1936年杉田秀夫が百数十枚の印画紙による作品をトランクに詰めて宮崎から上京し、久保貞次郎に会い、久保は直ちに長谷川三郎、外山卯三郎らに紹介します。無名の青年が持参した印画紙作品の革新性に驚嘆した彼らとの幸福な出会いの中で、その作品が「フォト・デッサン」と命名され、杉田秀夫が「瑛九」と名乗ることになった経緯はあまりに有名です。1936年は、長谷川にとっても初めての抽象作品による個展を開催した、ひとつの転機となった年です。翌年、長谷川の主導で自由美術家協会が創立され、瑛九も参加します。長谷川は抽象表現を推し進めて行きますが、太平洋戦争により規制を受け、絵を描かない時期を過ごします。
戦後1950年、イサム・ノグチとの出会いによって、東洋的なもの、老子や荘子の教えに強く影響を受けた作品を制作するようになります。それが今回出品されているような墨による作品で、どちらかというと、書による抽象といえる作品を制作しました。
仲間からは「第二の岡倉天心」と期待された長谷川は、1954年日米抽象美術展の代表として渡米し翌年一時帰国。サンフランシスコ美術大学客員教授として再渡米し、同地の東洋文化研究所内に住み、東洋の精神を広めつつ、全米各地で個展等を開催します。制作活動も意欲的に行ない、自分の進むべき道を見つけ、これからというときにガンを発病し、瑛九に先立つこと3年、1957年3月11日(瑛九の命日は3月10日)にサンフランシスで亡くなります。僅か50歳の惜しまれる死でした。
この出品作は、長谷川三郎の研究家の学芸員にご覧いただいたところ、1950年、または1954-55年のもので、表具も作家本人か奥様(長谷川喜代子さん)がされたろうけつ染めであろうということでした。
長谷川三郎の作品を入手できる貴重な機会です。どうぞ、お見逃しなく。
制作年 1950年代
技法 墨・和紙
作品サイズ 69.5×69.5cm
軸装サイズ 103.0x76.0cm
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