今からちょうど100年前の1911年(明治44)4月28日、つまり明日、瑛九(本名・杉田秀夫)は宮崎県に生れました。お元気なら100歳のお誕生日です。
しかし体の決して頑健とはいえなかった瑛九は、1960年(昭和35)3月10日48歳の生涯を終えました。
100歳以上の高齢者数は、厚生労働省の資料によれば、1963年には153人に過ぎなかったのが、1981年には1,000人を超え、1998年には10,000人を超え、2010年にはなんと44,449人もいらっしゃいます。
男女別では女性が86.8%と圧倒的に多くなっています。
いまでは100歳を超えてお元気な作家も少なくありません。

それはさておき、生誕100年を迎えた今年、瑛九の大規模な回顧展が宮崎県立美術館うらわ美術館埼玉県立近代美術館の3館で開催されます。
いままで美術館における瑛九展は何度も開催されていますが、それでもまだまだ未知の作品があり、今回もきっとあらたな発見があることでしょう。私たちもできる限りの協力を惜しまないつもりです。
ときの忘れものでも9月に「第21回瑛九展」を開催します。

瑛九の夢は自分の作品(ことにフォトデッサン)が世界の舞台で評価されることでした。
瑛九自身は海外渡航の経験はありませんでしたが、雑誌や画集などによって海外の動向にも敏感でした。
海外での作品発表の機会がただ一度ありました。

1953年1月、PIP(Photographic International Publicity)という雑誌から、オリオン商事という版権の専門会社を通じてニューヨークで個展を開催しないかという話が持ち込まれ、瑛九は自分のフォトデッサンが国際的なレベルでも評価されることを確信して、小判15点、大判25点の計40点のフォトデッサンをアメリカに送りました。
結局、個展は実現せず、同年3月にアメリカの有力写真展「トップス・イン・フォトグラフィー展」に5点が出品されただけで、のちに(3年も経ってから)二つの写真雑誌「フォトグラフィ」と「アート・フォトグラフィ」に紹介されただけで終わりました。
送った40点はそのまま日本に戻されました。その何点かは私どもも扱いましたが、それらの40点には、裏にPIPとORIONの二つのスタンプが捺してあり、さらにシール(紙)がはってあるので直ぐにわかります。

瑛九のニューヨークでの個展の夢は破れたのですが、実は話が潰れる前に(1953年1月~3月)「米国と欧州で展覧会を」という話が急浮上し、故郷の宮崎の新聞に大大的に報道されるような事態がありました。
瑛九は、欧米での個展に期待して「更に多数の作品をアメリカに送ることになった」と、瑛九伝記(山田光春著、357ページ)には記載されています。
瑛九は兄に書いた手紙に「僕も遂に米国から大きな申し込みがやってきました。僕は今度こそ僕にとって絶好のチャンスだと思っています。おそらく、僕の一生のうちで最も大きな事件となるでしょう。」(1953年3月9日書簡、兄の杉田正臣宛)と興奮した口調で書いています。
そして100点~200点の作品をあらたにアメリカに送る準備を進めました
しかしこの個展開催の話は紆余曲折の果てに実現しませんでした。
伝記では、そこまでのことしか書いてありません。
そのとき、瑛九が欧米での展覧会のために準備したであろう100点~200点の作品については、その後どうなったかは、今まで誰も追跡調査していません。
いわば未解明の謎のひとつですが、このことを実作品に沿って研究する者もいまだ現われてはいません。

ここ数ヶ月の間のことなのですが、瑛九のフォトデッサン2点が別々のルートから入ってきました。
全くの偶然なのですが、この2点が、上記の実現されなかった欧米展のために準備された作品(正確にいうと、こういう作品を発表したいというサンプル)である可能性がでてきました。
それをお伝えるには相当の字数を要するので、今回は前段とし、入手できた2点をシンプルに紹介しましょう。

瑛九フォトデッサン
瑛九
「二人のおどり子(一)
 Two Dancers (I)」
1953年頃 フォトデッサン
26.5x20.8cm 
裏に鉛筆で自筆サインとタイトル(和文、英文併記)の記載あり

瑛九フォトデッサン裏
「二人のおどり子(一) Two Dancers (I)」の裏面

この「二人のおどり子(一)」の制作年はほぼ特定できました。
1953年です。
なぜ特定できたかというと、この作品の型紙はセロファン(又はセルロイド)で制作されましたが、このバックに使われたと全く同じ型紙を使った「あそび Play」という作品を福岡市美術館が所蔵しており、その制作年は1954年と図録に記載されています。
瑛九「あそび1954」
瑛九「あそび Play」
1954年 フォトデッサン 25.6×20.2cm
*福岡市美術館所蔵

さらにこの作品とスタイルがよく似た作品が宮崎県立美術館が所蔵しており、それは1953年の制作と特定されています。
また後日説明する予定の欧米個展のために準備したものと思われ、1953年であることはほぼ間違いないでしょう。


さて、次の一点です。
瑛九少女の胸から馬が飛ぶ
瑛九
「少女の胸から馬が飛ぶ 
A Colt jumping out of a Girl」
1953年頃 フォトデッサン
22.3x27.0cm 
裏に鉛筆で自筆サインとタイトル(和文、英文併記)の記載あり

瑛九少女の胸から馬が飛ぶ 裏_600
「少女の胸から馬が飛ぶ」の裏面

この「少女の胸から馬が飛ぶ」の制作年については、やはり1953年頃と私はしましたが、のちほど説明する「オリオン社」との関係から考え、1953年の制作と思われます。

瑛九の作品タイトルは没後にご遺族や「瑛九の会」のメンバーによってつけらてたものが少なくなく、この2点のように、明らかに瑛九が自筆でタイトルとサインを記入した作品はめったにありません。
それだけでも貴重ですが、「少女の胸から馬が飛ぶ」については、1965年10月に開催された「瑛九フォト・デッサン頒布会」で販売されたことも、今回の資料探索で確認できました。
このときの出品目録が私どもに残されているからです。
この頒布会の主催者は「東京小コレクターの会」で、実質的なリーダーは尾崎正教さんでした。このときの目録には、日本のシュルレアリスム研究の第一人者であり、瑛九の会の発起人の一人だった瀧口修造がテキストを書いています。

作品に関して第一次情報は作品そのものにあります。
作品の表、裏はもちろん、それが入っていた額縁や貼ってあるシールなどなど、それらを仔細に検討調査することで、作品の制作された背景やモチーフ、技法などの詳細が明らかになります。
そういう点でいえば、上記2点には望みうる限りの情報がいっぱいにつまっています。
それについては日をあらためてご説明しましょう。

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このブログで何度も繰り返して言っていますが、瑛九のフォトデッサン(フォトグラムまたはレイヨグラム)はカメラもフィルムを使わずに印画紙に直接光をあてて制作した一枚限りの作品です。
ネガが残っていれば何枚でも複製できる写真とは全く異なります。
その先駆者は、マン・レイたちですが、その評価は天井知らずです。

参考までに5月10日に開催されるサザビーズのパリの写真オークションには、マン・レイのレイヨグラムが出品されているのでご紹介しましょう。
マン・レイ レイヨグラム
MAN RAY(1890-1976)
No.119 「Sans Titre」Rayogramme
1924年 29.5×23.8cm

マン・レイ サザビーカタログ
左はサザビーズの当該作品のデータですが、
エスティメート:120,000~150,000ユーロとなっています。
120円換算すると、14,400,000~18,000,000円という高額です。
瑛九の同サイズの作品がその10分の1にもはるかに及ばないというのは、実に残念ですがいずれ瑛九が国際的舞台で評価され、マン・レイと並ぶ高い評価を獲得することを信じて疑いません。