ときの忘れものはたくさんの人に支えられて今日まできましたが、中でも小さな一軒家で開いた画廊の最初のお客様、二人のFさんには言葉では言い尽くせないご恩を賜りました。
私たちが足掛け6年にわたり没頭していた本の編集・刊行が終わり、8人の編集チームを解散して、がらんとした部屋の一室をにわか作りのギャラリーに仕立てて「ときの忘れもの」を開廊したのは1995年6月5日、小さな中庭に咲く紫陽花の美しい季節でした。
第1回展 白と黒の線刻 画像面第1回展 白と黒の線刻 宛名面

第一回企画展銅版画セレクション1 /長谷川潔難波田龍起瑛九駒井哲郎』 
会期=1995年6月5日~ 6月18日

借金返済の日々の中から、二人でささやかに集めた4人の作家の銅版画の展覧会でした。
夫婦二人だけで迎えた初日の朝、真っ先に来られたのが男性のFさん、続いて女性のFさんでした。お二人とも以前からお世話になっていた方々なのですが、それぞれ数点づつを選んでお買い上げいただきました。
お客が来てくれなかったらどうしよう、もし一点も売れなかったら・・・。不安一杯のところを「売れた」ことでどんなに私たちがほっとしたことか。あれからあっという間に15年が経ってしまいました。

今年の正月の休み明け、出勤して直ぐに届いたのが女性のFさんの訃報を伝えるファックスでした(シエナのカタリーナ 舟越道子 1月3日帰天 享年93)。

初台のカトリック教会でのお通夜では、かつて仙台の教会にあった夫の舟越保武先生の制作した壁画が囲む中で多くの人々が故人を偲びました。
ご遺族を代表して彫刻家の舟越桂さんが、母道子さんの生涯を辿り、子供たちに言ってきかせた言葉を語ってくれましたが、故人の優しさ、激しさを少し知る私たちには心にしみる言葉でした。
「(病身の保武先生との)私のは看病結婚だわ」
「貧乏なんかこわくなかったわよ」
「どんな人のでも、一生懸命つくったものは粗末にしてはいけない」

桂さんは、1994年に舟越家に訪れたある事件についても声をつまらせながら語ってくれました。
教会での私の走り書きのメモからだと不正確になるので、ご本人舟越道子さんの句文集『青い湖』(角川書店)のあとがきをそのまま引用させていただきます。
************
舟越道子 青い湖人生には時として思いがけぬ不思議なこと、不思議な人が現われることがあるということを経験いたしました。あれは三年前のことではなかったでしょうか、全く見知らぬ男の方から電話をいただきました。
 「貴女は坂井道子さんの舟越道子さんでしょうか」
 「はい、そうです。五十四年程前に結婚して現在は舟越道子と申しますが・・・・・・」
 それがこの話の発端です。電話の主は細井啓司さんとおっしゃる方で、私は全く存じあげない方でした。細井さんは私が少女時代(昭和七年から十五年頃)に投句していた「土上」の主宰者、嶋田青峰先生のことをお調べになられていて坂井道子の俳句にお眼をとめられたとのこと。当時のいわゆる新興俳句を詠んでいた私のことも調べてみたいので一度会いたいとのお話なのでした。
 私は何十年間も自分が俳句や詩を書いていたことは忘れたつもりで生きておりましたから、この細井さんの言葉にはびっくりいたしました。
(以下略)
            舟越道子『青い湖』あとがき、より>
************

戦前の新興俳句運動には多くの若い人たちが参加し、瑞々しさに溢れた俳句を生み出したこと、京大俳句事件をはじめとして、その思想が特高警察の厳しい弾圧を受け壊滅したことは今では良く知られています。2001年の松本清張賞を受賞した三咲光郎『群蝶の空』を読むと当時の重苦しい雰囲気、自由な表現がどんどんと追い詰められていく様が伝わってきます。

釧路の女学校の生徒だった道子さんが優れた俳句をつくり、将来を嘱望されていたことなど、この50数年後の「電話事件」までご家族の誰一人として知らなかった。
結婚に際して夫の希望で文学を断念し、貧乏作家の妻として献身的に支え、多くの子供たちを育てた道子さんですが、その電話事件の後、句作を再開し、老年になって再び握った絵筆で91歳まで毎年銀座のギャラリーオカベで個展を開いておられました。

夏の牧白き馬居て風甘し

我が胸に火燃ゆ悪魔か冬の海

別れのとき来たり霧笛はなほ止まず

200305小野隆生展 1200305小野隆生展 2(2003年5月23日「小野隆生新作展」にて舟越道子さん)

私たちは30年前、舟越保武先生の版画をエディションするために世田谷のアトリエに何度となく通いました。次男の桂さん、三男の直木さんも彫刻家の道を歩みます。
保武先生がお亡くなりになってからも、画廊にいらっしゃったり、お電話を下さったり、私たちに寄せていただいた暖かなご厚意は忘れられません。
ここに書いたことばかりではなく私たちが蒙ったご恩はもっとあるのですが、いまはただただご冥福を祈るばかりです。
舟越道子さん、ありがとうございました。


舟越保武A嬢舟越保武若い女A
左)舟越保武「A嬢
右)舟越保武「若い女A

舟越保武レリーフ
舟越保武「少女の顔

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから