美術展のおこぼれ37
「具体」-ニッポンの前衛 18年の軌跡
GUTAI:The Spirit of an Era
会期:2012年7月4日(水)~9月10日(月)
会場:国立新美術館
「具体」の活動といえば、1954年にそれを始めた折の、紙の壁に体当たりして破ったり(今回展の会場入り口もそれを模していた)、絵具をつけた足でキャンバスの上を動きまわったり、絵具入りのビンを直接キャンバスにたたきつけたり、といった描き方や、見る者を身体ごと参加させるようなオブジェやインスタレーションが記憶として強烈だったが、そもそもは自分たちの作品を冊子にまとめることが当面の目的だったという。今回展でそのことをはじめて知った。冊子第1号、それに続く数冊が表紙を見せて展示されているが、どちらかというと繊細なデザインが意外だった。
というような一見些細な気づきから始まって、同展ちらしの呼び込み文では「その全貌がついに東京で明らかになる」と謳っているが、「全貌」などと強弁されるよりむしろ一部始終を淡々と見せてもらい、素直に考えることができたという印象である。
「従来に無かったものを創り出さねばならない。独創性を最も高く評価しなければならない。(中略)一切が自由で、方向は未知の領域であり、その発見だ」。1963年、代表の吉原治良のよく知られたメッセージも同じちらしに載せられている。「従来に無かった」「独創性」「一切が自由」という意識の解放は、でも絵具とキャンバスをそこに残すかぎり、描くための手が身体全体に拡張する方向しかないかぎり、逆に個々の区別がつきにくい、エネルギーのかたまりが闇雲に吹きつけてくるような作品群になっている。そのなかで少しちがう手続きを踏んでいる金山明や田中敦子は全体のなかで遅れているのか進んでいるのか、自分としてはこの2人が単純に好きだったのだが、そんな好みをこえた問いに向き合う機会にもなった。
ミシェル・タピエによる「具体」への評価がとても早い時期だったこと、それが国際的評価にひろがり維持されていく歳月が長かったこと、また海外展の機会が増えていく事情のなかで絵画作品が中心となっていったこと、等々の歴史もよく分かるように構成されている。また後半期に新たに参加したメンバーと、その作品の多様さはまったくといっていいほど知らなかった。個々の持ち味もよく分かる。だが同時に「具体」の定義というか領域が判然としなくなってくる。1970年、大阪における日本万博・お祭り広場でのショーのモノクロ映像の生々しさがまた強烈だった。磯崎新が設計を担当した例のロボットがそのミニチュアと一緒に「親子ロボット」と名づけられて動いていたり、「101」では犬小屋に見立てた白い箱の底から仔犬のおもちゃが次々と現れたりする。最初期の孤立無援的パフォーマンスに比べれば、華やかだが寂しくもあり、それは逆に始めのころのストレートかつプリミティブな破壊的衝動がもっとも「具体」らしいイメージとして、結局はそこに立ち戻っていきたくなる気分にさせられたのである。
その後、吉原治良は新しいより本格的な活動拠点を構想、その建築設計を山崎泰孝に依頼するが急逝。72年3月に具体美術協会は解散する。会場のさいごに、街なかにそびえたつその建築の小さな姿図が掲げられている。構造トラスを露わにしながら自由に空へとのびあがっている。これからの「具体」を描いたヴィジョンは中断に終わった。
芦屋市民会館ルナホール(1964)は今も芦屋川に面したランドマークとして打ち放しコンクリートの岩のような峨々たる姿を見せているはずだが、当時は坂倉準三建築研究所のスタッフでその設計を担当した山崎が、このようなかたちで「具体」と関わっていたとは思いがけなかったが、あらためてこの美術活動の地域性と国際性が実感できた。
ついこのあいだ(今年のはじめ)、都現代美術館では田中敦子の大回顧展があったし、元永定正は独自の画境に長く遊んでいた。彼等の本拠は40年前に消失し、それぞれが個人として活動を継続してきた強靭さと同時に、「具体」のオーラがさいごまで輝いていた歴史もよく見える。そこから時代も、他領域への広がりも見える。そのオーラの輝きとは「反(アンチ)」の精神であるにちがいない。ではそれが対決しようとした「正」とは何であったかを自問してみると、じつはこの辺のことをまるで知らないことに気がついた。せめて図録を買っておくべきだった。けっこう充実した編集になっているようだったし。
(2012.9.3 うえだまこと)



「具体」-ニッポンの前衛 18年の軌跡
GUTAI:The Spirit of an Era
会期:2012年7月4日(水)~9月10日(月)
会場:国立新美術館
「具体」の活動といえば、1954年にそれを始めた折の、紙の壁に体当たりして破ったり(今回展の会場入り口もそれを模していた)、絵具をつけた足でキャンバスの上を動きまわったり、絵具入りのビンを直接キャンバスにたたきつけたり、といった描き方や、見る者を身体ごと参加させるようなオブジェやインスタレーションが記憶として強烈だったが、そもそもは自分たちの作品を冊子にまとめることが当面の目的だったという。今回展でそのことをはじめて知った。冊子第1号、それに続く数冊が表紙を見せて展示されているが、どちらかというと繊細なデザインが意外だった。
というような一見些細な気づきから始まって、同展ちらしの呼び込み文では「その全貌がついに東京で明らかになる」と謳っているが、「全貌」などと強弁されるよりむしろ一部始終を淡々と見せてもらい、素直に考えることができたという印象である。
「従来に無かったものを創り出さねばならない。独創性を最も高く評価しなければならない。(中略)一切が自由で、方向は未知の領域であり、その発見だ」。1963年、代表の吉原治良のよく知られたメッセージも同じちらしに載せられている。「従来に無かった」「独創性」「一切が自由」という意識の解放は、でも絵具とキャンバスをそこに残すかぎり、描くための手が身体全体に拡張する方向しかないかぎり、逆に個々の区別がつきにくい、エネルギーのかたまりが闇雲に吹きつけてくるような作品群になっている。そのなかで少しちがう手続きを踏んでいる金山明や田中敦子は全体のなかで遅れているのか進んでいるのか、自分としてはこの2人が単純に好きだったのだが、そんな好みをこえた問いに向き合う機会にもなった。
ミシェル・タピエによる「具体」への評価がとても早い時期だったこと、それが国際的評価にひろがり維持されていく歳月が長かったこと、また海外展の機会が増えていく事情のなかで絵画作品が中心となっていったこと、等々の歴史もよく分かるように構成されている。また後半期に新たに参加したメンバーと、その作品の多様さはまったくといっていいほど知らなかった。個々の持ち味もよく分かる。だが同時に「具体」の定義というか領域が判然としなくなってくる。1970年、大阪における日本万博・お祭り広場でのショーのモノクロ映像の生々しさがまた強烈だった。磯崎新が設計を担当した例のロボットがそのミニチュアと一緒に「親子ロボット」と名づけられて動いていたり、「101」では犬小屋に見立てた白い箱の底から仔犬のおもちゃが次々と現れたりする。最初期の孤立無援的パフォーマンスに比べれば、華やかだが寂しくもあり、それは逆に始めのころのストレートかつプリミティブな破壊的衝動がもっとも「具体」らしいイメージとして、結局はそこに立ち戻っていきたくなる気分にさせられたのである。
その後、吉原治良は新しいより本格的な活動拠点を構想、その建築設計を山崎泰孝に依頼するが急逝。72年3月に具体美術協会は解散する。会場のさいごに、街なかにそびえたつその建築の小さな姿図が掲げられている。構造トラスを露わにしながら自由に空へとのびあがっている。これからの「具体」を描いたヴィジョンは中断に終わった。
芦屋市民会館ルナホール(1964)は今も芦屋川に面したランドマークとして打ち放しコンクリートの岩のような峨々たる姿を見せているはずだが、当時は坂倉準三建築研究所のスタッフでその設計を担当した山崎が、このようなかたちで「具体」と関わっていたとは思いがけなかったが、あらためてこの美術活動の地域性と国際性が実感できた。
ついこのあいだ(今年のはじめ)、都現代美術館では田中敦子の大回顧展があったし、元永定正は独自の画境に長く遊んでいた。彼等の本拠は40年前に消失し、それぞれが個人として活動を継続してきた強靭さと同時に、「具体」のオーラがさいごまで輝いていた歴史もよく見える。そこから時代も、他領域への広がりも見える。そのオーラの輝きとは「反(アンチ)」の精神であるにちがいない。ではそれが対決しようとした「正」とは何であったかを自問してみると、じつはこの辺のことをまるで知らないことに気がついた。せめて図録を買っておくべきだった。けっこう充実した編集になっているようだったし。
(2012.9.3 うえだまこと)



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