荒井由泰「マイコレクション物語」第9回

駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達について:
ルドン、ブレスダン、メリヨン、長谷川潔そして恩地孝四郎


駒井哲郎・長谷川潔・ルドン・ブレスダン・メリヨン

すでにお話したように、私のコレクションの骨格をなしているテーマは「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」である。駒井の最後の著作「銅版画のマチエール」がまさにバイブルである。彼が敬愛したアーティスト達の作品と共感できる喜びからマイコレクションができあがっていると言っても過言でない。
駒井がエッチングと初めて出会ったのが1935年ごろで慶應義塾普通部美術部エッチング講習会だったようだ。エッチングの普及に取り組んでいた西田武雄が主催していた。エッチングに惹かれた駒井は西田の手元にあったレンブラント、メリヨンらの西洋版画とともに長谷川潔の作品に出会い、そのすばらしさに感動し、尊敬の念を抱いた。駒井は1954年に渡仏しているが、その折、長谷川にはいろいろアドバイスをいただいたようだ。またアクワチントによるレース表現の技法についても、長谷川から学ぶことが多かった。まさに長谷川を師とあおぎ、美の追求者としての目標とすべき存在でもあった。
その長谷川潔は1918年末に日本を出発し、パリに向かったが、彼はルドンを敬愛し、ルドンに会うことが目的のひとつであったようだ。しかし、ルドンは1916年に没しており、面会はかなわなかった。パリにたどり着いたあと、ルドン夫人のもとを訪ね、作品も購入している。長谷川にとってはルドンの存在は大きく、初期のエッチングではルドンの影響を強く受けた作品を何点か残している。長谷川の真善美を追究する一途な作風とルドンの幻想的作風とはアプローチは異なるが、美や真理を追い求める姿には相通ずるもの感じる。駒井が共感した長谷川やルドン作品のコレクションを通じ、私自身も同じ共感を持つことができる喜びはこのうえなく大きい。
実は長谷川潔にお会いしたことがある。正確に言えば、彼のパリの住居で2階から窓越しで会話を交わしたことがある。先に、1976年に私が掘り出したアクワチント作品「切子グラスに挿した草花」にフィッチがサインをもらってきてくれた話を書いたが、そのお礼をしなければと思い、1978年、仕事でパリに出向いた折、アポなしで訪問したのだ。窓越しにお礼を言った。長谷川からは「ちゃんとアポイントを取って来なさい」とたしなめられたのを覚えている。長谷川の性格もあり、アポイントなしでは人と会わなかったようだ。長谷川は1980年に亡くなった。今となればちょっと残念な思い出だ。
私の長谷川潔コレクションのなかに、「ダリア」(愛の天使の窓掛け1932 ドライポイント)があり、献辞と署名がついている。献辞には「Pour á mon cher ami E.Delâtre」(親愛なる友・ウージーヌ・ドラ-トルに)とある。このドラートルは刷師であり、版画家であり、長谷川の友人でもあった。また、彼はブレスダンやメリヨン等の作品を刷った高名な刷師のオーギュスト・ドラートル(Auguste Delâtre)の息子であり、父の後を継ぎ刷り工房を開いていた。私のメリヨンおよびブレスダンコレクションになかにもA.ドラートル刷りの作品が何点かある。長谷川は1929年のビブリス(Byblis:Miroir des arts du livre et l'estampes )という版画雑誌の限定版(100部)にドライポイントによる「水よりあがる水浴の女」とともに交錯線を使ったメゾチント作品、「サンポール・ド・バンス村」を挿画しているが、その刷りはウージーヌ・ドラートルが担当した旨、かつて眼にしたこの雑誌に明記されていた。私のコレクションにビブリス版とは別に刷られた「サンポール・ド・バンス村」がある。たぶんこの作品もドラートル刷りであろう。
⑨-2長谷川潔
「ダリア(愛の天使の窓掛け)」 
1932
ドライポイント

⑨-1長谷川潔 
「サン・ポール・ド・ウ゛ァンス村」 
1929 
マニエール・ノワール

マイ長谷川潔コレクションは版画技法を意識して木版、エッチング、ドライポイント、エングレービング(ビュラン)、アクワチント、メゾチント(マニエール・ノワール:交差線あり、なし)技法の好みの作品で構成されている。長谷川作品は高価なので点数は限られるが、メゾチント技法の「幾何円錐形と宇宙方程式」(1962)とアクワチント技法の「切子グラスに挿した草花」(1944-45)は大切な作品だ。彼の高潔で、きりりと引き締まった美意識にはいつも心が動かされる。
⑨-4長谷川潔
「幾何円錐形と宇宙方程式」 
1962
マニエール・ノワール
(メゾチント)

長谷川が生前残したコレクションのなかに、ルドン、ブレスダンやメリヨンがあったと聞く。また、ルドンは1860年代にボルドーでブレスダンから版画の手ほどきを受けており、彼の初期銅版画には「ブレスダンの弟子」と記した作品が残っている。
駒井の師は長谷川潔であり、ここで駒井哲郎、ルドン、長谷川潔、ブレスダン、メリヨンがすべてつながる。なお、ブレスダンとメリヨンだが同時代を生きているが、出会いがあったのかどうか定かでない。ご存じの方があればお教え願いたい。
マイ・ルドンコレクションは10点、ブレスダン、メリヨンは各数点程度のコレクションである。ルドンでは今回のブログで紹介した「光の横顔」をはじめ、「賭博師」(版画集:「夢のなかで」より)、「マレーヌ王女」(1892 エッチング)、ブレスダンでは代表作の「よきサマリア人」(1861 リトグラフ)、「死の喜劇」(1854 リトグラフ ロドフィーヌ版)、メリヨンではパリシリーズの「プチ・ポン」(1851)、「ノートルダムの揚水機」(1852)そして「海軍省」(1865)が主な作品だ。
⑨-5ルドン
「賭博師」 
1879  
リトグラフ

⑨-7ブレスダン
「死の喜劇」 
1854  
リトグラフ

⑨-9メリヨン
「プチポン」 
1850  
エッチンク 
A.ト゛ラートル刷り

⑨-11メリヨン
「海軍省」 
1865  
エッチング
A.ドラートル刷り


恩地孝四郎
「銅版画のマチエール」にはないが、駒井にとってのもう一人の大きな存在は恩地孝四郎であった。駒井と恩地の関係、芸術面での影響など、あまり研究されていない。私の知る限り、林洋子氏が書かれた「銅版画憧憬―1950年代の駒井哲郎と浜田知明をめぐって」(1999、東京都現代美術館刊)が一番詳しい。この冊子に目を通しながら、私見も入れて、少しばかり言及してみたい。駒井哲郎(1920年生まれ)と恩地(1891年生まれ)の年齢差は約30歳で親子ほどの差である。彼が慶応義塾普通部の学生だった頃、エッチングの指導者であった西田武雄とともに九州に講習会に出かけた際、恩地に会っている。(1937年)その後関野準一郎のすすめで1948年頃から、恩地家で毎月第一木曜日に開かれていた「一木会」に参加する形で再会した。恩地の創作に対する真摯な姿勢など彼からいろいろ刺激を受けたようだ。そして49、50年には一木会メンバーによる版画集「一木集」に私の好きな「肖像(ジル・ド・レ)」や「ラジオアクティビティ・インマイルーム」を作品提供している。
駒井は恩地の美の追求者としての姿に尊敬の念を強く持つとともに、作品制作にも影響を強く受けた。代表作のひとつである「孤独な鳥」や「肖像」(どちらも1948年)等には恩地が木版でチャレンジしていた、木の葉やヒモなど様々な材料を素材に使うことに刺激を受けた形跡が見える。創作への限りない情熱に共感したはずである。
駒井は1954年パリに向かったが、恩地が横浜港まで見送っている。1955年、パリで恩地の訃報を聞いた。きっと大きな悲しみを感じたに違いない。
恩地の研究者である桑原規子先生に「ぜひとも駒井と恩地の関係について研究してください」とお願いしたことがある。木版画とエッチングでは技法は異なるが、作品制作への姿勢において深くつながるものを強く感じる。二人の心のつながりと作品との関係をすっきりさせて欲しいと願っている。(ときの忘れもののブログでも紹介されたが、最近、桑原先生はせりか書房より「恩地孝四郎研究―版画のモダニズム」を出版された。恩地の偉大さそして魅力を再発見できるすばらしい著書だ。多くの方に読んでもらいたい。)
次回はマイコレクションのもう一つのテーマである「同時代を生きるアーティスト達」のことを書きたいと思っている。
(あらい よしやす)